第39話
どこか不機嫌そうなリクハに餌付けされている横で、カルロがあくびを噛み殺している。
寝落ちて朝まで寝られたうえに、会いたかった二人に会えて上機嫌なアンジェリカは、不思議そうに首を傾けた。
「兄、眠れなかったのか?」
「いや、寝ることには寝たんだが、夢がな」
「神託なのだ?」
「と言うより警告だな。おかげで寝覚が悪い」
「神の警告は珍しいのだ。よほどのことがない限り降ろさないらしいのだ」
「あー、まあ、そうだろうなあ……」
ぱちっと、カルロと視線があった。
傾けていた首をさらに傾ける。
「ニクスは妙な夢を見なかったか? 神とやらと直接言葉を交わすことはまずなくて、夢という形で色々見せてくれる。ただの夢であることもあるが」
『夢は見ました。会いたい人に会えた、幸せな夢でした』
「そうか。だからそこはかとなく嬉しそうなのか」
指摘に思わず顔を押さえた。
そんなに顔が緩んでいたのか。それは少し恥ずかしい。
「どうしたリクハ。そんな顔をして」
訝しげな声に視線を滑らせる。
頬を膨らませて、じっとりとリクハが見つめていた。
視線が合うとリクハがそっぽを向く。
「別にいいのだ。今こうしてニクスに食べさせるのはリクハだけの特権なのだ」
ん、差し出された匙にぱくりとかぶりついて喉の奥に流し込む。
「流れからしてリクハは、ニクスが夢の中であったと言うやつに嫉妬してるのか?」
「リクハを置いていった兄様たちなんか知らないのだ」
神獣同士、なにか感じるものがあるらしい。
セツとギンカにカルロが思い当たらないか冷や冷やしながら、平静を装う。
物言いたげな視線を感じながら朝食を終えた。
机の上を片付けながら、カルロが口を開く。
「とりあえず俺は指名をいくつか片付けてくる。ニクス、ここは魔法国家だ。で、ちょうどこの街の知り合いに魔道具店開いてる奴がいる。俺が出ている間、彼女から魔法について勉強しないか」
カルロの提案に目を盛んに瞬かせた。
魔法。あのこれっぽっちも魔力を感じ取れないあれか。唐突だな。
「すぐにとは言わない。魔力を感じるためのとっかかりになればと思ってるだけだ」
なるほど。
使えた方が便利がいいのはわかるが、店を開いている人となると忙しそうな。
「一応、軽く話は通してあるから、それを伝えれば応じてくれると思う」
ほかの人間と関わると言うのは、こなさねばならない課題であるため、ちょうど良い相手ではある。
感情は一旦置いておいて、アンジェリカはガックンと首を縦に振った。
「リクハ、マイアの店は覚えてるな」
「大通りの、ふくろうの看板が目印なのだ」
「そうだ。もし、ニクスが勉強したいって言うなら頼むな」
「わかったなのだ。リクハにお任せなのだ」
ふふん、と胸を張るリクハを撫で回し、カルロは立ち上がった。
流し台に食器を運び終えたカルロが、ひとり踵を返す。
「じゃあ、あとはよろしく頼む」
「行ってらっしゃいなのだ」
ぱたぱたと手を振るリクハの横で、アンジェリカは頭を下げた。
ぱたんと扉が閉まる音がしてから三拍後、ゆっくりと頭を上げる。
そして、流し台を振り返る。
ちょうど、目の前をすうっと皿が横切る。
「リクハのたっのしいしごとのじかんーなーのだっ♪ あらいもの〜 あらいもの〜 くるるじゃぶじゃぶぱっぱぱのぱ〜♪」
おそらく即席であろう歌。その調子に聞き覚えがあるような気がするのは、やはりこの奇人に似てしまったんですか。そんなところになくていいのに。
空飛ぶ皿。優雅に舞う水。端麗に重ねられていく食器。目の前の光景に、アンジェリカは遠くを眺めた。
ちょっとくらい手伝いをと思ったけれど、むしろ足手纏いでしかなかった。手を出さないのが正解。
おかしいな、前のところではそんなことしていなかったのに。
無力感とやるせなさに少し凹む。
「よし、終わりなのだ! ニクス、マイアのところに行くのだ?」
仕事が楽しいという満面の笑みに目が潰れた。胸が抉られた。
思わずその場に崩れ落ちる。
「どうしたのだ!? どこか苦しいのだ!?」
あわあわと右往左往するリクハがこれまた可愛い。
瀕死の重傷を負いながら、這うように筆談道具まで辿り着く。手にとったペン先を、インクに浸しなぐり書いた。
『まぶしくてむり』
「眩しい? 外が明るすぎるのだ? 窓を覆えば良くなるのだ? 胸が苦しい? それはどうすればいいのだ!?」
止めるままなく、ぱたぱたとリクハが室内を動き回る。
とどめを刺された心臓を握りしめ、アンジェリカは天を仰いだ。
ようやく興奮も治って、アンジェリカはマイアという人物について聞いていた。
そこでわかったのは、元冒険者であること。今は引退し魔道具店を開いていること。リクハ曰く、腕はまずまずいいと兄が言っていた、と。
(この街に来た時に知り合ったの?)
「リクハがこの姿でいるのは二年くらいなのだ。それより前のことはよくわからないのだ」
(そうなの?)
「神の子以外の区別がついてなかったのだ。この姿になって、兄と一緒に過ごして、リクハもちゃんと区別をつけられるようになったのだ」
リクハが胸を張る。
ちなみに、文字は読めないらしく、なんとなく表面的な考えを読み取っているそうだ。なんちゃって会話を繰り広げている真っ最中である。
熟練すれば読まないこともできるそうだが、リクハはその域には到達しておらず、表面的に思っていることや考えていることはつい拾ってしまうらしい。
(女性の人、なんだよね?)
「そうなのだ。リクハのことも知ってるのだ」
(神獣ということ?)
「そうなのだ」
(巫や魔王のことは?)
「それは多分知らないと思うのだ。兄が伝えていたら知ってるかもしれないけど」
しばし考え込む。
(好きな食べ物とか知ってたりします?)
「食べ物……うーん……魔法が好きなことしか知らないのだ。会うたびに、兄に『魔法もいいが飯を食え飯を』って言われてるのだ」
カルロのものまねをするリクハが可愛い。呆れたような顔で、それでも口に出さずにはいられない様子がありありと目に浮かぶ。
マイアという人物は好きなこととなると飲食睡眠を犠牲にする研究者気質を持っているのだろう。
ならば手が汚れにくくて、食べやすくて、甘いものが菓子折りとしては適切か。
問題は、甘味がどこまで発達していて普及しているのかと言うこと。
お菓子作りは興味なかったので、作るのは少し厳しい。なにかいいものがあればいいのだが。
(市場に行ってみたいです)
行きたくないあまりに、のたうったように字が歪む。
字と顔を何度も見比べられ、リクハは喉の奥で唸る。
「でも前に倒れたのだ」
それを言われると何も言えないが、そんな状態で他人様の店にお邪魔しようとしている時点で、大差ない。
(無理そうなら帰ります)
「……わかったなのだ」
じゃあ行ってみよう、ということで外に出る。
しかし、周囲の喧騒に気分が悪くなり、宿を出て数歩のところでとって返すことになった。
「欲しいものがあるなら、リクハが買ってくるのだ」
そうは言われても、なにがあるのかさえ把握していないため、これが欲しいと伝えることができない。
(見てみたかっただけです。部屋で大人しくしてます)
相当お高い宿なのか、建物の中は静謐な空気が漂っている。
昼間だからそもそも人が少ないというのもあるのかも知れない。――が、受付の方から突き刺さる視線に胃の辺りがすぅっと冷える。
部屋を出てから被っていたフードを引き下げた。
リクハと部屋に戻る道すがら、ぎゃーぎゃーとわめき立てる声が聞こえて足早に帰った。
買い物に行くというリクハを見送り、部屋の隅で頭から布団を被り丸くなる。
心を無にして目を閉ざし、音を削ぎ落として息を潜める。
「ただいまなのだー」
景気の良い声に布団から顔を覗かせた。
リクハが両手に沢山の荷物を抱えている。
両腕に下げられている袋。そして両手で大事に抱えている大きな瓶がみっつ。
布団から這い出て、置かれた荷物を覗いた。
野菜の見た目は見たことあるようなものばかりだ。
だがしかし、菓子折りになるかと言われると違う。
「ニクス、これたくさんとってきたからあげるのだ」
乳白色の液体が入った瓶を差し出された。
大きな瓶の他に小瓶も持っていたらしい。
「リクハが絞ってきたのだ。沢山しぼって褒められたのだ」
嬉しそうな顔。リクハが絞ったというならば大丈夫だろう。
恐る恐る瓶を受け取った。瓶の口に嵌められたものをとろうと力を込めるが抜けない。
きゅぽん、と小気味よい音がした。
開けた瓶を差し出され、頭を下げて受け取る。
再び小気味の良い音がしたあと、リクハが液体を一度に飲み干す。
手のひらに液体を少量落として、ぺろりと舐めた。
色といい、味と言い、紛うことなき牛乳である。
(鍋をかりてもいいですか)
「いいのだ。なにをするのだ?」
(蘇を作ろうかと思いまして)
「そ、なのだ?」
リクハが見守るなか、鍋に牛乳を入れて、弱い火でじっくり煮詰める。
始めて数分して思い出した。
(そういえば、一時間以上かかったなあ)
様子を見ながらひたすら混ぜるだけの地獄。
思っていたより固まらなかった記憶に、やめてしまえと悪魔の声が響く。
ちらりと横を一瞥した。
じっと鍋を見つめて楽しそうに目を輝かせているリクハ。
面倒だけれども、この笑顔が曇るのはあまり見たくない。
(最後まで頑張ろう)
火の調整ができれば自分でするのだが、リクハの手を煩わせるのは申し訳ない。そのまま焦げないようにくるくるかき混ぜる。
途中、腕が疲れてリクハと交代しながら、なんとか蘇のもとが作れた。
しかし、ここで問題点がひとつ。
(後で取り出せるような入れ物ありますか)
「入れ物なのだ? うーん」
一緒に探すものの、良い形状で取り出しやすいものは見つからなかった。
粗熱を取り、クッキー状に形を整え皿に並べる。
この後、しばらく寝かせた気がするが、冷暗所なるものはここに存在するのだろうか。
「食べていいのだ?」
(一個どうぞ。凍らない程度の涼しい場所ってどこかありますか)
「やったなのだ。そこの扉が保存庫なのだ。ちょっと寒いのだ」
扉を開けた途端、冷たい風が肌を撫でた。ぶるっと体を震わせる。
ひと欠片、蘇が減った皿を受け取り、ふんわりと綺麗な布をかけて収める。
扉を閉めて、じっと保存庫を見つめた。
思っているよりも近代的な道具も存在しているらしい。
その割に庶民に普及していないのは、高価すぎるのだろう。
そういうものに手が届くようになるために、一体どれほどの苦労があったのだろう。それにあやかるだけの自分は、彼にとってなんの価値があるのだろうか。
卑屈になる思考を振り払うように頭を横に振った。
首をめぐらせ、しかし隣にリクハの姿を見つけることができず目を瞠る。
後ろでじゃばじゃばと水音がした。振り返ると、鍋の上で瓶を逆さにしているリクハの姿があった。
瓶ひとつ分の牛乳を火にかけ始めた彼から静かに目をそらした。
気に入ったのならばなにも言うまい。
――そして、日が暮れる。
鍋から上げたばかりの蘇をつまみ、言葉もない様子で喉の奥を鳴らし、右へ左へ駆け回る。
数時間おいた蘇をくちばしでつついて食し、ぶわっと体を膨らませて、ばっさばっさと羽をばたつかせた。飛び跳ねて、部屋の中を飛びまわり、リクハは再び人の形へと姿を変えた。
「甘いのだ! ニクス、これ甘くて美味しいのだ!!」
蘇をちまちまと囓っていたニクスは、きらきらと輝く橙色の瞳から逃げるように、がっくんと頭を縦に振った。
食べかけの蘇を頬張り、幾度となく噛み砕き、嚥下する。
少し空いていたお腹も膨れ、けふりと息をついた。
たくさんあった蘇の多くはリクハのお腹の中に収まっている。
流石に、持って行きたい菓子折りがなくなるのは避けたいので、保存庫に収める際に使用した布を皿に掛けた。
伸びていたリクハの手が止まる。
(終わりです)
絶望したかのような顔に心が揺らぐ。
ちらりと皿の上に残る蘇の数を見て考え込む。
残るは八個。悄然と項垂れるリクハに、皿から一枚だけ取り出して差し出した。
ぱっと花開いた笑顔。
息を吸って、止めた。
そのまま保存庫へ皿を収め、小走りに部屋の隅へ行き布団を頭から被る。
深く深く息を吐き出して、布団の端を抱き寄せた。
しぬかとおもった。
あれから一週間が過ぎたが、未だに魔道具店にはたどり着けていない。
初日と比較すると、宿屋から四十歩の所までは行けるようになった。
今日こそはと昨日作ったばかりの蘇を籠に入れて出てきたものの、やはり途中で足が重くなり前に進まない。
リクハの服を握りしめ、足の裏をじりじりと地面に押しつけながら少しずつ進んでいたけれども、ついに完全に足が止まった。
「リクハ、ニクス、何をしているんだ?」
唐突に声を掛けられて、びくりと肩が跳ねた。
「兄、お帰りなのだ」
「ああ、ただいま。――悪い、ニクス。驚かせる気はなかったんだが」
距離を置いて佇むカルロをそろそろと見上げる。ぱさりと、フードが落ちて慌ててかぶり直した。
一週間ぶりに見る顔は元気そうで、我知らず安堵の息を吐いた。
がくりと膝が抜ける。
「おい、大丈夫か⁉」
焦った声に大きく一度首を縦に振り、完全に脱力して座り込む。
「なんだってこんなところで外に出てるんだ」
「マイアの所に行けと言ったのは兄なのだ」
リクハの言い分にアンジェリカも小さく頷く。
沈黙ののち、カルロが喉の奥で唸った。
「行くんじゃなく来てもらうつもりで話してたんだが、悪い、説明が足りなかった」
(え、そっち?)
「その手があったのだ!」
リクハがぽんと手を打つ。
納得したような様子のリクハとは反対に、いつかは必要になる事とはいえども努力の方向性が違った事実にアンジェリカは打ちひしがれた。
「とりあえず宿に戻るぞ。リクハ、ニクスを頼めるか」
アンジェリカは顔を上げた。
いつもならば、手を差し出して手招きされる所なのだが、そうではない言動に不安が広がる。
籠を受け取って素っ気なく離れようとするカルロの外套を掴んだ。
ぐしゃっと、手のひらに不愉快な感触が広がる。
不思議に思って話した手の平は赤く染まっていた。
カルロを見上げると顔が強ばっている。
一方、リクハは暗い表情をしている。
二人の異様な空気に、血を含んだ外套の裾をくいっと引っ張った。
外套の下をめくって、ぺたぺたと足に触れる。
「うわっ、ちょっと待てニクス!」
カルロが飛び退いた。
怪我の確認をするにあたり、座ったまま身を乗り出していたアンジェリカは支えを失い、ぺしゃりと地面に挨拶をする。
「ニクス、怪我はないのだ⁉」
「わ、悪い。大丈夫か?」
さっと体を起こして、小さく首を縦に振る。それ以上顔を上げられなくて俯いたまま自分の外套を握りしめた。
手が小さく震える。指の先がすっと冷えて思うように力が入らない。
カルロに避けられたことに、思いのほか動揺している。
「ニクス、立てるのだ?」
リクハの促しに何も考えず従おうとして、けれども足に力が入らず再び座り込んだ。
「――抱えようか?」
いつもより硬い声音。恐る恐る見上げたカルロは落ち着かなさそうに視線が揺れる。
カルロとリクハを見比べ、アンジェリカは意を決した。
両手をカルロに伸ばして無言でせがむ。
茶色の瞳が軽く見開かれた。安堵したような、申し訳なさそうな形容しがたい表情が浮かぶ。
抱え上げられて、アンジェリカは額をカルロの肩に置いた。
見捨てたのに拾って、なのにまた捨てられる。
過去、カルロがしたくてそうしたわけではない。カルロではどうしようもなかった。
わかっていてもなじりたくなる気持ち。それが消えない所へ、今度は明確な意図を持って避けられた事実が、アンジェリカの心に、更に影を落とす。
――。
耳の奥で聞こえた、どこか聞き覚えのある嗤笑。
久方ぶりに聞くそれを頑丈に心の奥底に蓋をして、アンジェリカはくわりと欠伸を零した。




