第43話
リクハとその傍らで丸くなるニクスを、カルロは見つめていた。
あの日、上空を本来の姿で飛ぶリクハを追いかける何者かの気配を察し、魔獣を倒してからいくらか遅れて追跡した。
そして、胸を抉るような悍ましい力が奔流するその場所に一同はいた。
二本の矢に射抜かれたリクハを腕に抱きながら佇むニクスと、彼女の放つ魔の気配に当てられて弱り果てた牛の神獣。そして、どろどろに溶けて骨すら残らない人だったもの。
紫色の瞳を爛々と輝かせるニクスは、けれども、しっかりとカルロを認識していた。彼女に預けられたリクハを神獣に預け、カルロは単身ニクスを追った。
骨さえ残さぬ高温の炎。その周囲は草木の残骸もないが、そこから少し離れた場所は残骸が形がわかる程度には残っていた。
魔王は世界に災厄をもたらすと言われている。けれど、それだけが全てではないのだろう。
あの時のニクスは、その力の矛先を確かに選択していた。周囲の被害は強すぎる力ゆえの弊害。
そして、リクハをカルロに手渡した行為。
保護した時とは違い、彼女の怒りは外へ向いており、暴走していたと言える。それでも、窺い知れた理性ある様子にカルロは賭けた。
そして、勝った
正気に戻った彼女はなにも覚えていない様子で、カルロは事実を伝えることにためらいを覚え、なにも告げられなかった。
その時のニクスの様子について、守り神と崇められている神獣は言った。
遠くないうちに今のままでは魔王として存在が固定化する、と。
それを止めるには、彼女自身が自覚し、這い上がるしかない。
人を傷つけ貶めることを自らに許したら、這い上がることは難しい。
それは他者だけではなく、自分自身へ向けるものも含まれる。
怒り。無力感。罪悪感。自責。それらも自らを苛み、魔の呪いに囚われる。
椅子の背もたれに寄りかかり、カルロは天井を見上げた。
「……救え、じゃなくて殺せ、という意味だったのか?」
小さな呟きが静寂に溶ける。
守り神は言い募った。
魔王となって被害が甚大なものになるより前、今のうちに殺せ、と。
フィーテが受けた神託。魔王になりかけていたニクス。
啓示の内容は、本当のところ詳しいことは知らない。保護しろというのは、自分たちの解釈違いであるかもしれないのだ。
あの時、殺せと言われていたならば、迷いつつも手にかけただろう。
けれど、出会ってしばらくともに過ごせば情が湧く。まだニクスがニクスであるならば殺したくはない。
「本当に、あの時正気に戻ってくれて良かった」
戻らなければ、あの先にあった村も焼け跡しか残さなかっただろう。そうなる前に、殺してでも止めなければならなかった。
首から提げたままのお守りを目の前に掲げる。
「……これみたいに、お前も昔と変わらなければよかったのにな」
お守りから発せられた清く涼やかな力がニクスを正気に戻した。原理は不明だが、少なくともカルロはそう思っている。今までも、それに幾度となく助けられた。
いつかその時がきたら、あの非常識の具現一式とポーションで得た利益を突き返してやろうと思っていることに変わりはない。
でもそれだけはどうしても他のものと一緒にはできず、未練がましく持ち続けていた。それもあの日、記憶とともに埋めるはずだった。
なのにまだ手放せないでいる。
お守りを握りしめた手の甲を額に当てて、深くため息をついた。
「神獣狩り、か」
呟いて、横目で視線を二人に戻す。
魔王になりかけの巫。神獣狩りの対象であり、存在を知らしめてしまったリクハ。
顔が割れた以上、今まで以上にリスクの高い旅となるだろう。
「こうなってくると、せっかくつけてもらった都合も難しいか」
本店がダメなら信用のおけるものに国外の支店でニクスを預かってもらうのはどうか、ということについて手紙で相談していたが、事情が変わった。
商会長であるガルウェンにも話を通していたが、彼もなんとなく察しているらしく、その件について言及してくることはない。
逆に考えて、本調子ではないリクハをどこかに預けるという案もある。
どれほどの神獣がまだ神獣として存在しているのかはわからないが、数はあまり多くはないのだろう。少なくともカルロが居場所を把握しているのはこれで三体目。同じ場所にいれば守りもやりやすいが、落とされた時のリスクが高すぎるという難点があった。
昔、今となっては僅かな時間をともにいた二匹は姿を消して久しい。彼女の所にいるものだと思っていたが、ファイン曰く、彼女の元に神獣の姿も気配もないという。
「お前がばかなことをしてるのは、ふたりを失ったことへの報復なのか?」
その問いに答える声があるわけもない。
「………やりなおせるなら、やりなおしてえな……」
それは叶わない夢だ。仮にやり直せたとしても、やはりあの頃の自分では権力に勝る力を手に入れることが困難。同じ筋道を辿ることになる。
「あと二年弱、か。警戒してうろうろするより、ほとぼりが冷めるまで姿を隠してた方が賢明か?」
隠れたところで、神獣狩りがとまることはない。
自分とリクハだけならば今まで通り放浪を続けても、よほどのことがない限り対処はできるだろう。
ただ、ニクスも一緒となると、恐らく彼女がもたない。
腰を据える、とまでは行かなくとも、ある程度落ち着ける場所を考えるべきだ。
そうすると、今度はどこに居を構えるか、という問題が出てくる。
どこの国にも属さない場所がないわけではないが、その場所に辿り着くのもリクハや彼女だけでは難しい。それができるのはカルロを除いても片手で足りるくらいだろう。
「…………そこさえ目を瞑ればありか。日用品や食料の類はあれに詰めておけば、かなりの量が用意できるし」
ただ、それだけの量をカルロの名で集めたとなると、それはそれで注目を集める。無理ばかりをお願いしていて申し訳ないが、ガルウェンに頼むしかない。
ニクスには不便をかけるが、やはり療養という意味も込めてのんびりしたほうがいいだろう。
いかにして人も国も欺くか。目を閉じて熟考するカルロの耳に衣擦れが届いた。
寝ぼけた様子でベッドの上に座るニクスが眠そうに目を擦る。
宙を見るようにしばらくぼんやりとしていた彼女は、再び上体をベッドに沈めた。
その格好のままリクハにずりずりと這い寄り、擦り付けるように頭を動かす様が見える。
やがて満足したのか、上体を起こしたニクスが体の向きを変えた。顔を上げた彼女と目が合う。
「…………」
見つめ合うこと三拍。
視線を逸らしたニクスはいそいそと背を向け、頭から掛け布をかぶった。
カルロは笑いを押し殺した。
恥ずかしかったのだろう。
野営のときにも似たようなことはしているので今更ではあるのだが、それを言うのは少し不憫だ。
カルロはニクスに声をかけた。
「お腹が空いてないか」
ちょうどよく、くぅ、と彼女のお腹が返事をする。
カルロが作ったものも、少しは食べられるようにはなった。だが、リクハほどではなく、作っているところを見ていなかったものについては、体が拒絶を示す。
すでに日はのぼっている。
自分たちの食事については、場所を借りて作ることの許可は得ている。ゆえに、ニクスが目覚めるのを待っていたのだ。
「準備してこい。リクハのことは気にするな。ここはあの牛の神獣の力が満ちた場所だ。なにかあれば彼女がすぐに知らせてくるだろう」
掛け布が揺れた。
しばしして、顔を覗かせたニクスが慎重に床へ降りる。
部屋の外に出たカルロは壁に寄りかかってニクスを待つ。整容を済ませた彼女とともに、本館の裏口から厨房へと向かった。
紙袋に入った白い粒をじ――――――っと見つめて動かないニクス。
裏から厨房に入った際、彼女が蹴躓いた原因がそれである。
熱心に見つめる理由がわからず、カルロは問いかけた。
「それが気になるのか?」
首を巡らせて顔を上げたニクスが小さく頷く。
すぐに白い粒に視線が戻された。彼女の関心を惹きつけるそれに、カルロは近くにいた者に問いかける。
「あれはなんだ? 初めて見るが」
「ルズベリー国から海を渡った先にある島国からの輸入品だそうだ。主人が研究のために取り寄せたが扱いづらいしおいしくもない。だから捨てるものだ」
『いらないのですか』
聞き耳を立てていたニクスは、その料理人に紙を掲げた。
「あ? なんだそりゃ」
「あー…いらないのか、って聞いてるらしい」
「そりゃあ捨てるやつだからな」
『隣の瓶のやつも?』
訝しみつつカルロは描かれていることを通訳する。
「それも捨てるやつだ」
『全部いただいても?』
「全部? 食えるのか?」
思わず問い返したカルロに、ニクスは首を傾けた。
『試してみないことにはわからないです』
料理人でさえ投げ出した食べ物の扱いに心当たりがあるのか、あるいはひらめきを得たのか。
なんにしても、彼女が食に興味を示すことは珍しい。
「破棄するなら、これ貰ってもいいよな」
「はあ……構いませんが」
くるりと身を翻したニクスが袋の前にしゃがんだ。
食事用の器を紙袋に入れようとして、動きを止める。
流しの前に移動したニクスの後を追い、水を出す。背丈が足りず背伸びをする彼女を抱え上げた。器をさっと水洗いして水気を切ったのを見て下ろせば、彼女は小さく頭を下げて再び紙袋の元へ駆け戻った。
白い粒を水であらい、鍋に入れ、水に浸す。
『しばらくつけます』
「わかった。他にやりたいことがあれば手伝うぞ」
ニクスの動きが止まった。しばしして動きを再開したニクスは持ってきた食材が入っている鞄を凝視する。
そしていくつかの野菜と肉を取り出した。
ニクスの身振り手振り、時には紙に書かれた指示に従いながらよくわからない料理を作り始める。
水に浸けた白い粒も火にかけ、言われるがままに火力を調整する。料理が完成するころ、それもまたできあがった。
配膳用の手押し車を借りて、リクハが眠る部屋へと戻る。
テーブルにセッティングした二人は席に着き、食前の祈りを捧げてからカトラリーを手に取った。
未知の料理。食材から考えれば食べられない物ではない。
少々抵抗はあるものの、なんであれ食べられる幸福をカルロは知っている。
本人曰く、粘り気が足りなかったという白い粒を口に運んだ。
未知の味であるため美味しいかと言われるとわからないが、食えなくはない。
他の料理にも手をつけようとして、カルロはふと気がついた。
「どうした、ニクス」
嬉々とした表情は一転、なにかに失敗したかのような微妙な顔をしている。
問いかけにニクスの頭が横に振られた。
決してなんでもないという顔ではないのだが、それ以上追及はできず、無言で食事を進めていると視線を感じた。
目をすがめ、じ――――っと、むくれた顔で見つめてくるリクハに、カルロは笑いを飲み込んだ。
「起きたか、リクハ」
「匂いがしたから起きたのだ。ふたりだけでずるいのだ、リクハだけ仲間はずれなのだ」
「そんなんじゃないから拗ねるな。ほら座れ、病み上がり。今日はニクスが作ったんだぞ」
「ニクスが?」
視線を受けて、ニクスは視線を横に逸らした。
「ニクスが作った夕食なのだ?」
ニクスはちらりとリクハを一瞥して、視線を下に落とす。そして小さく首を縦に振った。
怯えたように縮こまるニクス。居心地悪そうに視線を彷徨わせるリクハ。
一瞬にして塗り替えられた沈痛な空気を斬るようにカルロは問いかけた。
「食えるか、リクハ。病み上がりだから無理せずと」
「食べるのだ。牛の同朋にも欲しいのだ」
被せるようにリクハが返答した。
更に告げられた要望に、カルロは目を瞬く。
そろそろと顔を上げたニクスにも、僅かながら困惑が浮かんでいた。
「牛の同朋っていうの、あの神獣だよな」
「そうなのだ」
「あの神獣も食べるんだな。お前のように嗜好的なものなのか」
「というよりもニクスのつくったものだからなのだ」
その意味を掴みあぐねた。
リクハの分を用意するために立ち上がり、彼の専用の器を取り出す。
ゆっくりとした足取りで歩いたリクハが席に着く。
その前に器を置いて、カルロは問いかけた。
「それはどういう意味だ?」
「ニクスが作るものには父なる神の加護が働くからなのだ」
二人は目を丸くした。
思わずニクスと顔を見合わせる。
「加護をもっているのはニクスだけなのか?」
「そうなのだ。加護が働くから、それを食べたら間接的に父なる神の力を分けて貰うのと同じなのだ」
長きにわたり、この土地を守護していた神獣は先日の襲撃で残っていた力の多くを使い果たした。回復する余力もなく、やがて天に還ることになる。
カルロは耳を疑った。
「そんなそぶり、まったくなかったぞ」
「為すべきことを成した神獣のあり方としては正しいことなのだ。それがきっと、牛の神獣が出会った巫の願いだったのだ」
でも、とリクハがしょぼくれた顔をする。
「同朋の言うとおり、リクハは最年少でまだ成体じゃないのだ。だから、一人でもおおく同朋は居てくれたほうがいいのだ」
「――そうか。なら、食べたら一緒に持って行こう」
俯くリクハの頭が小さく縦に揺れる。
慰めるように、くしゃくしゃと撫で回した。




