第63話
「アンジェリカ=オルヴェータ! 貴様に婚約の破棄を言い渡す!!」
注目を集めるためにパーティーに参加したカルロについて見事に人見知りを発揮していたアンジェリカは、会場に響いた声に口角を下げた。
(婚約者がおったんかーい)
少し前に、昔の知り合いだと教えられた“アンジェリカ”が、言葉を失ったように立ち尽くしている。
話せない不用品だから自分は捨てられた。
けれど、“アンジェリカ=オルヴェータ”は必要だったから、別人を代役に立てたってとこだろうか。
無理を言って仕立ててもらったドレスの裾をひらひらと揺らして、そっと嘆息する。
おかしいな。一旦国外脱出して見せた剣聖さんが、こっそり密入国して実働隊と合流して襲撃の手筈を整えている間、警備の警戒の意識をこちらに向ける、という話だったと思うのだが。
なぜ、"アンジェリカ"がその役を担うことになっているのだろうか。
「わ、わたくしは」
自信なさげな“アンジェリカ”は、一喝を受けて体を縮こまらせた。
(うーん……騙りたくて騙ってるならもう少し横暴さがあってもいいと思うけど)
偽物が婚約破棄されている場面を本物が眺めるという、いまいち理解に苦しむ状況でありながら、アンジェリカは冷静に思考を巡らせる。
(でも目下の問題は彼女よりもカルロか)
ちらりも隣を見上げて、ぱっと顔を俯かせる。
怒ってた。めっちゃ怒ってた。
偽物だってバレた? いや、それならもっと反応を示さないはず。
だからきっと、“アンジュ”は“アンジェリカ”であると知っているからこそ、今の状況が許せないのだろう。
しばらくことの成り行きを見守っていると、“アンジェリカ”は可哀想なほどに弾劾される。
なにかを言いかけて、喉を抑える仕草が見えた。
泣きそうに顔が歪む。ひそひそと囁く声に、“アンジェリカ”は首を横に振った。
喉元を押さえる彼女になるほど、と静かに頷く。
(契約魔法で、私のように縛られたのか)
主張したくても言えなくて。
都合のいいように扱われて、要らなくならったら捨てられる。
私がそうだったように、今度は彼女が捨てられる。言い訳することも何もできず、心を折られて疲れ果てて、最悪失意のままに殺されるのだろう。
現実は理解の範疇を超えているが、確実に言えることがあるとするならば。
(……思惑通りになるのは、なんか腹立つな)
恐ろしさはある。
人の視線が集まるのも大っ嫌いだ。
でも、見捨てて、身の安全を図った時の罪悪感に勝てるほどの図太さもなく、恐怖に打ち勝てるほどの勇気もなく。
自分の浅ましさが疎ましい。
分かっている。
「ニクス、悪い。ちょっとここで待ってろ」
前に出たカルロの手を掴んだ。
振り返った彼が申し訳なさそうに眉を下げる。
「悪い。古い、知り合いなんだ」
うん、知ってる。だから行って欲しくなかった。
ただでさえ今でも気に掛けているカルロだ。ばれてしまったら、ことさら気に病むに決まっている。
(心の整理はほどほどとはいえ、それでも……うん。楽しかったんだよ)
だからこそ、それを自覚したからこそ余計に、カルロにはあそこに行ってほしくない。
手を離して紙の端を小さく破った。
「少しだけ、待っててくれ」
『ごめんなさい、カルロ』
「どうした?」
訝しむカルロに、小さく手招きをした。
体をかがめた彼の頭を右手で撫でる。
感謝と、別れの意味を込めて。
走馬灯のように脳裏をかける在りし日の思い出が懐かしくて眩しくて。
カルロが目を見開いて硬直した。
それが少しばかりおかしい。声が出たならば、笑いが零れていたに違いない。
頭を撫でていた手をゆっくりと滑らせて、彼の頬を撫でた。
行かなきゃいけない。後悔しない終わりであるために。
楽しいだけではなく苦いも酸いもある思い出だけれど。その思い出だけで頑張れる。
思い出は、本当に勇気になるのだと初めて知った。漫画の世界だけかと思っていたが、案外そうでもないらしい。
下げていた左手を伸ばして、カルロの両頬を包み込んだ。
つま先を伸ばして彼の額に唇を寄せる。
(カルロの未来が幸せなものでありますように)
茫然とするカルロから離れて背を向けた。
ととと、と数歩前進し、ふと思い出したように足を止めた。
肩越しに振り返りぱたぱたと小さく手を振る。
「……っ、待て!」
叫ぶカルロの声を振り切って、アンジェリカは人混みに飛び込んだ。
飾り気のないドレスと小柄であることを有効に活用して、するすると前に躍り出る。
ざわりと、それまでとは違ったざわめきが広がった。
いつの間にか彼女を庇うように立っていた壮年の男性がいる。
振り向いた彼と、視線が合った。
深い緑色の瞳が見開かれる。
(うっわ、なんか変な人)
固まる壮年男性から視線を外し、“アンジェリカ”の前に立った。彼女の手をとって破った紙を押し付ける。
「これは……?」
訝しげに視線を落とした彼女が瞠目した。
『今まで大変よくできました』
まさか、と唇が動く。
「何者だ」
「殿下、その娘です」
婚約者がいる男を落とした女が、怯えたように告げる。
はっと肩越しに顧みて、背を伸ばして"アンジェリカ"の耳を塞いだ。
視界の端で、カルロが人混みをかき分けて前に出る。
「ニクス、一体なにを考えて」
「あの子が神託で見た魔王です! あの子こそが、アンジェリカ=オルヴェータです!!」
近づこうとしていたカルロの歩みが緩んで、やがて止まった。
「は……?」
不思議そうな顔をする“アンジェリカ”に小さく微笑んだ。
彼女の手をとって耳を塞がせ、彼女の体を押した。
騙らされたのなら、偽物と指摘を受けることは彼女の命に関わりかねない。直接的な指摘でなくとも契約内容を知らないからこそ、慎重になる必要がある。
だからどうか、耳を塞いだ手を離さないで欲しい。
そして、笑えもしない茶番劇を繰り広げる若者たちを振り返った。
先程まで彼らと張り合っていた壮年男性が、なんとも言えない表情で沈黙を貫いている。
注目を浴びて逸る鼓動を押さえるようにぐっと唇を噛みしめた。
無表情で、アンジェリカは文字通り叩き込まれたカーテシーをとる。
「ニクスが、アンジュ……?」
呆然とした呟きを聞き留めた直後、左腕から駆け上がった熱が心臓を灼いた。
そこからさらに広がる熱は肺に広がり、呼吸を詰まらせる。
詰めたものを吐き出すように、けほりと咳き込んだ。
咄嗟に覆った指の隙間から朱色の霧が舞う。
「な!?」
「ひっ」
二度、三度と咳き込んだ拍子に、溢れ出た血がぱたぱたと床を濡らす。
「な、なんだ、こいつ病気持ちか!?」
その声は、場内に広く響いた。
後方の、状況を把握仕切れない者たちが、見ていてもその声に不安を抱いたものたちが、薄気味悪いと囁きあいながら立ち去る音がする。
代わりに近づく足音を聞きながら、アンジェリカは唇を歪めた。
鍵は、アンジェリカではなく"アンジュ"、あるいはその両方か。それもそうだよな。"アンジェリカ"単体が契約魔法発動の鍵ならばとおの昔に命を落としている。
焼けつくほどに熱い喉を握りしめて僅かに顔を上げた。
動揺した様子の彼らを視線だけ動かして睨みつける。
悲鳴が各所から上がった。
怯えて半狂乱に陥り、なにかを叫ぶ男の声が遠い。
横に侍らせていた女を生け贄にするかのように突き飛ばし、男が走り去る。
実に滑稽な姿だ。
人の自由を奪い、名を騙らせて、不要になったら使い捨てるようなやつらの思惑をある程度崩すことはできたのだろう。
――だが、まだ足りない。
わざわざ代役を立ててまで"アンジェリカ"にこだわったのかは知らないが、どうしたら更にその思惑を超えて弄ぶことができるだろうか。
「ニクス!!」
壁一枚隔てているように音が遠いなか、懐かしい声が頭に響いた。
静かに負の階段を下っていた思考が切り離される。
振り返るのと、喧騒をかき分けてリクハが飛び出してくるのは同時。
髪も服もぼろぼろで、けれども光を失っていない橙色の瞳が、真っ直ぐに自分を捉えた。
「ダメなのだ! セツもギンカも、ここにいるからダメなのだ!!」
久方ぶりに聞く名に、近づこうとして、目の前が白く霞んだ。
息苦しさとともに意識が遠のいていく。
「ニクス!」
視界がぐるりと回った。
抱えられているのだろうか。きらびやかな天井が広がる視界に、焦る二人の顔が映る。
切迫する悲鳴のような呼び声に、申し訳なさが募る。
「ニクス、見えるのだ!? ちゃんと取り戻して来たから、だから、だから……っ!」
カゲツの腕輪に並んで、左腕に嵌められた腕輪。
蛇を模った輪に、亀甲が揺れる。
おおひめ、と耳の奥でふたつの声が聞こえた。
知らない声だ。でも、誰のものか容易に想像がつく。
目を開けられていなくて、ゆっくりと瞼を下ろした。
諦念と呆れとささやかな恨みと怒りを塗りつぶした喜びに心を震わせて。
「これは何かの間違いよ! そんなシナリオ、どこにもなかったのに!!」
名を呼ぶ二人の声に勝る甲高い声が耳の奥に反芻するのを最後に、ふつりと、意識は途切れた。




