第61話
水鏡の世界から繋がっていたのは、あの洞窟内部だった。
飛び降りたはずが、飛び出すような形で渦から出た。体にかかる急激な重力変化についていけなくて、アンジェリカは添えるようにカルロの肩に置いていた手を首に回してしがみついた。
「ぐっ」
呻き声に組んだ腕を解いて服を掴み直す。
着地した軽い衝撃がカルロの体を通して伝わる。
それでも、本能的に理解できないことに対する恐怖心がいまだ拭えず、抱きついたまま離れない。
「大丈夫か?」
(まだむり)
首を小さく横に振って、ゆっくりと息を吐き出した。
現象が理解できない。体もだが頭も追いつかない。
驚きと恐怖にざっくりと精神を削られて、アンジェリカはめそめそと泣く。
(意味がわかんないから、摩訶不思議現象で許されるにしても限度ってものがあると思うのよ)
とんとん、と背中を叩かれる。
地面を踏み締める音がした。静寂に、砂利が擦れる音だけが響く。
肩に押し当てていた目元を僅かに上げて、アンジェリカは頬を置き直した。
期待をすればするほど、そうでなかったときの落胆は大きいものだ。
だから、あえて最悪の現実を思考する。
(…………自分に追い打ちかけただけの悲しい現実……)
傷心に打ちひしがれながら、視線だけ動かしてカルロを見上げた。
いつにも増して口数が少ない。否、ないといっても過言ではないくらい静かだ。
その異様な空気が居心地悪く、彼の意識に引っかからないよう息を殺す。
最寄りのギルドに寄ったカルロは、今までどこに行っていたという詰問を物の見事に受け流し、剣聖のいる国へと一目散に向かう。
抱えられているので、カルロと比較したら体力面での負担はない。だが、つつけばなにかが壊れそうな雰囲気を醸し出す彼のそばで気を張り続けるという、精神面での負担がやがて限界を迎える。
ぷっつんと切れそうになるなにかを頑丈に結び直し、あともう少しと自分に何度も言い聞かせ続けて、どれほどの時間が経っただろうか。
ようやく辿り着いた宿で降ろされたアンジェリカは、そのままその場にへたり込んだ。
「ニクス!? どうした、気分が悪いのか?」
焦った様子のカルロに、アンジェリカはゆるりと首を横に振った。
ある程度図太い神経を持っていたと思ったのだが、あの空気は到底寝られなかった。眠気はあるのだが異様に目が冴えて、瞼は重くても寝入ることができなかったのだ。
立って歩くのも億劫なほど体が重く、両手と両膝をついてぺたぺたと床を這う。
リクハとカゲツが気になるのはそうなのだが、どうにも、もう、意欲も気力も沸かない。
「……悪い。気がせくばかりで、お前のこと考えてやれてなかったな」
小脇に抱えられるようにして持ち上げられ、抱え直されながらベッドに運ばれる。
例に漏れず柔らかなベッドの感触が全身を包み込む。ずるずるとベッドの上を這い、滑り堕ちるようにして床に降りた。
物言いたげな視線をしているであろうカルロには気づかないふりをして、鞄から筆記具を取り出した。
『休んでいるので、構わず剣聖さんとの用事を済ませてきてください』
腕だけ伸ばしてベッドの上に紙を置き、二枚の掛け布を取り出した。ひとつは枕用に丁寧に折りたたんで丸めて、もう一つは頭から被る。
そのまま横たわり四肢を投げ出したアンジェリカの耳に、衣擦れが聞こえた。
掛け布ごしに、頭に僅かな重みがのる。
掛け布の端からそっと顔を覗かせて、傍らに座るカルロを見上げた。
「気にせず休め。俺も少し寝るから」
そう言って、頭にのせていた手を離し、カルロは静かに瞑目した。
壁に背を預けて寝る体勢になった彼をしばらくじっと見つめ、罰の悪さに再び顔を隠す。
掛け布を握りしめて息を殺した。
深く寝ているわけではないだろうが、動いた気配ひとつで起きそうなカルロの休息の邪魔はできない。
すぐに眠れそうもなく、アンジェリカは鬱々と思考を巡らせた。
今頃、リクハもカゲツもどこでなにをしているのだろうか。
元気にしていて欲しい。変なことに首突っ込んでしまったのは仕方ないにしても、無事で居てくれたらいい。
――そんなに現実は甘くない。そういうものなのだ、現実は。無力なのも、守られているだけなのも、足手まといなのも。
唇を噛みしめた。
始めから諦めるなと、誰かは言うのだろう。
守りたいならば守れるだけの力をつけろと、誰かは叱咤するのだろう。
だけど、それで踏ん張りきれるほど、私は強い人間じゃないと、誰よりもよく知っている。
魔法を使えないのは中の人の才能か、はたまたなにかしらの阻害要因があるのか。どちらにしても戦力の欠片もないのが事実である。
それでいて、特大の爆弾を抱えている。
音を立てないように指を滑らせ、手首の腕輪に触れた。
(予想外ではあるけど、運命と言ってた二年がもう来る。……もうすぐ、終わる。でも、それにカゲツもリクハも、連れて行くつもりはないのに)
ぞわぞわと胸をざわつかせる予感に小さく息を吐き出した。
「ニクス」
呼びかけられると思っていなくて、びくりと肩が跳ねた。
そろそろと掛け布をめくったその隙間から、彼の手のひらが見えた。なぞるように上を見上げると、目元を和めて茶色の瞳が静かに見下ろしている。
寝たふりをした覚えはないが、寝入っていないことには気づかれていたらしい。
気まずさにめくった布を少し下ろした。視界にある差し出されている手をまじまじと眺める。
苦労を重ねた手だ。傷だらけの皮膚。見るからに硬い手のひら。しっかりとした指。
お世話にはなっているけれど、振り返って思うのは、カルロのことを何一つとして知らないということだ。
カルロがどんな人かと聞かれたときに答えられるほどのことを知らない。保護者としての姿は知っている。でもそれだけだ。それだけでしかない。
(何ごとにつけてもそう。疑問に思ったとしても、聴かない。そうすれば…………自分が苦しまなくてすむから)
どこまでも自分本位な思考だ。
けれど、殻にこもって心地よさに揺蕩うことのなにがいけないというのだろう。それそのものに善悪はない。だが、"誰かが期待する人間"はそうであることが求められる。
(――私は、誰かに期待されたいの? やだよ、重い。私はただ……ただ、心のままに在りたいだけ)
けれど、それだけでは生きていけないだけ。だから取り繕う。仮面を貼り付け猫を背負って、"無難"な人であろうとする。
(本当に、生きることに対する執着に乏しい私にカルロを縛り付けておくのは実にもったいないな)
掛け布を下ろして、アンジェリカは体を丸める。
(この国に戻ってきたのもひとつの運命だというのなら……それはそれでいいかな。カルロに迷惑を掛けられないから体はあげられないけど)
なにが起こるのかは知らないが、できればその前に、穏便にカルロと離れたい。
一方、無言の拒絶を受けたカルロは、己の失態に頭を抱えた。
得られつつあった信用が崩壊した。気がかりで余裕がなかったといえ、彼女をおざなりにしていい理由はない。
固い空気を醸し出しながら息を潜めるニクスを一瞥し、カルロはぼんやりと宙を見つめた。
(俺は一体、なにしてんだろうな……)
彼女を拾って保護すると決めたのは自分だ。
だが、正直なことを言うと、現状において彼女よりもリクハを案じる気持ちのほうが大きい。
今すぐにでも居場所を問い詰めに行きたいが、今更それをすれば、なけなしの信用は完全に失われるだろう。
なにより、守ると自分に決めたその約束をこれ以上破る真似はできない。
(……リクハになにかあったら、正気でいられるかわかんねえな)
過去、ここまでリクハの動向がわからないことはなかった。人に紛れて生活する上での注意事項はちゃんと聞いて、守ってきていた。
それが少し前から頑なに何かを隠して動くようになった。――彼女と出会った後からは著明に。
なにがリクハをそうさせたのかわからない。なにがそこまでリクハを焦らすのか、結局教えてはくれなかった。
それどころか、カゲツと共謀して水鏡に追いやる始末。
あの時、リクハはカゲツの作り出した出入り口に驚いていた。だから、水鏡の世界を知らなかったのは知らなかったのだろう。でも、カゲツを止めることはしなかった。
――リクハは絶対に探し出して帰ってくるから、兄にはニクスを見ていて欲しいのだ。
カルロは片膝を抱えるように左腕を回して手のひらを右肩に置いた。
ニクスに差し出した右の手のひらを床につけて、静かに瞑目する。
処刑台の上。
そこに、後ろ手で縛られた女性というには幼い少女が兵に引っ立てられて立つ。
取り戻した美しい金色の髪は見る影もない。
同年代の子と比較しても痩せ細り華奢な体。眼窩に浮かぶ青と緑の瞳
は光を宿していない。
抵抗もせず首に縄をかけられた少女は、号令とともに、その身体が宙に浮いた。
振り子のように身体が揺れる。
なんで、お前がそこにいる。
あり得ない。そんなはずがないのだ。
飛翔した白い梟がその縄を切り落とす。
そのまま大きくなった梟は、守るように彼女を体の下に隠した。
切り裂かれた羽毛が宙を舞い、白い体を赤く濡らす。
幾重にも矢や剣が突き立てられた梟は、やがて。
有象無象を斬り捨てて伸ばした手は、けれども宙を切った。
目の前で、梟の姿がかき消える。かわりに。物言わぬ彼女の胸元に、白い羽が二枚、残った。
激しい渇望が身を襲う。
お前たちは、わかっていたのか。
だから、伸ばした手を拒絶したのか。
それならなんで、なにも言ってくれなかったのか。
どうして、なにも気づけなかったのか。
どうしたら、大事にしたかった人たちを失わずに済んだのだろうか。
――お前たちのいない世界に、守れもしない無力な自分に、なんの価値がある。
「っ――!」
カルロはくわっと目を見開いた。
壁から背中を離し、荒く息を吐く。
ぽたりと垂れた汗が、腕を湿らせる。
ぐいっと汗を拭って首をめぐらせた。
窓の外の明るさに大きな変わりはない。あまり時間が経っていないのだろう。
傍らで掛け布にくるまるニクスを見下ろし、そっとその体に触れた。
「ニクス」
声を掛けても軽く体を揺らしても、起きる気配はない。
いつもとは違って顔も見えない姿に、不安が胸に巣くう。
慎重に体の下に腕を差し入れて、カルロは寝ているニクスを持ち上げた。
横抱きに抱え直し、顔を隠す掛け布を払う。
胸が小さく上下する。口元に当てた手にも吐息もある。
カルロは彼女の体を柔らかく抱き、ゆっくりと息を吐き出した。
細部は少し違う気がする。けれども同じく二人が命を落とす夢を見たことが、ある。
その時も生存確認を行い、本来の姿のリクハに顔を埋めて自分を落ち着かせていた。
無意識に視線を彷徨わせていることに気づいたカルロは、自嘲の笑みを浮かべ、天井を仰いだ。
「…………そういや昔、似たようなことがあったな……?」
ぽつりと零して、記憶を辿る。
夢の内容までは覚えていないが、しばらく寝るのが怖かった覚えがある。
「なんなんだよこの国は」
呟いて、カルロはニクスを抱え上げてベッドに横たわらせた。
どことなく嬉しそうな顔をしているニクスはいい夢を見ているのだろう。
緩んだ頬を手の甲で二、三回撫で、カルロは結んだままの彼女の髪を解いた。
夢のせいで、しばらく眠れそうにない。
カゲツが言っていたように今からでも水鏡の世界へ送り返すべきか。
夢ではどれも一緒に居なかった。それならば、一緒に行動していれば良いのか。
リクハやカゲツをそのままにしておくという選択肢はない。
自分の行動ひとつが彼らの命に直結しているかのような恐ろしさを慰めるように、カルロは無心でニクスの髪を梳いた。




