第57話
翌日。アンジェリカはソファの上でそわそわと手を擦っていた。
「ニクス、落ち着かないのだ」
(そりゃそうですよ。やだよう、今すぐ回れ右したいよう。帰りたいよう。お布団が恋しいよう、すぐそこにあるのにお布団に帰れないのは拷問)
しくしくと心の涙を流しながら、アンジェリカは顔をのぞき込んできたリクハに両手を伸ばした。
ややかたい頬を揉んでこねくり回し、軽く引っ張る。
お返しと言わんばかりにリクハに頬を揉まれ、アンジェリカは小さく口元を綻ばせた。
お互いがお互いの頬をもんで過ごすことしばらく、扉が三度叩かれた。
大きく肩を跳ね上げさせてアンジェリカは硬直する。
「はいなのだ」
頬を挟んでいた手をすり抜け、扉に向かったリクハが返答をあげる。
無意識に隠れる場所を探して部屋を見渡し、羽織っていた外套のフードを目深く被った。
ソファの陰に隠れたくなるのをぐっとこらえ、立ち上がる。
「あれ、一人なのだ?」
「はい。……ご迷惑、でしたか?」
「そんなことないのだ」
リクハの案内で一人の少女が入室する。
外套の下からそっと彼女を盗み見た。
赤い髪、と言っていたが、赤は赤でも朱色の綺麗なストレートの髪だ。腰に届く長さの髪にはひとつの飾りもなく、彼女の動きに合わせて揺れる。
深い緑色のワンピースの輪郭をなぞるように視線を上に滑らせた。
髪と同じ朱色の瞳を伏せながら、緊張した面持ちで彼女が机の向こう側に案内される。
「ふたりとも座ってるのだ。すぐに用意するのだ」
「ありがとうございます」
伏し目がちだった彼女がわずかに顔を上げた。
慌てて視線を外し、アンジェリカはゆっくりとソファに腰掛ける。
対面するようにリリアンヌも座った。
沈黙がおりる。
リクハがお菓子とお茶を用意する音だけが部屋に響く。
居心地が悪くて、外套の下から再び彼女の様子を窺った。
唇を引き結び、膝の上で拳を握りしめており、表情も暗い。明日来るという“あの子”を気にしてだとしても、流石に反応がよろしくない。
恐らく“あの子”と呼ばれる子と折り合いが悪く、また、そのストレスを発散する術を持たないのだろう。
想像はついても、それに対してどう対処するとか、なんて声をかけるかとか、思い浮かぶわけはない。
早々に思考を放棄して、アンジェリカは強引に本題に入ることにした。
鞄から取り出したまんまる梟セットを彼女の目の前に差し出す。
朱色の瞳が驚きに見開かれた。
「すごい……かわいい……」
ふにゃりと、年相応の笑顔で笑い、彼女ははっと口元を抑えた。
「とても素敵ですね。たくさんの色があって、目移りしてしまいます」
『ありがとうございます。言葉遣いは楽にしてくださるとありがたいです』
「でも……、……はしたないって、バレたら叱られるわ」
「バレなきゃいいのだ。ニクスもリクハもそんな告げ口しないのだ」
お茶とお菓子の用意を終えたリクハが隣に腰掛けた。
反省の色が見えないリクハをじっとりと睨みつける。
「はい、ニクス、あーん」
差し出された半欠けのお菓子にかじりついた。
もっしゃもっしゃと咀嚼しして、飲み込む。ぱさぱさと口の中が乾き、ちびりと紅茶を口に含んだ。
「おいしい……!」
「君の口にもあったみたいでなによりなのだ」
つい、と言わんばかりに手を伸ばすリリアンヌに、形にならない感情が揺れる。突き詰めるならばそれは羨望だろう。
自分のしたことに後悔はない。それでもリクハやカルロが作ったものを美味しそうに食べている姿が羨ましくなる時がある。
紅茶のカップを置いて、ニクスは紙に筆を走らせた。
『以前の形の梟は思い入れがあって、他の人に渡すのは気が進まないので、こちらのデザインでよければ、お世話になったお礼として差し上げます』
「そんな! わがままを言ったのは私で、御礼をすべきはわたくしです」
『気にしないでください。色の好みが合わなかったら、少しお待ちいただければ作りますので言ってください。時間を考えると二つ三つが限度ですが』
リリアンヌが瞠目した。
口を開きかけて閉ざし、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「……いいえ、これ以上のわがままは言わないわ。言ったらいけないの」
リリアンヌが諦めたような顔で小さく笑う。
「折角作ってくれたのに、ごめんなさい。……やっぱり頂けないわ。今日は、それを言いに来たの」
そう告げる彼女の声は震えている。今にも泣き出しそうな顔で、けれども涙を堪えるように彼女は唇を噛んだ。
『それは、手紙にあった"あの子"に関係することですか』
文字を追った朱色の瞳が潤んだ。けれども彼女は涙をこぼすことなく、固く目を閉ざして耐え忍ぶ。
握りしめられた拳が、しばらくして解けた。
「はい。……だから、もういいのです。ごめんなさい」
リリアンヌが小さく笑った。
笑みを浮かべているにもかかわらず、朱色の瞳から生気が消えていく。
その顔を知っている。
期待も願いも望みも、手に入らない辛さを味わうくらいなら、最初からなにも期待せず、願わず、望みを持たなければいい。
そう、全てを諦めてしまった人の顔を、遠い昔に鏡越しに見た。
(――不愉快な)
年端もいかない子どもがする顔ではない。
腹の底からふつふつと沸き起こるものに、僅かに目を細める。
どうしてくれようか。
彼女をこのままにしておくのは嫌だが、自分にできることなどたかが知れている。
連れて逃げにしても、カルロにもリクハにもカゲツにも迷惑をかけずに事を為すのは不可能だ。
唐突に、それは訪れた。
「ここね!」
甲高い声が室内に響く。大げさなどに体を跳ね上げさせて、アンジェリカは体を硬直された。
「どうして……」
「なんなの、お前たち。ここはわたくしのへやよ、出ていきなさい! しようにんはなにをしているの?」
「アリアお嬢様、お下がりください」
望まれざる来客が、きゃんきゃんとわめき立てる。
フードの隙間から差し入れた手で耳を塞いで体を前に折り曲げる。
「ニクス、大丈夫なのだ?」
抱きしめるように腕を回したリクハの重みが背中にのる。
アンジェリカは唇を引き結んだ。
手のひらを耳に強く押しつけても、完全に声を遮断できず、頭に届く。
「ア、アリア、この方たちは」
「あらおねえさま、いらしたの? みすぼらしいから気づかなかったわ」
「っ……」
「そこのぶれいものたちはおねえさまのおともだち? そんなきたないものとしかおともだちになれないなんて、おねえさまはやっぱりやくたたずじゃない」
「ち、ちが……この方、たちは……」
「くちごたえしないで!!」
癇癪を起こした声で、招かれざる者が叫んだ。
遅れて、鋭く肌を叩くような音が響いた。
「い、……っ!」
飲み込まれた悲鳴。二度、三度、と鋭い音が耳を突く。
アンジェリカは、はくはくと口を開閉させた。ぎりぎりと見えない縄に胸が締め付けられていく。
「お前たち、あのうすぎたないへいみんを引きずり下ろしてはいつくばらせなさい! わたくしはサノワこうしゃくのひとりむすめですのよ!」
「御意に」
「ま、待つのだ! リクハは兄と」
「お嬢様は貴様らに発言を許していない」
「離すのだ!!」
体を縮こまらせて震える横で、引きずり下ろされたリクハが床に叩きつけられた。
目を見開いた直後、同様にして顔を床に押しつけられたアンジェリカは、頭を押さえつける手に爪を立てた。
「身の程を知れ、小僧」
フードごと頭をわし掴まれ、強引に首を持ち上げられた。
首に掛かった負担に、側面からの衝撃が追い打ちを掛ける。
「ニクス!」
「その口を閉じろ。お嬢様の前だ」
「ぐ、っ、は……っ」
頬から広がる熱に目頭が熱くなる。
じんじんと痺れて動かしにくい瞼を押し開き、奥歯を噛みしめた。
お腹を抱えて咳き込んだリクハが、苦悶に顔を歪めている。
その奥、入り口近くでしゃがみ込んでいるリリアンヌが、定期的に床を叩く鞭にびくびくと体を震わせていた。
「まったく、これだからうすぎたないへいみんは……あら、おねえさまにしてはかわいらしいものももっているのね」
桃色の髪をした少女、アリアが机の上の梟に手を触れた。
持ち上げてまじまじと見つめる姿を食い入るように凝視する。
「ちがいます! それは私のものではなく」
「うるさいわね」
アリアの声に従うように、再び鞭の音が響いた。
その音を顧みることなく、まんまる梟を、円らな桃色の瞳を輝かせて見つめる少女を睨めつけ、唇を動かした。
汚い手で触るな。
「――っ、きゃあああああああっ!!」
火の気があるはずもないまんまる梟が突如として燃え上がった。
一瞬にして灰燼に帰した梟だったもの。それがアリアが本能的に振り払った手からはらりと舞い落ちて、床に燃え移る。
机の上でも、編み上げた全てのまんまる梟が全て姿形を失い、火を燃やしている。
異常事態に、床に投げ出されたアンジェリカは、その光景を冷静に分析する。
(家が燃えるのは流石に迷惑がかかるか。なら、逆に全部、目障りな者はすべて凍ってしまえ)
その重いに、体の中でなにかが呼応した。
一瞬にして室内が氷に覆われた。




