第48話
「だめだからな?」
『そこをなんとか、一口だけでも』
「だめなもんはだめだ」
『舐めるだけでも』
「だめだって。そもそも、これも買った物で、俺やリクハが作ったものじゃないから無理だろう」
『大丈夫です、酒はもとより毒なので。誰が扱おうが毒は毒です』
「そういう問題じゃねし、毒とわかっててなおさらねだるなっ」
カルロの語調がやや荒くなり、アンジェリカは口角を僅かに下げた。
どこぞの地方の幻のお酒。ドラゴン用のお土産の他にもう一本余分がある。カルロの背中に隠された幻の酒があるであろうあたりを凝視した。
カルロがお酒を飲む様子はほとんど見たことがない。強いのか弱いのか、そもそも嗜んでいるのかさえ知らない。仮に嗜んでいたとしても、自分が寝た後に飲んでいるならば、カルロがお酒を飲んでいる姿を知りようもない。
特にお酒がどうこう思うことはなかったが、目の前に珍しい物があれば飲んでみたいと思うのが人情。
「あと五年は待て。成人してからだ」
『二、三年です。平均寿命から言えば誤差の範囲内、一口も誤差の範囲内ということにしておきましょう』
成人、とくに二十歳以上と比較しても未成熟な体では、脳や内臓、時には精神面への影響は大きいことは理解している。だが、お酒の楽しさを知っている魂が渇望している。もともと、ストレスの解消の手段として利用していたことが、大きな要因なのだろう。
冷静に精神的な渇望を分析しながら、言葉を失っている様子のカルロを観察する。
そんなに驚くようなことを書いていないはずなのだが。
文字を検分するアンジェリカに、カルロはそっと問いかけた。
「三年くらい、盛ってないか?」
言葉の意図を理解できなかった。
なにを言ってるんだろう、この人。
「十歳に満たないくらいだと思ってたんだが」
その一言に、はっと目を見開き、自分の体を見下ろした。
きちんとした食事を摂取できるようになっているとはいえ、肉は少なく、骨と皮ばかりが目立つ。肌も血色がいいとはいえず、乾燥もある。
成長に必要な栄養が不足していることは言うまでもなく、まともな成長が阻害されいてもなんら不思議なことではない。
言葉にならないもやもやを抱えつつ、アンジェリカは淡々と紙に文字を書き付けた。
『帝国暦三四二年時点で七歳相当だったので、三三五年生まれではないかと思われます、たぶん』
「――そうか。なら今は十三か」
成長に関してはもう少しまともに食えるようになれば改善されるだろうし、人間の体なんてある程度適応できるようになっている。そう考えているアンジェリカは、カルロほど悲観はしていない。
それよりも今は、改めて気づかされた事実にただただ驚きを隠せないでいた。
わっか。若いわ。まだそれくらいの年齢なの? 心持ち二十後半なのだけれど。なんなら三十後半でもいいのだけれど。
と言うことは。
(カルロが約二十歳!? うわー、そっかあ、あのカルロがねえ。大きくなるわなあ)
まじまじとカルロを見あげた。
成人は十五だ。それは平民でも変わらない。改めて考えると、それ以前から幼女抱えて生計立てていたカルロは、かなり規格外だ。それもこれも巫というその特殊性が能力に影響しているのだろうか。
カルロ個人の潜在能力が高かったからなんとかなっていたのだろう。
(カルロの残したあれはある程度お金にはなったと思いたいけど、不確定だし改めてなにか慰謝料を用意すべきかな)
ずん、と胃の辺りに重石が沈む。
成人まで二年弱。カルロから自立するタイミングとしては良い機会のひとつ。
未来がどう転んでいくのかは知らないけれども、彼らのもとに行く望みが変わらない以上、そのタイミングならばいなくなっても気を遣わせすぎることはないだろう。
(余裕ないな)
理想は、過去と現在の賠償と精算だ。だが、多少改善したとはいえども精神面が奈落の底にあることは変わりなく、現実的とは言えない。
できることとすれば、過去は過去と割り切り、現在における諸費用の精算なのだが、そっくりそのままお金で返すのはきっと角が立つ。
現金化もできるようななにかがあればいいのだが、やはり思い浮かぶわけもなく。
「なあニクス」
唐突にカルロから名を呼ばれて、アンジェリカはびくっと体を震わせた。
それに驚いたらしいカルロが小さく声を上げて体を仰け反らせる。
すぐさま謝罪を述べたカルロに首を横に振り、アンジェリカは頭を下げた。
カルロは視線を合わせるように膝をつき、迷うような顔をしつつ言葉を紡ぐ。
「もしも、俺に迷惑をかけてるとか、貰った分を返さなきゃいけないとか、そんなことを考えてるなら、そこは気にしなくていい」
息を飲んだ。
今まさに考えていたことを言い当てられるとは思ってもいなかった。咄嗟に取り繕う事ができず、目が泳ぐ。
やっぱりか、とカルロが小さく呟いた。
そんなことないよと、嘘でも否定できたら良いのだが、手が動かない。
「見返りは求めてない。なにも返さないからといって追い出しもしない。お前はまず、ちゃんと受け取るべきものを受け取れるようになれ」
まっすぐに見つめてくる瞳を直視できなくてアンジェリカは首を横に回した。
手に持っているペンを握り直すが、紙に書く言葉が見つからず、すぐに腕を下ろす。
受け取るべきものってなんなのだろう。
善意か。厚意か。悪意や害意ではないそれを、なぜ素直に受け取れるのか。
口では対価はいらないと言いながら、なにかしら期待を抱いているものだ。あとでなにかを言われるくらいなら、きちんと対価を払っておきたい。
カルロを信用していない後ろめたさに、アンジェリカは筆記具を抱えて俯いた。
利害関係といえばそうなのだろう。ならばそれで割り切ればいいものを、どうしてこう申し訳ないような心苦しいような感情を抱くのか。
隠しごとがあることへの恐怖か、それとも諦念や馬鹿げた恨みがそうさせるのか。
アンジェリカはうつむき、手のひらで喉元を覆った。
くっと軽く力を込める。指先にとくとくと拍動を感じる。喉の奥から頭に駆けてじわじわと鈍いしびれが頭をのぼる。重く沈んだ心に、絞扼感が心地よい。
緩やかに力をさらに込めていると、突然腕を掴まれ、首元から手を引き剥がされた。
絞扼感が失われ、頭のしびれが一瞬にして消失する。
得も言われぬ喪失感にアンジェリカは肩を落とす。
「自罰的なことはするな。自分で自分を傷つけなくていい。なにが不満なのか、なにが気に入らなかったのか、言葉にしろ。ちゃんと聞くから」
アンジェリカは蠢いたどす黒いなにかを塗り固め、封じ込めるように瞑目する。
深呼吸をひとつして、書きやすいように紙を持ち直す。
腕を握っていた手が緩み、アンジェリカはその手で文字を紙にインクを滑らせた。
『わがままを言ってすみませんでした。お土産ありがとうございます』
努めて普段のように振る舞い、アンジェリカはカルロに背を向けた。
その背にある拒絶に、カルロは伸ばした手を握りしめ、ゆっくりと下ろす。
隠れるようにドラゴンの陰に入り、掛け布を頭から被る様子に、カルロはため息を飲み込んだ。
代わりに、どうしようもない苛立ちとやるせなさにがしがしと頭を掻く。
袖を後ろに引かれ、カルロは首をめぐらせた。
不安げな顔で自分とアンジェリカを見比べるリクハに、喧嘩したわけではない、と弁明する。
「…………ずっと、そうなのだ」
ぽつりと、リクハが呟いた。
アンジェリカが布団に閉じこもった方向を見つめ、カルロは問いかける。
「なにがだ?」
「大姫はそこにいるけど遠い。ずっと、ずぅっと、そうだったのだ。でもにいとねえだけは許された」
リクハの口から初めて聞く『にい』『ねえ』という存在は神獣であるのだろうと当たりを付ける。
神獣に名はない。それ故におおくはその形のもととなった生物の名称をつかったり、あるいは単に先輩後輩という呼び方を使う。
『にい』『ねえ』と呼ぶその二人は、リクハとは特に親しかったがゆえの呼び名であることは想像にたやすかった。
「一緒に居たから、拠り所としてあったから、許された。だからリクハは、許されない」
普段の溌剌としたリクハからは想像できないほど、その顔は重く沈んでいる。
「完全に気を許して貰ってないのは、俺も一緒だ」
慰めにもならないような事実を言葉にして、カルロはリクハの頭を撫でまわした。
食事を摂るくらいには認められているようだが、そこから先、より彼女の意志に近づこうとすると途端に覆い隠されてしまう。
それが自らを守るための対処方法だったということは理解しているし、時間をかけるしかないことも承知している。
だが、悩まずにはいられない。
「許して貰ってない、というか、今まで積み重ねてきた信用があの一瞬で更地に還った気がするんだよな。どこが間違いだったんだ……?」
「大姫といい、剣の子といい、人の寝床で湿っぽくて叶わん」
苛立ちを含んだ声音にカルロは首を廻らせ、目を剥いた。
浅黒く精悍な面立ちの男だ。風もないのに揺れる、腰まである深紅の髪。左耳の前の一房は漆黒に染まっている。金色に輝く双眸。どこかの民族衣装であろう、露出の多い出で立ち。
人とは思えぬ美貌。だがリクハと同じ気配。
「ドラゴンの神獣、か?」
「そこの未熟者にできて我にできぬことなどない」
ふん、と彼は鼻をならす。
人の姿で過ごすリクハについて威厳がどうこうと語っていたわりに、うまく変化できないことを根に持っていたらしい。
得意げにふんぞり返るドラゴンと噛みつくように言い返すリクハを、カルロは温かい心持ちで見つめた。
「ニクスにその姿を取ってたって、いいつけてやるのだ」
「寝ているゆえに問題にはならぬ」
「泣かせたくせに」
「ニクスを泣かせた?」
聞き捨てならない一言に目をすがめたカルロに、ドラゴンを明後日の方を向いた。
「あれが勝手に泣いただけだ。うざったいほど流れてくる思念、そこの未熟者同様具現化しただけだというのに、『解釈違い』とそればかり。意味がわからぬ」
ぐちぐちと文句を垂れ流しながら、男は酒瓶を開けた。
直接口をつけて豪快に煽る。
「リクハもわからないけど、でもニクスは泣いたのだ」
「そうであろうな。普段流れてくるあの思念を感じ取れぬほどの未熟者が、我より先に理解できるはずもない」
「未熟者でも、理解できなくても、リクハのほうがニクスといる時間が長いのだ。老輩には負けないのだ」
ドラゴンは無言で凄む。
リクハはそっぽを向いて、カルロからこっそり受け取り鞄に隠した酒瓶を取り出し、蓋を開けた。グラスをひとつ用意する。
「俺も」
「兄、また潰れるのだ」
「…………一杯だけにしておくから今日くらいだめか」
カルロの表情には覇気がない。
そういう時ほど飲んで欲しくはないのだが、そうしなければしばらく眠れない日々を過ごすことになることも知っている。
「度数の強いお酒だから半分なのだ」
「ああ」
もうひとつグラスを用意してお酒を注ぐ。
グラスを合わせて、カルロはちびりと酒を口に含んだ。
リクハはドラゴンに負けず劣らず、グラスに入ったお酒を一気に飲み干す。
未成年に見える姿だが、その実、リクハはカルロよりも長寿である。神獣からすれば60年など幼児に等しいが、それでも成人を超えていることに変わりはない。
なにより、酒には酔わないらしい。
「にっが……」
呟きながら、カルロは思案顔で酒を口に運ぶ。
同じく無言で風味を楽しんでいたドラゴンは、思い出したように声を上げた。
「剣の子よ、ひとつ聞くが……ん? なんだもう落ちたのか」
「お酒に弱いから仕方ないのだ」
座ってグラスを持ったまま寝息を立てているカルロから、リクハはグラスを取り上げた。
枕を用意して、ゆっくりとカルロを横たわらせる。
一仕事を終えたリクハはじっとカルロの寝顔を見つめ、グラスに残っていたお酒を一気に呷った。
「今まで飲んだ中では三番目くらいの味なのだ」
「ならば次は一番を持ってこい」
「気になるなら自分で探しに行けばいいのだ」
「未熟者のくせによく吠える」
ドラゴンは不遜な態度を崩さない。
一方のリクハも無愛想な態度を貫く。
「人の姿をとれるようになったのだから、人に紛れて自分で買いつけに行けば良いのだ。ニクスを泣かせた老輩なんて……あっ、リクハのお酒を返すのだ!」
開封されたまま置かれていた酒を呷り、ドラゴンはご満悦の表情で酒瓶を地面に置く。
空になった容器を愕然と見つめるリクハがぽろぽろと涙をこぼす。
「この姿は風味を長く味わえるのがよいな。なにを泣いておる」
「老輩の尻尾の丸焼きにされてしまえばいいのだぁぁぁぁぁ」
梟姿に戻ったリクハが洞窟の外へと一目散へ飛んで行った。
「……千鳥のやつめ、若輩になにを教え込んでおるのだ」
苦虫を噛みつぶしたような顔で、ドラゴンは呻く。
質の良い酒を飲んで良い気分だったというのに、思い出したくもない記憶が掘り起こされて機嫌が損なわれてしまった。
本来の姿に戻り、尻尾を地面に叩きつけようと持ち上げて、はたりと気づく。
近くで聞こえるふたつの寝息。洞窟が崩落することはないが、眠りを妨げてしまうだろう。
渋々尻尾を下ろし、ゆっくりと腹這いになって前足に顔を乗せる。
「自分で探しに行く、か。――人の姿をとれるようになった今、あの若輩のごとく浅慮なことさえしなければ紛れ込むことも可能。ふむ」
リクハの発言から着想を得たドラゴンは瞑目し、思慮をめぐらせた。




