道筋(5)
「何だったんだ、今の……」
イッソスが消えてしまうと、先程までうるさいくらいに輝いていた青銀色の光はどこにも無くなってしまった。戻ってきた体の感覚。石造りの床の硬さ。冷たい空気。埃臭いにおい。揺らめく松明の光。
「あー、あー」
声を出して全身を一通り動かしてみた。全部、思い通りに動く。
「元に戻ってる」
ついさっきまでフルに奪われていたのに。
体がこんな呆気なく戻ってきた上、どうやって戻ってきたかもよく解らない俺は素直に喜べずに、引き抜かれて横たわるグングニルの傍らに腰を下ろした。
「……何が、起こったんだ」
多分、フルがイッソスとかいう青い光に封印された。……ということであってるんだよな……? イッソスは銀のペンダントの所有者だ。そういえば王立図書館で呼んだ本の中にもそういった記述があったはず。……うろ覚えだが。
少なくとも、イッソスは敵ではなかった。
イッソスも俺と同じ悩みを抱えていたのだろうか。……体を奪われる不安感と恐怖を。でも彼はフルを少しずつ封印し、力を削った。そして、いつか他の『所有者』がフルに乗っ取られた時のために、ご丁寧に罠まで仕掛けていた。
「……はは。こういうの何ていうんだっけ。……超展開?」
超展開でも展開は展開だ。俺の預かり知らぬところがこの世の中に無数にあることを俺は分かっている。だとしても……あまりに突飛で唐突だった。
俺はさっき起こったことにしばらく混乱して呆けていたが、視界の端に本棚を見つけて動き始めた。
「今は、考えても仕方ない。それよりも……」
ここは『イッソスの部屋』だ。元アクセサリー所有者の作った隠し部屋だ。そんな部屋にある本。……何か、書いてあるかも知れない。わかるかもしれない。
そう思った俺は早速本棚から適当に一冊引き抜いてぱらぱらと流し読んでいく。
革装丁の本。走り書きだ。手記のようなものだろう。見たこともない文字で、全く読めない。
「あれ……?」
胸元が熱くなっていく。咄嗟にペンダントを確認するが、全く輝きは残っていない。熱さを覚えているのは俺の体だ。胸骨の、心臓のあたりが熱い。
そして、その痛みと同時に信じられない現象が起きた。
「読め、る……」
さっきまでは読めない文章だった。そのはずなんだけど。
文字一つ一つを読むことは出来ないのに書いてあることは理解できる。徐々に理解が進んでくる。最後にはその文章が日本語にしか見えなくなってきた。
そして、胸元の熱も引いていく。
「何が起きてる……」
この『イッソスの部屋』とやらに来てから訳のわからないことばかりだ。俺は自分の胸を抑えてから、必死に頭を横に振る。
理解が出来ないのはそのとおりだ。でも、行動を止めちゃ駄目だ。
何で見たこともない文字が読めるようになったのかなんて考えたところでわかりそうもない。だけど読めない本が読めるようになった。良いことじゃないか。そこにこだわるよりも、何か、手がかりを得るほうが先決だ。本だ。内容だ。
分量が多いので斜め読みでさっさとページを進めながら流し読む。コロッセウムだのグラディエーターだのと、これを書いた人はどうやら帝政ローマにいた人らしい。恐らくは。
その時代で文字の読み書きが出来るということは、それなりに教養のあった者なんだろう。
その手記の内容は、この世界に対する驚きから始まって自己紹介と続く。いわく、この手記を書いた人の名前はイッソスというらしい。これは、思った通りだ。
全体的な内容としては、彼がこの世界に来てからのこと、この世界についての考察が記されている。全部目を通してちゃんと内容を理解するのにはかなり時間がかかりそうだ。
俺と同じように、唐突にこの世界に送られて、戸惑って、フルに悩まされて。……不思議と、イッソスが先輩の様に思えてきて少し可笑しく思う自分がいた。もう何世紀も昔の人のはずなのに。
そういえば、フルは『精神世界』でコロッセウムの景色を見せてきていた。あれはイッソスの記憶から取り出したものだったのかもしれない。
「……ん?」
ざっくりその本を洗い終わって本棚に戻すとき、本棚の中に異質な本が一冊あることに気づいた。
革装丁だが、他の本とは違い所々金属が用いられている。手にして見るとずしりと重く、立ち読みをするのはかなりしんどそうだ。
俺は本を持ち、部屋にあった机の上に運ぶと、その重い表紙を開いて読み始めた。
「……これって!」
本の題名を見て思わず声を出してしまった。……『魔法の装飾品と元の世界への帰還』。
俺が求めていた情報が見つかるかもしれない! 俺は逸る気持ちをそのままに本を読み始めた。
そして、俺は見つけ出す。
「これだ……!」
興奮で声が震える。
「魔法の装飾品はその所有者が死を迎えると約三日後、自動で消える。恐らく元の世界へ戻ったのだと思われる……」
そしてその横のページ一杯に複雑な魔法陣の設計図が書いてある。その図の右下に小さく、強大な魔力増幅の効果がある、という意味の文章が添えられていた。
所有者の死の三日後に自動で元の世界に戻るアクセサリー。
魔力増幅の魔法陣。
俺の頭の中で二つのキーワードが浮かぶ。そこへ、今まで図書館に通って調べた知識が乗ってくる。まるで、足りなかったパズルのピースが嵌っていくようだった。
魔法に必要なものは魔力と魔法陣。
アクセサリーを持つ者は魔法陣も魔力もなくして魔法が発動できる。
つまり、そのどちらもがアクセサリーに組み込まれているということ。
「そうか……。そういうことか……」
アクセサリーの中に、元の世界へ戻るための魔法陣は存在している。しかし、それは所有者の死後三日が過ぎないと発動しない。その上、そのタイミングでは小物一つを転移させる魔力程度しかない。
でも、その魔法を強化する魔法陣を組み込めば、人間一人くらいは一緒に世界を渡ることが出来る可能性がある。
「この仮説を元に考えれば、元の世界に帰れる……! でも……随分ふざけた、方法じゃねえか……!」
俺は頭の中で組み上げた仮説に、自らで憤る。
他の所有者を殺し、奪い取ったアクセサリーを三日間守り、持ち主のいなくなったアクセサリーが元の世界に帰還する時にその『世界を渡る魔法』を魔力魔法陣で増幅させて、そのアクセサリーと一緒に元の世界へ帰還する。
喜びは冷たい氷のような絶望にとって変わった。
一樹、天見さん、白石さん、速人、ソラ。……もしくは俺。
「元の世界に帰るためには……誰かを殺せってことかよ……!」
必要になるのは、自分が自分である為に、自分の身を危険に晒す覚悟なんてものではない。
……自分の為に、他の誰かを殺す覚悟だ。
「俺は……そんな……そんな覚悟――」
「――久喜輝ァ!」
俺の思考を遮るように、開けっ放しの扉の奥から声が響いてきていた。俺は一旦本をそのままに、扉の外を確認する。暗い通路を、松明を持った人間が歩いてきているのが確認できた。
「松明の光……それにこの声……」
ジャックスだ。怒気を孕んだ声だった。
「そりゃ、あれだけのことをしたもんな……」
フルの行動はジャックスのプライドを刺激しただろうし、バルク王に対しても不遜だと言って過言ではなかった。あの時はフルに体を明け渡してしまったことでいっぱいいっぱいだったからそこまで考えてなかったが、どう考えても危険な行動だ。
このまま無事に帰してくれるはずもない。逃げないと、誰かを殺すどころか俺が殺されてしまう。
「くそ……」
俺は急いで部屋に戻り、魔力増幅の魔法陣の設計図が書いてあるページを破りとってポケットに入れた。
後は……武器だ。小刀と槍はエレックに預けてるし、さっきジャックスとの立ち会いで渡された短刀はフルがどっかに捨てた。
魔法はもちろん――俺は胸元の光らないペンダントを見た――使えない。
別にジャックスに勝てなくても良いんだ。その場を切り抜けられる武器を……。どうする? この重そうな本を持って殴りかかるか? 普通に考えて無理だろ……。
部屋の中を右往左往する。足音は近づいてきている。ああでもない、こうでもないとうろつきながら考えていたら、爪先に何かがぶつかった。
「いて……これだ!」
俺は地面に落ちていた短い槍を、グングニルを拾い上げる。
「あれ?」
軽い。外観と比べて異常な程の軽さだ。まるで、プラスチック製の玩具のような軽さ。
光を失ったペンダントからもわかるように、魔法の力で俺の腕力が強くなって軽く感じられているわけじゃない。
「メッキか?」
あまりにも軽いので不安に思った俺は、グングニルの強度を確かめるためにテーブルに向かって振り下ろしてみた。
しっかりとした手応え。折れることも、刃が欠けることもない。木製のテーブルの方を見ると、真っ二つとはいかないが、グングニルが武器としての威力を充分持っているということを示す抉れた傷を残していた。
「すっげ」
今まで使っていた槍よりも断然軽くて、片手で扱えそうだ。
「久喜輝ァ!」
再び、ジャックスの怒り狂った声。かなり近づいてきている。
「王の前での侮辱……! 赦さぬ!」
「そんなつもりは無かったんだ!」
「そこにいたか……聞かぬ! 屈辱だ! 今ここで晴らさせてもらう!」
直後にジャックスが通路を走り始めた音がする。
「やるしかない……!」
俺もグングニルを携えて通路に出る。怒りに顔を歪めたジャックスが剣と松明を構えている。俺は姿勢を低くして突進の構え。そのまま覚悟を決めて一直線に走り出した。弾かれたようにジャックスも走り始める。お互いがお互いに向かって駆ける。ジャックスまでの距離が一瞬で詰まっていく。
そして、ジャックスが出す足音と、俺が出す足音の重なる瞬間。
「覚悟!」
「う、お!」
ジャックスは俺に向かって足を止めずに斬りかかってきた。俺はグングニルでその攻撃を受け、かろうじてかわすと、そのまま止まらずにジャックスとすれ違って背を向けて走り続けた。
「逃げる気か!」
ジャックスが俺の後方で吠えるが俺は振り向かない。このまま通路を抜けて謁見の間も抜けて、王宮から脱出する。
ジャックスが追いかけてくる音を聞きながら通路を抜けて玉座の後ろの壁から出る。謁見の間には唖然とした顔のバルク王と家臣たちがいて、俺はその視線の中を走り抜けた。
剣の破片に砕け散ったシャンデリア。靴で踏み抜かないように細心の注意を払う。
謁見の間を抜け、重い扉を開けて階段を転がるように降りる。そして、行きに使った扉を蹴破って通った。そこで重要なことに気がついた。
「あれ、どっちだっけ……」
目の前には幾つかの分かれ道。自分がどちらから来たのか、全然覚えていない。
……帰り道がわからない。迷路のような城内をクーリに案内してもらってこの場所までたどり着いたんだ。帰り道までは把握していない。
ああ、もう。俺のせいだけど、俺のせいじゃないのに。心底嫌になった。
「嫌に、なった……」
俺は脳裏に浮かんだ言葉を口ずさんで、それからポケットに入れていた封筒を取り出す。『リザ・ヒューイット』の署名が記された封筒。
「嫌になったら、開けて良いんだよな……」
これに賭けてみるか……。
無理やり蝋を剥がして中身を取り出す。二枚の便箋が入っている。一枚目を開くと、そこにはこの王城の見取り図が入っていた。
そして、もう一枚は手紙だった。
「どこだ! 久喜輝ァ!」
「うおお! やべえ!」
かなり近くまで来ていたジャックスの声に反応して俺は城内を走り抜ける。内容は逃げながら確認しよう。
地図を頼りに長い通路、階段、間に部屋を何度か挟む。この城、広すぎる。こんなもの完全に長距離走だ。途中で地図に記載されている隠し部屋や隠し通路を挟むことでジャックスを巻くことが出来たが、城内では依然捜索が続いているようで、油断は出来ない。
それでも、その最中に、少しずつ手紙を読み進めていく。
――私はリザだ。覚えているだろうか。以前は追い返してしまって済まなかったね。もう分かっているとは思うけれど、私のところに狛江ソラを始めとした『異世界』の人間が寝泊まりしていたんだ。彼らは君に悪印象を持っているようだったから、君を『グリフォンの羽根』に近寄らせるわけには行かなかった。
グリフォンの羽根にはソラたちが泊まっていた。これは一樹から聞いていた通りだ。それを聞いて俺も、俺を店から遠ざけてくれたリザさんの心遣いに感謝したくらいだ。
――今回この手紙を渡したのは橋山一樹からの依頼だ。近々バルク王に君が呼び出されて、闘技大会の成績をダシにジャックスと戦わされる可能性が高いという情報を彼は入手した。ただ、彼は狛江ソラたちと行動を共にしている。だから、自ら勝手に動いて君を助けに行くことは難しいと踏んだのだろう。
この地図と手紙は一樹の差し金だったのか。彼は昔から妙なところで勘がいい。中学生の頃にも、その勘のおかげで助けられたことが沢山ある。……また、助けられてしまった。
――直接助けに向かうのは難しいということで、橋山一樹と相談した私はこの地図を君に届けることにした。城には隠し通路や隠し部屋が無数に存在している。ジャックスと戦うのが嫌になって逃げ出した時に使ってもらえればありがたい。
俺は今も地図に従い、実際に幾つもの隠し通路を進んでジャックスの追跡を巻くことが出来ている。後は、見つからないように城から出るだけではあるのだけど……。
――ちなみに、出口や裏口も幾つかあるが、君が使えるのは一箇所だけだ。迎えも送っている。無事に抜け出したらグリフォンの羽根に来い。狛江ソラたちもすでに出発しているから心配することはない。
「迎えって誰だ……?」
疑問に思ったが、それは一旦置いておこう。一樹が裏にいるのであれば、信用に足る情報なのは間違いない。俺は地図に示されている裏口の一つを目指して城内をこそこそと進んでいく。
衛兵たちが走り回る鎧の音に怯えながら何本目かの隠し通路を抜けると、王城に到着した時にクーリが待ち構えていた灰色の塔に出ることが出来た。
人の気配はない。俺は慎重に、でも急いで螺旋階段を下りていく。
「しんどいな……!」
肺が酸素を求めて息が上がる。足に疲労がたまる。いつもだったら魔法を使って帳消しに出来るのに、今はそうはいかない。
階段を下りきり、塔の出口から外に出る。このまま、裏口から何事もなく出ることができればいいけど――。
「――そう上手くは行かないよな……」
裏口の前には三人の衛兵が待ち構えていた。彼らは俺に気がつくと、すぐに槍を構える。
「黒い髪、紺色の上着、短い槍……。久喜輝だな!」
他の二人の衛兵を脇に引き連れて真ん中の衛兵が言う。他二人の鎧がただの鉄製なのに対してひとりだけ鎧の色が緑色だ。恐らくはこの緑色が三人組の隊長だろう。
その脇で一人の衛兵が仲間に知らせようと首からかけている笛に手を伸ばす。しかし、緑色の鎧の衛兵隊長はそれを制した。
「呼ぶな。俺たちだけで捕らえるぞ。あのジャックスが逃した獲物を捕まえられたら、昇進間違いなしだ」
「悪い人間ですね、隊長は。じゃ、出世したら祝勝会は派手にやりましょう」
「物分りが良くて助かるよ」
衛兵たちは俺を捕まえた後のことを考えて不気味に笑う。しかし、彼らには油断はない。堅実に囲みつつ、槍で間合いを詰めてきている。
俺は形だけ槍を構えて、それでも徐々に塔の壁へと追い詰められていった。
「くそ……」
突進するわけにはいかない。狭くて暗い通路でジャックスと対峙したときとは違う。一対一じゃないし、囲まれている。
それに冷静に考えると、俺はもう魔法が使えない。それは即ち、回復魔法も使えないということだ。下手な攻撃を食らったら、それが致命傷になってしまう。
こんなに追い詰められているのにフルの声も聞こえない。イッソスの部屋で封印されてしまったんだ。そこにはもう頼れない。
……これはもう、どうしようもないか……。
「少年、何暗い顔してんだよ」
声。同時に鈍い音がして、三人の衛兵のうち、隊長を残して二人が倒れる。倒れた二人の衛兵の影から現れたのは、……エレックとミアだった。
「ふたりとも……!」
そうか。リザさんの言う『迎え』っていうのはこの二人のことだったのか! こんなに心強い二人はいない。本当に、助かった!
俺が喜びを顔に出したその時、衛兵隊長は彼の首にかけてある笛を手にとった。不味い、仲間を呼ばれてしまう。
「ええい! この際出世は諦め――」
「――動かないで」
素早く反応したミアが衛兵隊長の首元に短刀をあてがう。衛兵隊長は笛を持ったまま固まって「助けて……」と、か細い声で呟く。
ミアはいつか闘技大会で見せていたような冷たい表情で短刀を押し付けたまま、衛兵隊長の手から笛を奪い取って地面に捨てた。
「馬を用意して、門を開けて。そのために一人だけ残したんだから」
「ひいっ」
小さな悲鳴。直後、ミアはあてがっていただけの短刀を少し強く押し当てる。切っ先が首に触れて、小さな赤い血の玉がその皮膚の上に浮かんだ。
「余計な声は上げないで」
「……わ、わかりました」
そして沈黙する衛兵隊長から俺に視線を移し、にこりと笑う。行動が行動じゃなければ、小さい子が『褒めて褒めて』と催促している表情に見えなくもない。だけど、助けてもらったありがたさは有りつつ、ゾッとしてしまった俺は作り笑いで返した。
エレックが俺に近づいてきて肩を叩いてくる。
「少年も、ミアを怒らせたらああなっちゃうかもしれないから、気をつけろよ」
「……留意します……」
「さ、何はともあれ合流成功だな。さっさと逃げるぞ! ついてこい!」
エレックが剣を鞘に納めて、歩き始める。俺も遅れないように、彼の後についていった。