第49話
変な臭いに覚醒したアンジェリカは、ででん、と眼前に広がる街並みに、全身から血の気が引く音を聞いた。
「ここだな」
(ナンデオ外ニイルンデスカ?)
「外に行きたかったのであろう」
さも当然のように告げられて、アンジェリカは天を仰いだ。
確かにお金を稼ぎたいなと思った。買いに行きたいなと思った。
だけど、どうして寝て起きたら外にいるんでしょうか。私にはわかりません。
説明を求めるべく首を巡らせたアンジェリカは、けれども目的の人物を辺りに見出せず、再びドラゴンへ視線を戻した。
(カルロとリクハは?)
「なぜ我がいるのにあやつらが必要だ?」
(えっ?)
アンジェリカは人型中身ドラゴンの顔を凝視した。
言葉を胸の内で反芻し、その意味を理解した直後、忙しなくあたりを見回した。
自分を抱き抱えている人の形をした神獣。大きな街へと続く門には、様々な紋章の刻まれた馬車が並んでいる。
(帰る)
「む? 外に行きたかったのではないのか」
(帰ります。帰してください)
食い下がるドラゴンに、アンジェリカは首を激しく横に振り、腕の中で暴れた。
びくともしない力強さに、思考は恐慌へと陥る。
逃げられない。赤が、きえていく。やめて。置いていかないで。ひとりにしないで。怖い。どこにいるの、おいていかないで、私も連れてってよ。こんな孤独を味わうことになるくらいなら。
――はじめから、縋らなければよかった。
動かしていた足が硬いものを叩く。
地面に降ろされたのだと理解するよりも早く、突き飛ばすようにドラゴンから離れて、街を下る道を駆け出した。
離れなければ。街から少しでも遠くに。
隠れなければ。貴族の目に留まらないように。
逃げなければ。これ以上、期待してしまわないように。
道から外れた平原を駆ける。
胸が苦しくて、足が重い。息は上がっている。視界は滲んで見えにくいが、まだ進んでいないはずだ。
見つからないように。捕まらないように。
もう二度と、他の誰かに期待しなくてすむように。
このまま二人のところに逝きたい。
その願い虚しく、乾いた音が鳴り響いた直後、聞きたくなかった声が聞こえた。
「ニクス!!」
声から遠ざかるように方向を転換する。
一瞬ののち、足が地面から離れた。
「うわっ……、ニクス、落ちつけっ!!」
首を横に振り、お腹に回された腕をばしばしと叩き、浮いた足でカルロの足を蹴る。
それでもがっしりと抱えられた腕の力が緩むことはない。
(お願いだからほっといてよ……!)
涙に頬を濡らしながら抵抗を諦めた。
それでも、変わらず拒絶を示そうと首を横に振り続ける。
「もう大丈夫だから」
なにも大丈夫ではない。
俯いて、髪の毛を引っ張りながら髪で隠す。
「怖いものはないから安心しろ」
弱々しく抵抗するけれども、やはりカルロは離してはくれなかった。
ほっといてくれないことが苦しくて、恐ろしいことが悲しくて、一言では言い表せない感情に、項垂れて肩を振るわせる。
完全に衝動が落ち着いた頃、アンジェリカは地面に降ろされた。
前に回り込んで片膝をついたカルロが、頬に残る涙の跡を拭う。
「街に行きたいか?」
首を横に振る。
「山に帰るか?」
こくりと頷いた。
再び抱え上げられた直後、唐突にカルロが横に飛び退いた。
三拍後、轟音と共に辺りの地面が抉り返され土が舞う。
「あれを避けるか。さすが、狼王と呼ばれるだけのことはある」
「……人違いだろう」
「そのような戯れ言に騙されるほど耄碌しておらん」
振り向こうにも、後頭部を押さえられていて首が動かない。
声や口調から察するに、有名な老年の武人なのだろう。
「あの魔力暴走を斬れるものなど、儂のほかに、お前さんくらいしかおらぬわ」
「…………評価はありがたく受け取っておく。それで、なんの用だ」
カルロの警戒心をむき出しにする。
あまりみない姿が落ち着かない。
「随分とその幼児が大事なようであるのう」
「……だからどうした」
「この被害をもってして、お前さんにその子の監督能力があると、誰が認めようか」
ひゅっと、息が詰まった。
あやしていたカルロの手も止まる。抱きかかえる腕に力が篭もった。
「俺より弱いやつに託すつもりはない」
「よく回る口じゃ、小童」
老人の声音が凄みを帯びた。
重く突き刺す空気が痛い。すぅっと指先から熱が消え、心臓が圧縮されていく。
息を殺したまま、アンジェリカは顔をカルロに押しつけた。
大きな手が背中を往復する。
「悪かったな、怖かったよな」
抜き身の刃のごとき声音から、いつもの落ち着いたこ声に戻ったのを聞き留めて、アンジェリカは恐る恐る顔を上げた。
「帰ろうか、ニクス。よく知りもせず体裁だけ気にする人間はほっといていい。俺が許す」
微笑を浮かべるカルロに心の底から安堵して、アンジェリカは小さく頷いた。
「なるほどのう。放浪して一所に留まらなかったお前さんが土地を買ったと聞いてなんの心変わりかと思えば、彼女のためか」
「人を恐れている子どもに無理させてまで連れ回す趣味はないからな」
申し訳なさと気恥ずかしさ、そしてありがたみが入り交じった顔をして、アンジェリカはぐりぐりと顔を押しつけた。
「よかろう。貸しひとつと覚えておくがよい」
「――安息香」
「なに?」
「近いうちに、恐らく剣術大会の裏で大きな取り引きがある」
「その情報は確かか」
カルロが歩き出す。
「風に紛れてあれの匂いがある。剣術大会には貴族も集まる。ないほうがおかしい」
「匂い、とな。ふむ、特に変わった匂いはせんがのう」
「信じないならそれでいいさ」
カルロに押しつけていた顔を上げて、アンジェリカはカルロの肩越しに背後を覗く。
筋骨隆々とした綺麗な白髪ご老人と目が合った気がして、慌てて顔を伏せた。
「なあニクス。本当に街に行かなくていいのか」
いつかは行けるようにはなりたいけれども、今はそんな気持ちになれず首を縦に振った。
「そうか。もしもこの先、やりたいことができたなら応援する。行きたいとこがあるなら連れて行く。……ニクスは巻き込まれた方だから言っても仕方ないけどよ、……起きたら居なくて肝が冷えた」
普段と比べて覇気のない声色に軽く目を瞠る。
「喧嘩することもあるし、気に入らないことも出てくると思う。それで一人になりたいこともあるだろうさ。でも、勝手にいなくなるのだけはやめてくれ」
目の届かないところで、取り返しのつかないようなことになるのはごめんだ。
そう告げるカルロの顔を見ようと、上体を起こした。
感情の見えない、凪いだ面持ちでカルロが真っ直ぐにアンジェリカを見つめる。
「お前の居場所はお前が決めろ。手助けならばいくらでもするから、お前らしくいられる場所を選びとれ」
(わたし、らしく……)
自分らしいとはなんであるのかはわからない。
けれども、今の不甲斐ない自分を赦された気がして、鼻の奥がつんと痛んだ。
時折恨み言が顔を覗かせるけれども、ふとした拍子に見せる寛容さに溺れてしまいそうになる。
大丈夫だよ、ちゃんと自立するから、と伝えたいのに、あやさている感覚が心地よくて瞼が重くなる。
きちんとした室内をぼんやりと眺め、目を剥いた。
「うん、悪い」
体を強ばらせた直後、上から降ってきた謝罪にアンジェリカは仰ぎ見た。
疲れたようにカルロが肩を落とす。
「帰るつもりだったんだけど、神獣を放置しておく訳にもいかなくてな。本当にすまない」
どういうことか尋ねようと筆記具を探し、はたりと思い出した。
始めから鞄を持ってなかったわ。
「これか?」
今まさに探していた鞄が差し出され、アンジェリカはぱっと目を輝かせた。
(またリクハは、この匂いに関係してなにかするつもりなんですか?)
「乗り気ではあるが、それでもリクハは強引にでも連れて帰れるからいい。問題はドラゴンだ。止められるとは思えないが、知ってて遠くで放置しておくのはちょっとな……」
語尾を濁すカルロの心中を察し、アンジェリカは首を小さく縦に振った。
『お部屋に引きこもります』
「……もう少し、物わかりが悪くても良いんだぞ」
『しばらくお外はいいです』
カルロが沈黙した。
喉の奥で唸る声が聞こえる。
「知らないところで首を突っ込んだり巻き込まれたりしてるから、ニクスからも目を離したくはないが、そうするとリクハが……くっそ、体が二つ欲しい……っ」
心のそこからの嘆きに、アンジェリカは不服そうに唇を尖らせた。
巻き込まれたくて巻き込まれているわけではないから納得はいかない。納得はできないが、心配をかけている自覚はあるため大人しくしていたいと思う。
だから是非とも巻き込まれを回避する方法を授けて欲しい。
「落ち着くまでずっと抱っこしてたらだめか?」
(いや、現在進行形でしてるじゃないですか。起きてたらこれってことは、寝落ちた後もほぼ抱えられてたってことですよね)
心の中で思わず突っ込む。心なしか過保護に度がかかっていることは少々気にかかるものの、先ほどの魔力暴走とやらだけが原因ではないだろう。
カルロの意図を正しく汲んでアンジェリカは紙を黒いインクで彩った。
『安息香、でしたか? この前のようなことが起こるとしたら、私が近くにいたら足手まといでしかないと思います』
「なら背負う」
そういう問題ではないのだが。
胸の内で突っ込みを入れて、アンジェリカは考えるように腕を組んだ。
足手まといはごめんであるし、人混みは嫌だし、引きこもって二次創作しているほうが実に有意義である。
リクハは心配だが、前例がある以上彼の抑止力になれないだろうし、体力なくて精神面も不安定である人がすることは休むことであって、今の自分にできることといえば。
(いざというときは、ちゃんと私を置いてってください)
「…………………………………………わかった」
不承不承ながらも、カルロは頷いた。
戦える者がきちんと戦えなければ、守るべきものも守りたいものも守れない。
それをカルロが理解できないわけがなかった。
「そんなことにならないことが、一番いいんだけどな……」
まったくである。
重々しい様子でアンジェリカは頷いた。
『その、肝心のリクハとドラゴンは今どこに?』
「あいつらなら隣の部屋で作戦会議って言っていたが……やけに静かだな」
アンジェリカを抱えたままカルロが立ち上がる。
扉の戸を叩いた。予想に反して返答がない。
二人は顔を見合わせた。
「開けるぞ」
やや切羽詰まった声で取っ手に手を掛け、カルロは扉を開けた。
開け放たれた窓から吹き込む風がカーテンを揺らす。
(あらまあ)
「ドラゴンはともかく、あのアホ梟……!」
室内を見渡したニクスが、抱えているカルロの腕を叩いた。
指し示したアンジェリカの指先を追ったカルロが訝しげな顔をする。
室内に不自然に落ちている米もどき。
それは線を描くように窓へ続いていた。
「これは、リクハか? なら勝手な行動をしたのはドラゴンのほうか。この前のことといい、好き勝手やってくれる」
アンジェリカは静かにカルロから視線を逸らした。
「ニクス、追いかけるから準備してこい」
床に降ろされたアンジェリカは素直に外套を羽織る。
室内を検め、窓の外から顔を覗かせ周囲を探るカルロを見つめながら、アンジェリカは聞こえてくる喧騒にそっと嘆息した。
したいことがあるのはいいけれども、周囲の迷惑を考えてほしい。
身支度を終えたアンジェリカは重い足取りでカルロに近づき、服の裾を引っ張った。
「よし、行くぞ」
(え? あの、そこ窓……っ!)
軽々とアンジェリカを抱え上げ、カルロは窓に足をかけ空へ跳んだ。




