第36話
カルロの家に居候するようになって十日以上が過ぎた。
自立を考えるならば、これという職を決めてそこへお世話になるのが一般的らしい。が、リクハ以外には警戒と怯えで体が竦む現在、それは現実的でない。
考え事に夢中になっているときや、自分から行く分には大丈夫なのだが、都合のいい事ばかりは言えない。
魔力を握りしめて、アンジェリカは悄然と肩を落とした。
生活の利便性の向上のために魔力の使い方を教わっているが、なかなかこつをつかめないでいる。
魔力がないわけではないらしい。しかし、さっぱり感覚がわからない。
もとより、感覚的なものを形にするのは苦手な分野だ。
絵におこすにしても文字におこすにしても、苦しんでいた記憶しかない。
もっとも、それが楽しくもあったから耐えられた。
これは楽しくない。心躍らない。
だが、いつまでもできないとカルロかリクハにお風呂に入れてもらう日々が続く。それは精神衛生上やめて欲しい。
そもそもの前提として、魔力ってなんですか。
それが一番わからない。
カルロは万物に存在するエネルギーの一種だと言っていたが、私にとってはあまりにも抽象的で捉えることが難しい。
見えないエネルギーを感じ取る。これが厨二病の境地。私には無理だった。
手の届かない距離で見守っていたカルロが、手を伸ばしても届かない位置まで距離を詰めて膝をつく。
体が竦んで動けなくなるかならないかのぎりぎりの範囲だ。過去のことでいろいろ思うことはあったが、昔も今も変わらず気を遣わせている事実に、きゅうっと胃が締まる。
「嫌じゃなかったら手を乗せろ。補助をして感覚をつかめる確証はないが」
差し出された手をじっと見つめた。
じりじりと躙り寄り、緩慢に手を乗せる。
流すぞ、と言われて小さく頷いた。
不意に、ざっと血の気が引くような感覚があった。その割には気分不良はない。
カルロが空いている手で額を押さえた。
ぱっと手を離し、辺りを見渡す。
人体に負荷がかかる方法なんて聞いてない。
そんなことになるならやらなかったのに。
「大丈夫だ、すぐにおさまる」
ゆっくりと息を吐き出したカルロの顔色は悪くはない。
二、三歩下がり、あらためるように全身を見る。特に異常があるようには思えない。
「大丈夫だ。思ったよりもお前の魔力が多かったからびっくりしただけだ」
その魔力の感覚がよくわからないから、多いと言われても素直には喜べない。
むしろそのせいでご迷惑おかけして申し訳ございません、と土下座したいくらいだ。
「なにか感じたか?」
首を傾げつつ、自信なさげに頷く。
たぶん。きっと、恐らく、あっているなら。
「魔石に触れて、その感覚を再現するんだ」
血の気が引くさまを再現。もっとこう、夢のある感じ取り方はなかったのだろうか。
目を閉じて、感覚をイメージしようとして、思考は停止した。
(だから、感覚的なものを理性的に組み立てて実行できれば苦労はしないんだよ……!)
心の内で呻いて、けれども再現のきっかけになりそうなことを記憶から掘り起こす。
血の気が引く。血相を変える。顔面が蒼白になる。衝撃を受けて顔色を変えるような、そんな事柄なにかあっただろうか。
思考に沈むアンジェリカの脳裏に、甲高い耳障りな音が聞こえた気がした。
あれから数年は経つというのにしっかりと覚えている。息をするだけで痛む体。冷えていく指先。途切れていく息。眠るように沈む意識――。
がくっと、頭が大きく船をこいだ。はっと目を開いたアンジェリカは盛んに瞬く。
魔石を見るが、もちろんなんの変化もなかった。
「今日はここまでだな。そろそろリクハが呼びに来る頃だ」
差し出された手に魔石を置いて、そそくさと離れる。
数歩離れてカルロの背中を追いかけながら、両手を見下ろした。
よく見たような、チートはないようだ。あったら確かに便利だが、簡単にできると考えるとつまらないこと。それを思えばなくてよかったとも思う。
自家発電したいが、そこに辿り着くまでが遠い。
居室には、すでに食事の用意ができていた。
居候するのだからと手伝おうとした家事は、リクハの希望たって諦めた。
『リクハのしたいをとらないでほしいのだぁ……』
しょぼくれた顔でそんな事をあの美貌で、涙を浮かべながら言われたら引き下がらざるを得ない。あれはあれで可愛かった。
人の形をとって過ごすに当たり、始めは小さなお手伝いだったものはやがてリクハが担当するようになったらしい。今では、カルロが手伝おうとしても同じように泣かれるという。可愛い。
毎日毎食恒例のにらめっこも順調に全敗を更新し、差し出された匙にぱくつく。
満面の笑みを浮かべるリクハの顔がなによりもごちそうである。可愛い。
「ところで兄、これからどうするのだ」
自分で食べようと伸ばした手から匙を遠ざけたリクハが、思い出したようにカルロに問う。
思い当たる節はなにもなく、リクハの視線を追いかけてカルロを見る。
「どう、とは」
「期日は過ぎてるのだ。食材が心もとないから、買いたそうと思うけど、でも次に行くなら買う物が変わるのだ」
スープを掬って差し出された匙に大人しくぱくついた。
滞在期間が過ぎた、ということなのだろう。それが自分がいるためだとは想像にたやすい。
ここを拠点としているのかとも思ったが、放浪の旅がまだ続いているとは思いもしなかった。
当時のことしか知らないが、それでも十代の子どもがあそこまで立ち回れるならば、引く手あまただっただろうに。
会話をしながらも、リクハの手は休まらない。
「あー……少なくとも一週間は延長になると思う」
「わかったなのだ。じゃあリクハは片付けが終わったら買いに行くのだ。――そうだ、兄もニクスも一緒に行くのだ?」
唐突に話を振られて、匙を口にくわえたまま視線だけ動かした。
スープをすすり、喉の奥に押し込む。
「性急すぎじゃないか……?」
「そうなのだ? ニクスは嫌なのだ?」
二対の視線を受けて、アンジェリカは首を捻った。
元来、引きこもりたい願望が強い人間に外出を促すのは酷。加えて、精神的にこじらせている以上、懸念するのはもっともである。
でも、いつまでもおんぶに抱っこでいるわけにも行かない。二人の予定に影響を生じていることからも、早急に対処すべき案件。
胃の辺りに、目には見えない重石がのしかかる。
巫という立場が彼らにとってどこまで重要なのかは知らないが、近くの街で衣食住を得ることが可能なのだろうか。可能だとしても、恐らく前世のように時代に合わせて緩和されたようなものではない。
精進潔斎とか、質素を心がけるとか、欲に塗れた私には到底無理な話だ。
煩悩を落とすとか、そんなことをしてしまったら私が私である理由がなくなる。
私が私であるために必要なこと。
・自堕落に過ごしていい空間。
・自由に扱えるお金。
あと一つをあえてあげるとするならば、津波ではなくさざ波のような人生。
踏み出さねば始まらないのはわかっている。全てを投げ出したくなる気持ちを斬り捨てて、小さく首を横に振った。
「じゃあニクスも一緒なのだ」
「俺も行くが、無理するなよ」
がっくん、と首を縦に動かした。
家を出るときにはきちんと歩くつもりでいた。でも道半ばも行かないところで体力が切れた。何年も長時間は歩いてないし、運動しているわけではないし、以前よりも著しく体力が落ちていて当然。
考えればすぐわかることなのだが、緊張でいろいろと頭から抜け落ちていた。
齢はとっくに十を超えているにも関わらず、このていたらく。我が事ながら情けなさ過ぎて現在進行形でかなり凹んでいる。
「カルロ様! ようこそいらっしゃいました。どうぞ、お通りください」
外套の下からそっと様子を伺う。
ぱちりと、衛兵と視線が合う。咄嗟に首を引っ込めて、カルロの服にぎゅっとしがみついた。
目が合ったからといって、問答無用で鞭が飛んできたり手足がとんできたりすることはないのだが、染みついた防御反応は止められない。
自分で立つこともままならない自身に嫌気がさし、気分が塞ぐ。
「そちらは?」
「少し前に保護した子が、この通りでな。だいぶ落ち着いたから連れてきたんだ」
「はい、通行料なのだ」
「確かに。妹分ができて、リクハも鼻が高いな」
「妹? ニクスは妹なのだ?」
不思議そうなリクハの声が、大人たちの軽快な笑いが遠のく。
ぼんやりと景色の焦点がずれた。
目を瞑り、カルロの服に顔を押しつけた。耳の奥から下卑た笑いが聞こえる。
耳を塞いでも脳裏に響く声。音を通して頭まで悍ましいものに支配されていくようで、耳に爪を立てた。
えぐり取れない不快感に耳を拭い、それでも収まらず、聞こえる音をかき消すように右の耳をぴたりと胸元に押しつけた。
聞こえる鼓動が悍ましいものが流されていく。
反対の耳も同様に押しつけ、心臓の音に耳を澄ませる。それを何度も何度も繰り返し、下卑た笑いの余韻もなくなった頃、大きな欠伸が零れた。
「寝ても良いぞ」
低く落ち着いた声が頭上から聞こえる。
首を横に振って目をこすり、なんとか瞼を押し上げるが、襲い来る眠気に視界が閉ざされていく。
緊張を始めとした精神的負荷に晒されたこと、一定の間隔で背中を叩く感覚が心地よいも相まって、アンジェリカはこてりと眠りについた。




