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第33話

 厚意に満ちていた赤い瞳には、今や敵意しかない。


 狼が、低く、長く、空を見上げて吠える。

 再び飛びかかってきた狼をいなした彼の片腕に抱え上げられて、体をかたくする。


「悪いな。しばらく辛抱してくれ」


 すぐ後ろでうなり声が聞こえた。


 草を踏み荒らす音。宙を羽ばたく音。様々な魔獣の断末魔。

 掛けだした男の後ろに転がる死屍累々。それらの輪郭がすっと溶けて魔石が転がる。


 魔獣にまで裏切られた。


 理解するやいなや、アンジェリカは脱力した。

 こうなってしまった以上、ここも住みよいとはいえない。まあ、食い殺される覚悟で残るのも手ではあるが。


(人から必要ともされず不要ともされず、いるかいないかもわからないように世界の片隅でひっそりのんびり引きこもれればそれでいいんだけど)


 生きると言うことは難題がすぎる。

 ただ生きているから生きるにしても、誰かと関わらないわけにはいかない。

 関わる以上、自分の希望や相手への期待が存在し、そして叶わないことだってある。喜びも悲しみも楽しみも苦しみも善も悪も呑み込まなければ、生きていくことは難しい。


(この人、保護する気満々っぽいからなあ。いや、捨て置いてくれていいんだけど。むしろそうしてほしいんだけど、そういう訳にいかないのが人生。無念)


 静かに項垂れて、出もしない涙をぬぐった。


(神様許して。私は引きこもりたいの。引きこもって自分の世界に浸かりたいの。巫とか魔王とか知らないから、どうでもいいから静かに引きこもらせて)


 そんな大層な運命を私に背負わせないでください。力不足です。不適合すぎます。

 世の中にはもっと情熱的で、正義感溢れた人とか、冷静に物事を見て的確に判断できる人とか、いるでしょう。


 波瀾万丈はもういいです、お腹いっぱいです。静かな余生が欲しいの私は。


 不意に、動きが止まった。

 二人分の呼吸以外の音はなく、妙に空気が凪いでいる。


「ちっ。誘導されたか」


 男が忌々しげに舌を鳴らした。重なるように、大きな水音が辺りを支配する。

 首をめぐらせた先で、大蛇がくわりと顎をむいた。

 眼前に迫る牙に目を瞬いた。


(私は非常食か)


 飛び退いた男。ぐらりと体が揺れ、慌ててしがみつく。


(…………骨と皮でだしはとれそうだけど、生で食べるには美味しくなさそうなのを、非常食。いや、生ものだから案外内臓が美味しいのか……?)


 ああでも、蛇は獲物を丸呑みしてお腹の中で消化するし、味覚に関する舌の発達は人と比べたら、恐らく十分ではない。ということは、ただの栄養摂取だろう。


 人生の悲観からずれていく思考。それを自覚しながらも、やさぐれた心を慰めるために、逃避思考を続ける。


(まあ、これが大蛇にとって美味しいのかどうかはともかくとして、胃酸に溶かされるとなったら、楽には死ねないよねえ。それはやだなあ)


 できればこう、さくっと苦しみも痛みもなく気づいたら終わってました、あるいは眠るように息を引き取ってました、というのが理想なんだが。


「コノ クライ デ ヨイ」

「――は?」


 意表を突かれて唖然とする男に、アンジェリカはひとり気まずい思いを抱えた。


 そういえば、あれ話せたね。


 反応を見るに、やはり話す魔獣というのは一般的ではないのだろう。

 大蛇が魔獣の中でも希有な存在であることに、もはや疑いの余地はない。


 大蛇はゆっくりと体を傾け、自ら地面に叩きつけた。

 切っ先を大蛇に向けながら、男は重心を後ろにずらす。


「ワ ガ クビ ヲ トレ」

「――――はっ?」


(あれ、非常食食べないの?)


 むしろ食えと? え、なんで? 骨と皮過ぎて憐れまれた?

 思わず自分の手を見下ろして、遙か遠くを見つめる。


「マオウ ト シテ サシダス ガ ヨイ」

「……どういうつもりだ」

「トレ。 オオヒメ ノ イノチ ノ タメ ヨ」


 ぱっと首をめぐらせた。地面に横たわる大蛇の赤い眼を凝視する。


 あり得ない。魔物がそれを呼ぶのはあり得ない。有り得るはずがない。

 でも呼んだ。大姫と。夢で、セツとギンカが私を呼ぶように。


「おおひめ? こいつのことか?」


 男の問いに大蛇は応えなかった。


「マオウ ハ ココ デ シス。 ソレデ ヨイ」


 じっと見つめていたアンジェリカは、ふと思い至った。


 神を降ろす、巫と呼ばれる存在が魔に堕ちて魔王となるならば。

 神の使者たる神獣が魔に堕ちれば、それは、魔獣となるのではないだろうか。


「ヤレ。 ヒト ノ コ ガ クル マエ ニ」

「……詳しいことはよく知らねえ。だけど、悪いな」


 痛みを孕んだ目で、男はその大蛇の首を切り落とした。

 咄嗟に伸ばした手は宙をかき、アンジェリカはゆっくりと手を下ろしうつむく。


 魔獣が本当に神獣だというのなら、セツやギンカと同じだ。


 いや、違う。神獣だから、魔獣だから、というのは関係ない。

 命の選別。生きるために誰もがやっていることだ。

 誰かが選んだ命の上で、生きている。

 命そのものに価値の違いはなく、恣意的に価値の格付けをしているだけ。それはわかっている。

 わかっているけれど、自分を生かすために失われていく命が、誰よりも、なによりも、とてつもなく重い。


 目頭が熱い。とうに枯れ果てたと、忘れてしまったと思っていたのに。

 目尻に浮かぶ一粒の涙を拭い、アンジェリカは体を捩らせた。


 地面に下ろされ、辺に転がる魔石の前にぺたりと座り込む。


 魔獣は死んだら、魔石を遺して消える。

 ならば、神獣が死んだら、同じように石を遺すのだろうか。

 この手になにも残らなかったのは、どうしてなのだろう。


 美しいほどに黒く大きな魔石を持ち上げて、抱える。


 魔に堕ちれば、戻れない。

 穢れたものは元には戻らない。

 だから、殺す。殺すことで、魔王は浄化される。


 大蛇が、ほかの魔獣たちが身を呈して守った命だが、目の色が紫――自分が魔に染まっている以上浄化するという名目で狙われ続けるのだろう。

 なにをそんなに期待していたのか知らない。知りたくもない。


 ただもう、人の世界で生きるのは、疲れた。


 巫が魔に堕ちて魔王になる。なりかけてるなら、これ以上穢れたところで構わない。私は気にしない。


 でも、それでも死ぬなと言う。

 お前の命も背負わせてまで、生かす。


 抱えている魔石を、手のひらでペしん、と叩いた。

 腹いせと言わんばかりに魔石を手のひらで何度も叩き、抱えて蹲る。


 この目では人の世には出られない。人目に触れないように逃げ続けるか、魔を浄化する別の手段を見つける必要がある。

 どちらも現実的ではなく、苦難の道だ。


 ずしりと、心に重責がのしかかる。

 助けられた。庇われた。そうである以上、その遺志には報いなければならない。


 ぐっと唇を引き結んで、ぺしんと魔石を叩いた。


 死んだら、その魂は神の膝元に還るという。けれど魔獣は、死んだら神の膝元に還ることなく大地の底へ沈むという。

 神獣としての誇りを持ちながら死んだ魔獣は、やはり大地の底へ沈むのだろう。



 ――むかつく。



 アンジェリカは目を据わらせた。それが世界の理なのだとしても、いくら私としては不本意だったとしても、魔に堕ちても矜持を失わなかった彼らが、そこらへんの魔獣と同列に扱われるのは納得がいかない。


 抱えている魔石を、布でこすった。表面は変わらず黒く輝いている。


 綺麗にできるようななにか。魔を落とせるような。

 目の前の水を手で掬い魔石に掛け、布で拭く。黒い輝きに変わりはない。


(魔は水じゃ落とせない。禊は心身を清める手段の一つだったけど……心身。心と体、つまり魂魄。魔石は、死した後に残るこの石はなに? 魂の具現かなにか? 魂は天上に、魄は地上に留まるというけど)


 天上へ昇れなかった魂が魄に縛り付けられて濁る。

 ネタには成りそうだがそうではなくて。


(こういうときは、困った時の神頼み。神様かー。神様、神様ねえ……)


 天照大御神。三貴子みはしらのうずのみこ。宗像三女神。神世七代。別天津神。――祓戸大神。


(祓えか。意富加牟豆美命おおかむずみのみこと……桃は手元にないな。やっぱり祓戸大神か。十言神呪とことのかじりでもいいけど、天照大御神より、天照坐皇大御神のほうが音が好きだから違うんだよ。大祓詞、最初と最後だけと言わず、全部覚えるんだったなあ)


 無論、祝詞とはそういう選び方をするものではない。

 だが祝詞という知識を知ってはいても、適切な選択方法を知らない以上、同じ効力で種類があるならば好みで選ぶほかない。


 首を傾げ、時に仰ぎ、目を閉ざして記憶を掘り起こす。


 瀬織津姫が罪穢れを大海原に押し流して、速開津比売が流された罪穢れを海の底に沈めて、気吹戸主が根の国底の国に吹き飛ばして、根の国底の国にいる速佐須良比売がさすらい失ってくれる。


(――かくさすらいうしないてば、つみというつみはあらじと、はらいたまいきよめたまうことを、あまつかみ、くにつかみ、やおよろずのかみたちともに、きこしめせともうす。全部言えたらかっこよかったのに)


 途中で諦めた過去の自分に発破を掛けたい思いに駆られながら、目を開いた。


 きらきらと、澄んだ湖が視界いっぱいに広がる。


(…………………うん?)


 左右に首を廻らせて、最後に目の前の湖を見つめ盛んに目を瞬かせた。

 見渡した森は、凄惨たる景色はそのままだが、鬱屈した空気は晴れており、清涼な風が吹き抜けていく。


 ぐるりと首を巡らせた。

 収納袋を片手に茫然と男が佇んでいた。

 様子を見るに、彼がしたことではないらしい。


 男と湖を見比べ正面を向いたアンジェリカはこてりと首を傾けた。

 なんともなしに視線を落とし。即座に天を仰いだ。


 ゆっくりと見下ろした腕の中。魔石が()()輝いている。


 魔が堕ちた、祓われたと言っていいのだろうか。


(それはありがたいけれども、ちゃんと唱えたわけでもない適当かつ中途半端でいいんですか? それも異世界ですよ?)


 神様って緩いなあ。

 場違いな感想を抱きながら、急激に襲ってきた眠気にくわりと欠伸を零した。


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