向き合う時(6)
階段を下り、入ってきた扉を開ける。自分の心と向き合った屋内から外へ出る。次は心ではなく世界と……現実と向き合う時だ。
「ふう……」
一つ呼吸をして外界へ踏み出す。前髪をくすぐる気持ちのいい外気が迎えてくれた。湖の中央だからか涼やかな空気が触れて、俺の身体の熱を奪っていく。俺の目の前にあるのは天井の無い吹き抜けの大広間。
そして、その中央には巨体の怪物、ドラゴンが待ち受けていた。乾いていて、鎧のような頑強さを窺える鱗。太く地面を踏みしめる四脚。広げれば空を覆われてしまう程の翼。そして、ぎらりと輝く宝玉のような目玉。
いつか対峙したドラゴンが小さな『子龍』であったとラルガさんに表現されていたのが今になってようやく理解できる。このドラゴンに比べてみれば、あれは子どもだ。
「従えたか」
ドラゴンは重みのある音で言う。老成した男性のような威厳のある声。ドラゴンが人間と同じ作りの声帯を持っているとは思えない。それなのに一体どこから発音しているのだろう。
……もしかしたら魔法に類するような方法で話しているのかもしれない。そんな可能性にすら思い当たってしまうほどにこの異世界は不可解な事象で満ちていると、俺はこれまでの旅で学んできた。だから必要なのは疑問で足を止めてしまうのではなく、前に進むこと。今の状況に当てはめるならば、ドラゴンの問いかけに答えることだ。
「……従えてはいません」
俺は考えてからそう答えた。事実、従えたわけではない。この遺跡に入る前にドラゴンの言っていた『嫉妬を御する』という基準には満たないかも知れない。それでも嘘はつけない。それは力を貸してくれている『月の王』を気にしてのことではない。
俺が俺であるために、俺の中の『嫉妬』を裏切ることは――あの感情を無視して、殺して、居場所を取り上げるなんてことは――したくない。そう思ったからだ。
「ほう……。従えていない、か」
ぎょろりとドラゴンの目が動く。赤みのかかった暗い色の鱗の奥から覗く目は俺を値踏みするかのように睨んでいる。
ドラゴンが顎を開いて小さな火球を吐き捨てた。吐き捨てられた火球は宙で燃え尽き、黒い煙を残して消える。きな臭さを感じながら俺は立ち尽くす。
「横に立っただけです。……不足ですか」
ドラゴンの様子から不穏な雰囲気を感じた俺はグングニルを腰から引き抜いた。連戦とはなるが生き残るためには戦うつもりだ。『子龍』ですら魔法があっても倒すことはできなかったんだ。厳しい戦いになるかとは思う。
しかし、戦うことになったからといって別にドラゴンを倒す必要はない。攻撃を凌ぎながら大広間を抜けて、この島と闘技場をつなぐ地下通路まで逃げてしまえばいい。
そのくらいなら……不可能ではない。
俺は左手で胸元のペンダントを握った。
今の俺には『嫉妬』も在る。自分が自分であるために手にした力だ。まだ使ったことはないが、きっと、答えてくれる。
「ふむ……」
ドラゴンが首を下ろし、その頭を近づけてくる。身構える俺を前にして大きなあぎとを開いた。俺の腕の長さほどもあるような濡れた牙が怪しく光っている。
「深い目の色だ。ここから出てきて、このような目をする者を知らぬ。……認めよう。遂に現れたのだな。イッソスの待ちわびた者が」
ドラゴンは首を上げて一歩二歩と後ずさり、それからその巨大な体躯で伏せる。重たい地鳴りが響いて砂埃が舞い上がる。その奥で大きな生き物は佇む。
「この場所から出てくることができた初めての『人間』に対し、敬意を払って名乗ろう。……我が名はバルグウェインギュスルト。イッソスに命を助けられ、彼に忠誠を誓ったしもべだ」
「あ、と。俺の名前は……」
「要らぬ。覚える意味がない」
遮られた。まあ、要らないと言うなら無理に押し付ける必要もない。
「……わかりました。それで、バル、グウェ……ええ、と」
噛んだ挙げ句に諳んじることすらできなかった。こちらも満足に受け取れてはいなかったんだと思うと恥ずかしくなる。
バルグウェ……何だ? 長い名前の上、どこで切れていたのかも分からないから一度聞いただけでは覚えられなかった。
いずれにせよ独特の響きのある名前だ。彼らの種族のネーミングセンスというものは文化の違う人類には理解しがたいものがあるのだろう。
名付けのことを考えて、また、ミアのことを思い出してしまう。
もしかしたら俺がこのバルグウェ……の名前に感じたのと同じ独特の違和感を、俺の命名から感じていたのかもしれない。文化が違うのであれば恐らくそうだろう。でも、あの時彼女は受け入れてくれた。エレックもそうだ。そのことを思い出すと、彼らの顔が見たくなる。……早く、会いに行けたら。
名前を言えなかった上に考え込んでしまうという失礼なことをしていたら、バルグウェ……は残念そうなニュアンスを含めた声色で話し出した。
「やはり人間には難しいか」
そう言ってから、怪物は続ける。
「グウェインでよい。イッソスはそう呼んだ」
グウェイン。それなら覚えられる。しかし略称として切り出す場所も単語の頭ではなく、微妙な所をピックアップするんだな。不思議な文化だ。
そんなことを思いつつも俺は頭を下げ、それから雄大なグウェインさんの姿を見上げた。認める、と言っていたので問題はないと思いつつ、念押しのためにも確認しておこう。
「名前、失礼しました。……グウェイン、さん。それじゃあ俺はもう、ここから出ても良いってことですか」
俺の問いかけに対してグウェインさんは大きくうなずく。いや、正確には長い首を上下に揺らすことで、うなずいていることを示してくれている。人間の仕草とは大きく違うものの意図は理解できる。
「ああ……。ようやくだ。『嫉妬』を御するものが現れた。何度ここで、屠ってきたか」
グウェインさんの視線が大広間の隅へと向けられた。俺も同じく視線で追いかける。見つけたのは白い何かが積み重なった山。そこまで大きいものではないが、腰の高さくらいは積み上がっている。何だろうか。あれは――。
「――あ」
目を凝らしてその白い何かの正体に気付いた瞬間、俺は思わず声を出してしまった。
人骨だ。
白い半球に大きな穴二つの特徴的な形を見つけた。あれは所謂しゃれこうべ。人間の頭蓋骨だ。どうして、こんなところに。
「お前に成れなかった者たちだ」
心のなかで抱いた疑問を見透かしたかのように答える怪物の声。俺は驚いてしまい、身体をびくりと小さく跳ねさせる。もちろん、グウェインさんに俺を殺すつもりは無いと、わかってはいるのだが。
「成れなかった者たち……」
落ち着きを取り戻してから反芻する。
俺はあまり頭が良くないが、彼の言わんとしていることが分からないほどの頭弱のつもりはない。
成れなかった者とは、つまり、自らの『嫉妬』を乗り越えられなかった者。『嫉妬』に身体を奪われて遺跡を出て、始末をされた者。
……そして、始末をしたのは俺の目の前にいるグウェインさん、だ。
そこまで考えてから、彼らの心はどこに行ったのだろうと思った。身体を奪われ、その身体を壊され、残された心の行き着く先とは。
「……そう、か」
不意に理解した俺は胸元のペンダントを握りしめた。
俺が自らの『嫉妬』を前にして自分を支えていたものが嫉妬だと認めた瞬間に、どこかへ『自分』というものが溶け出した感覚を覚えたことを思い出した。あの時溶けた場所。あの場所に『嫉妬』に取り込まれた心たちが在るのかも知れない。
俺も、何かを間違えれば今もあの場所に在ったのだろう。
「……感謝、しなきゃな……」
あの時感じた異物感に。あの時聞こえた声に。
俺はペンダントから手を離し、白骨の山から視線を離し、それからグウェインさんの方を見た。
「……これから、あなたはどうするんですか」
グウェインさんの話が真実であるならば、『月の王』を見張るという役割はもう終わりのはずだ。グウェインさんの持つ大きな翼を一瞥した俺は、在る種の下心を持っていた。
「もしよければ、お願いが……」
俺の話を遮るようにグウェインさんはのしりと脚を踏み鳴らす。遅れて鈍い金属音。何かと思って音の出もとを探すと、グウェインさんのその太い足首には重そうな鉄鎖が巻き付いており、鉄鎖は島の地面に繋がれていた。
「この通りだ。とはいえ、元よりここを離れるつもりも無いがな」
「……そんな。これじゃ……」
飛ぶことはおろか、役目を果たしたあとに離れることすらできない。
「イッソスと、約束した。ここにいて『嫉妬』を扱いきれなかった者を狩るのだと。そしてそれが終わった今、もう、今生にやり残したことは無い。……一つ頼みがある」
グウェインさんは首を地へ下ろし、顎を僅かにあげて喉元を俺へ差し出してきた。
「私を、終わらせてくれ」
俺の名乗りを拒んだのはそういう理由か。
この先が無いのであれば、俺の名前を覚える意味がないのは頷ける。一方で俺に対しては名乗ったのも、俺にこの先があると思ってのことだろう。
俺は目を閉じて槍を握る。首に下げたペンダントに触れると力が溢れてきた。体が軽い。旅をして俺自身に力がついたからだろうか。以前魔力を使って身体を強化していた時よりも、もっと大きな力が宿っているように感じる。
それからゆっくりとイメージを始めた。ペンダントから流れ出た力が俺の中を循環して外へ溢れ、周囲を回る様なイメージ。便宜的に魔力と呼んでいたその何かが想像をはみ出して現実に溶け込み、干渉する。
最初はゆったりと、しかし慣れていくにつれて力強く周りの空気が動き始めた。目を開く。白銀の淡い光の筋が俺を中心として渦巻いている。
風が、俺の元へ戻ってきた。
俺は数歩、グウェインさんに近づいた。大きく逞しく神々しいその命。俺を睨みつけるその宝玉の様な眼。
……彼の意向は理解している。だけど俺はそれを、叶えようとは思わない。
首筋から目を逸らしてまた歩を進める。俺はその太い脚と地面をつなぎとめている黒い頑丈そうな鎖を前にして槍を構えた。地面に横たわっている大蛇のようなこれが、邪魔なんだ。
「やめておけ。これは世に三つしか存在しないグレイプニルのうちの一つを元にして作られている。イッソス謹製の特別なものだ。人間程度にどうこうできるものでは無い」
「これ、外したら手伝って欲しい事があるんです」
渦巻く白銀の風をグングニルに纏わせる様に集める。呼応するかの様に刀身に刻まれた文字が銀色に鈍く発光した。
「背中に乗せてください。急いで飛んでいきたい所があるんです」
俺は利己主義者だ。全ては自分のため。このドラゴンを助けるなんてつもりはない。でも、俺のためにすることが誰かのためになることもある。
グウェインさんが笑ったように聞こえた。
「誰かに似ているようで、似つかない……か。……出来るものなら、叶えてやろう」
その言葉を聞いた俺は集中力を高めていく。
ユリウスさんが言っていたとおりだ。いくら立派な覚悟や理由があっても、それを示すための手段がなければ――力がなければ――、その想いは存在しないに等しい。
想いを実現させるためには力が要る。今俺の前に立ちはだかっているのはこの『グレイプニル』とやら。こいつを壊すことが、俺のために必要だ。
「行くぞ……!」
両腕で握り、振りかぶる。一度呼吸を止めて、叫びながら力の限りにグングニルを鎖へ叩きつけた。
「ぐっ……!」
砂埃が舞い上がり、同時に腕に走る激痛。反動で骨にヒビが入ったかもしれない。すぐさま魔法の治癒で癒しながらも俺は頬を緩めた。
砂埃を風を起こして追い払う。地面にあるのは無残に砕けた鉄屑。
「よし」
成功だ。風を呼びだして鉄屑を蹴っ飛ばし、グウェインさんを振り返る。
「これで、あなたはここで死ぬ必要がなくなりました。……俺の自己紹介をする意味も出てきましたね」
グウェインさんは大きな翼を勢い良く広げた。風圧。俺は飛んできた小石の礫を手で払いのける。
「ああ。……小さきものよ。名を、聞こう。お前の言う通り、覚えておく意味ができた」
「……久喜、輝です。よろしくお願いいたします」
「……乗れ」
俺はすぐにその背に飛び乗り、荷物をしっかりと体に身に着け直してから手ごろな鱗に掴まる。
「あ、そうだ」
俺はポケットからユリウスさんに貰っていた発煙筒を取り出した。青空の見える天井に向けて紐を引き、火を付ける。発煙筒の先端は激しく燃えて白い煙が起こった。俺は煙を吐き続ける発煙筒を地面へ放る。転がっていきながらも煙は変わらず空へ。
天地をつなぐ様に立ち昇る煙を眺めながら俺は呟く。
「もう一度、ここからだ……。自分が、自分であるために」
【嫉妬】〔しっ・と〕
1.自分よりもすぐれている人間をうらやみ、ねたむこと。
2.誰もが抱く感情の一つ。否定的な側面を語られることは多いが、その人がその人であるために必要な感情でもある。