第37話
腕の中から聞こえる小さな寝息に、カルロは我知らず安堵の息をついた。
街に入った直後から様子がおかしいことにすぐに気がついた。だが、リクハに聞いてみても耳の汚れがとれない、と強迫的になっていることしかわからず二人して途方に暮れた。
早急に買い物を済ませ、戻ろうとしたところへの呼び出し。応じないわけにはいかない相手で、使者を思わず威圧してしまったのが先ほどのことである。
隣に座って様子を窺っていたリクハが手を伸ばした。
目深く被るフードをそっと押し上げて、ニクスの顔をのぞき込む。
その目が酷く複雑そうで、カルロは訝しげに問いかけた。
「どうした、リクハ。そんな顔をして」
「……兄だけずるいのだ」
「は?」
「リクハが一緒に寝ようとしたら嫌がられたのに、兄にはすっかり安心した顔で寝てるのだ。ずるいのだ」
旅の相棒に向けられた嫉妬に、カルロは不思議そうに首を捻った。
その話はリクハから聞いている。リクハで無理だった以上、自分は論外だろうと思っていたから、カルロが試したことはない。
そのうえ、彼女の許可なくして近づいたり触れようとしたりするとあからさまに警戒される。彼女の方から近づいてきて落ち着けば、その警戒は消えるとはいえ、自分に慣れていないことは明らかであるとカルロは考えていた。
「それは慣れないことをして疲れたからだであって、普段はお前に懐いてるだろ」
「それはリクハが《《神獣だから》》なのだ。リクハだからじゃないのだ」
頬を膨らませて、リクハは居住まいを正した。
両手をソファについてぷらぷらと足を揺らす。
「リクハは……」
扉が叩かれた。リクハが我に返った顔で、両手で口を覆う。
カルロは疑問を抱きながら、あまり好ましくない来訪者を許可した。
「入れ」
「失礼するよ」
悠然と入室してきたカルロよりやや年下の、外套に全身を隠した男。
扉が従者に閉められるなり払われたフードから、見目の良い顔が現れる。
「皇太子様がなんの用だ」
「他人行儀はやめてくれませんか、兄上」
食えない笑顔で席に着く男に、カルロは目をすがめた。
あと何度このやり取りをすれば気が済むのか。
生後まもなくして行方不明になったこの国の第一皇子。状況をすりあわせた結果、そうなのだろうということはカルロとて承知している。
だが、そのときすでにSランクに上り詰めており、また成人してしばらくたつのもあり、今更馴れ合いたいとも思いもない。
だが、向こうはそうではない。黒髪が好まれていないのはどこに行けども同じだが、それよりもSランクという存在とより懇意になっておきたいという下心があるのだろう。
一人で一騎当千の力を有すると言われているSランク。カルロを除く四人は、それぞれどこぞの国でなにものに侵されることなく過ごしているらしい。
羨望と憧憬の的である四人と異なり、新参者であることや黒髪であることから侮られている自覚はある。ゆえにこうして時々ちょっかいをかけてくる輩があとをたたない。
なにかと律儀に相手をしていることも、軽く見られる要因であろう。軽く人のくくりを外れている他の者たちがそうしているように、知ったことかと要望をはね除けても問題はないのだが、胸に残る言葉がカルロを取り繕わせる。
「怒らせて事を構えるのが望みなら受けて立つ」
「心外ですね。私たちはただ、貴方と家族としての親睦を深めたいだけだというのに」
「執拗な誘いは逆効果だといい加減学ぶんだな。――失礼する」
立ち上がって、ニクスをしっかりと抱え直した。
「魔王」
意味深な言葉。笑みを浮かべる彼を一瞥して、カルロは退室した。
回廊を歩きながら、静かに思案を巡らせる。
彼はカルロが巫を知っている。ラーフェンでの魔王の噂を受けて、関わっていると判断したのだろう。そして、状況次第では保護という名目でニクスを手中に収め、帝国の守護獣として今なお存在する神獣とともに崇めることで、権威を示そうとした。
預け先として、国は眼中にない。利用されるのがおちだ。
ファインのところの商会で、というのも考えはしたが、リーザベルもフィーテも一応表沙汰には成っていない以上、ばれるリスクが高くなる。
となると、引き離しておきたい所だが、そうすると安心して任せられるところがない。
権力的には同じSランクの者たちを頼るという手もあるが、カルロ自身あまり関わったことがないので不安が残る。
街をでて、拠点に続く道とは反対の道を歩く。
「――五時の方角に一人。外壁のそばに」
「わかったなのだ」
遠くで、叫ぶ声が聞こえた。
「すぐそこの大きな建物まで、その人を送ってあげて欲しいのだ」
そのお願いに応えるように、風がふわりとリクハの髪を撫でた。
空をぴゅーんと飛んでいく人影には目もくれず、二人はのんびりと道を歩く。
「これからどうするのだ」
「どうするかな。俺らだけなら、今までのように適当に彷徨うだけなんだが」
「……ごめんなさいなのだ。起きたときと違って読めなかったから、大丈夫だと思ったのだ」
「読めない? そういうことがあるんだな」
「みたいなのだ。なんかすごくがさがさしていて、わからないのだ」
悄然とするリクハを、慰めるように頭を撫でた。
「そういうこともあるって、早めにわかったんだからよしとしよう。少なくともニクスの場合、読めないからと言って大丈夫なわけではないってことだ。次は注意しておかないとな」
「わかったなのだ」
最後に軽く頭を叩いて、カルロは遠くへ視線を移す。
「本題のこの後の事だが、一ヶ所に留まり続けると面倒な輩が降ってくるし沸いてくしなあ。ニクスがどうしたいのかも含めて、要相談ってことで」
もう少し滞在する予定だったが、あの場で接触が有った以上留まり続ければ拠点にまで押しかけてくる。経験から容易に推測出来る未来に、留まることをやめて街を出たその足で旅へ出ることにしたのだ。
過去に何度もあったことであるため、カルロもリクハも慣れたものである。
「とりあえず、日持ちしないものはあとで入れ替えるとして、分かれ道、どっちがいい?」
「うーん……左なのだ!」
元気の良いリクハのかけ声とともに、二人は街道を左へ行く。
カルロは人の気配に目を開いた。のそのそのと起き上がる人影に手元の枯れ木を手にする。
「調子はどうだ」
びくりと、可哀想なほど肩が跳ねた。
間髪入れずに振り返った彼女の怯えた顔が、僅かに炎に照らされる。
ちょろちょろと燃えるたき火へ、枯れ木を投げ入れた。
燃料を得た火が一際大きく燃えさかる。
知っている顔に安堵したのか、体から力を抜くとニクスは小さく頷いて膝を抱えて丸くなった。
様子を窺っていると、不意に顔を上げて辺りを見渡す。
「ちょっと面倒な御仁に目をつけられててな。煩わしかったから予定を繰り上げたんだ。悪いな、寝ている間に話をすすめて」
大丈夫、とでも言うように首が横に張られた。
そして膝を折りたたんで座り直したニクスが深々と頭を下げる。
迷惑をかけたとでも思っているのだろう。むしろあやまるべきはこちらだろう。性急すぎるとは思いつつも、彼女が頷くのならとそれ以上とめることはしなかった。
本来ならば、保護者として休ませるべきであった。判断を誤ったのは自分である自覚がある。
「謝るべきは俺だ。悪かったな、無理をさせて」
小さく頭が横に揺れた。けれども、顔は地面から僅かに浮いた位置から上がらない。
カルロは耳朶を掻いた。沈黙が居心地悪くて、ニクスから視線を外し、揺れる炎を見つめる。
小さくなった炎に、折った枝を投げ入れた。
声をかけようとして、言葉が喉の奥につっかえて口を閉ざす。
巫や魔王といったことがなければ頼れる親戚筋を探すべきなのだろう。だが、森での状態を思うとそれを尋ねるのは憚られた。
話題を探して思考を巡らせる。
「そうだ、お前に渡すものがあってな」
彼女が寝ている間に購入したものを詰め込んだ鞄を取り出した。
「お前の鞄だ」
とん、と自分の足の上に置いて彼女の様子を窺う。
恐る恐るといった様子で視線が上がり、鞄に釘付けになった。
「服とか、あとは筆談するための道具とかが入ってる。文字が書けるならそれで伝えてくれるといいし、書けないのなら公用語を覚える練習に使えるし。……気はのらないかもしれないが、覚えてもらったほうが汲み取ってやれるからな」
腰を上げると同時に彼女の体がこわばった。
近くまでは立って歩き、お互いの手が届かない位置でしゃがみ、鞄を置く。
そして座っていた位置まで戻り再び腰を下ろした。
鞄と自分をゆっくりと何度も見比べられ、落ち着かなさを感じながらを務めて平静を保つ。
しばらくして、ニクスが座った姿勢のまま地面に手をついて器用に鞄に一歩近づく。
手の届く位置に近づくまで、近づいてからも手を伸ばした状態で何度も一瞥された。
魔物の気配に気を配りつつ、枯れ木を焚き火に投げ入れた。その視界の隅で、ようやくニクスが鞄を持ち上げた。
ひとまず受け取ってくれたことに安堵を覚える。
鞄の中を覗き込んだニクスの肩がびくっと跳ねた。
それは神の遺跡と呼ばれる場所に収められていたものだ。市場に出回すわけにはいかず、死蔵していた。
もう一個、出回すわけにはいかない普通だったはずの鞄よりは性能が劣るため、使う理由もなかったのだ。
じっと熱い視線を受けて、なんてことないように彼女を見ると、即座に顔が背く。視線を外してからしばらくすると再びじっと見つめられる。
少しずつ見つめる時間を短くしながらも同じやりとりを何度か繰り返し、やがてニクスはお腹に鞄を抱きかかえた。
じっと抱えた鞄を見つめて、やがて中から紙と筆記専用箱を取り出す。
迷うような様子を見せながら、なにかを書きつけたニクスが紙をひっくり返した。
『ありがとうございます。大切に使わせていただきます』
整った字。下町の人間で字を書けるものは少ないし、いたとしても癖のあるものが多い。逆に言えば、字の美しさを求められる場所、つまり貴族であったことは明白。
体に残る鞭のあとからもわかってはいたことであるけれども、カルロは胸を痛めた。
「ああ。足りないものがあったら気にせず言えな」
戸惑いを隠せない様子で、けれども小さく頷く彼女に目元を和める。
鞄を抱えてうとうとし始めたのを確認して、カルロは空を見上げた。
暗かった空は仄かに明るみを帯び始めている。
もう少ししたらリクハが目を覚ますころだ。
木に寄りかかり、カルロはしばし目を閉じた。
鞄を抱えてとことこ歩くニクスを見下ろした。その横でリクハがじーっと彼女を見つめている。
熱い視線を受けて、ニクスが逃げるようにカルロを挟んだ反対側へ隠れる。それを追いかけてリクハが回り込む。再び見つめられ、ニクスがリクハから逃げ回る。
歩調を緩めたリクハの襟首を掴んだ。
「落ち着けリクハ。なにをそんなにそわそわしてるんだ」
「なにをするのだ。リクハはニクスを愛でるだけなのだ」
「はあ?」
ニクスを一瞥すると、被っていた外套のフードを片手で引っ張り顔をさらに隠す。
歩みが少しばかり早まり、わずかに距離が開く。
さっと辺りを見渡し、カルロは顎に触れて考え込んだ。
「……お前が選んだ服を着てくれてるのが嬉しいのもあるんだろうが、はしゃぎすぎだ」
「兄は嬉しくないのだ? ニクスが着てくれたのだ」
頬を膨らませ上目遣いに見上げられ、カルロは視線を上に向ける。
「お前の無言で期待してくる目には俺も勝てないからなあ」
拗ねるようにリクハが唇を尖らせた。
襟首を掴んでいた手を離し、リクハの頭を撫で回す。
「お前の人懐っこさはいいところだ。だけど、さっきのニクスは嬉しそうにしてたか?」
「…………してないのだ」
肩を落とすリクハと頭をあやすように叩く。
少し先で、ニクスは荒く肩を上下させている。
「俺もそう見えた。だから止めた。ニクスにはニクスのペースがあるから、そこを考えてやれたらもっとかっこいいと思うぞ」
ぴくっと、リクハの肩が跳ねた。
「それをしたら、リクハはかっこよくなるのだ?」
「そうだな。大切に思うなら相手の思いを汲み取ってやれ。……お前はいらん後悔はしないようにな」
立ち止まったニクスの前へ回り込み、片膝をついた。体をこわばらせた彼女に手を差し出し、見上げる。
「頑張って歩いたな」
小さく横に頭が揺れた。差し出した手に視線が突き刺さる。じりじりと、こちらの反応を伺うようにしながら距離をつめる彼女を辛抱強く待つ。
がしりと服を掴み気を張り詰めさせる彼女を抱え上げ、歩みを再開した。
いつものように、リクハの気の赴くままに道をいく。一週間ほどかけて、帝国の北西部に位置する、俗に魔法国家と呼ばれる国へ足を踏み入れた。




