第1章 侵入者
人々が必要としない以上、画期的な発明を認めてもらうことは容易ではない。
目の前のクライアントに対して、まともな説得性を与えられないもどかしさに内心歯ぎしりをしながら、勇治はそう感じた。
コミュニケーション円滑化を図る技術、それも人の想念の共有に基づく会話の交信装置を基盤にして、企業内のコミュニケーションにおける齟齬を完全になくそうという試みは、一見すると大きなビジネスチャンスをもたらしそうな予感もするのだが、日々の仕事、あるいは生活や暮らしにおいて「必要ない」と感じたものに関して人々が変化を求めることはほぼあり得ない、という苦い現実を痛感させられた。
苦渋の感情に飲まれている勇治に、向かい側のソファーに座るクライアントはなおも追い打ちをかけた。
「そもそも、今の社会システム自体がブルーアースという便利な通信装置の恩恵にあずかっているから、大して不便を感じないんだよね。仮に会話や意志疎通に軋轢が生じるような事態でも起こらない限り、君のところの意志交信装置、つまりEDENは今のところは必要性のなさという視点の意味で、まだ時代の追い風を感じることは難しいのかもしれない」
遠慮のない発言に悔しさが倍増していくのを感じ、これ以上相手を納得させることは不可能であることを悟った彼は、半ば煮えたぎる思いを堪えつつ作り笑顔で顧客に挨拶を交わした。
「承知致しました。貴社の意図にそぐわない技術であるとするなら、私らの側としましてもまだまだニーズに応えられるようなサービスを構築しきれていないのかもしれません。未熟な見地からこれ以上の技術解説を展開することは、私個人としてもいたたまれない気持ちがございますので、本日の商談はお見送りとさせて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」
無言で首肯するクライアントの表情に若干の遺憾が見受けられたことを、今後の活躍の期待に懸けていると勝手ながらに判断した勇治は、「かしこまりました」と短く答えた。
書類を鞄の中にそそくさと押し込み、最後に商談の要だった青く光る丸く平たいものをスーツの内ポケットに戻した後、さばさばとした振る舞いで起立して最後の挨拶を交わして会釈し、慎まやかにエントランスホールに向けて歩き出した。
何人かのビジネスマンとすれ違いながら外へと出ると、思わず独り言が漏れた。
「あーあ、時代の追い風、か。感じてみてえよ」
ビジネスバッグを揺らして歩く歩幅をやや大きくしながら、入道雲が散在する爽快な青空を見上げる。街道の並木からこぼれ落ちる木漏れ日が初夏の熱気を僅かながらに和らげてくれたような印象を受けた。この季節に付随してみなぎる仕事への熱意を発揮しようという商談前の意気込みはどこかしこへと吹き飛んでいた。あの気合いがいずこへ消えてしまった虚無感が、今というこの瞬間に何をもたらしているのか知りたくなった。今回の商談以前にすでにいくらか別の企業を相手に挑んできたとはいえ、立て続けに突き付けられた結果はこの季節に相応しくない気持ちをあらわにさせる。そんな心境を味わうことが勇治は嫌だった。季節に合った煮えたぎる思いを常に感じ取っていたい彼に追い風が吹くことは、まだまだ実現しない願いだった。
「必要性なら十分にあるのに」
大きな十字路のスクランブル交差点を斜めに横断しながら青空を仰ぎ、小さな声で一人独白する。
同じ時期に勤務している同僚たちはすでに案件受注をいくつも収めていることを鑑みれば、時代のニーズに合った事業戦略を展開していることは、既に証明されているはずだった。全世界を震撼させたとされる、彼の生後間もない時代に発生した巨大な大災害によって、人々が多大な被害を被ったことを受けて立ち上げられたこの事業に有意義な意味を付加できるとするなら、まさに人々が欲しているテクノロジーであることは明白だった。それが案件獲得に繋がらないのは自身のセールストーク、あるいはそのスキル全般に問題があるからであろうことは入社して半年が経過した勇治にも何となく想像がついた。同僚たちが成立させた案件の総合計はこれまでの年数を含め、現在四五〇社以上にも上っている。それを一度も成立させることができていないというこの結果は、どう考えても自分の能力不足としか考えようがなかった。
自身の無力さに虚しさを感じながら、ふと視線を地上に戻して前方を見やると、二十代前半くらいの年頃であろう若い女性二人が並んで歩いてくるのが見えた。会話が弾んでいるらしく、どうやら恋愛の話題に夢中なようだ。
「………それでね、私の友達が言うにはね、彼の気持ちをどうしても知りたいからブルーアース機能を使って話しかけてみたんだって。そしたら彼もまた同じ気持ちだったらしくて、その日の午後、『デートしよう』って誘われたんだって!」
「いいなあ~!私もあんな素敵な人、欲しいな~。ブルーアースはわざわざ口に出さなくても思念が言語化してそれを相手に送信してくれるからいいツールだとは思うんだけど、もっとシンプルに思念そのものを伝える手段とか、あったら是非とも欲しいよね」
「あ、その話なんだけど、最近企業間である大企業と連盟を組んでそれらしきことをしようっていう計画があるらしいよ!なんていう名前の計画だったかなあ………」
それはNOVAプロジェクトさ。
ゆっくりと遠ざかっていく二人の会話に内心教えてあげたくなるような気持ちを堪えつつ、勇治は心の中で呟いた。
まだ未知の領域であるとはいえど、十分にその可能性が開ける余地を持っている巨大な一大事業だ。もちろん、EDENを中心としたテクノロジーによって推進されていくものだ。
それを知っているのは何を隠そう、彼の務める大企業アナジェネシス社が展開しようとしている事業だからである。
この事業が成功すれば大勢の人々の間に生じていた軋轢というものがほぼ皆無になるだろう。一般市民や企業団体だけでなく政情や国際間における外交問題などにも焦点を当てた、思念の相違によるあらゆる摩擦を払拭できると想定された共同プロジェクトであり、比類なき大きな可能性を持っている。先ほどの彼女たちの会話からしてみても、やはり世間は自社のツールを必要としていることが伺えた瞬間だった。
そういえば………勇治は思った。
そんな巨大な事業の中枢部となるEDENだが、一つ気になることがあった。
まだ実現していないこのツールは、実はある意味において既に実現していると見受けられる節がある。
女性たちの会話にもあった通り、ブルーアースは思念を言語化することでそれを送信した相手に発信者の思惑や心理背景の理解に努めることを主な目的としているが、それにさらに手を加えたEDENが実現する前にたった一つだけ思念そのものを送ることができる存在が、いる。
その存在の持つ機能の仕組みを網羅した研究データは、勇治自身が保有している。そのデータの作成者は他ならぬ勇治の父、和毅だった。だから彼は知っているのだ。それと同時に想定もしている。
EDENとその存在の持つ機能はもしかすると同一のものであり、どちらか一方がこのテクノロジーの端を発しているのではないのか、と。
勇治が直に強く疑問に感じていて、一番不思議でならないことだ。
そう、つまり、その存在となるそいつは………。
普段から巡らせている考えをまるで確かめるかのように、彼はスーツの内ポケットに戻した平たいものを取り出した。
これを生み出した発案者、つまりアナジェネシス社の元代表取締役社長は全世界に大きな画期的変化をもたらした。
その異質なツールに着想を得た想像力には心から脱帽する。でも………。
真に世界に貢献するために、とこの一大企業を立ち上げた偉大な設立者が創造した、今手にしているその平たいもの―手のひらに乗るくらいの、碧色の金属製メダル―をもとに新規事業を立ち上げ、既存のプロジェクト同様に世界を瞬く間に席巻しようと計画していた、と上司から聞いたそれは、意外なほどに軽かった。既にある既存事業で大きな利益を収めていたにも関わらず、更なる生活の質の向上のためにと立ち上げられたこのNOVAプロジェクトが、たった一枚のメダルから始まったであろうなどとは、大いに感心するとはいえど未だに想像がつかなかった。せめて、設立者に事業の真意があったりするなら、それを教えてくれる機会に恵まれることはないだろうか。もしかしたら自分のアドバンテージが上がるかもしれない、などと勝手に期待してしまう勇治だった。
俺も、世界を巻き込むほどの大きな成功を収めたい。いや、できるかもしれない。
………人の思念に影響を与えることのできるこの胸部に、飛躍的な可能性をもたらす何らかの秘密が隠されているとするなら。
「我々アナジェネシス社は、世界に新たな革新をもたらすことを約束します」
不意に聞こえた馴染みのある声に、勇治は思わず顔を上げて側方に視線を移した。ウィンドウに固定された一際大きな液晶テレビのCMに映っているのは、まさかの現社長、倉持孝史代表取締役だった。眼鏡の奥から覗く、すがすがしく光る希望を見るような奥深い瞳がこちらをまっすぐに見つめている。自信溢れる面持ちで右腕を上げ、手のひらを上に向かせると、青く光るスパイラルが走り、その中からメダルが現れた。勇治が今手にしているものと同一のものだ。
静止した勇治の前で、画面上の倉持社長が雄弁に語る。
「予想だにしなかった大災害、"サイズミック・カタルシス"から二十数年が経とうとしている今、私たちは『自身にできうる最大限の変化とは何か』という問いを突き付けられました。あれからというものの、未だにその被害を被る人々の思いが報われないままでいます」
社長の手の上で回転するメダルが当時の被害光景を映し出すスクリーンに変わる。そこでは窓ガラスが跡形もなく粉砕されたビル群や、頭を抱えて目を瞑る人々の様子があった。
これが世にいう、大空震、またの名をサイズミック・カタルシスと呼ばれているものだ。まだ勇治が生まれて間もない頃に突如として発生したとされる、大気が震えて振動し、あらゆるものを破壊したというこの世界的な災厄の光景は今までにメディアで幾度となく目にしてきた。その被害総額は全世界のGDPに多大な悪影響を与えたほどだった。この災害の真相解明や起きた仕組みを解き明かそうとした何人もの見識者たちが多岐にわたる推論を行ってきたが、どれも的を射た根拠は見つからず、その発端あるいは構造は今もなお謎のままとされている。振動の影響で脳や神経系などに疾患を患った人たちの数は全世界人口の約半数以上を占めた。人類未曾有の大艱難とされたこの災害にいち早い対応を見せた我が国日本では、組織単位で人々を介抱し、適切な処置を施すと共に次なる時代を切り開く一大要素として、テクノロジーを使ったツールを社会構造と適合させた企業が現れた。「前進的な進化」を意味するアナジェネシス社という名を連ねて。
現在の倉持社長の一昔前の世代に健在していた前社長が立ち上げたこの会社が、日本をはじめ世界にもたらしたテクノロジーはそれまでの人々の暮らしを根本から覆した。この時期に設立された、国際連合よりも実質的な権力を持つ新国際機関New Earth Operation System、つまりNEOSとの共同プロジェクトで新たな社会基盤の確立に総力を注いだそのテクノロジー、「青い地球」と比喩されるそれは人同士のコミュニケーションを円滑にし、また動作や思考回路に支障をきたした人たちに活力となるエネルギーを送信することも可能にした、ある巨大な人工知能を搭載した世界的なコンピュータに接続され、人とコンピュータの関係がより密接になった。
社長が続ける。
「世界的人工知能である地球儀型コンピュータネットワーク、つまりアトラスによるブルーアースを経由した生体へのエネルギー供給だけでは現状維持のままであり、次なる社会構築の足かせとなってしまいます。胸部に埋め込まれたこのバーチャルICチップを更に効率化させるには、私たちのコミュニケーションが鍵を握っています。私たちは会話一つで自分たちの生活をもっと飛躍的に進化させることが可能になるのです。それが、このEDEN。今日『青い地球』と命名されるようになったブルーアースに新たな意味がEDENによって加えられるのです」
災害の光景から再び青いメダルに変身する。自身の手の内にあるメダル、つまりEDENを指でなぞりながら更に意気消沈する勇治。得意そうに話す倉持社長とはまるで正反対の気持ちだ。
「EDENはブルーアースに接続することによって相手の深層意識にある思考の根底にある想念を解析し、それを表層意識にフィードバックさせて、自身ですら気づかない願いや心情を顕在化することを可能にした、新たな意志交信ツールです。これによって相互に互いの本心を軋轢を生じさせることなく理解することを実現します。
深層意識を複写する部分にはあらゆる問題を解決するアルゴリズムを導入しており、更にこのプログラムは問題解決の質を改善するために自ら学習し、より洗練された処理能力に更新していきます。これらの見地から言えること、それは我々ヒトの間にすれ違いや摩擦が圧倒的に減少していくということです。それは世界レベルでの展開も可能であり、いずれ全人類がお互いの違いを乗り越えて手を取り合う日が来ることも、そう遠くはないでしょう。我々アナジェネシス社が掲げる目標、それこそがこうしたプロセスを踏まえた世界市民の平和です。我々人類は可能なのです。お互いが分かり合える日を自らの手で実現しうることを。近年、各企業団体が連協して下さってはいますが、世界平和の実現のためにはあなたの力が必要です。是非、一度参画の検討を!」
そこまで言い終えると、アナジェネシス社のシンボルと、その下に「NOVAプロジェクト」と大きな文字で表示された画面に切り替わり、そこで自社のCMが終了した。次のCMが始まる頃には歩き出していたものの、CMを見たことによる責任感やプレッシャーが手にしているメダルに集中するような感覚を受ける。
このままでいいのだろうか。いや、いいはずがない。何も契約成立から得られるインセンティブを期待している訳じゃない。勇治自身の仕事に対する熱意と会社への貢献がもたらす意気込みへの責任が、余計に重いプレッシャーを自らかけているのだ。
小さく溜め息をついた直後、スラックスのポケットが振動した。端末を取り上げて画面を見た途端、憂鬱が一気に晴れ上がった。自然と笑みがこぼれるのを微かに感じながら電話相手の名前を再度確認し、画面を上にスワイプして耳に当てる。
「真緒~!」
「もしもし、勇ちゃん?」
電話越しに聞こえてきた透明感のある甘い声が勇治を高揚させる。
「勇ちゃん?ごめんね、お仕事中なのに電話しちゃって。今、時間大丈夫?」
「平気だよ!今ちょうど商談が終わったところだよ!」
「ああ、良かった!あのね」
「おう、どうしたんだい?」
弾んだ声で話し始める真緒の表情を浮かべながら会話を聞く勇治。
「この前デートした時、午後から降ってきた土砂降りにやられなくて済んだのは、勇ちゃんが常備してくれていた傘のおかげだったよね!あの時は風邪が治ったばかりだったし、ずぶ濡れになってまたぶり返したらどうしようとか考えてたけれど、勇ちゃんが帰りの時に貸してくれて本当に助かったの!私、嬉しくって、何か思い伝えなきゃと思って。あ、もちろん、勇ちゃんのことは今でも大好きだよ!………っていうか、あの後大丈夫だった?その心配もしててね、逆に勇ちゃんが風邪引いちゃったらどうしようとか、そしたら私のせいになっちゃうとか、勇ちゃん機嫌悪くしてないかとか、色々と不安になるようなこと考えちゃって………」
「ああっ、そのこと!全然気にしていないよ!むしろ無事に帰宅できたかな、って心配してたんだ!気遣ってくれてすごく嬉しいよ!確かに寒かったというのはあるけれど、その後入浴して温まったから風邪は引いてないよ!」
「………そうだったのね!よかった!あの後、ずっと心配してたの!勇ちゃん、無理しすぎなところがあるから………」
静かに笑う勇治。
「確かに無理するところは人から見てあるかもしれないね!熱血漢と言えば聞こえはいいけど、人に心配かけちゃう部分があるのは否めないな」
ふっと笑う真緒の息遣いが聞こえた。
「でも、勇ちゃんの無理強いが今回の私はすごく助けられたから、感謝してる。ありがとう!次回のデートは傘ちゃんと返すからね!」
「そうか!分かった!次の約束もできたことだし、怪我の功名ってやつかな」
「あはは、勇ちゃん博識だね!」
「………それで、次はいつ頃の予定が望ましいかな?俺はどうしても平日は難しいところがあって互いの日程調整が合わせづらくて申し訳ないんだけど………」
「ええと、ちょっと待ってね。今、日記帳出すから」
電話の向こうからカサカサと何かを取り出すような音がし、紙がかさばる音にかき消される。数秒ののち、「もしもし」と応答を確かめてくる。
「今日は金曜日でしょ?明後日と来週の土曜日は一日中空いているよ!」
「そっか!ちょうど明後日は俺も休みなんだ!そうしたら明後日にしよう!と………そういえば、明後日ってなんか、何かがあったような………」
「うん?」
若干の不安な色を隠せない真緒の声音に「ああ、仕事のことじゃない」と念を押す。
「何か、真緒のことで大切な何かがあったような………そうだ!」
大きな声に歩行者が振り向いたことにも気づかず勇治は思わず上を向く。
「受賞日!受賞日だよ!すっかり忘れてた!」
「受賞日?え、何のこと?」
戸惑いつつも笑みを含んだ声が返ってくるのを確かめ、教え諭す。
「真緒、いつも絵を描くじゃん?その絵が大きなコンテストで大賞を受賞したこと、あったじゃん?その表彰日が明後日なの、俺、今でも覚えているよ!その日を記念日にしようかとずっと思っててさ。俺の似顔絵も描いてくれたほどだし」
「………え、そうなの?確かに受賞日は明後日の日だったけど、そんな昔のこと微塵も考えてなかった………。そんなこと、気にしなくてもいいのに」
クスッと笑う真緒。記憶の片隅から考えていたことを引っ張り出した勇治が得意がる。
「いや、明後日は絶対に素敵な一日にしよう!お昼も高級ないいもの頼んでさ、夜はシャンパンとか飲もうよ」
「そんなに大したことじゃないよ?………でも、うん、私としてはすっごく嬉しいから、それじゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな。ふふふ、楽しみ」
「任せときなって!デートスポットの候補は仕事が終わったら、俺から挙げておくからさ!」
さっきまで沈んでいた気持ちが嘘のように軽くなっていくのを感じ取りつつ、「うん!よろしくね!」と返事した真緒の声に一気に高揚していく自分に、新たな可能性を感じ取ったような気がした。
「それじゃあ、また後でね!」
通話を終えた後には勇治の気持ちは完全に切り替わっていた。愛する恋人のおかげだ。この子のためならどんなに身を粉にしてもいくらでも立ち向かえる。そこに真緒への深い愛情が宿っているとするなら。
勇治は足早に駅に向かって歩き出した。
………帰社した時に社長の口から仰天する言葉、それも彼の人生を揺るがすような言葉が出てくるとは夢にも思わずに。
俺はあの学者さんの言うことは絶対に信じる。
隼人が事あるごとに口にするこの言葉はもはや彼の癖だな。
章介はあくびをしながらそう思った。
せっかくの休日だからと、午後もベッドにうずもれていたかったのに。彼の急な用事に振り回されても、眠気はどうやら消えそうにない。インターン生だから仕方がないといえばそれまでなのだが、それでも用があるならせめて前日までには連絡が欲しいものだ。社会人になるのならそれくらいの認識はあってもいいはずだ。二十一歳にもなればそろそろ学生気取りはお預けにしてもいいはず。とはいえ、約束は約束だ。とろけている頭を無理やりたたき起こす必要がある。
「しょうがねえな、もう」
半開きになった窓からうだるような熱気が入ってくるのを感じ取りつつ、章介は半身を起こした。寝ぼけまなこで壁にかかった時計を見やると、正午を回っていた。約束の集合時間は午後一時だ。早めに支度しなければならない。
鍛え上げられた上半身がベッドの外へ向くと、向かい側の壁に貼り付けられたコルクボードに目がいった。そこには章介の恋人と遊んだ時の写真が無造作にいくつも貼られている。それを目にした途端、大事なことがあることを忘れていたのを思い出した。
彼女の一人息子、亮次くんのことだ。
そういえば、今日のお迎えは俺が担当するんだった。
どうやらそれは成し遂げられそうにない。
とんだ約束をしてしまったものだ。
………でも、まあ、交際してからというものの、同じシングルマザーとしての立場を持つママ友たちの結束力は並外れた強さを持っていることは知っている。
最近の彼女たちは子供の幼稚園の話で盛り上がっていることからして、今回カフェで展開される女子トークもきっとそれ類いの話に違いない。だからといって必ずしもお迎えの役を交代してくれることを了承してくれる訳ではないだろうが、子供たちに関心が向いている以上、ママ友みんなでお出迎え、という展開もありなような気がする。
………もちろん、自分のこの考えが彼女たちにとって理にかなっているはずもないことは百も承知だが。
だがそれでも、伝えれば分かってはくれるはずだ。
コルクボードの下にある低めのテーブルに放置してあった端末機器を立ち上げてあるアプリを起動すると、電話が自動的に相手へとコールを始めた。
ここのところ仕事漬けで亮次くんと美玲の顔があまり見れていないのは少し寂しい気もするが、全く会えなくなった訳じゃない。元夫のDVが残した心の傷跡はもう十分癒されたと俺自身が見る限りでは、子供にも愛情が向くようになっただろうし、親子同士の安心感もかなり確立されるようになった。俺がいない一人の時でも十分やっていけているはずだ。
「もしもし、章介?」
端末と接続されている胸部のブルーアースが振動して美玲の透明な声があたりに響き渡った。
「おうともよ、元気か?ここのところ会えていなくてごめんな」
「大丈夫よ。心配しないで」
いつも控え目だが若干の親しみを込めて返してくれる美玲の声に、今日も奥深い愛情を感じながら章介が言う。
「亮次くんのお出迎えなんだけどな、今日は急用が入ってどうやら行けない日程になってしまったんだ。隼人のインターンシップの兼ね合いで彼からいきなり連絡が入ってさ、新横浜まで行かなきゃならないんだ。悪いんだがどうかあの子の帰りを見送りに行ってやってくれないか?あ、まあ特に大事な用事がなければ、で構わないんだが」
半ば気まずそうに話す章介をなだめるようにして美玲が快く了承する。
「いいわよ、もちろん。そういうことなら。ちょうど亮次にも幼稚園のことで聞きたかったことがあるのよ。帰りは夕方以降なんでしょ?隼人くんと一緒に楽しんでおいでね」
「それは良かった!まあ、俺自身は送迎のついでに施設を見学する程度なんだけどな。まあ、楽しんでくるよ。亮次くんにもよろしく言っておいてな。それから………照れくさくはあるが………いつも愛してるぞ、美玲」
「ふふ、ありがとう」
細やかな短い会話を終えた後、章介は胸部に浮かんだバーチャル状の青く丸いアイコンを押して電源を切った。
数分後に支度をして外に出ようと玄関の前まで行くと、ちょうどインターホンが鳴った。
「準備できてる?」
せっかちな彼の大きな声音が響く。急ぎめに靴を履いてドアを開けると、軽めのリュックサックを背負ったスーツ姿の明るい雰囲気の青年が待っていた。いつもの天然パーマも今日ばかりは真っ直ぐにセットしてきている。
「おいおい、ここはアパートだぜ?もう少し低い声で呼べよ。近所迷惑になっちゃうだろう?」
「ごめんごめん、まだ寝てるのかと思ってさ!章介、休日はいつも寝てばかりだからさ」
「ここのところ仕事漬けなんだよ。しょうがないだろう?そもそも、大事な連絡は早めにするもんだぜ。お前、たまたま俺が休みをとっておいた今日に連絡をよこして、本当にラッキーだよ」
「そうか、ごめんごめん」
「………謝れば済むと思ってるだろ、こんにゃろ」
苦笑いをしながら側頭部に握り締めた拳をぐりぐりとゆっくりねじ込む章介にニヤニヤする隼人。
「車のカギは持った?」
「おっと済まねえ、忘れてた」
玄関の横に位置する棚に置いてある箱から取り出し、外に出る。
施錠をして二人で駐車場へと向かう。
「ところで、今日は例の学者の講演会が当施設で聞けると言っていたが、一体どんな話が聞けるんだ?」
「ガルトニックさんのこと?今日はもう一人の学者さんが来演しに来るって言われててさ、地質学を研究しているコルドビック・フェビニュディンスって方なんだけど、彼の話も聞けるからさ、すげえ楽しみなんだわ」
「………講演の内容を聞きたいんだって」
車に乗り込んでエンジンをかけながらふっと笑う章介。
「ああ、物理学者ガルトニックさんのことを言うなら、彼ら二人が提唱している世界的な危機が起こりうる構造、あるいはその仕組みを教えてくれるんだそうな」
「世界的な危機………巷のニュースで上がっている『激動カオス』ってやつか?」
「そうだよ!最も、最近のニュースは平易な解釈でNEOSの立場に偏重した見解を吹聴して、世論操作する節が大きいけれどね」
「………その、カオスってどんなやつだったかな?」
「そう、それ!そこなんだけどさ!」
しまった。隼人の爆走トークスイッチに点火しちまったぜ。
運転を始めながらも思わず顔を手で叩く章介には気づかず、隼人が一気にまくし立てる。
「現在、世界を席巻しているネットワークコンピュータ、アトラスがデータ集積に過度なエネルギーを使い過ぎて、いずれ誤作動を起こして暴走する、っていう内容でいかにも俗っぽい印象を世間に与えてるのが、というよりメディアが流してる主な概要なんだけどね、それには続きがあって………」
まあ、いいさ。好きにしゃべらせておこう。俺には関係ない話だしな。
そう思いながら半ば聞き流す形で曖昧に相づちを打っていると、しばらくして聞き逃せない言葉が耳に入ってきた。
「………場合によっては全ての人類は互いの絆を失うことになるかもしれない、と」
互いの絆を失う、だと?それはつまり俺に関することで言うならば、愛する人との絆を失うということになるのだろうか?
自身にとって最愛の人、生田美玲との愛情を。
思わず聞き返す。
「………それはつまりどういう意味だ?」
「章介、半分聞き流してたでしょ?だからその人たちが言いたいのはつまり………」
その学者たちが鳴らしている警鐘、その実情を聞いて章介は思わず低くうめいた。
「その二人はかの有名な一大企業の社長とも関係が深いらしくてね、その社長の前に就任していた前代表取締役がいつも口にしていたみたいなんだ。『激動は来る。必ず』ってね」
衝撃に貫かれた章介の変化に隼人は気づいたようだった。
「だから俺はいつも言っているんだ。『あの学者さんの言うことは絶対に信じる』ってね」
そういうことなのか。
とすれば、この世界は………その行く末は………。
章介はその先を考えないようにした。
暗がりの一室。ディスクが挿入されたハードウェアがいくつも層状になって屹立した巨大なデータバンクが管理されたこのセキュリティ会社には、人気が見当たらなかった。それもそのはず、ディスクに書き込まれる世界中の市民の生活行動を統計化したデータは全て人工知能が担っているからだ。大きな部屋の中心に宙に浮いた球状の青いコンピュータがゆっくりと回転しながら、日々更新されるそれらの膨大なデータをその周りに環状に並ぶハードウェアの高い棚に転送していく過程が来る日も来る日も繰り返し行われていた。データを運ぶ各接続端子が絶えず青く点滅している光景が至るところで見受けられるこの一室では、全てコンピュータによる制御が行われることを前提として人が立ち入る余地は皆無であるように思われた。
………少なくとも、これまでの日常の経緯においては。
この会社が管轄する情報の提供先がNEOS―New Earth Operation System………日本国内では「新地球構想システム」と称される新国際機関の名称であり、国連よりも本質的な実権を握っている、新たな世界の到来を計画した国際プロジェクトの名だった―であることもあり、ハードウェアが並べられた棚のバックヤードには「NEOS」と刻まれた名札が張り付けられている。
その下を流れる、ガラス張りの床の下部からもろに見える無数の配電盤の一つから一瞬、パルスが迸った。一回、二回、三回と続いていくにつれ、そこに集められる青い光点の数が徐々に増していき、その規模が大きくなっていく。かと思えば一旦パルスが止んだ。だがその次の瞬間にはパルスは青く大きな電磁気の塊として発達しながら一気に膨れ上がっていき、球状に拡大しながら床の向こうへと押し上げられていく。それは床を透過すると三次元空間を歪曲させてぼやかせ、二メートルほどの球体で構成された透明の膜へと成長した。その内部で配電盤を流れるデータと同じく青く光る、いくつもの角張ったバーチャル素子がまるで見えない線をなぞるかのようにうねりながら、互いに合体を繰り返していく。
迎合していくその構造体がやがて大きな人型の存在に変化するまで長い時間はかからなかった。ただし、そのうずくまった人の存在の頭部は大きな角が生え、その顔つきも一般の人間のそれとは似て非なるものだった。
ついに再生を終えたその存在が顔を上げると周りにある膜は瞬時に消滅した。それはゆっくりと立ち上がると、ひしゃげた脚を音を立てて前へ前へと歩を進めていく。
全身が青紫色に光り、体の節々から煙のようなオーラを放つ、トカゲの頭に似たこの生命体は、赤い邪眼の中央に位置する夜行性の瞳に映る先にあるものを捉えた。
それは球状の碧色コンピュータ、アトラスだった。