第31話
振り返った先にあるのは、真っ二つに切り裂かれた鳥の魔獣と誰かの足。
ひたりと首元に冷たい物が触れた。
「何者だ、てめえ」
鋭い誰何が突きつけられる。
首元の刃に鼓動は早まり、息が詰まった。
人がいない方向に、と思っていたのになんで。
「この森でなにをしている」
厳しさを帯びた声音に、全身から血の気が引いた。
だから人間と会いたくなかったのだ。
胸の底からどろどろとしたものがあふれ出る。
肩越しに男に暗い眼差しを向けた。
視線を受けた男の瞳が驚愕に染まり、次いで嫌悪を宿す。
「まさか、おとぎ話に出てくるような紫の目を見る日が来るとはな」
呟きながら男は剣を振り上げる。
「人の姿をした化け物が」
忌々しく呟かれたその単語が胸を抉り取る。抉った所から、暗いものがとめどなく湧いて、覆い尽くす。
幾度となくその単語を聞いた。いつからか変わっていた紫色の目を、伝承にある魔王と同じと言って、化け物と罵られた。
目の色がなんだ。それだけのことでこうも蔑まれ続けるのなら、いっそのこと本当に化け物にでもなってやろうか。
「ガウッ!」
鋭い鳴き声が響く。
怒りに飲まれ掛けていた思考が引き戻される。
黒い狼が男の腕に噛みついている。
他にも鋭い爪を持った鳥が男の顔を鷲づかみにしたり、細長い獣が腰に噛みついたり、足には蜥蜴が噛みついたり。
普段の彼女であれば状況を忘れて呆気にとられたり、独自の感想を抱くのだが、そんなこともなく、心は暗く凪いでいた。
「この、くそっ、魔獣を操るところまで伝承通りかよっ!」
そんなことができるのなら、それもいいかもしれない。
立ち上がり、体ごと振り返った。足下に摘んでいた実が散らばる。
肩に飛び乗ってきた猫が首筋をぺろりと舐めた。
くすぐったさに肩を揺らし、首を押さえる。
「にゃあ」
手を避けろと言わんばかりに前足で踏まれた。
ぺろぺろと、執拗にそこを舐め上げる猫の頭を撫でようとして手を止める。
どうやら、皮膚が斬られていたらしい。
服の裾で手のひらを拭い、もがく男を淡々と見つめた。
「ジェイッ!」
新たな声が響き渡った。険しい顔をして、女性が走り寄ってくる。
呟きと共に、目には見えない刃が鳥を切り裂いた。
ジェイと呼ばれた男は鳥を無理矢理引き剥がし地面に叩きつける。
状況の反転を悟った魔獣たちは一斉に男から飛び退いた。
アンジェリカの肩に乗っていた猫も飛び降り、威嚇の声を上げる。
「なにこれ」
「そいつの目を見ればわかるだろう。魔王が蘇りやがったんだ」
「紫色の、瞳……」
女性が顔を歪め、唇を食む。
その反応にうんざりして、アンジェリカはあからさまにため息をついた。
黒い狼が反転すると同時に、他の魔獣たちが前進する。
跳躍した黒い狼がまっすぐに自分に向かってくるのを見て、アンジェリカは目を閉じた。
食われるならそれならそれで。
頭か、肩か。予想していた痛みとは別に体が傾いた。
咄嗟に開いた視界がくるりと反転し、すこしかたい毛に受け止められる。
思考を覆い尽くしていた靄が、驚きのあまり遠のいた。
(え、……えっ、ちょ、まっ、落ちる!!)
流れるように背負い掛けだした狼の背に必死にしがみついた。
「追うぞ!」
「ジェイ、待って!」
ぴぃぃぃぃぃ、と高い音が森に響いた。
続く慣れない揺れに気分が悪くなり、喉の奥で呻く。
不意に、痛々しい鳴き声と共に地面に投げ出された。
(うえ゛……っ)
胃の不快感を吐き出すように息をつき、そろそろと顔を上げる。
矢で足を射られたらしく、狼が立とうとして、崩れ落ちた。
「追い詰めたぞ」
狼に這い寄り、辺りを見渡した。
いつの間にか人が増え、囲まれている。
後ろは断崖絶壁。ごうごうと川の流れる音がする。
獰猛に目を輝かせる人たちから隠すように狼を抱きしめた。
「油断するな。見たところ大した力はもっていない様子だが、曲がりなりにも魔王だ」
狼を抱く手が震えるのがわかった。
今まで生き延びてきたが、その悪運も尽きたのだろう。
激しく跳ね上がる鼓動が今にも口から飛び出しそうで、喉の奥に力を込める。
「待てよ! そいつだろ、探してたやつって!」
幼さの残る声が緊迫する空気をやぶいた。
「若!? なんでいる!」
「笛の音が聞こえたからに決まってるだろ」
自信に満ちた顔をする少年を、取り囲む人間たちを睨みつけた。
散々貶めて嬲っておいて、それでもまだ飽き足りないのか。
勝手に連れ去って、勝手に勘違いして、勝手に罵って。
そんなに自分勝手なら、私だって、もっと自分勝手になったところで責められる謂われはどこにも――。
「おい、お前。逃げなくても……え、魔王……と、魔獣……!」
悲鳴をあげて少年が尻もちをついた。
「若っ!」
子どもに意識がそれたその隙に、狼は動いた。
アンジェリカの腕を振り払い、狼の顔のすぐ近く、右の肩を噛む。
気づけばくるりと視界は反転し、体は浮遊感に包まれていた。
(――え?)
ゆっくりと遠のいていく崖先から、狼が彼女に向かって跳躍する。
(えっ、まって、えぇぇぇっ!?)
遠のく崖上に、落ちている事を理解すれども、どうしようもなく。
狼の前足が伸ばした手に触れた直後、視界が暗く翳った。ぬめった物が体を濡らす。
混乱に陥り、無我夢中で手足を動かすアンジェリカを押さえ込むように、狼は上にのしかかり肩を噛む。
ひくりと息を飲みアンジェリカは硬直した。内心悲鳴を上げながら、かたく目を閉じる。
瞼の裏から光が差し込んだ。外を見ようと顔を上げるよりも早く、勢いよく射出され落ちた。
準備をする間もなかった。勢いよく水を吸い込み、激しくむせかえる。
空気を求めて足掻く体がなにかに押し上げられ、水面に出た手で近くの物を掴み咳き込んだ。
「ダイジョウブ カ」
肩で息をつきながら、顔を上げひくりと息を飲んだ。
目の前に赤い目がある。
先日、夢で見たことを思い出し、全身が粟立った。
澱んでいる水の向こう側は見えないが、自分を丸呑みできそうなほどの黒い体躯。
状況を見ても、あれはこの灰色の大蛇の口の中だったのだろう。
少し冷静になれば、食われるならばわざわざ吐き出す必要はないことに気づけただろう。
しかし、夢で見たものと酷似した存在に恐れを拭えず、体を強ばらせる。
「……ブジ ナラバ ヨイ」
大蛇がするすると水面に沈む。
それは食料という意味でだろうか。
肉がないから、今は足しにならないと。
不意に体が引っ張られた。
ゆっくりと視線を向けると、狼がすいすいと泳いでいる。
助けてくれたと思ったけれど、実は狼にとっても私は食料でしかないかもしれない。
偏った思考は留まることを知らず、悪い方へと染まっていく。
引きずられるように陸へ上がったアンジェリカは、毛を掴んでいた手を陸に落とした。
体を震わせて水気を払った狼はがその場にちょこんと座り込む。
「がう」
みじかく鳴いて、狼は背を向けた。
首を巡らせた向けられた赤い目は凪いでいる。
そこに宿るのは、アンジェリカを慮る暖かな気遣い。
虚をつかれたアンジェリカは、やがて狼と湖を見比べた。
大丈夫かと案じ、無事ならば良い、と言ったその言葉。
不安と恐怖に狂いそうな自分に対し、行動をもって選択を示すその心遣い。
(食べる……わけじゃ、ない……?)
背を向けたまま、狼は動かない。
風が吹いて、アンジェリカは小さくくしゃみを零した。
体を震わせ、意を決して狼に手を伸ばした。
そっと頭を撫でて、己の足で立ち上がる。
(なるようになる)
この選択が間違っていたというのなら、そういう結果が成るだけだ。
四肢を伸ばし、足を庇いながら歩く狼の後ろをゆっくりとついて歩いた。
部屋の中を動き回っていた赤髪の女性は足を留め、深くため息を吐いた。
「なんでこんなことになったのかしら」
再び徘徊を始め、ため息をついては動き回る。
困惑はやがてふつふつと怒りに変わっていく。
「元はと言えば、こういうときに限っていないのが悪いのよ、あのバカルロ……!」
怒りの矛先は、未だ来ぬ待ち人に向けられる。
それが理不尽な物であると彼女とて理解していた。
彼女しかいない部屋に、不機嫌そうな声で返答があった。
「悪かったなバカルロで」
扉を開けて目をすがめている待ち人に、女性はげっ、と呻いた。
「なんで聞いてるのよ」
「お前の独り言が大きいだけだろ」
呆れたように肩をすくめ、カルロは扉を閉めた。
扉の内側に刻まれている模様に手を置く。
室内に展開された魔法を確認し、カルロはフードを目深に被ったまま、近くの壁に背を預けた。
「それで、なにがあった、リーザベル。緊急案件だとファインから連絡があったから忍んできたが、そこかしこで魔王の復活が噂されていることと勿論、関係があるんだろう」
「……頭が痛いけれど、そうよ。そのこと」
リーザベルはその日最大のため息を吐いた。
ソファに腰を下ろし、背もたれにもたれかかった。
「事の始まりはフィーテ君が夢で啓示を受けたことよ。大事にするなって言ったのだけれど聞く耳を持ってくれなかったわ」
「ああ、あいつならそうだろうな。下手に止めるより一緒にいた方が制御しやすいと思って迎えに行くと同時に、なにかあった時のために連絡を入れたってところか」
その場にいたのではないかというほど的確な推測に、リーザベルは頷く。
本当ならば、彼女は先に接触を図るつもりだった。
あの森のどこにいるのか見当もつかなかったが、それでも探し出すつもりでいた。
「でも、ジェイの方が早かったうえ、その時にはもう、あの子が魔王になりかけていたから、色々と想定外だったわ」
カルロが訝しげに問いかける。
「会ってからではなく?」
「ジェイがそう証言していたわ。魔獣も従えていたと」
そうでなければ、いくらジェイとはいえ、魔窟の森にひとりでいる子どもに突然斬りかかる事はしない。たぶん。
カルロは腕を組んで考え込む。
「魔王になりかけてた、ということは、まだ完全に魔王には至っていない。つまり、姿形は変わってないんだろう? にもかかわらず、魔獣を従えていて、なおかつお前たちから逃げおおせたと。あり得るのか?」
「状況次第でしょう。追い詰めたところに追いかけてきたフィーテ君に気を取られて、その隙に魔獣と崖から真っ逆さまだもの」
得心がいったような顔をした。
生きてるかどうか定かではないが、仮に魔王と仮定するならばその程度では死なない。ゆえに街はかつてない緊迫感に覆われていた。
「それで討伐隊が組まれているわけか」
「そういうこと。あのとき、貴方がいればフィーテ君も大人しくしていたかもしれないけど」
「女だてらと都合の良いように理解しかできないやつはごまんといるからな」
「そうね。どこに行けど似たような物よ。ここはまだましだけど」
リーザベルは体を前に倒して頬杖をついた。
ガルウェン商会。そこの商会長もその跡取りも、性別関係なく実力を重視している。
そのなかで、ひとり違う感性を持ち、振りかざす次男坊の評判はよろしくない。
しかし、この度のことで次男坊に対する評価が揺れていた。
「ひとつ疑問があるとすれば、迎えに行くのが遅かった、というわけではないと思うの。啓示を受けて二日後には出立したから、たぶんそれを含めて保護して欲しかったんでしょうね」
しかし、フィーテの浅はかさにより彼女の存在は第三者に知られることとなった。
見間違いで済む話では、もうない。
なるほどと相槌を打つとともに、カルロは頭を掻いた。
「巫を保護しろというのなら、なんでカミサマはよりにもよってフィーテに啓示するかな」
「神様にとって人となりは関係ないのでしょうね。あと、叡智の神ナンナの巫はフィーテだから」
「そうか、叡智の神以外はまだ啓示できるほどの力を取り戻せていないという話だったか」
起こるべくして起きた事故。
とはいえ、このままではその子どもは命を落とすだろう。
リーザベルと同じように、商会で雇う形で保護することができれば良かった。
しかし、魔王であると知られた以上、それは不可能だ。
「俺が直接保護するしかないのか」
渋面をつくり、カルロが呟く。
「そうね、貴方以上の適役はいないわね」
リーザベルは俯いた。
国家権力に匹敵するほどの力を持った存在であるSランク。カルロを含めて、五人しかいない逸材だ。
巫の存在は遥か昔に存在したと言う幻の存在。それを未だに信仰対象として掲げている国もあるが、形骸的なものでしかない。
国に渡ればいいように使われるだけだ。
それをよしとするつもりは、リーザベルにも、そしてカルロにもなかった。
「……あの時、あの子を保護するために、仲間を裏切ることも考えたわ。でも、守り続けられるほどの力は、貴方ほどの力はない。……私はあの子を見捨てたも同然だわ」
ただ保護するだけならリーザベルでもよかった。巫のことを考慮するならば、カルロではないSランクの誰かでも。
けれど、魔王という話が公になった以上、事情を知っており尚且つ国家に匹敵する力を有するカルロにしか、保護を頼めない。
「適材適所だ。ところで、そこまで落ち込んでいるところを見ると、その魔王になりかけていた子どもっていうのは、十歳前の女の子か」
「…………そーよ。どうせ私はアンジュちゃんくらいの子に弱いですよー」
落ち込みモードに入っているリーザベルに、カルロはそっと嘆息する。
「過ぎたことだと言っているだろ」
「…………わかってるわよ。そんなこと、わかってる」
顔を覆って項垂れる彼女の姿に、カルロは憐れみの視線を向けた。
カルロの妹のアンジュは死んだ。《《そう言うことになっている》》。彼女に告げられる真実はそれだけだ。
「とにかく、事情は理解した。進展があったら報告する」
魔法を解除し、部屋から出たカルロは気配を消しながら、廊下を素早く移動する。
裏口から出る際に受け取った手紙。裏路地を歩きながらざっと目を通したカルロは眉間にしわを寄せた。
伯爵家の献身もあり、声を取り戻したと言う令嬢がいる。あれから一年。ここ半年ほど彼女に関する黒い噂が後を絶たない。
初めは陥れるためのものだと思っていた。しかし先日、噂が真実であると言わんばかりのことがあったという。その害を被ったのがガルウェン商会だった。
『これは友人としての忠告だ。現実を見た方がいい』
手紙に書かれた忠言が胸を抉る。
服越しに胸元をぐっと握り込んだ。
「……あの頃のお前は、もういないんだな」
手紙を四つに破き、カルロは魔法で紙を燃やした。灰燼が風に乗ってふわりと舞い、土に還る。
胸にかけていた紐を外し、目を伏せた。貰った時に施されていた複雑な刺繍は見る影もない。裏側にかろうじて五芒星が残っているばかりだ。小さな袋の口を閉じていた紐の結びも、今は軽く括っているだけ。
カルロは唇を引き結び、鞄の奥底にそれを収めた。




