第38話
帝国の北西部に隣接する魔法国家アルスレイム。国境を越えてから更に十日ほど歩いた所にあるルベイアという街らしい。
部屋に荷物を下ろして、カルロが微笑を浮かべた。
「さすがリクハの導きだな」
「偉いのだ? 偉いのだ? ならリクハを褒め称えるといいのだ」
差し出された頭を撫でられて、リクハが満足げに笑う。
「ニクスもリクハの頭を撫でるのだ」
部屋に入り降ろされるなり二人から離れ、二人の会話を聞きつつも精神統一をしていたアンジェリカは、唐突にかけられた声にびくりと体を震わせた。
にこやかに駆け寄ってきていたリクハの足がぴたりと止まる。
気まずい沈黙が降りた。そんなことが気にならないほど、心臓の鼓動がうるさくて、落ち着かせるように左の前腕を握りしめる。
にぱっ、とリクハは笑った。
「今はいいのだ。いつかニクスがリクハの頭を撫でる時、リクハが満足するまで撫でてもらうのだ」
そうと決まればニクスに頭を撫でてもらうために頑張るのだ。
そういってカルロの足元に戻ったリクハは胸を張る。目元をさらに和めてカルロがもう一度撫でた。
「ニクス、長旅で疲れたろう。ベッドで休んでろ。食事までまだあるしな」
「兄はギルドなのだ?」
「ああ。顔を出したらすぐ戻る」
「わかったなのだ」
それぞれに動き始める様子に動揺していたアンジェリカは、やがて鞄をぎゅっと抱きしめて部屋の片隅に座り込んだ。
上着にして現在も活用中であるペロプスを頭から被り全身を覆い壁にもたれかかった。
わずかに暗い中で、アンジェリカは鞄から魔石をひとつ取り出した。
ここにくるまでに、水を出せるかどうか幾度となく試した。結果は惨敗。
魔力を捉える感覚は人それぞれであるらしい。体の中をめぐる温かいもの、あるいは冷たいもの、ふんわりいたもの、どろどろしたもの。
カルロは魔力を奪われた時の感覚を再現しようとしたらできたそうだ。
まずは魔力というものの感覚を掴むために、希少魔石である、魔力を吸う魔石を握りしめる。
無論、血の気の引くような感覚があるはずもなく。アンジェリカは魔石を鞄に戻して膝に顔を埋めた。
(自立するにしても冒険者は現実的ではない。一般的なのは職人として弟子入りするか、飲食店や宿屋への数少ない求人を潜り抜けるか)
どれも今の自分には敷居が高い。なにより、仕事そのものへの熱量は乏しく、とってもらえるような人材であるとは言いがたい。
自分にしかできないことを、とよくいう人がいたが、そんなものは世迷い言だ。
自分がいなくとも、誰かが代わりに役を担いあるいは分担し、適応していく。そういうふうにできているし、仕組みそのものが変化することもある。
自分にしかできないことは、自分が自分であることくらいだ。
だから、自分が自分でいられるのならそれだけでいいのに。
悲しいかな、それだけでは生きていくことができないのが現実である。
(やるべきこととして、まずは人に慣れるところからかな)
身近な存在二人を想起して、アンジェリカは渋い顔をする。
カルロに再び心を許すには、まだ、感情が邪魔である。
リクハにはあまり深入りしたくない。触れない踏み込まない踏み込ませない。いずれ、多少なりとも許してしまうだろうが、気を許しすぎてはいけない。
(当人同士だから相手が悪い。となると外の人との関わりを、となるが、それ以前の問題として体力不足が痛い)
アンジェリカはペロプスから頭を出して足を伸ばして座り、そのまま前屈する。――が、特に苦もなく伸び、伸ばしている感覚もなくすぐに体を起こした。
膝を引き寄せてふくらはぎを揉む。
(自立できてる未来が見えない)
アンジェリカとしてある前はなんとなく、どこかで仕事して趣味に生きていると思えていた。
けれども、貴族として生まれ、どういう訳か逃げ暮らすことになり、国は滅び、捕まって貴族としてしごかれ、捨てられて。そうして再びカルロとリクハと巡り会って。
まるで一寸先も見えない暗闇を灯りもなしに彷徨い歩いているような気分だ。
どこへ行けどもどこかに辿り着くことなく消えていく。そんな気がしてならない。
すがってきた願いさえこの手に残っていない今、ひと足先に終わらせられるものなら終わらせてしまいたい。そして。
膝の上に置いた手に更に頬を重ねて、意気揚々と料理を作るリクハの背中を眺める。
ぱたぱたと動き回る姿に懐古の念が思い起こされ、ペロプスを頭から被った。
鞄の中から降りた畳んだ紙を取り出して開く。
そして、会いに行きたい。会って、愛でて。ともに還りたい。
二匹の動物が描かれた紙を再び折りたたみ、祈るように額に当てた。
闇の中に白いものが鎮座している。二匹の神獣をじっと凝視する。
くい、くい、と首をしきりに動かしている神獣たちの意図に反し、アンジェリカは二匹のそばへ足を進めた。
目の前に正座をして二匹を静かに見下ろした。
白かった体は灰色に変色している。それ以外の変容は見られないが、あの綺麗な白を見られないことが酷く残念だった。
「体の色、もとには戻らないの?」
二匹に手を伸ばす。
かぷりとセツが噛んだ。
ぺしぺしと、前足で叩かれた。
咎めているであろうその行為がどうしようもなく嬉しくて、不謹慎と知りながら頬が緩む。
構わずに二匹を抱き上げた。その向こう側で闇が動く。
二匹がいるその後ろ。赤い眼をらんらんと輝かせて、"なにか"がいる。
神獣が魔に堕ちて矜持も理性も失ったなれの果て、それが魔獣だ。
この身を欲する獣から視線を下へずらした。正座した足の上に二匹を下ろして、頭を撫でる。
「ねえ、一緒に還ろうよ」
否定するように首を横に振られた。もうこのやり取りをしたのは何度目だろうか。
それくらい誘っては断られている。自分で捨て去る勇気がないために二人を利用しようとして、けれども受け入れられなかったことに安堵する。
変わらぬ矛盾に諦めたように笑い、アンジェリカは顔を上げた。
二匹の魔を祓おうとしたことはあった。けれども、それは一瞬のことですぐに戻ってしまう。加えて祓う前より濁った体の色に祓うことをやめた。
ぺしぺしと二人の抗議を受け流し、撫でる。
多くの神獣たちが還ってから、この夢を見るのは二度目だ。
一度目の時の衝撃はまだ覚えている。
そろそろ戻らねば、居座ろうとした自分を引き戻しに、左目に傷を持つ白い狼が迎えに来てしまう。
あの森にいた神獣の魔は祓われた。魔石はまるで神の石という名がふさわしい状態へと変化した。
しかし、魔力の練習のために借りた魔石に、こっそり同じ事をしたがその現象は確認できていない。
祓える魔と祓えない魔。効果が足りないのか、あるいは性質が違うのか。
「そもそも、魔はどういう過程でこの世に生まれ落ちたんだろうね」
「それは、いずれ貴方も知ることになるでしょう」
第三者の声に、ぴたりと動きを止めた。
膝に座る二匹の神獣が、じっと背後を見つめる。
ゆっくりと首を廻らせようとして、頭に硬い物が当たった。
「誰が後ろを見ることを許可したかしら」
膝の上の神獣を体に寄せて、顔を正面に戻した。
「聞き分けの良い子は好きよ。――さて、大いなる父に加護を賜ったお姫様」
ぱちりと、目を瞬いた。左右を見て、膝の上に乗せたセツとギンカを見下ろす。
性別は知らなかった。
ばしっと、後頭部に軽い衝撃が走った。
「貴方のことです、貴方の!」
「……えぇ……」
「なんですのその不本意が極まった間の抜けた声は」
アンジェリカは口を片手で覆い、首を横に振った。
「いえ、少々、なんといいますか……」
「言いたいことがあるならば、はっきりと口になさい」
「…………では、お姫様ではなく、せめて小娘でお願いします」
「魔法回路の接続を誤っていらしてよ」
たぶん、頭がいかれているとかそういう意味なのだろう。
「大丈夫です、通常運行です。小娘がだめなら青二才とか小童とか白面とか、もっと無難で耳障りのいい呼称でお願いします」
沈黙が降りた。
お姫様という柄ではないし、小娘は精神年齢を思うと痛い。許されるならおばさんでいいのだが、若い女性の声を前にその言葉は飲み込む。
「…………どうしてこんなのに……」
後ろの誰かさんは呆れ果てたらしい。それでも張り詰めた空気は変わらず、緊迫感に飲まれまいと、ギンカの甲羅を撫で回す。
「まあいいでしょう。少々、結構、頭にくることは多々ありますが、貴方は貴方の生きたいように生きなさい」
「……あなたも生きろというのですね」
「ええ。アンジェリカ=ディルバルドが生きているという事実が重要なのです」
ぱちりと、目を瞬いた。
「私ですか」
「厳密には違います。貴方はアンジェリカの名を借りる、剣の巫に名をいただいたもの。ディルバルドの血を引く、アンジェリカという器の娘が生きていなければなりません。そのようになっているのです」
「つまり、私は転生したのではなく、アンジェリカという他人の肉体に憑依しているというのですか」
「なにを言っているのかは分かりませんが、あなたが肉体に入ったその時にはアンジェリカは死んでいました。彼女は運命から脱却するために自らその命を断ったのです」
「は?」
「そうである以上、魂という所有者を亡くした肉体は、新たな所有者となったあなたのものに違いありません」
「…………なんで、私だったのですか」
「偶然です」
アンジェリカは眉を寄せた。
「と言いたいところですが、きっとこれは必然なのでしょうね」
どっちですか。いや、そこはどっちでもいいけどねえ。
「想定外だったとしても、私にはなせなかったことを貴方は成した。その力がある。それで十分です」
話が全くわからない。
緊張したかのように固まる二匹を愛で回す。
「運命の時は迫っています。二年後の冬に全ては決定づけられ、世界は有様を変化させる。なんとしても生き延びなさい。決して、その命を、肉体を、あの女狐にくれてやってはなりません」
ふと、背後の威圧感が消えた。
今度は誰にも制止されることなく首を廻らせる事ができた。案の定、誰の姿もない。
「……なんか思ってるよりはるかに面倒くさいことに巻き込まれてるのやーだー。知らないって、よそでやってよそんなの。ねえ」
愚痴をこぼし、アンジェリカは二匹の顎の下を撫でる。ギンカには首を中に引っ込められた。謝りながら甲羅を撫でた。
「世界の有様が変わるって言われても、荷が重い。重すぎる。帰りたくない」
瞬間、セツにべしっと足を叩かれた。
ギンカも甲羅から首をのぞかせて、指を噛む。立腹している二匹にくすくすと笑い、片手でそれぞれ目の高さまで持ち上げた。
「一緒にしらばっくれない? こんななりだけは小娘の存在ひとつで変わる世界の方がおかしいおかしい」
巫という存在は他にもいる。カルロはそう言っていた。それをあたかも“アンジェリカ=ディルバルド”は特別であるかのような扱い。無理だ、逃げたい。
「人が滅多に入ってこれないようなさ、でもいろいろ楽しそうなものが転がってて、お前たちものんびりできるような桃源郷があればいいのにね」
そうしたら、二匹も隠れることなくのびのびと過ごせる。
そんな都合のいいものはないと信じているので、結局はあの荒波の中で揉まれてぶつけて削られていかなければならない。
「戯けたことを言う暇があったら疾く去れ」
アンジェリカは顔を引き攣らせた。
目を伏せて、のろのろと二匹を解放する。
励ますように二匹が手に頭を擦り付ける。ひどく情けのない顔をしているのだろう。
早くしろと言わんばかりに襟首を引っ張られた。
ずるずると引きずられる。
沈黙が痛い。再び顔を合わせることが恐ろしい。
ぼんやりとしている間に着いたのだろう。首の後ろが離されて視界が回った。
強かに後頭部を打ちつけ、声もなく悶える。
「……大姫は、あの世界が嫌いか」
唐突な質問にうっすらと目を開ける。頭をこらえて起き上がり、膝を抱き寄せる。
「……別に」
わかっている。悲観的なのも自罰的なのも、不安定なのも死を渇望するのも。
突き詰めて考えていくと結局は自分が嫌いという結論に落ち着く。
「世界に好きも嫌いもないでしょう。生きてる時は生きてる時の、死後は死後の世界があって、あるいはほかの世界があって、個人感情でどうこうできるような物じゃない」
「大姫にはその力がある、と言ったら」
誰かさんも言っていた。彼女がなせなかったことを成す、そう言う力があると。
自分の体を抱きしめるように腕を組み、しばし考え込む。
「どうもしない。その後に生じてくる責任やら罪悪感やらに耐えられないもん。早く二人と還りたい所なのに、余計な命なんて背負いたくない」
背負うのはセツとギンカだけで十分である。
「ならば、大姫が望むような世界を作ればよい。そういうことも可能だ」
「……仮に作れたとして、その世界は私だけなの?」
「いや。世界としてあるからには、数多の命が生まれるだろう」
「じゃあやだ。責任が重い」
「わがままな」
アンジェリカは膝に額を押し付けた。
「そうだよ。責任を負いたくないし傷つきたくない。傷つけることも恐ろしくて。開き直ることもできずうじうじしてるだけのうじ虫です」
アンジェリカは考えを振り払うように頭を振りかぶると、その場に立ち上がった。
「ならば、我らが作ってあやつらと待っていると言ったら」
初めて狼を振り返った。
ちょこんとお座りをして、赤い瞳で静かに見上げてくる。あの時のことは彼の中で割り切られているのだろう。
自分だけがいつまでも振り切れないでいる現実を突きつけられて天を仰ぐ。
目を閉じて狼の言葉を咀嚼する。
描いたような場所でセツとギンカと、言い方からしてこの狼もだろうか。待っていると言われて嬉しくないわけがない。
それだけで重かった心が浮かび上がる。
なんとも現金で、そして単純である。しかし。
「現実はそう甘くないでしょうに。…でも、ありがとう。そんな夢を抱いていいのなら、二年くらいは耐えようかねえ」
緩んだ頬を両手で揉んで、小さく笑う。
「大姫は頑なな」
「そういえばその姫呼びはできればやめていただきたく。小僧でも小童でも小娘でも戯け者でもおばさんでも、もっと可愛らしくないものに」
「大姫は大姫よ。そんな戯言を言えるならば重畳。疾くこの場から去れ」
「ええ……」
後ろに回り込んだ狼に背中を押されて、アンジェリカは前に出た。急激に瞼が重くなり、体から力が抜ける。
「剣の子に心配をかけすぎるでない」
意識が霧散する寸前、そんな声を聞いた気がした。




