第52話
(うっわあ……なんだろうこの地獄絵図)
カルロに抱えられながら表に戻ったアンジェリカは眼前に広がる理解したくない光景に引く。
整えられていた、休憩所にもなっていた椅子や机の一部がひっくり返ったり折れたり雑然としている。
壊れて倒れた机に軽く腰掛けているカゲツ。その目の前で土下座している男が二人。
「我は遊び足りないのう」
凄惨に笑いながら、カゲツがスキンヘッドの男の頭をぐりぐりと踏み躙る。
「もっと踏んでくだせえ!!」
「ご主人様、私めにもお遊びいただける許可を……!」
頬を引き攣らせ、アンジェリカはカゲツから視線を逸らした。
カゲツもカゲツだけど、なにがどうしてそんな信者ができあがるの? 気になるけど知りたくない。
作り話ながらともかく現実は怖い。怖すぎる。
『女王様置いて帰りません? 帰りましょう? 是非帰ってください』
カルロの前に文字を掲げたその後ろで、やや俯いてぷるぷると首を小刻みに横に振る。
現実逃避をしていたカルロの目が文字を追いかける。
「……正直、俺も他人のフリをしたい」
『しましょう。帰りましょう。二人一緒なら大丈夫です怖くても大丈夫です帰りましょう』
今度は首を縦に振りながら思いの丈を殴り書いた紙面を掲げる。
カルロは能面の様な笑みを貼り付けて頷いた。
「そうだな。帰るか」
我知らぬ顔で歩き始めたカルロの肩に手を置き、フードの中で唇をかみしめた。
絶賛新しい扉を潜り生き抜いた者の叫びが響く。
生理的に受け付けることができないので視界から速やかに外しますから、どうぞそこで好きなだけ好きにしててくださいごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃぃぃぃぃぃ。
「狼王、連れならあれも回収していけ!」
スルーを決め込んだカルロの肩、ちょうど手を置いていた近くに、ギルド長の手が置かれた。
――素肌になにかが触れた。
予期せぬ感触に思わず手を振り払えば、乾いた音が高く鳴り響く。
振り払われた手を見て瞠目しているギルド長に、ざっと顔を青ざめさせた。
得も言われぬ嫌悪感に外套でごしごしと手を拭いながら、体を縮こまらせてカルロの陰に隠れる。
「すまん、怖がらせるつもりはなかったんだ」
「ニクス、大丈夫か?」
取り繕えるほどの心の余裕はなく、アンジェリカはカルロの胸元に顔を押し付けて息を止めた。
「兄。リクハも帰るのだ。カゲツはリクハの手にも負えないのだ」
「…………だよなあ……」
諦めたように息を吐く音が聞こえた。
きっと、カゲツのもとへ行くのだろう。
百歩譲ってそれは良くても、視界に入れたくないし、可能な限り意識の中に入ってこないで欲しい。
人の頭を踏んづけて悦ぶような人とお近づきになりたくない。趣味嗜好は否定しないから私の知らないところでやっててくれればそれで良かったのに。
「カゲツ。ギルドの備品の弁償は今から稼いで自分でやれな。それ終わるまで、ニクスが怯えてるから帰ってくんな。監督は――剣聖、任せた」
「自分がめんどくさいからと、年寄りに押し付けるでない」
「あのお転婆の制御できそうなやつといったら、あんたくらいだからな。その代わりといってはなんだが、後ろ向きにあの件は受け入れるよ」
細くゆっくりと、音を立てないように息を吐き出しながら、アンジェリカはわずかに目を開いた。
(引きこもりたい……)
大会が終わるまで帰れないのはいい。カルロがそばにいられないのなら、大人しく宿にいる。引きこもる。
「本当に、気は乗らないけどな。――無理させて悪い。帰るぞ、ニクス」
ゆっくりと背中を撫でられる。
こちらこそメンタル不安定なくそやろうでごめんなさいぃぃぃ。最近こんなばっかりで……っ。メンタルボロクソなのわかってたけどごめんなさぁぁぁいぃぃぃぃ。
心の中で泣き叫びながら、両手で耳を塞ぎごしごしと擦る。
頭の中にあの悦の入った声がこびりついて不愉快で仕方なかった。
みょーん、とベッドにうつ伏せで伸びていたアンジェリカは、息苦しさにぷはっと息をつきながら顔を上げた。
お気に入りの薄手の布団をくしゃくしゃに丸めて、腕の中に抱えて横を向く。
少しして反対側を向いて、仰向けになって、また横を向いた。
宿に帰ってきてから速攻で布団に潜ったものの、落ち着かなくて何度も体勢を変えてころころしている。
「ニクス、気分転換になにかしてみたらどうだ? やりたいものがあるなら道具も用意するぞ」
むくりと体を起こし、アンジェリカは悩むように体を左右へ大きく揺らした。
気分転換といっても、作業に集中できる気がしない。
一番は音楽を聴いて耳から得た不快感を上書きすることなのだが、残念ながらそんな文明の利器は存在しない。
多少はましになったような気がしないこともないが、それでも耳にある不快感をこそぐように、肩に擦り付ける。
他に解決できそうな手段は一応思い浮かんでいるが、それを行動に移すのは気が引ける。
すでに多大なる迷惑をかけてるのに、これ以上甘えるわけにはいかない。
がんばれ、と意を決してベッドから降りた。
鞄の中から取り出した暇つぶし道具をベッドに並べて凝視する。
余白にお絵描き。――紙ぐしゃぐしゃにして破きたくなるから却下。
編み物。――編むより糸の塊にザクザクと編み棒を刺したくなるから却下。
思考が暴虐的になっているそのことも苛立ちに拍車をかける。
(甘えるわけにはいかないけど、すでに心折れそうな自分がいる)
気持ちの落ち着かなさのせいか、体もむずむずしてきた気がする。足首を手のひらでさすり、くるくると回す。
(折れていいかな? 折れていいよね? ちょっと、今回ばかりはまじで勘弁してくださいこれ無理自分じゃどうにもできない)
いつにも増して脆くなっている精神のおかげで、いとも簡単に目頭の奥が熱くなる。
溢れそうになったものを押しとどめるように震える息を吸った。
気持ちを落ち着かせるようにゆっくりと息を吐き出す。泣きたい衝動は抑えられたものの、心が無理、と悲鳴を上げていることに変わりはない。
帰りの道すがらに購入した情報誌を机に広げているカルロの元にとぼとぼと近づいた。
「なにか欲しいものでも思いついたか?」
紙面から顔を上げたカルロの的を射ない言葉に、アンジェリカは緩やかに首を横に振った。
いざ近づいてみたものの、彼を目の前にして手を伸ばすことができなかった。
耐えればそのうち戻るのに、わざわざ手を煩わせる必要はない。自分が耐えればいいだけなのだ。
「ニクス?」
再び首を横に振って、アンジェリカはベッドへ逆戻りした。
ベッドに広げた道具を鞄に放り込み、丸めた掛け布団に顔を押し付けて蛙のように丸くなった。
深呼吸を繰り返すけれども、どうしてか抑えが効かなくて、目の周りが熱に濡れる。
うるさくならないようにゆっくりと鼻をすすって、震える息を吐き出した。
かたん、と椅子の動く音がした。
衣擦れが近づき、少ししてベッドの一部が沈む。
「ニクス」
いつにも増して柔らかい声音が降った。
その誘惑に負けまいと掛け布団をぎゅっと握りしめる。
後頭部を撫でるものを、頭を軽く振って拒絶する。
大丈夫。甘えなくとも、耐えればいつか終わるから。
我慢を嗜めるように、とん、と背中を叩かれた。
ゆっくりと、一定の間隔で叩打する音が響く。
「俺に、なにかして欲しかったんだよな。リクハたちと違って、その“なにか”を悟ってやることはできないんだ。すまない」
思いがけぬ謝罪に、アンジェリカは顔を横に小さく動かした。
カルロが謝ることではない。
ただ、自分の考えが至らなかっただけでカルロは悪くない。
「ニクスが嫌でなければ、俺になにをしてほしかったか、教えてくれないか」
語りながら、あやす仕草は変わらず続いている。
涙は落ち着いたけれども、心は晴れない。
カルロがいいって言ってるからいいのだろうけれども、手を伸ばすのはためらってしまう。
どれほどの沈黙だったのかはわからない。けれども短くはないそれを、ただただ辛抱強く待ち続けるカルロに、アンジェリカはのそりと体を動かした。
背中を叩いていた手が離れる。
その手を捕まえて、横向きに転がると、上になった耳にその手のひらを押し当てた。
煮えたぎるような低い音に拍動がすぐ近くで聞こえる。
掛け布団に押し当てている耳に不快感が流れ込む。堂々巡りになるのが嫌で、すぐに体を起こした。
端座位で過ごしていたカルロが、それに合わせて向き直るようにベッド上に乗った。
ちらりと見上げたカルロには、特に拒否や苛立ちの色はない。凪いだ顔でじっと待っている。
カルロに近寄ろうとしては、冷静な思考が行動を押しとどめる。
それを何度か繰り返していると、おもむろにカルロが受け入れるように両手を開いた。
「おいで」
開かれた腕と彼の顔を交互に見やり、アンジェリカはのそりと身を乗り出した。
ぴたりと動きを止めて、再び顔を見上げる。
顔色に変化は見られない。
警戒するようにカルロの足に乗り、様子を窺いながら耳をからの胸元に押し当てた。
先ほどよりも大きな拍動が耳に入り込む。後から逃げるように不快感は反対側の耳へ逃げてしまう。
柔らかく抱く彼の片腕を手で持ち上げて、空いている耳に押し当てた。
聞き入るように目を閉じる。
行き場をなくした不快感が対抗するように存在を主張する。それをかき消さんとアンジェリカは耳をさらに強く押し当て、彼の手の甲に自分の手を重ねて押し付けた。
「一人でよく耐えたな」
カルロの声がわずかな合間を縫って届く。
「助けて欲しい時は無理も遠慮もしなくていい。助けてって、今みたいに手を伸ばせ。ちゃんと掴むから」
アンジェリカは小さく頭を縦に動かした。
目尻から雫がつたい落ちる。
期待なんてしなければいい。他人になにも望まなければいい。自分でできることは自分で完結して、高望みをしなければいい。
そうしたら裏切られることも、傷つけることも傷つけられることもない。
それはとても楽な生き方で、酷くさみしい在り方だと知っている。
それでも、助けを求めてもあたかも瑣末なことように呆れられて、あるいは己が悪いのだと叱られた経験から学んだことは自分の中に色濃く根付いている。恐らく消えることはないだろう。
これも今だからここまでしてくれたのであって、今後ともそうあるとは限らない。
でも。
今回みたいに本当にダメな時くらいは、また助けてと手を伸ばしてみていいのかもしれない。
ちょっとだけ、ほんの少しだけアンジェリカはそんな思いを芽吹かせた。
拍動の心地よさに身を委ねながら、決心する。
だから、その時に助けてもらえるように、早くちゃんと対価を払わなければ。




