2.アベリア
「お誕生日おめでとう」
「ありがとう、ママ」
「いやぁ、大きくなったなぁ」
「ほんとうね」
奏はやっと転生して3歳になった。
ここまでの道のりは長かった。
子どもってこんなに大変だったっけ…
しゃべれるようになるのにも時間がかかる。立ち上がるのにも体力がすごく必要。
そして何より、眠いのに眠れなくてぐずってしまう。
ママごめんなさい、ほんとうにあれはめんどくさいと自分でも思ったわ!
これからは手のかからない子になるから!
「アベリア、もう3歳なのね」
「アベリア3さい!」
奏は「アベリア」という名前をつけられ、大切に育てられた。
しばらくアベリアという名前が馴染まず、両親から呼ばれても気づかないこともあった。
しかし慣れとは恐ろしいものですぐに反応出来るようになっていた。
両親は喧嘩をすることもなく、暴力を振るうこともなく、平和な毎日が過ぎた。
いつも明るく、あたたかい家庭。俗に言う「良い家族」である。
優しくよく笑う母。ちょっとおっちょこちょいだけれどみんなから愛されるかわいらしい人。
肩にかかるくらいのウェーブのかかったブロンド。
目の色は少しグレーがかった水色。曇りの日の空に翳したビー玉のような色。
父は絶対会社でモテるだろうと言うスッとした顔のイケメン。長身で小顔。手は大きく、昔ピアノを習っていたというのに納得するしかない指の長さ。
髪はさらっさらの黒髪。でも染めているらしく、光が当たるとブルーがかっている。
目の色も曇りのない黒。漫画の世界の住人かもしれない。生まれてくる次元間違えたのかもしれない。
いつでもママのサポートをして、夜泣きをする私を嫌がらずに相手する。そしてその間にママを寝かせる。
「育メン」という言葉が日本にあったが、海外でいう「パパ」とはこの人のことかなと思うくらい、ママと分担している。
仕事をして、帰ってきて私の相手をしつつママの手の届かないところをさりげなくやる。すごい。
こんな人たちの元に転生の私がいていいのだろうか。本当なら生まれるはずだった子供がいたはず。
なんだか申し訳なく感じてしまう…
「アベリアがまさかピアノとバレエをやるなんてね。将来はプリマかしら」
「今年の発表会楽しみだなぁ。パパ、ビデオカメラを新調しようかな」
「ピアニストの可能性もあるわね」
「パパは途中で諦めちゃったからアベリアが頑張るなら全面サポートしちゃうぞ!」
「パパったら、アベリアに甘いんだから」
「大切な娘だからしかたないだろー」
2歳になった誕生日に連れて行かれたおもちゃ屋で奏改めアベリアはピアノを触り、両親は小さなピアノを買い与えた。
そして家の中で踊っていたアベリアを見て近所のバレエスタジオに入会させた。
しかしそれは奏の頃にやりたかったことをアベリアで実現させるための計画だった。
「ピアノも嫌がらずやるし、バレエも楽しそうだし。やらせてよかったな」
私は奏として生きていた頃、小さい頃にピアノとバレエを習えばよかったとずっと思っていた。
それは演劇部に入ってから幼いころからやっていればよかったと痛感し、それは自信喪失に繋がった。
奏の学校の演劇部の部員の多くは幼少期からダンスやピアノを習っていて、絶対音感や身体能力が高かったり、表現力に長けている。
そんな中に特にそういうものをやってこなかった奏はむしろ浮いた存在だった。
それでも努力と自分なりの感性でどうにか食らいついていた。
どうしてそこまでしがみついていたのかというと、別人格になれる、別の人生を歩めるということに喜びを感じていたからだ。
自信のない「水野奏」ではなく、別の人物としてものを見て、感じて、聞いて、話すことができる。
「水野奏」は単なる器でしかなく、空っぽにしたところにそのキャラクターが注ぎ込まれる。
そんな刺激的な日々が大好きだった。
しかし、経歴マウントを取られ、存在価値すら否定される立場にいた。
努力や感性では超えられない経験値や経歴、経済状況を痛いほど感じてた。
転生し、神と名乗る少年から与えられるもので経済力と答えたのはこういった習い事をするためだった。
バレエやピアノは発表会がどうしてもついてまわり、出演料に衣装代など色々出費がかさむ。
子供のうちは特に成長が著しく、服も靴もあっという間にサイズアウトしていく。
それをある程度までやるためには経済力がないと続けることが困難である。
また、バレエのレッスン着であるレオタードやバレエシューズは消耗品であり、どんなにメンテナンスしても使い物にならなくなる時がどこかで来る。
自宅にピアノを置いてもらわないと練習も出来ない。
やりたいと言った手前「やりたくない」「いやだ」は絶対言わないと心に決めていた。
「アベリアはピアノ好き?」
「すき!」
「バレエは?」
「たのしい!」
実際、奏としての記憶や知識を持っているためバレエのレッスンは頭で理解することが出来るため、楽しいに加え手応えを感じていた。
ピアノも最初は右手だけでいっぱいいっぱいだったが、今では左手も慣れてきた。
アベリアは奏を成仏させるように奏の頃にやりたかったことに打ち込むようになっていた。
奏で生きた「自信のない人生」ではなく「毎日が楽しい人生」をアベリアで達成しようと考えるほどだった。
「でもね、アベリア」
「なに?ママ」
「お外で遊んだり、お友達と遊んだりするのも大切だからずっとお家で練習するのではなくてたまには公園にも行きましょうね」
「うまくなりたい」
「そうね、ママもアベリアのバレエもピアノも大好きよ。でもね、お友達とじゃないと出来ないこともたくさんあるのよ。ずっとパパとママと3人というわけではないの。だからお外で遊んだりはしましょうね」
ママに心配をかけてしまった。
バレエやピアノの上達を優先して人間関係やコミュ力の上達を放置してしまうなんて。
奏の頃に散々思い知ったはずなのに。
コミュ力は大切なこと。
協調性、同調、優しさ、助け合い。
アベリアは上唇を尖らせ俯いた。
「ママは怒ってるわけじゃないのよ?ママはお外で遊んでるアベリアも見てみたいなぁ、って!」
「そうだなぁ、パパもアベリアと一緒に芝生の上を転がったりしたいなぁ」
「あら、そのお洋服は誰が洗うの?」
「僕が洗うよ、アベリアの分もね」
「それはよかったわ」
協調性、同調、優しさ、助け合い。
それは私が持っていて損をしてきたもの。
どうして損をしたのかしら…
奏は日本にいた頃、いわゆる優等生だった。
成績優秀、誰にでも分け隔てなく接し、主張しすぎず、目立ちすぎず。
褒められても謙遜し、当たり障りのない反応をする。
世間ではこれを「八方美人」と呼ぶのかもしれないが、奏は両親から常に言われていたことをしていただけだった。
「困っている人には手を差し伸べて手伝ってあげなさい」
「人に迷惑はかけるな」
「良い人でいればいつか良いことがある」
「良いこと」
そんなことあったのかな。
部活では努力すればするだけ周りから笑われて、勉強をすればガリ勉と言われ、やりたくもないことまでやるはめになる。
努力することは恥ずかしいこと。
本気でやることはかっこ悪いこと。
そんな空間で生きてきて、全力でやってはいけないんだと自分にリミッターをかけてしまった。
でも本気でやっている人間を笑う人間は大抵「本気でやれよ」と言う。
矛盾だらけだが、少なからずそういう現象はよくある。
「良い人」は「都合の良い人」ということなのだろう。
アベリアの人生ではそんなことしたくない。せっかく転生したんだから、奏みたいになりたくない。
でも、マウントを取るような人間にもなりたくない。どうすればいいんだろう…
「あらあらアベリア、唇がどんどん尖ってるわよ。このままじゃ鳥さんになっちゃうわ」
「アベリア、何を考えているんだ?」
「ママ、パパ、お友達と仲良くするにはどうすればいい?」
「お友達と仲良く…かぁ。んー…」
「ママの答えは簡単よ?」
「なに?」
「ありがとう、ごめんなさい、この二つをちゃんと言うことよ。それと、感情に素直になること。ただし、ぶったり蹴ったりしちゃだめ」
「そうだな、あとは笑顔でいること」
「わかった」
私はあのいじめっ子たちみたいにならない。人を馬鹿にしない。マウントを取らない。
「改めて、お誕生日おめでとう、アベリア」