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第53話

 腕の中ですやすやと寝息を立てるニクスをしばらく見つめ、カルロはそっと耳から手を離した。


 それでも起きる様子はない。


 ほっと安堵の息を吐いて、カルロは首を巡らせた。

 カルロ同様、作業しながらそわそわと見守っていたリクハが冷えた布を差し出す。


 そっと泣き腫らした目の上に載せた。ぴくっと体が跳ねるが、覚醒した様子はない。


「ある程度の信頼は得られてはいるって思ってもいいのか……?」


 なんだかんだ成り行きで、抱えているうちに眠ることは今までもあった。

 必要に迫られてといった様子で抱えてくださいと行動で示すこともあった。

 抱えている状態で精神的負荷により縋られたこともあった。


 けれど、彼女が自ら望んで抱えられにきたのは初めてではないだろうか。

 遠慮の塊ゆえに踏み込むのを躊躇ったことはあるが、本当は気にかけて欲しかったのかもしれない。


 まるでこちらを試しているようにも感じられるが、背景が背景だ。そうやって距離を測りながらでないと他人を信頼できないのだろう。


「ぐちゃぐちゃしててよくわからなかったけど、いいと思うのだ」

「そうか。前途多難ではあるが、これからも少しずつでいいから慣れてくれればいいな」

「……リクハもそう思うのだ」


 返答までに一瞬の間があった。顔を上げたカルロは、しかし遠ざかる相棒の背を訝しげに見つめるだけで尋ねなかった。

 視線を眠る彼女へ戻した。


 在りし日の音が耳の奥に蘇る。


 ――じゃあ、みんな雪みたい綺麗だから、左からセツ、ギンカ、リクハで。


 満足そうに笑って彼女は名付けた三匹を愛でていた。

 雪の別の呼び方であるらしい。だが、この世界のどこにも、雪を雪と呼ぶ以外の呼び方などない。


 ――カゲツ、はどうでしょう。目がお月様みたいに綺麗で、ちゃんとカゲツだけの姿も決まっておめでたいですし、ちょうどいいかなと思いまして。


「なあリクハ」

「どうしたのだ?」

「リクハとカゲツって、どことなく音が似てるよな」


 夕食の準備を始めていたリクハの肩が大きく跳ねる。

 しかし、カルロはそれに気づくことなく熟睡するニクスを見つめる。


 各国の主要な言語を調べたことがある。雪を「セツ」「ギンカ」「リクハ」と呼ぶ言語は見つけられなかったのと同じく、月を「カゲツ」と呼ぶ所はなかったはずだ。もっとも特定の地域社会でしか使われていない言葉である可能性も捨てきれない。


 だが、少なくともこの大陸を十年以上放浪しているが、耳にしたことはなかった。


「そ、そうなのだ?」

「なんとなくな。リクハもだが、セツやギンカも聞き慣れなかった。カゲツもそう。だから似たように聞こえるんだろう」


 名付け方といい、音の響きといい、――酷く似ている容姿といい、ニクスの姿が彼女に重なる。同一人物一抹の可能性が脳裏をよぎるが、それはあり得ないことだ。


「あいつがここにいるわけがないもんな。……そんなこと、有り得ていいわけがない」


 後半は自らに言い聞かせるように声をひそめた。

 他人の空似。名前のつけ方は人それぞれだ。たまたま、その思考が似通っていて、主要言語以外の言語を使ったのだろう。あるいは、もともとその言語が身近だったのを矯正されたか。


 どちらにしても、そんな単純なことで同一視するのは馬鹿げている。


「なんで最近になってよく思い出すかねえ」

「……兄は、忘れたいのだ? その……」


 作業の手を止めて振り返ったリクハが、口ごもる。

 その姿にカルロは苦く笑い、静かに首を横に振った。


「忘れねえよ。忘れるつもりもねえ」


 腕のなかでニクスが身じろいだ。目元に置いていた布が重力に従って落ちる。

 それを拾い上げて広げると、カルロは自分の肩にかけた。

 地肌に触れているところが生温く湿る。


 起こさないよう彼女を横たわらせようと見下ろして、カルロは軽く目を瞠った。

 細い指が裾を軽く摘まんでいる。


 気づくことなく抱え上げれば、そのまますりぬけてしまっていただろう。

 しっかり横にした方が彼女も休めるだろうが、もうしばらくは抱きかかえることにする。

 わかりくいけれども、彼女が見せた小さな甘えに応えることくらいは許されるだろう。


 その思考に、カルロは無言で目をすがめた。


 許される。誰に。――あいつに。

 しばし考え込んだカルロはやがて静かに肩を落とした。


 結果として許されたけれども守り切れなかった、その贖罪にしようとしている。

 辿り着いた答えが、否応がなくカルロの心を重くする。


 深い眠りについているニクスを軽く抱きしめて嘆息した。

 泣きそうな顔で唇を噛みしめるリクハに、感傷に浸るカルロが気づくことはなかった。






 

 剣術大会まで残すこと三日。

 ついに受け取った案内状を机に広げ、カルロは考え込んでいた。


 後ろ向きに受け入れはしたが、いざ目の前にすると心配が強すぎて辞退したくて堪らない。

 もともと大会そのものに興味はない。だが、安息香のことも今更気づかなかったふりを通せばリクハがなにをしでかすかわからない。

 前回が前回だ。楽観視はできない。


 ニクスと一緒にそばに居られるならそれが最も安心できるのだが。


「兄、この『最上級観戦室の案内』って、リクハたちが見るところなのだ?」

「……」

「あにー?」

「………………」

「…………兄、兄っ! ニクスが大変なのだ!!」


 一瞬遅れて、弾かれたようにカルロが立ち上がった。

 椅子が後方へ倒れ、音を立てる。

 状況を確認しようとしたカルロは、顔を上げた先で、手を後ろに回して佇むニクスを認めて動きを止めた。

 彼女は右を見て、左を見て、静かに目を瞬いた後、カルロの横へ視線を滑らせる。

 その視線を追いかければ、何食わぬ顔で笑っているリクハがいた。


 リクハを見つめ、状況を理解すると同時に、カルロは盛大に息を吐き出しながらしゃがみ込んだ。


「リクハ、お前どこでそんな芸当を覚えてきた」

「この何日か、兄が考えに耽ることが多くて困るってカゲツに相談したら、そうすれば人は反応するらしいって教えて貰ったのだ」

「あの蜥蜴、本当に余計なことばかり……!」


 悪態をつきつつ、なにもなかったことに胸を撫で下ろす。

 倒した椅子を起こして、カルロは再び腰掛けた。


「ん? カゲツにいつ会ったんだ?」


 カゲツに弁償するまで頑張れと言い渡して以降、彼女は帰ってきていないはず。

 もっとも、百年単位で生きている長命種なので、寝ている自分を欺くのは容易だろう。


 そう、思ったこともあった。


 視線を彷徨わせて、卓上の案内状を指さして強引に話を変えるまでは。


「この『最上級観戦室の――」

「俺が寝てる間に外に出てるな、リクハ」


 確信を持って告げれば、すっと、顔が逸らされた。


 神獣は嘘偽りを嫌い、真を重んじる。

 それゆえに、彼ら自身も嘘をつくことを嫌う。


 否定をしないと言うことは、そういうことなのだ。


 頭を抱えてため息をついた。

 ぴくりと、リクハの肩が揺れる。


「この前から、なにをそんなに焦ってるんだ」


 詰問に答えはない。

 背もたれにもたれかかり、カルロは天井を見つめた。


「俺の力不足なんだろうけど、そこまで頼りないかー……」

「ち、ちがうのだ、そうじゃないのだ、そうじゃないのだけど……うー……」


 リクハが喉の奥で唸る。

 カルロはそっと嘆息した。


「言えないならそれ以上は聞かない。ただ、絶対に帰ってこいよ? 約束できないなら認められない」


 はっと顔を上げたリクハが、盛んに首を縦に振った。


「約束するのだ。リクハはちゃんと帰ってくるのだ」

「そうしてくれ」


 頭を撫でようとした手をすり抜けて、リクハが首に腕を回して抱きつく。


「リクハは絶対、兄のところに帰ってくるのだ。ここが、リクハの帰ってくる場所なのだ」


 珍しく熱烈な告白に訝しみつつ、カルロはリクハの背中を叩いた。


「その調子で、危ないところには近づいて欲しくないんだけどなあ」

「それは無理なお願いなのだ」

「やっぱりそういうところに行くつもりだったか」

「あ」


 リクハが離れて口を両手で覆う。

 顔を逸らすが、自白した以上もう遅い。

 カルロは嘆息して念を押した。


「本当に帰ってこいよ」


 リクハが無言で大きく頷いた。

 その後ろで、椅子によじ登ったひょっこりとニクスが顔を出す。


 影のある表情で、ニクスがリクハの肩を軽く叩いた。


「どうしたの」


 ぱしん。

 乾いた音が響いた。

 振り返ったリクハが、頬を片手で押さえて、ぱしぱしと目を瞬かせる。


 持っていたものをリクハの首に投げるようにかけ、ニクスはふいっと顔を背けた。

 唖然と様子を見ていたカルロははっと我に返った。


「ニクス」


 咄嗟に彼女を追いかけた。

 お気に入りの部屋の片隅にニクスは丸くなって上から布を被る。

 

「ニクス、リクハが心配だったんだよな? でも」

「リクハは謝らないのだよ」


 いつもより低い声に思わず首をめぐらせた。

 聞き慣れない声で、見慣れない表情で、リクハが言葉を紡ぐ。


「どうしても取り戻さなければならないから、絶対に譲らないのだ」


 宣言して、リクハは案内状に視線を落とした。

 両者を見比べカルロは無言で天井を仰いで目元を覆った。


 危険を承知で飛び込もうとしているリクハ。それがニクスの怒りを買ったことは想像に難くない。

 叩いたことは良くないが、リクハがああも頑なな態度を取る以上、彼女だけを責めることはできない。

 この様子だと仲直りは当分先だろう。


 カルロは腕を組んで真剣な顔で考え込んだ。


 過去にも耳にしたことがあるほど有名な大会。それに出場できるだけでも相応の名声が得られる。だが生憎と、カルロはそんなものに一抹の興味もない。


(不戦敗で終わらせるか、それとも開始即降参するか……? いや、辞退が後腐れ……カゲツめ。余計な事をしなければ断れたのに) 


 やはり受け入れるのではなかった。


 カルロは乱雑に頭を掻いた。



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