第47話
(………………一回三途の川で頭を冷やしてきたい……)
本を抱えながら顔を両手で覆い、アンジェリカは大きく息を吐いた。
題名からして、前世を容易に想起させるものではあるが、それよりも内容でありキャラクターだ。
一言で言えば性癖に突き刺さった。じわじわと気づいたらいつの間にか沼に落とされることもあるが、今回はものの見事に性癖の中心に刺さって抉り取られた。
(一番好きな台詞と同じことを、レノ様が言ってるだけでもう、もう……!)
顔、性格ともに推せるのに、そんなことを言われたら落ちるに決まっている。
瀕死に陥ると分かっていながらお気に入りの場面を探して本を開き、息も絶え絶えに地面に伏す。
(続き、続きが欲しい。買わねばならぬがどこにある? 本屋に行けばある? でも、ひとりで山を降りるのは現実的ではない。なんでこの世界通販ないの?)
空気と化しているドラゴンのことなど頭になく、アンジェリカは人様には見せたくもない姿で悶え苦しむ。
(あぁぁぁぁぁぁ貢ぎたい、推しに、推しを生み出した先生に貢ぎたい公式はどこですか。グッズ販売ないですよね知ってる。自分で作るしかないのも知ってる)
深く長い息を吐いて、鞄の中を覗いた。
作れそうな物と自分の知識を照らし合わせ、アンジェリカはおもむろに紙とペンを取り出した。
(やっぱりまずは妄想から)
久しぶりに初心に返り、二次創作を堪能する。
書いたり描いたりモチーフを作ったり、余暇を堪能していたアンジェリカは、半月ぶりに帰ってきた人の気配に跳ね起きた。
想像していたよりも早い。なにがあった。
「ただいま」
「……ただいまなのだ」
リクハを抱えたカルロが顔を出す。
やや虫の居所が悪そうなカルロと、不服そうなリクハに目を瞬いた。
本当になにがあった。
書き連ねた面を下にしておき、立ち上がる。
床に降ろされたリクハは無言でむくれながら洞窟の隅に座り込んだ。
「悪いな。ちょっと色々あったんだ」
首を縦に動かし、アンジェリカはカルロの服をくいっと引っ張った。
こういう空気は話題を変えるに限る。
次にカルロにあったら伝えようと思い、あらかじめ描いていた紙面を胸元に掲げた。
『続きを買いたい本があったので、ちゃんとお金を稼げるようになって、買いに行けるようになりたいです』
「無理せずとも俺が買ってくるぞ?」
首を横に振った。
違う。そうじゃない。店頭になければ通販は良いけど、そうじゃなかったら、まずは自分の足で見て探し回って自分で入手するあの感覚がいいのだ。
徒労に終わったら不機嫌になることもあるけど、それを乗り越えて得られた喜びのままに本の世界に浸ることこそ至上。
と、言っても娯楽に乏しい世界で理解されるとは到底思っていないので、首を横に振って否定するだけに留めておく。
「……こんなに早いと思わなかったが、せっかく外に出たいって言うなら連れてってやりたいが、今は時期が悪いな」
渋面をつくるカルロに、アンジェリカは首を傾けた。
カルロの視線がふて腐れているリクハを捕らえる。
部屋の隅から盗み見ていたらしいリクハがあからさまにそっぽを向いた。
「牛の神獣の件で、神獣は魔獣と変わらないという連中と、神獣は尊い存在として崇めてる連中の対立が進んで、かなり空気が悪い」
リクハを見ながら告げるカルロの声が、やはりいつもより刺々しい。
自分が怒られているわけではないのは理解できるが、ちくちくと刺々しい空気が痛くて、アンジェリカは目を伏せた。
この前、神獣の一件があったばかり。二人の様子をみてそれがらみだとなぜ気づかなかったのだろうか。気づけていたら掘り起こすようなことは言わなかったのに。
「すまない、ニクス。その空気もあってか、魔王がまだ生きているとかいう噂も立っているみたいでな」
もともと、今いる山も神獣の伝承がある場所のため、近隣の街や村でもお互いが牽制しあっているそうだ。
「周辺が落ち着いたら、一緒に買いに行こうな」
静かに首を縦に振った。
慰めるように、カルロの手がゆっくりと頭の上を往復する。
どうしてこう、無力なのだろうか。
せめて自衛できる力があればカルロも少しは安心できるのだろうけれども、武器はもってのほか、魔法も使えない。
得意とするものは何もなく、お荷物になるばかり。ならばせめて、迷惑にならないよう、そしていつかきちんと独り立ちできるように準備はしておかなければならない。
(……と言っても、街に出られない以上、できることなんて大人しくここに引きこもってることくらいなんだけど)
できることをすることも大事ではあるが、堂々めぐりになる思考に頭を抱えたくなる。
「お金については、そうだなあ。安定した収入をと考えると、弟子入りして手に職をつけることなんだが、大体住み込みが多いな」
通うことも可能であるが、自分の家をもつことがまず困難だ。
空き家があれば借家という形で入居ことも可能だが、都合よくはいかないことが多い。そうすると土地の権利を借り受け、家を建てる必要がある。
『接客業が難しいことは理解しています。可能性があるとしたら製造業に関すること、あるいは商家などで事務などの裏方作業かと。ただ、事務作業についてはそれに関する知識が乏しいので、こちらの採用も極めて困難であると考えてます』
「俺をうまく利用すれば、城仕えや貴族の使用人という選択肢もお前にはあることにはある」
『それは無理です』
カルロの提案には全く心が惹かれなかった。
誰かを主人と仰いでそれに唯々諾々と従うのは無理。高給取りだとしても、自分には向かないことくらい理解している。
「だろうな。どこか下町でっていうなら、読み書きできるだけで重宝されるから、就職先次第だ」
カルロの言葉にぱちりと目を瞬き、訝しげに首を傾けた。
紙の流通はそれなりにあるのに平民の識字率は高くなく、本も少ない。なんとも奇妙な世界だ。
まさか、実はこの紙とインクもかなりいいお値段なのでは……いや、それだと昔からカルロが入手できていたことに矛盾するな。そこまで余裕はなかったはずだ。
仮にあったとしても、彼なりにやりくりしているのは見て知っている。高かったら渋い顔をされるはずだが、そんなこともなかった。やはり昔から入手しやすいものだったのだろう。
『わかりました。もう少しどうするか考えてみます』
「それがいい。それと、今度からニクスにひとつある役目をお願いしたいんだがいいか?」
「兄! リクハは絶対に認めないのだ!」
唐突な話題の転換に顔を上げた。
なにを読み取ったのか、今まで沈黙を貫いていたリクハが眦を釣り上げて不満を訴える。
そんな彼を一瞥して、カルロは微笑を浮かべながらニクスに向き直った。
「もうしばらく出なければいけないんだが、今度からリクハは置いていくことにした。勝手に飛び出して神獣狩りにつかまらないように見張ってて欲しい」
笑っては居るが、言動に薄ら寒いものを覚える。
おずおずと、紙面に言葉を綴る。
『つかまった、あるいはつかまりかけたのですか』
「遭遇して、制止もきかずに突撃した。そこにいた部隊は壊滅させたが、リクハが神獣ってばれた以上、どこで話が伝わっているかわからない」
それはつまり、リクハが狩りの対象として敵に把握されたということ。
人の形をとって紛れて暮らしているとは言え、見逃してくれるとは思えない。
人を誑かし弄ぶ存在と大げさに言う者も出てくるだろう。
ざわりと、胸の奥でなにかが蠢く。
「この山の一部を所有地にする手続きは進めてるから、それさえ受理されればもう少し安心できるんだがな」
(…………ん?)
唐突にものすごく突拍子のないことを言われたような気がする。
『しょゆうち?』
「あぁ」
『ここの土地を買った?』
「そのほうが都合がいいからな」
『山ですよね?』
「そうだな」
『一部って、山脈のどこからどこまでです?』
「ここから東西にそれぞれ二山くらいだな」
絶句した。思っていたよりも遥かに広い。
洞窟周辺や山のうん合目から山頂までというのを想定していたが逆だった。
(なにしてるのこの人)
平然としているカルロが信じられなくて茫然と見つめる。
規模が違いすぎて、思考の再起動にはしばらく時間を要した。
ようやく衝撃から抜け出せたのは、食事を摂って早々にカルロが再び出発するという時である。
ごねているリクハを抱きしめながら、ぱたぱたとカルロに手を振った。
三ヶ月後。
長い不在からようやくカルロが帰ってきた。
連絡を取る手段もなく。なにかあったのではないかとひとりそわそわして、その度にリクハになだめられ、ドラゴンにうっとうしがられたのは記憶に新しい。
元気そうな姿に口元を綻ばせ、ニクスはててててて、とカルロの元に駆け寄った。
『おかえりなさい』
「ただいま。随分と便利道具が増えてるな。それに、どうやって髪の毛をまとめてるんだ?」
カルロの問いかけにニクスは首をめぐらせた。
そしてから気づく。後頭部が見える訳がない。
カルロが返ってくるまでの間、必要に迫られていろいろと作り上げた。
例えば、机や椅子、よく使うものを収めた収納棚など。櫛や簪も同様だ。
それら全てはリクハ、そして怠惰そうに見えてなにかと世話を焼いてくれたドラゴンの協力なくしては成り立たなかった。
新しい紙面にニクスはインクを滑らせる。
簡単に手順を描いてカルロに見せた。
「まとまるもんなのか?」
ニクスは髪に挿していた簪を引き抜いた。
固定を失った髪がパサリと落ちて髪にかかる。
時折ひっかかりつつも手ぐしで軽く整え、ニクスは同じように髪をまとめて見せた。
「器用だな。よくそんな方法を思いついたものだ」
「ニクスだからなのだ。おかえり、リクハは忘れてないのだ」
遠目からじっとりとカルロを見ていたリクハが、構って貰えないことにしびれを切らしてカルロに寄った。
頭を撫でられ硬直していたニクスは、カルロの意識がそれたのを見て、静かに下がる。
「お前が突撃するからだ。まあでも、無事に手続きは終わってある程度仕掛けも終えたから、山の中は自由にして良いぞ」
お出迎えとともに与えられた情報。三拍の後、アンジェリカは考えることを放棄した。
冗談とは思えない冗談、あるいは少し誇張した、などいろいろ疑っていたが、本当に買ったらしい。
「お土産はちゃんと買ってきてるから機嫌を直せ、リクハ」
「…………リクハを満足させられたら許してあげないこともないのだ」
元はと言えばリクハの自業自得なのだが、そのふてぶてしい態度にカルロは呆れながらも柔らかな笑みを向ける。
カルロはともかく、山を購入したという規模をリクハは理解しているのかしていないのか。おそらく後者であり、ドラゴンも人の事情に興味はない。
(規模が違いすぎて未だに意味がわかんないけど、まあ、いいってことにしておこう)
誰も気にしていない中で、自分の感覚だけが異なると、まるで自分が異端のように思えてしまう。だから、そういうものとして受け入れることが精神衛生上、一番良いのである。




