第64話
「ある意味、悪運に恵まれてますのね、貴方」
呆れ果てた声に、瞼を押し上げた。
夢でセツやギンカと会っていたような、暗く何もない空間。
そこに自分の――ニクスと呼ばれていた顔をもっと大人にしたような顔立ちの美しい女性が腕を組んで自分を見据えていた。
紫色の瞳が、感じ入るように瞼の下に隠される。
「いえ、単に目の前のことに素直で単純だからでしょうか」
「なんのことかわかりませんが、単純なのは認めます。欲望には正直です」
「なにを開き直っているのですか。何度も巡っても私が成せなかったことを、貴方は簡単……とは言いませんが、あらゆる事象をすり抜けて成したというのに……心底貴方が理解できませんわ」
言っている意味は理解できても、その発言に至った状況が理解できず首を傾ける。
「自覚なくというのも、本当に理解の範疇を超えていますわね」
「……世の中、理解できないことは多いですが、そういうものとして受け入れ、在ろうとすれば、それなりに寛大になると思ってます」
「そういう話をしているわけではありませんの。なんです、このぽやぽや頭は」
とまらない罵倒に困った笑みをさらに深めて、左の二の腕を握った。
「事情をお聞きしたほうがいいのですかね……?」
「今更ですわ」
ぴしゃりと跳ね除けられて、ですよね、と頷く。
彼女の紫色の瞳が剣呑に細まった。
ええ、と胸の中でこぼしながら愛想笑う。
「……今更でも知っていたほうがいいなら、よろしければ事情説明を、お願い……いたし、ます……?」
なんで疑問形なんですの。
そんな言葉が聞こえてきそうな視線から目をそらす。
しばしして、彼女は深々と息を吐き出した。
「事の始まりは、あの女――エレノア=イステールの存在ですわ」
「……、…………、……だれ……?」
「アルフレッド第二王子の横に居た女狐よ」
「…………第二王子……あぁ、あれ頭から紅茶ぶっかけやがった人だったんだ」
「そこからですの!?」
怒りにもにた突っ込みに視線を上方へ逸らす。
第二王子と婚約したとか言われたことは覚えてるけれども、あんなことがあってもまだ婚約関係が続いているかと言われると、そういう認識には乏しかった。
だが、あちらの"現代"での常識がこちらの"現代"で通じる道理がないことくらい、少し考えればわかること。
「言い訳をするならば、興味もなく初対面で罵倒と暴力しかない人間の顔を覚える労力がもったいなかったといいますか」
「もういいわよ……」
呆れられた。興味なかったのは本当だけど、あったとしても、そんなクソガキというには性根の腐りすぎた真っ赤な他人の子どもと良好な関係を気づきたいと努力できる人ではないのだ私は。
そこは人選ミスだと主張したい所存、まる。
「とりあえずその……なんとかさん」
「エレノア=イステール」
「エクレアさん。初対面なのに"アンジェリカ"って言い当てた人ですか」
「エレノアね。貴方にとっては初対面ですが、彼女にとってはそうではありませんから」
意味わかんなーい。
果たしてこれを理解できるのだろうか、という疑問をもちつつも、黙って彼女の説明に耳を傾ける。
「女狐曰く、ここは”おとめげーむ”の世界で、"しなりお"通りに動かなければならないと……私が言ったのではありません。そんな異次元生物を見る目は女狐に向けてくださる? 私はただ、回帰する中で聞いたことですもの」
「あー……あれですよね。その女狐さんがヒロインで、私、というかアンジェリカが悪役令嬢で、侍らせてたのが攻略対象ってやつで。ヒロインが攻略対象を口説き落として侍らせて、いじめてくる悪役令嬢を断罪するざまあ恋愛物語」
「…………随分と、理解が早いようで」
「魂の出所が一緒なのかね? まあ、私は乙ゲーはしなかったから仮に乙ゲーと似たような世界だと言われてもシナリオなんて知らんけど」
へー。そういうあれなんだ。へ――――。
「回帰、ということは、あなたは同じ時間と似た事象を繰り返してて、最終的にああやって断罪され続けて……魔王化を繰り返してた。条件はわからないけど、ループの記憶はヒロインだけじゃなく貴方も持ってて、抵抗し続けたけど今回みたいな結果に落ち着いたと。……ん? でも、あなたの言い方からすると、私は魔王化しかけただけで魔王化はしてない……?」
「貴方の魂の出所は一体どんな場所ですの。なんであれだけでそこまで通じますの。こちらとしては説明が省けて楽なのですが」
「娯楽を通してある程度の共通認識ができていた世界ですね。それで、これから私にどうしろとおっしゃるので?」
「なにかできるとお思い?」
「変哲のない一般人なので、そんなことは露とも思っていません」
きっぱりと断言すれば、疲れたように本物のアンジェリカが息を吐き出した。
あれ、違うのか。でも特別できるようなことなにもないはずだが。
「さっさと三途の川を渡って還れってことではないんです?」
「存じませんわ。私はただ……、……アンジェリカの体が魔王にならなかったのならば、ようやく肩の荷が降ろせるのでそれを労いに来ただけですもの」
つん、と本物のアンジェリカはそっぽを向いた。
「なるほど。お疲れ様でした」
「な、なぜ貴方が頭を下げますの!?」
深々と下げた頭を上げて、首を傾ける。
「頑張った人に敬意を表しているだけですが」
「調子が狂いますわね……。……そうであるから、この結果なのでしょうね」
本物のアンジェリカは、つきものが落ちたような柔らかな顔で微笑んだ。
「私は」
彼女がなにかを言いかけたとき、不意に視界が黒く塗りつぶされた。
暗転した視界が、突如として白飛びした。
ちかちかする目を押さえて、喉の奥で唸る。
「まさかこうしてあんたと見えなければならない日が来るとは思わなかったわ」
偉そうな声音が耳朶を打つ。
緩慢に指の力を抜いた。
薄目を開ければ、探すまでもなく目の前に声の主がいた。
冷めた桃色の瞳。腰に手を当ててふんぞり帰っている幼女。顔貌は整っているが、可愛らしい背丈ゆえに、その威厳は半減している。
「まあいいわ。あんた、私の子になりなさい」
「……………………養子、とうい意味で間違いないです?」
「誰がそんなこと言ったかしら」
頭頂部近くで、ふたつに分けて結ばれた髪が怒る彼女の動きに合わせて揺れる。
かわいいなあと、少女を眺めながら、しきりに首を捻った。
自分の子、というのが養子以外になにがある?
選択肢のひとつも思い浮かばない。
「よくわかりませんが、それをすることによってあなたにどんな利点があるのです?」
「それはあんたが知る必要のないことね」
嘲笑するかのような笑みに、心の中で声を立てて笑いながら顔に仮面を貼り付けた。
この人、詐欺師か。
死んだ後に詐欺に遭うのは、珍妙すぎる体験。
だが、首を突っ込めば余計に面倒なことになることは必定。関わらないに限る。
「お声かけは大変有り難く思いますが、私はまだ独り身を堪能していたので今回は辞退させていただきたく存じます」
「はあ? なに馬鹿なこと言ってんの。あなたの意見は必要ないわ」
詐欺どころではなくもっとやばい話だった。
まじか、どうしよう。どうやったら逃げおおせるかな。
そもそもどうやってここに来たんですかね?
「そんなことをおっしゃられましても、不肖の身ゆえにどこの誰とも存じ上げない貴方様にご迷惑をおかけするのは本意ではありませんので……」
首を縦に振ってくれないかと念じながら下に出て懇願する。
しかし、そんな願いは虚しく彼女の言葉に敗れ去った。
「しらを切るのも大概にして。知っているのよ、あなたがあのうつけに目を掛けられていること。聞いていたからこそ、整えた舞台から逃げ隠れしていたのでしょう!?」
怒りの形相で、少女が食いかかってきた。
なにをそんなにお怒りなんですかね? ほんとうにまったくひとつも理解できないのですが、どうしろと!?
「ええっと……ここが前にいた世界の娯楽のひとつである遊戯の世界と類似した場所であることはついさっき初めて知ったので、意図してなにかしようと思った訳ではないです、はい」
「だからそんな嘘を……、…………え、どういうこと? 何も知らないの? 知らない子を利用して世界の奪還を企んでいた? まさか、だって、そうでなければなぜわざわざあの世界であなたに目を付けたというの?」
唐突に彼女の態度が変わった。
三度、目を瞬いて首を傾ける。
はらりと落ちて視界を覆った黒い髪を横に払った。
「あり得ないわ。でなければ、恨みを持たせて利用してまでなぜあなたに《《とどめを刺した》》と、っ――」
「うん?」
口元を押さえた彼女をじっと見つめた。
とどめを刺した。ということは、確実に殺すために、息の根を止めた。殺された。いや確かに殺されましたけども。
面倒だなと思いつつへらへらしていた心情が一気に冷めた。
「へーへーへー。ふ――――ん。瀕死の所をわざわざまた轢かれて殺されたから、随分と運の悪い死に方だなって思ってたけど、そんな理由で殺されたんですねえ。へぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ?」
「いや、あの……っ、恨むならあのうつけと相性が良かったことを恨むのね!」
「ではさっきの話はなしでお願いします。さっさと今度こそ消してみればいかがです? あなたの望みは見事に邪魔して成り立たなくさせたみたいですし?」
煽ってるな、と片隅で冷静な思考が自分の言動に呆れかえるが、内容が内容だ。感情を宥める理由がない。
「なんですって?」
「うつけという人がどこの誰かさえ存じ上げないほどの無知な小娘一人に計画を台無しにされて御愁傷様ですね。さぞかしご立派で高尚な計画だったのでしょう。心中お察しいたします」
貼り付けた笑顔で軽やかな同情を示し頭を下げる。
「こ、この……っ、こんな、あんたみたいな可愛くない性悪、こっちから願い下げよ!!」
「真っ直ぐに褒められるのは照れくさいですね」
「褒めてないわよ!! そこまで言うならお望み通り魂ごと消してやるわ」
少女の手がかざされた。
なにかに縛られたように体が硬直し、喉の奥が塞がる。
はく、と唇を動かせど空気を吸うことも吐くこともできず、胸を押しつぶすような苦しみがじわじわと広がる。
喉を掻いて抗うこともできず、ただ受け入れるしかない苦しみがなによりも恐ろしい。
「あははははははは! 自分の子を一人も守れないまま隠居すればいいわ、アーヌイ!」
高笑いをする彼女の頭に、白いなにかが飛来した。
がん、と小気味の良い音を立てて頭部を殴打された少女が勢いのまま横に倒れ込む。
「かはっ」
束縛がとけ、むせ込みながら空気を貪る。
咄嗟に喉元を両手で覆った。咳き込みながら、右手だけ手を離し目の前に掲げる。
まるで陶器のようにひび割れ、どこか質感のあった肌が透けている。
消滅。
その言葉が脳裏をよぎった。
恐怖か、それともなにも残さず消えられる事への喜びか。
よく分からない心境に壊れたような笑いを零した。
「あとでちゃんと説明するから、魂が安定するまでお休み、師匠」
とん、と背中になにかが触れた。




