そのとき彼は、想いを抱いた(4)
新山さんと話をしたあの時から一月がたった。わずかに残っていた桜の花も全て散り終え、木々は深い緑に染まっている。平均気温は徐々に上がっていき、忍び寄る夏の気配。
俺はというと毎日朝から走り込んでは遅刻間際に教室へ行き、ユウスケと藤谷と昼飯を食べて、放課後は部活。それが終わってからは学校近くの公園に行って走り込んでいた。
体力的に苦しい生活だったが、それを支えていたのは少しずつ伸びていくタイムでもなければ、体を鍛える健康的な楽しさでもない。ただ、ムキになり続ける俺の気持ちだけがそんな生活を俺にさせ続けていた。
最早習慣となってきていた頃、その日の授業が全て終わった後のホームルームで山吹さんが「議題がある」と言って黒板の前に躍り出た。
クラス中の視線が集まる中、彼女は「今週末の体育祭についてだが……」と話を切り出す。
「今週末の体育祭。全員リレーの走順を変更したい」
唐突な要望にクラス中が少しざわめく。それもそうだ。既に全員リレーの練習は始めているし、今更だ。何事があったのだろうと訝しんでいると、山吹さんの視線を受けた藤谷が前へ出て、プリントを配り始める。
「練習を見た上で、順番を少し弄った。入学時より個々人の足の速さも変わってきているからな」
確かに、四月の体力テストの頃から五月末までの間に足の速さは変わっているだろう。運動系の部活動に参加しているものと文化系の部活動に参加しているものでは普段の運動量が違う。
理には適っているが、学校行事程度にそこまで真剣になるのもいかがなものか。
「おい輝。お前プリント見てみ。最後の方の順番」
前から回ってきたリレーの走順が記してあるプリントを見ながらユウスケが言う。言われて俺も一枚の味気ない走順リストを眺め始める。眺め始めて……目を見開いた。
全体的に元の走順とかなり変わっているが、驚いたのはそこじゃない。最後のアンカーは相変わらず藤谷だが、俺の名前がその手前に書いてある。
最後から二番目はアンカーほどではなくとも重要なポジションだ。元々は石田という男子が担っていた。元々真ん中らへんに位置していた俺が急に出てくるのは不自然だ。
どういう意図なのだろうと頭を抱えていると、隣でユウスケがニヤけた笑みを俺に向けていた。
「全体練習でも速かったもんな、輝。……いや、速くなったってのが正しいか」
「そりゃ、前よりは……でもこれ」
「不満か?」
急に前から話しかけられてプリントから視線を上げる。そこには山吹さんに並び、腕を組んで微笑んでいる藤谷がいた。
「俺、久喜が朝も夜も走り込んでんの見たんだよ。部活のために頑張ってんのかもしれないけど、折角鍛えたなら使わない手は無いって思うぜ。……皆もそう思わないか?」
藤谷に問われ、級友たちの中からも「私も見たかも」という声や「実際足速いしな」という言葉が飛んでくる。茶化されているような、囃し立てられているような気がして恥ずかしくなった俺は「少しだけ」と消え入りそうな声で答えた。
「なんだよ自信なさそうだな。大丈夫だって。なんたって、久喜の後ろは学年で一番足の速い俺だからな」
藤谷は後半、おちゃらけたように言ってみせる。するとユウスケが「天才様は言うことが違いますなあ」と茶々を入れる。教室内の他の生徒たちもクスクスと笑い始める。よく見ると、笑っているのは女子だけではない。男子も数人が口角を上げていた。
そのまま次回の練習日についての話をしてホームルームは終わり、終礼とともに生徒たちはそれぞれ放課後の活動へ向かい始める。
「藤谷ってさー。何か、変わったよな」
呟くようにユウスケ。俺は頷いた。
「……そうだな。変わったと思う」
元々、藤谷は山吹さん以外の誰とも話さなかったし、あまり人と関わろうとはしてなかった。その様子は新山さんから聞いた中学時代の彼の話とも合致していた。俺が話し始めたのだって保健室での一件があったからだ。
それがいつの間にか、クラスの前に立って軽い冗談のようなものを言えるようになっている。今や、堅物の山吹さんが出す空気を和らげる緩衝材のようにすらなっていて、女子からだけではなく、他の男子とも休み時間に話したりしている様子を見かけるようになった。
「……変わったんだな」
この短い期間で変化してみせた彼を少しだけ羨ましく思いながら手元のプリントをもう一度眺めた。
こうやって誰かが変わっていくのを見ていると、この走順のように、自分も変われるんじゃないかと思ってしまう。良いことなのかもしれないけれど、俺が一月前、新山さんに対して示そうと思っていたこととは違ってきてしまうので、複雑な気持ちだ。
ふと、新山さんの席へ視線を移す。彼女は相変わらずの表情の乏しい顔で、藤谷の方を見ているようだった。
○
体育祭の当日は、朝から暑かった。
沖縄や九州は梅雨に入り、関東にも憂鬱な雨雲がもう少しで訪れると天気予報は告げている。だけどそんな報道は嘘じゃないかと疑りたくなるような、鋭い日差し。
「おーい輝ー! 次二百メートルだってよー! 行こうぜー!」
間延びした声が応援席で休んでいた俺を呼ぶ。声の方を向くと、ユウスケが校庭のトラックの手前で手を振っていた。隣には藤谷もいて、腰に手を当てて待っている様子だ。
「今行くよ!」
こちらも手を振り返して、大勢の体育着姿の同校生をすり抜けながら、二人の元についた。
ユウスケは腕を組んで顎に手を当てる。
「さ、練習の成果を見せてくれたまえ、輝くん」
どこぞの上司のような物言いに苦笑を返してから、俺は藤谷に「どこに行けば良いんだっけ」と訊く。彼が「あっちだな」と指差す先を見ると、レーンの前に並ぶ同世代の男どもが居た。
それから藤谷は俺に向き直る。
「久喜、体調は万全か?」
「悪くはないよ」
俺の答えに満足げな藤谷が「重畳、重畳」と言ってレーンに向かって歩き始める。そこへユウスケもついていく。
「頂上? ま、狙うならトップだな!」
正しく言葉の意味を捉えているのか不安になるユウスケの発言を聞きながら、俺は彼らと並んだ。
それから、退屈な司会進行によって二百メートル走が始まった。
走順一番のユウスケは五クラス中の三位。不運にも並びの他クラスの男子が全員陸上部であったためだが、それを差し引けば充分な成果だ。むしろ、バスケ部のユウスケに負けてしまった陸上部二名の立場を思うと哀れにすら思う。
走順二番の藤谷は危なげなく華麗に一位をもぎ取っていた。
そしてついに俺の番だ。
俺を含む走順三番の人たちがレーンのスタート位置に着く。俺は一番端のレーンなのでカーブが緩やかだから、個人的には一番やりやすい。
「位置についてー」
スタートの合図を発する係の男子生徒の、やる気の無さそうな声が聞こえた。俺は腰をさげて膝をつき、スタートラインの手前でしゃがみこむ。
「よーい」
合図に合わせて腰をあげる。クラウチングスタートだ。斜め後ろを確認すると、他の選手も各々構えていた。
……これに勝ったら、俺は新山さんの言葉を認めなきゃいけないのかな……。
ぼんやりと考えていると、不意に弾ける発砲音。
「あ……!」
……くそ!
考え事をしていたせいで集中しきれていなかった俺はスタートの合図からワンテンポ遅れて走り出した。
気を取り直して地面を蹴る。視界に映る景色が流れていく。体が軽い。ベストコンディションに近い状態だ。トラック半周のコース。緩やかなカーブを曲がっていく。端のレーンだからだと思うけど、俺の前を走る奴はいない。
……気持ち良い。
遠心力を右足と体の傾きで殺しながら大きく曲がる。そしてカーブを抜けきったとき、俺は変わらず先頭を走っていた。
残すは直線のみ。このまま走り抜ければ一着でゴールだ。
……一着でゴールしたら、俺は努力に無駄なものはないと認めるのかな。でも、それも良いのかもしれない。藤谷が変わったように、俺も――。
「――うわっ!」
急に体勢が崩れた。地面の砂の表面を靴が滑ってしまった。……走り込んでいたせいで、靴底がすり減ってしまっていたのかもしれない。すぐ目の前に迫っていたゴールテープが遠い。
くそ、また転ぶのかよ。
何の因果か、この場所は入学したての体育で、藤谷と知り合うきっかけになった転倒を起こした場所。
地面が起き上がってくる。とっさに目をつぶり、手を突き出す。両手にかかる衝撃。
……俺は、またしても転んだ。
「くっ……」
でも、まだ、だ。
俺は即座に立ち上がりながら前へと駆け出した。
さっきまで一位だったんだ。まだ、もしかしたら――。
「――くそ」
俺が前を見たとき、ゴールテープはすでに無くなっていた。
○
競技が終わり、三人で応援席へ戻る。無言で歩いていく。ユウスケも藤谷も何も言わないのは俺に気を遣ってのことだろう。
「あ! 戻ってきた!」
その声に顔をあげる。級友たちだ。行事中だからか皆、妙にテンションが高い。いつの間にやら数人が俺たちを……否、主に藤谷を取り囲む。口々に称賛の声が述べられ、生暖かい空気が流れてくる。
そんな中、短い髪の男子の級友の一人――石田という名前のクラスの中心人物――が俺の背中を叩いてくる。
「派手に転んだな!」
そう言って、笑う。クラスで彼と同じグループの生徒たちも笑っている。恥ずかしくなってきた俺は「いや、はは……」と作り笑いを浮かべながら地面を見下ろしてしまう。
「体力テストでも転んでたもんなあ」
「確かに! あんときも派手にいってたよな!」
「なんかドジっ子みてえ」
どれが誰の声なのか分からないが、周囲をそんな言葉と笑い声が飛び交っている。
所詮、変わることなんて出来ないんだ。藤谷にかけられている称賛と、俺に対する嘲笑がその証拠だ。変わらない彼我の差は、こうまではっきりと出ているじゃないか。
「あ、じゃあちょっと俺、手洗ってくる」
俺はなるべく自分の存在感を消して同級生の塊から抜け出す。俺の考えが正しいのだと証明できたのに、自分が惨めに思えてきてしまったからだ。
一度だけ彼らを振り向いたが誰も俺の方など見ていない。上手く抜け出せたというのに物悲しくなる。
「どこ行こうかな……」
応援席へ素直に戻る前に、どこかで一人で落ち着きたい。そう思っていたら、自分の膝が軽く痛みを訴えているのに気がついた。
先程転んだせいで出来た傷か。大したことはないが、少しだけ皮膚が破れて血が流れている。一応水で流しておいたほうが良いな。
理由が出来た俺は給水所を目指す。ただし、校庭に近い場所ではなく、少し離れた駐輪場近くの給水所を目的地に定めた。単純に、人が少ない場所に行きたかったからだ。
給水所に到着した俺は靴と靴下を脱いで流しに足を乗せる。蛇口をひねると透明な水が出てきて、砂で汚れた膝の傷を洗い流していく。
「……いて……」
水の冷たさと傷の微かな痛み。充分に綺麗にしてから俺は近くの花壇に腰を下ろす。タオルやハンカチの類は持ってきていなかった。汚い衣服で濡れた足を拭くのもためらわれ、片足を投げ出して天日で干す。
今日は日光が強いからすぐに乾くだろう。今の俺の格好自体は間抜けなものだが、ひと気がないから問題ない。……と思っていたのも束の間、給水所に近づいてくる足音が聞こえてきた。
誰だろうと思って足音の方を見ると、意外な人がそこにいた。
「お疲れ」
「……新山さん」
鉢巻を首に巻いているショートカットボブの女子生徒。彼女の猫のようなアーモンド型の吊り目が俺を見ている。
「転んでたね」
「あ、ああ、まあ、大したあれじゃないけど……」
つい、作り笑いを浮かべた。しかし彼女は微笑むことなく、無表情を崩さず何故か俺に近づいてきて見下ろしてくる。
そしてしばしの沈黙。俺は縁石に座り、新山さんは俺を見下ろしたまま何故かここを動かない。
「えっと……」
気まずい。なんだろうこれは。一ヶ月前の再現か? ……何にせよ、ここを去らない様子なのであれば無難な話題を探さなきゃ。でも話題っていったって、彼女と共通に話せるものなんて限られている。
……そう。藤谷のことくらいだ。
「あー。藤谷なら、応援席の方にいると思うよ」
「うん。知ってる」
また一問一答だ。話が広がらない。……苦手だ、この子。
「えー。あ、そういえば。……藤谷、このところ皆と打ち解けてきたよな。新山さんは藤谷が中学の頃、あんまり人と関わらなかったって言ってたけど、今は上手くやってるみたいだね」
元々、素養はあった。面倒見もいいし運動もできる。彼が自分を閉ざさなければ……自ら周囲と関わりに行きさえすれば、皆から好かれる人間なんだろう。
新山さんはゆっくりと頷く。
「カズトくん、変わった。中学に入った頃に戻ったみたい」
「へえ。元々ああいうやつだったんだね」
「……君も、変わろうとしたんだろ」
唐突な話題の切り替えに俺は目をそらす。
「そして、そんな努力が無駄だってことが証明できたわけだ」
「そうかな。私はそう思わない」
俺は視線を新山さんに戻した。逆光で日に透けた彼女の輪郭にわずかに目を細める。彼女は薄く笑っていた。
「少なくとも、私は応援席で皆と一緒にカズトくんを労うよりも、こっちに来て君と話すことを選んだよ。君が努力していたのを知っていたから。……これは、君がカズトくんに勝ったってことじゃないかな」
インチキだ。それを認めてしまったら何でも有りになってしまうだろう。だけど、不思議と悪い気持ちはしなかった。
彼女は不器用にも励ましに来てくれたのかもしれない。それなら、俺も変なところにこだわってないで、応えなければならない、と思った。インチキに甘えるわけにはいかないと思った。
「新山さん。先戻っててよ。足乾かすのに時間かかるしさ」
「……そう?」
「そう。それに、結果はまだ出ていない。これからリレーもある。俺が変われたのかどうかは――俺が藤谷に並ぶための努力が無駄だったのかどうかの判断は――、そこまで終わってからすることにしよう」
「分かった。……不戦勝はすっきりしないから、逃げないでね」
新山さんはそう言うと、用事は済んだとばかりに踵を返して去っていった。振り向きもしない彼女の後ろ姿を見てから、胸の中に何か違和感のようなものを覚えた俺は、それを見なかったことにして忘れるために思い切り頭を掻いた。