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第59話

 塵ひとつない空間に大の字で床に転がっていたアンジェリカ(ニクス)は、何度目になるかもわからないため息をついた。


 ここに来て、どれくらいの月日が経ったか覚えていない。考え事をしているうちに忘れたと言ったほうがただしい。


 目覚めたらすでにカゲツの姿はなく、やる、と言われたこの空間で怠惰を貪り続けて幾日。わかったことがひとつある。


(軟禁と、引きこもるのは違う)


 引きこもりは自らの意志で外界との関わりを絶っているのであって、こうも強制的に切断されているわけではない。

 たしかに外界との接触に乏しいという点においては同じことではあるが、自分でするとの人にされるという点において心情が大きく異なる。


 打開策を見込めない以上、こうしてうじうじと文句を垂れ続けていることは生産的とは言えず、この場に適応していくべきだろう。


 軟禁という事実も精神的負担であるが生産性のない日々というのもそれはそれで気に病んでしまう。

 なんとも面倒な性格だなと胸の中でごちりながら、アンジェリカは体を起こした。


 両手足を投げ出して、高い天井を見上げる。


 建物内にいくつか部屋があることにはあるのだが、そのどれもが広々としすぎていて落ち着かない。


 建物の回りに広がる湖面や、さらにその回りに植物があるという環境は好みではあるのだが、生活の中心となる場所が合わなければ、長期的に居続けるのは苦痛になる。


(でも、住めば都ともいう)


 ひょいっと起き上がり、外套をぱたぱたと振り払った。

 視界で揺れる傷んだ髪を手に取り、指を通した。

 引っ掛かりを覚えたところで姿を止めて、辺りを見渡す。


 思い返せば、目覚めてから今に至るまでまともに体を洗えていない。髪も言わずもがな。

 なんだかんだと、多少思うことがあったとしても、世話を焼いてくれる人たちがいなくなったうえ、動く気力も湧かなければそんなもの。

 ようやく動いてもいいと思えるようになったのだ。綺麗にしたい。


 最初に探検しただけの建物を、朧げな記憶を頼りに進めば、迷子になって当然。

 どうやってそこに来たかも、現在地さえわからないまま翌日と思しき場所を探し求めて彷徨う。


(あった……摩訶不思議現象に助けられて感無量……! お湯を貯めるところからと言われたら、流石に心が折れるところだった)


 たどり着いた、恐ろしくだだっ広い開放的な浴室。

 ほかほかと湯気がたちのぼるなかに、清涼な風が吹き抜ける。


 露天風呂特有のなんとも言えない空気感に視界が滲んだ。


 いそいそと衣服を脱いで、ついでに洗おうと持って入る。

 片隅に置いてあった桶お湯を汲み上げ、そこに衣服を沈めた。

 お湯を吸わせたそれをお湯の中で絞るように押すだけでお湯が濁る。


(うっわー、きったな……え?)


 濁ったお湯が一瞬で綺麗になった。

 ぱちぱちと目を瞬く。


 もう一度、お湯の中で絞るが、色が変わらない。

 桶から引き上げて、アンジェリカは首を傾けた。


(なんか、綺麗、すぎる……?)


 外套の片袖をお湯につけた。

 濁った湯は一瞬で綺麗になり、引き上げた片袖は他と比べて見間違いようもないほど整っている。


(…………まあ、綺麗になるならいいかあ)


 来ていた服を全て洗い終え、一度お湯を捨てた。

 汲みなおしたお湯を頭から何度かかぶり、ふるふると首を横に振る。


 人体には影響がないのか、傷んだ髪も乾燥した肌もそのままだ。

 期待がなかったとは言わないが、現実そんなものだろう。

 時間をかけて体や頭を綺麗に洗って髪を布でまとめ上げ、アンジェリカはお湯のそばにしゃがみ込んだ。


 ちょんちょんと指先で水面をつついて、そっとお湯に埋める。

 やや熱いけれども、耐えられないほどではない。

 湯船の縁に腰掛けて足をつけた。


 ずるずると湯の中に沈み、子どもらしからぬ染みたれた息を吐く。


 久方ぶりの湯船に人様には見せられないような姿で溶ける。

 ある程度温まったところで、じゃばじゃば音を立てて浴槽に流れ込む水源に近づく。

 その周りだけ周囲のお湯よりも温度がやや高い。


(温泉、なのかな?)


 頬を緩めながら、流れ出るお湯をひとすくい、舐めた。


(摩訶不思議は摩訶不思議か。温泉らしい味はなくただのお湯。でもただのお湯にしては洗浄効果が高い)


 湯船ではない可能性も考えたが、きちんと脱衣所が設けられていたことを考えると、使用用途はお風呂に違いない。


(ファンタジーがちゃんとファンタジーしてるだけなんだよ、うん)


 細かい思考を彼方に放り投げて、ちゃぱちゃぱと水面に手を叩きつけて遊ぶ。

 不意に、誰もいないはずの出入り口のほうから物音がした。


「ニクス、いるのか?」


 はっとかえり見るのと、ひょっこりとカルロが姿を見せるのは同時。

 三拍後。久方ぶりに顔を合わせる気まずさに思わず視線を逸らした。


 散々迷惑をかけて心労をかけているのに、ここで一人ゆっくり温泉もどき三昧は、合わせる顔がない。


(どうしよう。どうしたらいい? 服も着てないのに流石に全裸で逃げ回るのはちょっと私には乗り越えられない壁すぎてどうしたらいい?)

「……ニクス、……だよな……?」


 訝しげな声に、目を瞬かせた。

 そろそろと首を巡らせる。

 困惑の表情を浮かべていたカルロは、やかて安堵の息を吐いた。


「よかった、その目はニクスだ……」

(目……あれ、目の色が戻ってる)


 水鏡に揺らめく瞳は、今でも違和感が残る左右の異なる色をしていた。

 さっきまで……、さっきどうだったか。多分紫色をしていたと思ったのだが、注視していたわけではないので記憶が曖昧だ。


「お前をどこにやったのか聞いてもカゲツがなにも言わなくてな。……なんか、されたか、してくか、なにかしてたか?」


 質問の意図が分からず湯船の中で首を傾ける。


「違うのか。じゃあこれは……」


 肯定も否定もできず、かと言ってなにも返せない現状に、仕方なく湯船から上がろうと近くの縁に手をついた。


 浮力を利用して浮いた体を湯船から出す。

 振動に、髪をまとめ上げていた布がはらりと崩れた。しっとりと濡れた髪が石畳の上に落ちた。

 痛んで艶もまとまりもなかった髪が、見違えるほどに輝きを増して視界の中で輝く。


 顔にも張り付いた髪を手で払いのけ、アンジェリカは難しい顔で首を傾けた。


(長く浸かることで人体にも影響があるのか。単に綺麗になるだけならいいけど、害がないって言えるのか? でもカゲツが……神獣が守っていた場所なら、考えすぎっていわれえもおかしくないわけで)


 自らの体を検分すれば、鞭に打たれた痕や、怪我して化膿して瘢痕が残った後さえなく、真っさらになった肢体。


(過ぎたるは猶及ばざるが如し。丁度良い案配を探れば薬としてりよ――)

「ニクス」


 後ろから声がかかる。

 振り返ると同時に、乾いた布を頭から被せられた。

 いつの間にか背後に回り込んでいたカルロが、隣で片膝をついて手をお湯に浸けた。


「気持ち悪いとか、異様に気分が良すぎるとか、いつもとおかしなことはないか」


 至極真面目な顔で問いかけられる。

 完全に浴槽から上がり、乾いたタオルで体を覆ったアンジェリカは静かに首を横に振った。


「本当に?」


 どこか緊張した面持ちでカルロが食い下がる。

 その迫力に小刻みに縦に動かした。

 カルロが立ち上がり、アンジェリカに向き直った。


「ならいいんだ。……よくこんなところでくつろげるな……」


 納得した様子ではあるが、カルロの表情は和らぐことなく、声音も固いままだ。


 その様子に一抹の疑問を抱くが、それよりも居心地の悪さが勝る。

 カゲツに連れてこられて連絡手段もなかっとはいえ、黙っていなくなった事実は変わらない。さらにはリクハさえも置いてきた。

 それにも関わらず、反省の色もなく大浴場でくつろいでいる姿をしっかりばっちり見られてしまったからには、怒られ叱られ詰られても文句は言えない。


 僅かに湿った布を握りしめて戦々恐々とする。


「怖がらせて悪かったな。俺は怒ってない」


 濡れることを厭わずに膝をついたカルロが、目線を合わせ、努めて柔らかい声で告げる。

 反射的に嘘だ、と心の中で返してアンジェリカは俯いた。


「……悪い。ちょっと、ここの空気に緊張を強いられてて、それがたぶん怒ったように感じてるのかもしれない」


 要領を得ない言葉に、上目遣いにカルロを見やり、ゆっくりと浴室を見渡した。

 緊張を強いられるような理由と言えば、その広さしか思い当たることがない。だが、泊まるところの多くは広々とした浴室ばかり。

 それと比較しても確かに広いが、気後れするほどのことかと言われると……露天が合わないのだろうか。


「ひとまず、ここを出よう。空気が良すぎる」


 それはそうだろう。大自然に囲まれた中にある温泉もどきなのだ。

 空気の良さに恐れをなした、というのは落ち着かせるための申し開きであることは想像にたやすい。


 抱えるぞ、と宣言とともにいつものように抱えたカルロに身を任せつつ、アンジェリカはしおしおと肩を落とした。








「なあニクス、本当に体はなんともないんだよな?」


 いつもの如く髪を梳いていたカルロが、何度目になるかもわからない問いを投げかけた。


『髪の傷みや傷痕がなくなったくらいで、他に異常という異常はありません』


 使い回している文句を頭の上にのせてカルロに見えるように掲げる。


「……それだけで、すむわけがないんだけどな……」


 末恐ろしいそうなことを呟いて、カルロが口を閉ざす。

 叱られるわけでもなく、あの時のことを問いただされるわけでもなく。体に異常がないか体の動きは勿論、視力や聴力まで確認を受けた。


 カルロの反応に不安を強く抱いたこともあったが、今となっては頼むから落ち着いて、という気持ちのほうが大きい。


「ニクス、この場所について、カゲツからなにか聞いていないか」


 思わぬ質問に、目を瞬く。

 頭の上に置いた紙束を足の上に戻し、視線だけ動かしてペン先にインクを浸ける。


『水鏡の世界。今はもう使われてなくて、入れるものもカゲツしかいない。そのカゲツも座を降りてる。継ぐ者がいない』

「水鏡の世界、か。リクハからも聞いたことがないな。神獣の中でも一握りしか知らないような場所、ということか」

『あと、だから私にあげるって言ってました。終わるまでここにいろって』

「前半はともかく、終わるまでって、なにがだ? 安息香とニクスにどういう関わりが……?」 

『わかりません。あの、非情に聞きにくいのですが』

「ん?」

『リクハは、カゲツとまたやってるんですか』


 髪を梳いていたカルロの手が止まった。

 おかげさまでなめらかさの増した髪を全て前に持ってきて指を滑らせる。


 適当に括ろうと握った髪を奪われて、アンジェリカは口をへの字に曲げた。


「今頃なにしてんだろうなあいつら。ここを出られたら絶対締める」

 

 怒りを隠せていない声音に背筋が震える。


『出られたら、ですか? 出られないかもしれないんです?』

「カゲツに池に叩き落とされたと思ったらここに居たから、出る方法が見当もつかないな。一応、ここ回りの建物もぐるっと外から見てみたが、人が居る気配はないし探るところからだな」

『そうなんですね』

「たぶんだが、出るための鍵はお前だからな、ニクス」

『へ』

「限られた神獣だけが干渉できる空間を、カゲツは"やる"と言った。なら、恐らくこの空間に干渉する権限があるはずだ」


 なるほど、と小さく頷いた。

 だが、そんなものはさっぱりわからない。詰んでいる。


 よし、と呟いてカルロが頭を軽く叩いた。

 首の後ろに手を回せばいつもの三つ編みが触れる。

 首の後ろから続く毛先を肩越しに前に持ってきて指先でやや不揃いに編み込まれた髪を撫でた。


 見苦しいからいつか切る。ずっとそう思っていたが、なんの幸運かここまで綺麗になった。ならばこのままでいいだろう。

 これで二人に悲しまれずにすむ。


 口元を小さく綻ばせて、三つ編みを揉んだ。

 毛先をまとめている紐についている、動きに色を変える石からは視線を逸らした。


 鞄に眠らせていたものを、一体いつの間に回収していたのか。


「カゲツがお前を隠してから軽く半年は経ってるからな。お前の様子をみる限り、体幹はそこまで立ってないんだろう?」


 手を止めて盛んに目を瞬かせた。


 はんとし。はんとし。半、年?

 そんなに日にちは経っていないはずだ。


『たぶん? しばらくなにもする気起きなくてただ転がっていただけなので……久しぶりに動こうって思ったのがあのお風呂なので、三日から数日、長くて十日程度くらい、ですかね……?』


 向き合ってもいいのだが、まだ顔を見られなくて、後ろを向いたまま文字を示す。


「何度もすまない、怖い目ばかり遭わせて」


 首を横に振った。

 謝らなければならないのはカルロではない。

 あの鼻の曲がるようなお香に関わらせたくないカルロの心理も想像はつく。


 ただ、それ以上に、"アンジェリカ"の巡り合わせが悪いだけで。


(それが一番の問題なんですけどね……)


「――カゲツが言っていた。ニクスを巻き込む最大の試練はすぐ目の前だと」


 どくん、と鼓動が跳ね上がった。

 三つ編みを握りしめて、逸る鼓動を隠すように息を潜める。


「だから、俺はお前に約束しておこうと思う」


 わざわざそう宣言することが恐ろしくて、アンジェリカは首を横に振った。

 いらない。言わなくていい。お願いだから言わないで。


「今までのこともあるし、俺じゃ力不足かもしれないが」


 構わずに続けようとするカルロを振り返り、その口に両手を押しつけた。

 俯いて顔を隠し、祈るように瞼を閉ざして唇を噛む。


 数秒の沈黙が、心の準備をする間もなく抉られた傷に容赦なく染みこんで、息が詰まるほどに苦しい。


 ふっと、小さく笑う声がした。

 添えられた手に、口元を押さえていた手を握られる。


「俺が、繰り返さないためにしたいんだ」


 恐ろしい程に優しく強かな声が胸を掻き抉る。

 項垂れたまま、先ほどよりも緩慢に、けれどもしっかりと首を横に振った。


「なら、口にするのはやめておくよ」


 自分を曲げるつもりのないという宣言。今更なにを言っても響かないだろう。手の打ちようがない。

 今までも不運を体現したかのようなことばかりで心労と心配をかけているのに、その"最大の試練"がただですむ訳がない。


 体をくれてやるなと言われるなにかがある。

 "彼女"が警戒するなにかが起こる日が訪れる。


 それを乗り越えた先で、きちんとあるべき道に戻ろうと思っているのに、彼が覚悟をさせてしまった。


 悲しいのか、悔しいのか、それとも腹立たしいのか。

 ぐるぐると渦巻いて判然としない感情を発散するように、アンジェリカはカルロの胸元に軽く頭突きをかました。


「うん、ごめんな」


 ――それでも俺は、お前が穏やかに過ごせるように、手を尽くすよ。


 聞こえるはずのない声が、聞こえた気がした。

 慈しむように穏やかな声音が憎たらしくて、アンジェリカは何度も彼の胸を頭で突いた。



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