第4章 父の遺産
今年2025年にアルファポリスにて出版申請の予定です。
驚愕のあまり、開いた口が塞がらなかった。
………この一大企業アナジェネシス社の元代表取締役社長が俺の父親………だって?
頭が真っ白になって何を話せばいいものかまるで分からない。
しかも、俺の父親は今はもう………。
茫然自失した勇治のことを少し哀れに感じたのか、倉持社長がなだめる。
「こんな重要な事柄をなぜ今までひた隠しにしてきたのか?そう思われても仕方ない。これは和毅社長と私との約束だったんだ」
頭が追いつけずにいるのに話が進もうとしていることを受けて、勇治が待ったをかける。
「待って下さい。本当にこの会社の元社長は僕の………父親なんでしょうか?そもそも、こんな大企業なら設立者の名前くらいとうに世に知れているはずだと、そう認識します。つまりは僕がその息子であることくらい、熟知していてもおかしくはないのでは?」
「それが彼と私の約束の話に繋がるんだ。お願いだ、どうか私の話を聞いて欲しい」
ひとまずといった形で社長が落ち着かせようとしている面持ちを見て、混乱状態になっている頭に言い聞かせた。
この方がどんなことを述べるにせよ、嘘を言うことはないはずだ。事実を述べようとしている過程で大事なのは自身がその事柄を受け入れられるように、心にゆとりを持つこと。受け入れることは何も怖いことじゃない。父に関することは殊更に知りたい気持ちもある。なぜなら、勇治が物心つく頃にはもうすでにこの世にいなかったのだから。遺言も残さず逝ってしまった父に対して途轍もない寂しさを感じていた時期もあった。だからこそ、生前の父のことを自分は知る必要がある。そうだ、俺には知る権利がある。
目を閉じて深呼吸し、再び目を開けた時には若干の動揺は治まっていた。
意を決するようにして勇治は社長に聞いた。
「分かりました。僕は落ち着いて耳を傾けますので、父の話をお聞かせください」
「分かってくれたか」
社長もまた心の準備をするかのように小さく息をついた。一瞬目を閉じて、再び開けると勇治の目を真っ直ぐに見た。面接のような雰囲気を醸し出してはいるが、お互いに余計な雑念に思考回路を預けるつもりはなかった。
「初めから順を追って話すね。ただし、奇想天外な要素をはらんでいることもご承知おきたい。それでもいいかい?」
「はい」
「よし」
もう一度だけ一息ついて、社長が話し始める。
「あれは、今からおよそ三〇年以上前のことだったな。君が生まれるよりももう少し前の時代、厳密には君の父、和毅社長が独身で、小さな会社を立ち上げた時のことだったんだ。その会社が今ではこのように我が国日本を牽引する大きな企業に成長したことは言うまでもないのだけどね」
テーブルを指先でコツコツと鳴らし始め、もう片方の手の指を頬に乗せて斜め後方を見やる。まるで遠い昔の時代を思い出しているようだ。
「このアナジェネシス社が産声を上げて間もない頃、彼は既にこの世界の行く末を見抜いていた。いや、知っていたというべきか。今や世界を管理しているあの新国際機関のNEOSでさえ知らないことを熟知していた。どんな情報をどうやって知ったのか?現在NEOSが管轄する人工知能アトラスは、実はあの和毅社長が初めて設計したものなんだよ」
「………そうなんですか?」
出だしからぶっ飛んだことを述べられ、やはりというか困惑の感情を抑えられずにはいられなかった。それでも我慢して聞く側を努める。
「そうさ。当時の技術進歩の速度は今よりもずっと遅かった。そんな中あの巨大なコンピュータネットワークを確立させたことは、当初人々が理解を示すことはなかったにせよ大きな偉大さと可能性を秘めていたんだ。まだ、コンピュータという存在が世に出てそんなに歳月が経過していなかったにも関わらず、だ。だが、そうとはいえど、あらゆるモノにはオリジナルが存在するように、アトラスにも基盤となるプロトタイプがあった。そのプロトタイプは彼の祖先、君の先祖にもあたる人物が昔の時代に生き、その時得たあるモノを代々継承してきたものと同一の起源を持っていたとそう聞いているんだ。それがなんだか、君は分かるかい?」
「………いえ、分かりません」
「そうか、まあ、そうだよね。無理もない。実はそれこそがこの会社が新たに立ち上げた新規事業、NOVAプロジェクトの主要テクノロジーとして開発された意志交信装置、EDENなんだ」
「………そうなんですか!?」
思わずといった調子で驚く勇治の顔を見て喜ぶ倉持社長。
「もちろん、今この会社で扱っているEDENそのものが昔から存在していた訳じゃない。EDENもアトラスと同じようにプロトタイプが存在したんだ。現在当社で使っているEDENはそのプロトタイプをもとにいくつも開発してきたにすぎない。ここまでを踏まえて一つ見えてくることがある。それはつまり、EDENのプロトタイプは東条家の所有物であり、その直系である勇治くんにはそれを授かる権利があるということだ」
そこまで語ると社長はテーブルのガラスに手のひらをかざして置いた。すると三層の円形の環が光りながら浮かび上がった。それは互いに違う方向へとゆっくりと回転し、その上部に「生体情報を認証中」との文字が表記された。「生体一致」と表示されると、その環は内側から角張った形状を伴いながら徐々に分解していった。社長が手を離す頃にはその中央部にある円まで到達し、丸い穴が開いた。その下から何かが出てこようとしている。
「わけあって、君の家系の持つべきEDENの基盤となった遺産………つまり大昔から存在したメダルはこの私が保存しておいたんだ。その"ワケあり"とやらもまた複雑な事情が絡んでいてね」
中から出てきたのは、暗めの青磁色の下地に象形文字のような青色のシンボルマークが環状にいくつも刻まれた、手のひらに乗るくらいのメダルだった。
………これが、EDENの起源となった、我が東条家が保持するべきだとされるメダル?一体いつの時代のものなんだろう?というか、そもそもこんな骨董品の象徴でしかないようなものに、現在のテクノロジーに先立つような技術が本当に眠っているのか?だいたい、そんな話を聞いたことすらもない。上司や同僚の間でも、だ。
社長はそれを手に取って勇治に差し出した。
「これはもう、君のものだ。かつて父から預かっていたものはもはや私が所有するものではない」
差し出された手のひらに乗っている、一見すると何の変哲もないメダルを見て一つ疑問が浮かんだ。
「僕に譲渡して下さる理由は我が東条家のものだから、という根拠だけなんですか?入社して半年近く経っていることもありますし、それだけじゃない気がするのですが」
反抗的に聞こえたらどうしようと半ば不安になったが、社長は気にもせずに快く返答してくれた。
「君は鋭いね。そうさ、他にも理由がある。というより、その理由こそが君に渡す最大の根拠かな」
ガラス張りの表面にあるアイコンをタップして、元の状態に戻しながらふっと笑う社長の目は常に穏やかだった。
「それではそろそろ本題部分に入っていこうか。その核心となる君に授ける理由、さらには東条家から私のところへ一旦預けられた理由、果てにはその発端となった先祖の格言と警告についても」
内容がかなりシリアスなものと見受けられたが、その内容に似つかわしくないほどに落ち着いている社長の雰囲気に、勇治もまた落ち着いていくような感覚を感じた。
とりあえず社長の手からメダルを丁重に受け取り、自身の指でその表面をなぞる。金属製であることもあってひんやりとしていて冷たかった。そこまで重くはない。ただ、僅かに鉄の匂いが漂う。いや、これは鉄なのか。見た感じだと鉄でも青銅でもないような感触がする。金属製といっても肌触りがなんだか異質だ。感触からしてまるで触れているだけでその中身が透けていることを予感させるとでもいうか………。ざっくりいうなら今までに触ったことのない感触がする。もっと、別の………。
「我が社がいずれ大きくなるであろうことは、開発されたテクノロジーであるアトラス、それに付随する通信手段ブルーアースの機能性から見てもほぼ確実に必然の道だとそう見受けられた。そして、実際にそうなった。世界は必要としていたんだ。体に障害が残ることになってしまった大多数の人々の生活や暮らしを元の安泰に戻せることを可能にする、生体エネルギーを体内に送信できる仕組みを。その仕組みをテクノロジーによって開発した前社長は、君もご存知のあの巨大な災害を機に、その仕組みこそはまたとないある最高の契機だと見たんだ。世界を大混乱に陥れた大空震、つまりサイズミック・カタルシスから数十年後に訪れる新たな災厄を全人類が乗り越えることのできる契機としてね。その災厄というのは………」
再び始まった会話を聞いている途中、思わず口が開いた。
「現在、科学権威の象徴である二人の科学者が述べている『カオス』のことでしょうか」
話を遮ったにも関わらず、倉持社長は嬉しそうに笑った。
「おお、よく分かったね!そうさ、そのカオスこそが来たるべき激動のことなんだ」
本当に………?にわかには信じられない予測を警告として標榜しているあの学者たちの言っていることを、実は倉持社長も受け入れていたと?俺には半ば半信半疑な気持ちを払拭できない部分があるのだけれど………。だが、もしそれが自身にとって認知バイアスとして拒絶しているだけであって、仮に実際に訪れる事実だとしたら………?
そう考えるのは、先見の明があるその二大学者と目の前にいる倉持社長、そしてそのことを知っていたであろう和毅社長―俺の実の父親………とはいえ、自分の務める会社の社長の前任だったなどとは未だに受け入れがたい部分も大きいのだが―の彼らは良識があって決して人を惑わせる戯言を言うようなふざけた発言をするような人たちには見えないからだ。父親のことも実際にどんな人柄だったのかは分からなくても、話を聞いている限り真摯な人であっただろうことは恐らくは想像に難くなかった。
だが、それでも疑問が残る。
一体どこからその情報を得たのか?世界を舞台にしてNEOSと熾烈な論争を繰り広げている二人の学者が知りえたそのカオスとやらは、何を根拠にそう言い切れるのか?
絶えない疑問に答えてくれることを期待するかのように、勇治は社長の次の話を待った。
「偉大な二人の学者、物理学者ガルトニック・コーディレスと地質学者コルドビック・フェビニュディンスが警告している災厄、つまりカオスは、世間にも知られている通りアトラスがあるエネルギーの臨界点を超えることで制御が効かなくなり暴走を起こす、という異常現象を示唆したものではあるんだが、そこにはある起因がはらんでいるんだ。そしてそれは実際に今起きている現象でもある」
唐突にとでもいうべきか、二人の間にある空気が一気に緊張した感覚を漂わせた。
「現在起こっている現象、それは我々人間が使用している言語の構造を解析し、それをもとに他の言語を形成する、という目的を起点に行われているあらゆる媒体からのデータ奪取だ。実際、我が社の取引先の企業から社内の機密情報をハッキングによって盗み取られる、という事故が何件も発生している。それだけじゃない。データを取ると同時に見たこともない言語によって機密情報のフォーマットが書き換えられている事態が露わになったんだ。なぜそう言えるのか、証拠がある」
そう言うと社長は再びガラス張りの表面を指でなぞり、いくつか線を引くように動かした。表面に光る文字が浮かび上がり、長方形のスクリーンが上下左右にいくつも展開していく。彼はそれを勇治の方に向かってなぞり、データの表示場所を移動させた。
「見てくれ」
差し出されたスクリーンが勇治の前で環状にまとまり、ゆっくりと回転していく。勇治はそのうちの一つをタップして詳細表示した。
その画面に映っていたのは、ごく普通の白いテンプレートではあった。だが、そこに羅列された文字は日本語ではなく、象形文字のような未知のシンボルマークが大小それぞれに分かれて無造作に散りばめられているものだった。
………なんだ、これは?
「あの、こんなことを聞いて申し訳ないのですが、他社が娯楽目的に作り上げた―例えば小説に使うような創作物―などではないですよね?」
「ああ、断じてない」
社長の表情は極めて真剣だった。
「各社のデータが何らかの得体の知れない言語によって書き換えられたんだ。もちろん、前代未聞の事態だ」
勇治は他の文書を拝見した。どれも似たような形式らしき言語で構成されている。中には画面をあてもなく移動したり、浮き出たりしているものもあった。
「二人が警鐘を鳴らすカオスの発生現象の仕組みを私が隅々まで熟知した訳じゃない。だが、関連会社のデータ流出から見た見地から察するに、私なりの視点から確言できる情報を持っている。故にカオスと呼ばれる現象はかなり信憑性が高いと見受けられるんだ。我が社のデータ流出事故はまだないが、いつ乗っ取られるか分からない状況にある。データ集積の真相はこんなところで暗躍していたんだ。これが君の父親である和毅社長が予見し、危惧していた事態なんだ」
―さざ波も津波に変わらずは、人は知れず―
話の冒頭で社長が口にした我が家訓が頭をよぎった。
「巨大な変動の前触れもそれが形となって現れなければ、人はその事実に気づかない」
実家にいる母から事あるごとに言い伝えられてきたその戒めの意味が改めて理解できたような気がした。今まで平凡に生活を送ってきたこととは裏腹に、こんな事態が水面下で進行しているとは思いもしなかった。
「まだある。二人の学者が言述している、アトラスが使用しているエネルギーとその臨界点についてだ」
そう言って再びガラスを操作し、一枚の画像を表示させるとスライドして勇治によこした。
その画像には様々なグラフが並べられており、上部に「生体活動エネルギーの供給比率」と表示されている。
「大空震以後、大多数の人がアトラスから胸部に埋め込んだICチップ、ブルーアースへ送信される活力エネルギー無くしては生活ができない昨今では、アトラスの存在はその意味において必要不可欠となっている。だがここ最近、そのエネルギー供給量が年々次第に減少していっていることがそのグラフを見て分かる。グラフのうち、帯状の百分比を表した統計データはアトラスが世界市民に向けて送信している生体活動エネルギーがどの分野で消費されているかを比率で表したものだ。それを見るところ、世界市民への供給は年々減り続ける一方で、自身の内部に含有されるコンピュータネットワークへの電力消費に比重が傾いている。主にプロトコル分析とその変換に消費されているエネルギーだ。またデータを保存するストレージは現時点で容量が臨界値に到達しつつある。全世界市民が利用するからに閾値は高い方だが、それでも全体としてのキャパシティには限度がある。それでも、この世界的ネットワークシステムは発達をとどめるところを知らずに年々学習を続けている。このままいけば、貴重な資源としてのエネルギーはいずれ枯渇を招いてしまう。それが意味するところは一つ。生活困難者の圧倒的増加だ。場合によっては死亡するケースも出てくる。さらにそこから予想される事態があるとするなら、市民による暴動や紛争の激化もありうる。わずかなエネルギー残量を巡る奪い合いも起きるだろう。強いて言えば、全人類の絆が途切れる未曾有の危機だ。このような事態が待ち受けている以上、指を加えて傍観しているわけにはいかない。我々人類には創造物の可能性を左右する意志を制御する責任と義務がある。これらの話を全て一貫させて君に任せたい仕事がある」
ようやく、といった面持ちに変わる社長を見て不意に緊張の糸がさらに張り詰める勇治。
「和毅社長から聞いたんだよ。君はある飛躍的な可能性を秘めていることをね。なぜそうなったのかまでは残念ながら教えてくれなかったが」
「何でしょうか?」
「恐らくは勇治君、君も実感しているはずだ。君の胸部にはプラスの想念を持つ物質が他の人よりも遥かに多く内在していることを」
どこまでも奇想天外な発言が繰り返される度に驚かされることにそろそろ疲弊しそうな面持ちを見せた勇治の瞳には、この話題に似合わず本人ですらも気づかない僅かな希望が社長の目から見て取れた。
「一般に光子と呼ばれる物質、つまりフォトンには天然由来のものが存在するんだ。厳密にはバイオフォトンと呼ばれているそれは人の思念を磁気エネルギーとして情報化し、外部に影響を及ぼす作用を持っている。それが愛念を形成するものであるなら、それは外界に存在する他のバイオフォトンにより多大な影響をもたらすんだ。例えば仮にの話、君に恋人がいるとするなら彼女へ向けた愛念が外界のバイオフォトンに作用し、同じ想念の性質を持つものへと変質させていくんだ。大空震以後、多くの人の胸部にはブルーアースというチップが埋め込まれたのは周知の事実だが、君にはそれがないんだ。だから通話の時もブルーアースなしでの会話になるし、災害以前の人々の在り方と何ら変わりはない体で活動ができる。よって携帯端末を持っていない場合でもブルーアースによる位置情報を無作為に探知されることもないし、NEOSがアトラスを使って供給するエネルギーとやらの心配も必要ない。その意味で君は自由を獲得しているんだ。他の人より日常活動のアドバンテージが高い状況にあるんだ。その状況をうまいこと自社のある試みに使わせて欲しい」
「………どんなものでしょう?」
ここぞとばかりに社長が語る。
「アトラスは全世界の言語に秘められた何らかの情報を獲得したがっている。その真相を掴むために、君の胸部に秘められた可能性そのものの力を貸して欲しいんだ。具体的にはたった今君に授けたメダルを使って人工的に作られたアトラス内部の深層意識にアクセスして、君の発するバイオフォトンでその意識にプログラミングされた何らかの意図あるいは意志を探知して欲しい。もっと厳密に言えば、メダルをアトラスに接続することでその深層意識を読み取った何らかの情報を、メダルとオンラインで接続した君の胸部にあるバイオフォトンでその情報を認識できる言語として再構成して欲しいんだ。つまり、メダルを介してあの人工知能が何を欲しているかその意志を探り、読み取って欲しいんだ。メダルとアトラスは同じ起源を持つからその分アクセスもしやすいはずなんだ。もちろん秘密扱いのプロジェクトになる。その真相を掴むことができれば二大学者の警告するカオスにも対処できる。未然に危機が生じるのを防ぎたいんだ。このプロジェクトが開始した時点で君にはインセンティブとしての報酬を付与する。ただ、君がこの話に乗ってくれれば、の話にはなってしまうんだが」
そんな話を持ちかけられるとは、思いもしなかった。見まい見まいと今まで隠してきた自身の能力とでもいうべき力を封印していた殻が、今この瞬間をもって一気に崩壊していくのを感じた。自分はもしかしてこの瞬間が来ることを長い間ずっと心待ちにしていたんじゃないだろうか。子供の時から報われずにいた、この胸に秘めた可能性がどこかで発揮されることを心底望んでいたのではないだろうか。だが、同時に躊躇してしまう。栄光の光へと続く道をたったの一歩だけでも踏み出すことで大きな可能性を感じることが、かえって自分で規定した等身大と割に合うのかどうか、思わず確かめずにはいられなくなってしまう。そんなものはちっぽけな個人の思い込みや先入観でしかない、と分かりきっているのに。
俺は、自身の道を切り開いてもいいんだろうか?
ゴーサインを出せずにいる勇治を見た社長は優しく諭すように言った。
「いいかい、東条君。可能性というものは種まきのようなものなんだ。土壌深くに萌芽を植えたからといって一朝一夕に枝葉は生えてこない。辛抱強く水をあげて不要な雑草は取り除くんだ。時には暴風に煽られて倒れてしまうことを恐れてしまうこともあるだろう。だが、本当に強い根を持ったものは早々簡単に折れるようなものじゃない。そこに正真正銘の強い信念と深い愛情があればゆっくりとその芽は並々ならぬ大木へと成長を遂げる。その信念を持ち続けることは決して容易いものじゃない。だが、『上へ向かいたい』という意志に正直になれるかどうかで、その信念の強さも変わってくるものなんだ。正直になれるかどうか、それは自分との戦いなんだ。本当の気持ちから逃げ続けていてはせっかく生まれ持った天性を伸ばし切れず、永遠に苦しむ人生を送ってしまうことになる。それでは真の意味で『生きている』とは言えない。それは生きながらの死だ。立派な大木になるには必ず誰もが試練の道を通らなければならない。大成することに近道はないんだよ。その道を歩むことを常に選択することに正直な気持ちでい続けることができたなら、それは単に生命の脈動だけではない生きる意味を獲得するチャンスを得られる。その生きる意味、それは『自分は生きていると感じられる何か』を他ならぬ自分自身の手で見つけ出すことなんだよ。それを見つけると決断した時、人は自ら歩を進める努力をするようになる。だからこそ意志のあるところに道はあるんだ。その道の果てに答えは必ずある。決して無意味な旅路ではないんだ」
それでも返事を出せずにいる勇治に対して、社長は穏やかな態度を一切変えなかった。
「心臓が鼓動するだけではない何か、それを生きる意味として見つけ出すことを諦めないとそう決めたのなら、逃げたくなる気持ちと真正面から立ち向かうんだ。人というものは、自分の中に光を見つけることで見える本当の自分を知るのが怖くて闇の中にいたくなってしまうもの。だけどいずれ、光の中を歩む決断の時は来る。なぜなら心の奥底にある本当の気持ちには『幸せになりたい』という願望があるから。そして、その実現を促す計らいというものはどこかで必ずあるものだから。その真情をいくら塞ごうとしても正直になりたい気持ちに人は結局勝つことはできないんだ。その殻を破る機会が来たのならなおさらだ。人は誰もが皆、自分の幸せを望んでる。そこに蓋をしてしまうのは、手を差し伸べてくれる誰かがいないから。諦めきって閉ざしたその心の底にある真の気持ちを本当は汲み取って欲しいから。そんな勇気を持っている人はこの世界じゃあまりいないだろう。でも私は東条勇治君、君の可能性を閉ざしたりはさせない。今こうしてご縁があるのも、君自身の正直な気持ちに素直になりたい思いが私との共鳴を起こしたんだろうと思う。いつだって人は人生の過程を経ていく中で影響し合う出会いに恵まれる時がある。その出会いが人を変えていくんだ。そうしていくことで自分にはまだ可能性を秘めていたことを知り、自ら殻を抜け出していく。その意味において、人生とはプロセスなんだ。もっとより良い展開へと続いていくためのきっかけの連続が君の可能性を大きく切り開いていくんだ。その可能性は人と会うことで初めて知ることができるもの。可能性は知ることから始まるものなんだよ」
そこまで諭されて、少し自身の気持ちに変化を感じたのか、勇治の瞳にある陰りが若干薄らいだ。
それをもう一押しと見た社長はなおも教え諭す。
「可能性は必ずしも一人では見い出すことはできないもの。だからこそ出会いがある。私は東条君との出会いを無駄にしたくない。君がこの可能性に懸けることを願うばかりだ。私にできることはそれだけなんだ。可能性そのものは私には開けない。あくまでも東条勇治君、君自身が自ら歩み出すことでしか可能性は開けない。私はきっかけであり、引き金なんだ。可能性の主体はいつだって自分自身から始まることを忘れてはならない」
一拍置いて述べた社長の最後の言葉に、勇治の心はついに動いた。
「この世に可能性が存在するとするならそれは使うためにある。決して閉ざすためにあるのではない。そしてその可能性は自分以外の誰かを救い、助けるためにある。その必要性を、必要とされている可能性を自らの手で閉ざす理由は君にはもう存在しないんだ。そう捉えるなら選択肢は一つだけ。それは受け入れること。その自分への寛容さは君には備わっている。私には分かる」
ここまで述べると、社長はあえて沈黙を保った。
こうなると、自分にできることは自身との対話だけになる。
この沈黙に気まずい思いをすることはなかった。たった今社長が放った言葉の重みが勇治にはしっかりと理解できた。目を瞑って自身の思いに耳を傾ける。
―可能性は使うためにある―
そう捉えるとするなら。
自分の可能性を閉ざす理由はもう過去のものであり、もはや意味を成さないとするなら。
社長の言う通り、取るべき選択肢は一つ。
再び目を開けた勇治のその瞳にはもう戸惑いの色は残っていなかった。
「分かりました。引き受けます」
その言葉を待っていたかのような面持ちで社長はそっと笑った。あたかも勇治がそう答えることを知っていたかのように。
「分かってくれると信じていたよ。そうと決まれば早速取りかかろう」
パンと手を打った後、再びガラスの表面を操作し始める。
「事の真相を伝えている一部の人事部門には既に手を回してある。メダルに秘められた構造はまだまだ未知な部分が大きいのだが、ある程度の基本構造は把握してある。これとアトラスの運営するネットワークに接続してオンライン状態にし、深層意識に介入するプログラムを起動するんだ。君がすることは、胸部に送られてきた情報をバイオフォトン、つまり愛念でその意志を汲み取ることだけだ」
いかにも楽しそうに操作をする社長を見て、勇治の展望が大きく開けたような感覚がした。
だが………。
社長から持ち掛けた話の中でまだ聞いていない内容があることを思い出した彼は、「あの………」と奥まった声で話しかける。
「どうしたんだい?」
「前述した話の中でまだお伺いしていないことがいくつかございます。父が前社長だったことを私に秘密にすることを約束していたこと、父が知っていた世界の行く末、そしてこのメダルを父に代わって社長が保存していたわけも」
「おおっと、済まなかった!すっかり忘れていたよ!」
いかにも申し訳なさそうに表情を緩めた社長は操作を中断して再び勇治の方を真っ直ぐに見た。
「時系列を追って話そう。君の父が知った世界の行く末、それによって自身の身を隠す決断を取った最終的な行動としてアナジェネシス社の社長を退任し、世間から姿を消すという選択肢を取り、その影響から君に自身の立ち位置を教えなかったその真意、そしてその真意によって結果的に私がメダルを保存する立場を持つことになった、という一連のプロセスとしてね」
再度今までとはまた違った緊張感が勇治の全身を駆け巡る。
「アトラスにはその元となるプロトタイプが存在したとそう伝えたが、彼はそのプロトタイプから直接世界の行く末に関わる情報を得たんだ。それが言わずもがな、二人の学者が提唱する『カオス』であることは言うまでもない。そして、その『カオス』には続きがある」
一拍置いて続ける。
「かつて、君の先祖がアトラスやメダルを発見した時代よりも遥か太古の時代に起きた何らかの災害が再びこの現代において蘇ることを知ったらしい。その災害は大空震のことではなかったそうだ。もっとそれよりも遥かに大きな災厄が起こることを知り、それ以後になってアトラスを設計する事業計画を本格的に実行し始めたんだ。その災厄とは何なのかまでは君の父からは聞かせてもらえなかった。なぜだと問うと、教えると私が君に全てを伝えてしまうからだと、そう言っていたよ。そうして、いよいよアナジェネシス社が名を上げて世間に認知されるようになってきた頃、いや、厳密には、この会社が名を上げる時期が来るよりも先に、彼はその姿をくらませたんだ。アナジェネシス社という偉大な肩書きも容赦なくおざなりにして」
「………なぜですか?」
「実はこんなことを打ち明けるのにも勇気がいるのだが………ある意味において彼が人間を卒業したためだ」
「人間を卒業???」
「そうとも。もちろんヒトとしての姿を保ったまま、な」
再び身も蓋もなく奇想天外なことを打ち明けられ、勇治は面食らった。
「大丈夫だ、彼がフランケンシュタインやドラキュラになったとか、そういう類のことじゃない」
そう言って笑う。
「ただ………誰が見てもびっくりするようなものに変容したことだけは確かだ」
「………それが何なのか、社長はご存知なんでしょうか?」
「知ってはいる。だが、残念ながらそれに関しても教えるな、と固く口封じされてね。教えることはできないんだ。申し訳ない」
どうあがいても難しそうだと悟った彼はそれ以上追求することをやめた。
「話がそれたな。彼はそのある姿になったことで君に身の危険が迫ることを極度に恐れた。だから私が代任することになったんだ。仮に全てを知った君が次期社長として就任すれば、自分の影響で君に危険が降りかかる。それを防ぐために彼は私に次の社長になることを譲歩した。………何らかの情報を狙っているNEOSから君の存在をかくまう隠れ蓑として。メダルも同様だ。EDENの名が知られている頃に君に本体となるメダルの存在を教えて渡してしまえば、それをNEOSに嗅ぎ付けられないとも限らない。そんな経緯があって彼は秘密を多く抱えたまま、世間から姿を消したんだ。ただ、君には知らなければならない時期がいずれ来るということも話していた。恐らく彼は何かを君に託したがっていたんだろう。その真実を打ち明ける時期を見極めることに関しては私に任せてくれた。だから今こうして勇治君、君に話しているんだ。父が成した偉業の裏にある、事の真相を」
一気にまくしたてられて、これまでとは別の憂慮が勇治の中に浮上した。
NEOSが俺を狙う?一体何の目的で?
これまたにわかには信じがたい話だが、その時は彼はその憂慮を深く掘り下げようとはしなかった。
考えたところで意味のない心配に襲われるだけだからだ。それに社長がかくまってくれるというのなら、それは徒労に過ぎない。
「まあ、いずれ分かることだろう。それよりも今はアトラスの真意を探ることに注力を注ごう。きっと何かが見えてくるだろう」
「分かりました」
「当プロジェクトに関わる人事担当者は後日君に出向かせるように伝えてある。その時に詳細を聞くようによろしく頼むよ」
「承知致しました」
話が終わったことを受けて、勇治は期待と不安が入り混じったような気持ちを抱きながら、その場を後にした。
一人になった倉持社長が独白した。
「………彼があの存在を受け入れてくれるかどうかはまだ未知の領域のままではあるが。………そう、新たな存在となった彼『NOVA』と繋がる、もう一人の存在である人工生命体のことを」