向き合う時(1)
外廊下と言うよりは縁側と呼ぶべきか。ユリウスさんの邸宅の外縁部には外とつながっている板張りの廊下があった。建築物の見た目が見た目なので違和感なく過ごしていたが、今の俺は靴を履いておらず、裸足である。そんな裸足で歩ける廊下であれば『縁側』がやはり正解なのだろう。
今まで寄った宿屋や家屋へは基本的に土足での立ち入りだったので、実はこの『裸足で屋内を歩き回る』というのは新鮮なことだ。以前ユリウスさんの家に来たときも靴は脱いでいたはずだが、今、裸足でいることによって、あの当時意識していなかったことにようやく気づいたというところか。
一瞬、ハリア独自の文化なのかと考えもしたが、どの宿屋も闘技場も基本的には土足だった。だからユリウスさんの屋敷の土足禁止は日本のように『ハリアの一般文化』となっているのではなく、『個別のしきたり』という見方のほうが良いのかもしれない。
「晴れたな……」
くだらないことを考えながらも外を見ると青空だった。宇宙の闇を透かしたその青色に白い綿がちらほらと浮いている。昨日『路地裏の嗜虐者』としての俺がユリウスさんに倒されたときの、強かに打ちつける雨は何処へ流れていってしまったのか。
風は度々強く吹き、視界に入る程には長くなった前髪を撫ぜる。風の匂いに水辺の特徴的なものが混じっている。ここは坂の多いハリアの中でも湖に近く、つまりは中心部に近い場所。つまり……ユリウスさんが集合場所として告げてきた闘技場まで行くのに時間もかからなさそうだ。
「もう、出られますか?」
縁側で佇んでいた俺に声をかけたのはティアさんだった。その手には背負うタイプの鞄と小刀、そして……なにかの衣類。
俺の視線に気づいて彼女はその衣類を差し出してきた。
「ユリウス様より、簡単な旅支度を、と言いつけられておりましたので、似合いのものをお持ちしました」
「あ……、ありがとうございます」
ティアさんから衣類を受け取る。分厚い生地のそれを広げると、長袖の上着だった。元となった素材の色合いなのかくすんだクリーム色をしていて、首元にはフードが付いている。
よく似ている形だと思った。俺がこの世界に来る時に着ていたものに。
「良いんですか……?」
「好んで着るのは、あなただけかと思いますが」
冗談のように彼女は微笑う。ちょっと考えて思い出す。
「……ああ、なるほど……。確かに、そうかも知れないです」
王都でも俺の格好を見て旅の人だと決めつけてくる人がいた。ミアに服をもらってからはそんなこともなくなったが。そのことと、ティアさんの発言が意味するのは、このパーカーという形の服装はこの世界の、この国においては特殊だということ。
……文化が違うんだ。服装の趣味も違っていて当たり前だ。
「じゃあ、早速……」
俺は受け取ったパーカーに袖を通していく。硬い生地ではあるものの、しっくりくる気がする。何と無く、笑みが浮かんでしまった。着慣れた服だからではない。この国の文化としては恐らく特殊なのであろうパーカーをわざわざ用意してくれた優しさへの感謝だ。
ティアさんも目を細めている。「似合っていますよ」と一言。そして「こちらも」とベルトと小刀を渡された。
ベルトを腰に巻き小刀は左腰へ。しかし背中部分に輪っかが二つ残っている。「これは……」と訊くが、「その前にこれを」と鞄を渡された。
「地図や野営用の道具、一日分の食料、水は脇の水筒に入れてあります。詳しくは後ほど自分で確かめてください」
鞄を手にすると、確かにしっかりと中身が詰まっている重みがある。オーソドックスな革製で、頑丈な造りだ。俺が元の世界のショッピングモールで買った安いリュックとは全く違う。
「ありがとうございま……」
「さあ、それを背負ったらこちらへ」
「あ、待ってください、行きます」
ゆっくり感謝する間もなくせかせか歩いていってしまうティアさんについていく。歩きながら鞄を背負って、肩のところで紐の長さを微調整する。
「あの……。本当に色々、ありがとうございます」
再びお礼を言った。やはりしっかりと伝えるべきだと思ったからだ。だが、ティアさんは特段気にした様子もなく、歩く速さも変えることはない。
彼女は振り返らず言う。
「お礼は、後ほどユリウス様へ自分の口で伝えてください。準備を命じたのはあの方ですから」
「それでも、です」
「……そうですね。では、そのベルトの縫製分だけは受け取っておきましょう。それは私からの手向けになりますので」
ほんの少し和らいだ言葉の温度を感じながら、俺は先程腰につけた革製のベルトに手を触れた。しっかりと小刀を把持し、腰にもフィットしていて歩いていてもズレることはない。用途のわからない輪が二つ、手持ち無沙汰のように揺れているのは気になるが。
「へえ……器用なんですね。ありがとうございます。ただ、この輪っかの使い方が……」
「ここで靴を履いてお待ち下さい」
二度目の問いかけも流されてしまった。用意してもらっている手前、強く出るのもおかしい。もしかしたら何かしらのミスなのかもしれない。俺はそれ以上訊くのを諦めて「あ、はあ……」とぼやきながら返事をする。
待機を命じられた場所は玄関口である。靴下と一緒に、俺がミアに貰った革製のブーツが置いてあった。長旅でクタクタになってはいるものの、元が丈夫だからかまだまだ履けそうだ。
ティアさんの方を見ると、彼女は踵を返して屋敷の中へ戻っていく。
待っていろと言われたな。言われた通り靴でも履いていようか。
「よいしょ」
座り込んで靴下とブーツに足を通す。革の生地が足に馴染んでいくのを感じながら靴紐を結んでいき、考える。
俺はこのブーツの生地のようなものだ。落ちない汚れがこびりつき、とれない皺が刻まれている。逆立ちしたって新品の生地のような輝きは無いし、父さんが母さんにプレゼントされてからずっと大切に履いてきたと言っていた靴のような美しい味わいというものも無い。
だけど、旅を続ける中で染み込んだ泥や、俺が歩く度に深く刻まれていった皺というのはどうしようもなく俺の足に馴染んでしまうのだ。俺自身と言っても差し支えないくらいに。
靴紐を結び終わる。……うん。やはり俺は、この生地みたいなものだ。
「あ……」
ふと気づく。ユリウスさんが路地裏で言っていたことも同じだったのだろう。
彼は俺の身についた武術を指して「『何もない』というのは真実なのか?」という問いかけをしてきた。あの時は何もないと答えてしまったが、今は違うと思える。
俺には『何もない』わけではない。少なくとも武術と……クタクタの靴がある。
「……ふふ……」
笑みを漏らした時、近づいてくる足音に気がついて、立ち上がって振り返る。
こわばった顔のティアさんが見慣れた武器を手にして立っていた。
「お待たせ致しました」
重そうに彼女が差し出してきたのは『グングニル』。銀色の短槍。真ん中に近いくらいまで片刃の刃となっていて、見ようによっては柄の長い剣ともとれる、俺の武器。
俺はそれを受け取って、それから気付く。
「あ……この輪っかって」
ベルトについていた使途不明の二つの輪にグングニルを通すと背負っている鞄の下に来るような場所で安定した。
……グングニルを納めるための輪っかだったのか。
驚く俺に、いくらか得意げなティアさんが笑いかける。
「鞄に引っかかってしまうかもしれないので、背中ではなく腰まで落とした場所に固定できるようにしてあります。咄嗟に引き抜けるように、練習はしておいてください」
後ろ手に柄を握ってみる。角度が微妙なのでコツは要りそうだが、すぐに慣れそうだ。それから俺は左手で小刀にも触れて気付く。
「あ……小刀とも干渉しないようになってるんだ」
計算し尽くされていると思った。俺が要望を出したわけではないというのに、使いやすい。……これを短時間で仕上げたのであれば、彼女は一種の天才に値する人間だ。
ティアさんは自信のみえる表情を崩さない。
「武具周りの制作には自信がありますから。……それにしても、随分重たい魔法武器ですね」
グングニルは、どうやら俺以外にとっては重すぎて扱いにくい武器らしい。ただし、俺にとってはプラスチックのように軽く感じられる。ガルムさんは魔法武器の一種だと言っていたな。
俺はティアさんに「いや、これは……」と説明をしかけて、それからその言葉を引っ込めて、代わりの言葉を紡ぐ。
「……そうですね。重いかもしれないです」
どういう意味で言ったのだろうと、自分でも疑問だった。
それでもこの武器にかかる重みには体感的な重さ以上の何かがあるような気がした。
「ありがとうございました。久喜、輝様」
「え?」
唐突なティアさんの礼に対して戸惑ってしまう。ここまで色々してもらって、俺からお礼を言うことはあっても、向こうから何かを言われる筋合いは無いと思った。
しかし、そんな俺の考えを見透かしながら彼女は話す。
「再戦させて頂いたことです。……闘技大会であなたに負けたことが、納得行かなかったんです。剣を交えたというのに何も掴めず、まるで拒絶されたかのような戦いでした」
罪悪感から目を逸しかけて、俺は踏みとどまり、彼女の次の言葉を待つ。逃げてしまえばいつもの俺だ。
「今日戦ったことで、分かったことがあります。あの時のあなたは、あなた自身ではなかった。そして、今日のあなたこそが本物です。それが分かって、やっと私も前に進めそうです」
そう言った後「……何を言っているのか分からないかとは、思いますが」と付け加えてはにかむ。
俺は首を横に振った。
「多分それは間違いじゃないと、俺も思います。……ユリウスさんだって、そう言うと思います」
「……はい。武術に関しては、師匠は全てお見通しですから」
目を細めるティアさん。黒い髪の隙間から見える耳がほのかに赤くなる。
彼の命で超人的な働きを見せたり、武術に関して全幅の信頼を置いていたり、良く考えれば理由はいくらでも挙げられるのかもしれない。でも、鈍い俺ですら、その表情をみるだけで充分だった。
こんなに可愛らしい人に想われるなんて、ユリウスさんが少しうらやましい。……駄目だ。嫉妬は追いやらないと。
「……何故、笑うのですか」
ティアさんが先程までの表情とは一転、拗ねた様な顔でそんな事を言い始めた。意地悪をしてしまいたくなる様な気持ちが出てきつつ、同時に何故か――。
「いえ……」
――何故か、ミアに会いたくなった。
謝りたい。話したい。頭を撫でたい。あの時ミアの手を取れなかった自分を呪わずにいられない。
「何でもないです! 本当に、ありがとうございました!」
俺は不満顔のティアさんを残してユリウスさんの屋敷を飛び出す。こころなしか身体を運ぶ脚が急いていた。
○
闘技場には粗野で物々しい雰囲気を纏った人たちが集っていた。楽しげに談笑していたり、じゃれ合うように武器を重ねている。
義勇軍の戦士達だ。訓練の途中なのか、それとも暇をつぶしているだけなのか。
それを見ている俺はというと、闘技場の入り口から少し離れた広場の街路樹の影に縮こまっていた。
太陽は中天まで辿り着こうとしている。ユリウスさんとの約束の時間はもうすぐである。
「詳しい場所を指定してもらうべきだったかな……。脱走兵だからな……俺」
そう。今の俺は単なる脱走兵にすぎない。ハリアに到着したあの日の夜、凱旋パーティーらしき宴会で飯をかっ喰らって衝動的に逃げ出してそのままだ。
脱走兵の扱い……というか、罰則というのが具体的にどうなっているのかは知らないし、義勇軍という性質上あまり厳しくはないように思える。しかし一方で俺が過去に映画や漫画で見た脱走兵は銃殺されたりもしていた。
わからないのであれば、こそこそと隠れるべきだ。こればかりは向き合うだの向き合わないだのとは別である。
「ん、お前……?」
背後から声をかけられてバネのように跳ねた。振り返ると見覚えのある禿頭。太い腕。……ゾニだ。今日は腰に手斧を二つ装備している。
彼は俺を不思議そうに見るのみで叫んだり仲間を呼んだりしてこない。探されているわけではないと知り安堵しつつも、この場にずっといるつもりもない。
「……し、失礼しま」
「まあ待てよ」
踵を返して立ち去ろうとしたら肩を掴まれ引きとめられた。手のひらが大きい。
振り向く。ゾニは無言で俺を見る。そんな苦しい沈黙が続く。気まずさによる窒息死寸前で彼は俺の肩から手を離した。
「少しはマシになった様だな。少なくともあの時の『包丁持ったガキ』みてえな面構えじゃ無くなった。だが戦士の顔じゃない。戻ってくるつもりなら止めておけ」
そう言うと豪快に笑いながら闘技場へ向かって行った。……何だったんだろうか。
「いや」
……『包丁持ったガキ』か。俺もそう思う。あの時の俺は追い詰められてヒステリーを起こしていた。この世界に来てから……もしかすると、その前から俺はそうだったのかな。
今だって違うとは言い切れない。ゾニ曰く、『少しはマシになった』そうだが。
「ふう」
ゾニのせいで跳ねた心臓を落ち着けてからもう一度闘技場の様子を伺った。目を細めて戦士の集団を睨んでいると、闘技場の中へと一人の男が入っていくのに気がついた。……ユリウスさんだ。
「中か……」
侵入するのは心が重い。しかし、冷静に考えてみれば当たり前にも思える。
闘技場という場所において、俺とユリウスさんが何度も話をした場所は一箇所しか無い。
「行こう」
俺が戦い抜いて、エレックとミアと出会った闘技大会の第七ブロック。その控室である第七控室。あの場所しかありえない。