第34話
ふと目が覚めたアンジェリカは体を起こし辺りを見渡した。
ほの暗い室内。窓の外に見える僅かな光を頼りに現状を把握する。
宿か、あるいはどこかの拠点か。
気を失うように眠ったことは覚えているから、その間に運ばれたのだろう。
こちらにその気もそのつもりもなくとも、面倒ごとを抱えている以上、手の届くところに、監視できるところに置いておきたいというのは至極真っ当な思考。
ほっといてくれればいいのに、どうしてこう現実は構いたがるのか。
深々とため息をつき、ぼんやりと窓の外を見つめた。
思考を放棄して、移ろいゆく空を見つめる。
次第に輝きを増す空。差し込んだ光が室内を明るく照らす。
「おはようなのだ!」
唐突に扉が開いた。止める間もなく入ってきた少年が、ベッドの端に座った。
その遠慮のない態度にひしりと胸が凍る。
逃げるように体を引いた。
「月日が経ってもやっぱり、リクハには冷たいのだ⁉」
ベッドに両手をついて少年がいじける。
恐れをなしていたアンジェリカはしかし、聞き覚えのある単語に顔を上げた。
だがそこにいるのはどこをどう見ても十歳ほどの少年。顔は可愛い。全体的に可愛い。
いや、それは置いておいて。
自分のなかのリクハが、塗りつぶされていく。
同じ名前の、けれども人間という存在に、アンジェリカは絶望を覚えた。
リクハの名はこの世界にはない言語に由来する。
あの子でないならば、偶然か。いいや、あり得ない。
なぜなら、少なくとも今使われている言語にその言葉は存在しないのだ。
少年に同じ名を与えられるとしたら、ひとりだけ。
まさか、と疑念が芽生える。あの時の男は。
まさか、まさか。
「ど、どうしたのだ、リクハはリクハなのだ! ……あ、こうしたらわかるのだ⁉」
泣きそうな顔で彼は叫ぶ。直後、少年の姿がするりと溶けた。
リクハと名乗った少年の代わりに、ベッドの端には白い梟が鎮座している。
「ほー、ほっ」
リクハは短く鳴くと、再び輪郭が人の形を描く。
「わかってくれたなのだ?」
こわごわと顔をのぞき込んでくるリクハの顔を、唖然と見つめる。
「……………………大姫?」
大姫と呼ぶのは、神獣だけ。セツとギンカと、そしてあの大蛇と同じ。
あの形、そして発言からしても神獣であることに間違いはないだろう。
こてん、と少年が首を傾けた。
やわらかそうな頬に引き寄せられるように手を伸ばし、引っ張った。
「痛いのだ⁉ なんでリクハはつねられてるのだ⁉」
横に広げた両手をぱたぱたと上下させて、リクハが抗議の声をあげる。
頬を摘まんでいた手を離し、アンジェリカは自分の手を見下ろした。
触れた。温かった。もふもふしてない。すべすべだった。
未だに衝撃から戻れず、まじまじと少年を眺める。
年の頃は十代前半くらいだろうか。茶色の短い髪。つんつんと不揃いに跳ねる毛先の所々は白く染まっている。溌剌とした橙色の丸々とした瞳。可愛い。
将来有望な上玉である。
「リクハは知ってるのだ。そういうの、悪い人間が言うことなのだ。……はっ! ということは大姫は悪い人間なのだ? どういうことなのだ?」
それは、三流の悪役や三下が言うような台詞って言いたいのか。うん、知っている。
欲に溺れているところが一緒って言われたら、ちょっと心に刺さるけど、否定できないからな。心には刺さるけど。
それにしても、このリクハは、あのリクハかあ。ファンタジーだなあ。
(いや、私がいまここでこうして存在している時点でがっつりファンタジーだったし、神獣やら魔獣やらが実在するあたりもファンタジー以外のなにものでもないんだけど)
人の形をとれますとか、ファンタジーがファンタジーしている。
(可愛いからいいけど)
腰に手を当ててリクハが胸を張った。
「リクハの姿は、大姫がこうだったらいいなというのを真似したのだ! できるように沢山頑張ったのだ、えっへん!」
胸を押さえて体を屈めた。
「お、大姫、大丈夫なのだ⁉ どうしたのだ、どこか苦しいのだ?」
(苦しいというかなんといいますか、昔の私の想像の真似というと、性癖そのものじゃないですか、勝てるわけが…………想像の、まね?)
アンジェリカはそろそろと顔を上げる。
整ったかわいらしい顔を直視できなくて視界を閉ざした。
記憶は曖昧だが、たぶん私のことだから擬人化は考えた。妖怪変化魑魅魍魎が人の姿をとるときは、総じて美形であると相場は決まっている。
ただ、それを絵におこしたことがあるかというと、なかったと思う。
研究資料の隅に落書きはしたかもしれないが、それにしたって色合いの解像度が高すぎる。まるで、こんな色、と頭の中で想像していたことを覗かれていたような。
「なに言ってるのだ、大姫。リクハは神獣。大姫も神の子。神の子の考えてること、感じていること、読もうと思えばなんとなくわかるのだ」
とどめの一言に、アンジェリカは撃沈した。
「お、大姫、大丈夫なのだ⁉ 頭の中わちゃわちゃしてるのだ⁉ しっかりするのだ大姫ええぇ!」
「…………お前ら、なにやってるんだ?」
唐突に響いた第三者の声に、アンジェリカの感情が、すっと沈静化する。
代わりに、心を覆い隠すように警戒心が広がる。
「えっ」
リクハが困惑したように眦を下げた。
それを一瞥して、アンジェリカは視線をそっとリクハの後ろへ滑らせる。
黒い髪の男。森で会った男に間違いはない。
「兄……? 大姫……?」
胡乱な声。それもそうだろう。リクハにとっては"知り合い"のはずなのだ。過去、ともに過ごした顔ぶれであるはずなのだ。
けれど。
ばつの悪そうな顔で、男が首の後ろを掻いた。
「返事もなく入って悪かった。俺はカルロだ。リクハ、起きるまでそっとしてやれって言っただろう」
数年という月日を過ごした人間にとって、そして、各々の道を歩んでいた人間の想像だにせぬ再会を、気づけるわけがない。気づいたとしても、こんな形の邂逅を喜べるはずもない。
リクハが頬を膨らませた。
「リクハはちゃんと大姫が起きてから会いに来たのだ」
視線を受けて、アンジェリカは静かに顎を引いた。
布団を握りしめ、じりじりと部屋の奥へ体を滑らせる。
「そうか。迷惑をかけたな」
カルロから視線を逸らすことなく、小さく首を横に振った。
「お前の名は?」
その問いに、諦念に浸かる間もなく、憎悪にも似た憤りが沸いた。
近くにいたリクハ体が震えた。驚いた顔で振り返り、アンジェリカを凝視する。
(気づいて欲しかったなんて、もっと早くあそこから助けて欲しかったなんて、我ながら身勝手な)
彼に責任転嫁して自分の無力さから目を背けようとしている。頼ってばかりでは駄目だとわかっているのに、カルロならばと期待している自分がいる。
矛盾する理性と感情の折り合いをつけることができず、けれども、決して答えたくはない問いに、視線を外した。
「…………名前はまたおいおいとして。リクハが朝飯を作っているんだが食えそうか」
食事、ね。
別に用意してくれなくてもまったく構わないのだが、そうはいかないのが保護者のつとめ。
悍ましい感情の全てをぶった斬って殴り捨て、視線をカルロに戻し、小さく頷いた。
カルロの後を追いかけるアンジェリカは、リクハが泣きそうな顔で見つめていることに気づかなかった。
味のしない食事をお腹につめこんで、早々に食卓を辞したアンジェリカは、与えられた部屋の窓から庭に降り立った。
口元を押さえて、庭の向こうにそびえ立つ木に足早にかけよる。
木に手をついた直後、ついに耐え切れなくなり、せり上がってきたものを吐き出した。
焼けつく喉を押さえて咳き込み、口元を拭う。
腐ったものを出したり虫を入れたり毒を入れたり、そんなことを二人がするわけがないと頭では理解している。
それでも、体は受け付けてはくれなかった。過去の出来事が、体に深く根付いて閉まっている。
だが、味がひとつも感じられない理由を思い出せたことは、ある意味で僥倖だった。味を感じなくなってから大分時間が経っている。あそこではそれを当たり前にすることで、ご飯は美味しいものという遠い記憶を覆い隠した。そうすることで、少しでも縋る残そうとした。
(その結果がこれ、か。……後悔はないけど、やるならもう少し条件を緩和しておくんだった)
当時は自分を自ら追い詰めることで己を保っていたのだと、今更ながらに自覚する。
「……大丈夫か?」
硬い声音に、びくりと体が跳ねた。
息を詰めて体を強ばらせる。
「あ、いや、怒ってるわけじゃないからな。俺はあとでと思ったんだが、リクハが今すぐ家の中を案内しろと言ってきかなくて……まあ、だから、探しに来ただけで」
沈黙が降りる。
見られたくなかった。いや、いつかはばれること。ばれたくないのは、私が"アンジュ"であるということ。それに比べたら、この程度の事実は瑣末な事柄に過ぎない。
「……浴室の案内にもなるし、とりあえず、綺麗に洗うか」
困惑とためらいが滲んだ声。
扱いに困っているのが聞いてとれる。
昔も今も、重荷でしかない現実が忌々しい。
小さく首を縦に振って、膝を折り曲げた。
吐瀉物を土に埋めようと回りの土を手で掘り返す。
柔らかい土を上にかけ、裸足で踏みしめて固める。
証拠隠滅を終え、アンジェリカは意を決してカルロを振り返った。
どことなく居心地の悪そうな顔をしている。
「行くか」
踵を返したカルロから十歩ほど離れて歩く。
時折、彼が後ろを振り返った際に視線が交わるが、なにかを言うことはなく。
浴室に辿り着いたアンジェリカは、目にした質の良い設備に静かにやさぐれた。




