第30話
慎重に、けれども先ほどよりも素早く足を進める。
眩しい光に目を細めた。ゆっくりと開ける視界の真ん中に、ぽつんと像が佇んでいる。
辺りを見渡しながら部屋の中に入った。
発光しているのはどうやら部屋中に生している苔のようだ。
欠けた壁から、ちょろちょろと水が吹き出ており、小さな貯まりを作っている。
迷わず水源へと歩を進め、目の前で立ち止まる。
手のひらで受け取った水はとても冷たく、澄んでいた。
渇きに飢えていた喉が、こくりと音を立てる。
安全性を考慮するなら煮沸消毒したいところだが、贅沢は言っていられない。
なにかあったらその時はその時だ。
自らに言い聞かせ、水を仰いだ。何度も何度も、喉の渇きが落ち着くまで口に運び続ける。
ほどなくして、水で満たされたお腹を撫でながらけふりと息を吐いた。
その場にぺたりと座り込み、水鏡をのぞき込む。
これが公爵令嬢だと言われて、誰が信じるだろうか。
もっとも、もう国はないらしいので、今更そんな肩書きに意味はないが。
いそいそと服を脱ぎ、水たまりにつけた。手で押して洗えば洗うほど、澄んでいた水が濁る。 流れ出る水で顔を洗い、頭を流し、濡れた服でついでに体も拭く。
最後に、今度は流れる水で服を流し、かたく絞る。
ぽたぽたと髪の毛から雫を滴らせながら、改めて室内を見渡した。
長いこと使われていないのか、像にも像が鎮座する台座にも苔が生している。
座るところを探すけれども、地面が見えている所の方が少ない。
しばし考え込み、苔の上に腰を下ろした。
(思ったより座り心地いい)
光る苔は柔らかく、思っていたよりも温かい。発光しているせいだろうか。
煌々としているのは難点だが、自然の弾力材としては丁度いい。
苔の上に服を広げて置いて、アンジェリカもその場にころんと横たわった。
寝返りを打った丁度視線の先に、苔に覆われた像がある。
像の前に祭壇がもうけられていることから、隠れて信仰されていた神様の類なのだろう。
それがいいものなのか悪い物なのかは判別不能である。
(…………………………………………なんか、罰当たりそう)
起き上がり、神像に近寄るとまじまじと眺める。
普段であればそこまで気にしなかっただろう。
しかし、夢とは言えセツとギンカに呼ばれた先にあったことを考えると、彼らに関わりがある物のような気がしてならない。
そういうふうに解釈したいだけなのだろうけれども、一度そう思ってしまえば、神獣たる二匹と神像を切り離すことはできなかった。
目の前の苔をむしり取り、通路へと投げた。
苔は光を失うことなく輝き続けている。群生地から離れた苔は、光を失うことはないが、その輝きは小さい。
神像に張り付いている苔で、どこまで通路を照らせるだろうか。
足下がなんとなくわかるくらいの明るさを保ちつつ、神像に生している苔を通路に移植していく。
それが終わったら、来ていた布切れの袖を破き、石像を拭う。
(明らかに悪魔らしき姿なら心置きなく放置するけど、そうじゃないからねえ)
信仰も文明も文化も、所違えば相容れないものがある。
この神像も恐らくそういった物なのだろう。
(栄枯盛衰盛者必衰は神様も同じ、かあ)
一応、教養として文字通りたたき込まれた身であるから、主神ウトゥについては知っている。
慈愛の女神ウトゥ。愛に関する神ゆえに、良縁祈願や縁結び、子孫繁栄の御利益があると言われている。彼女の加護を受けたものを聖女と呼び、女神を信仰する国のどこかで生まれるのだという。
その聖女が魔王を倒す人類唯一の存在らしい。
女神曰く、子孫繁栄のため、ひいては平和をもたらすために必要なことらしい。
その話を聞いたときの感想としては、ここの神様は過干渉なんだなとしか思わなかったが。
閑話休題。
歴史にも神の威信を賭けた戦争が度々あったと刻まれている。
国の歴史から抹消された信仰の遺物であることは想像に難くない。
だとても、台座の汚れ、というか落書き? ――は、さすがに罰当たりだと思う。
ついつい細かいところまで綺麗に磨き上げ、終わる頃にはすっかりくたびれ果てた。
その分の達成感は素晴らしく、満足げに鼻を鳴らす。
神像が綺麗になるのと一緒に、鬱屈していたものや鬱憤がかなり晴れた気がする。
気が抜けるとどっと疲れが押し寄せ、瞼が重くなる。くわりと欠伸を零し、台座に寄りかかるとそのまま深い眠りについた。
青は青でも、透き通るような水の碧い空間に、ふよふよと浮かんでいる人がいる。
ぼんやりと眺めていたら、彼が恭しく頭を下げた。
「貴方に心からの感謝を」
首を傾げて、垂れ下がる藍色の髪を見つめる。
「貴方のおかげで、わずかではありますが力を取り戻せました」
ゆっくりとあげられた面。緑色の瞳が和む。
そんな顔をされても、心当たりがないのだが。
「力の及ぶ限りにはなりますが、貴方の願いをひとつ、叶えましょう」
なんか、うさんくさい。
心当たりないのにそう言われても怪しいのと、人を間違っているとしか思えない。
「信じるか否かは貴方の思うように」
……。
腕を組んでしばし考え込む。
ここはどことか、誰とか、頭の中読まれたような気がするとか。いろいろ突っ込みたいけれども、突っ込んでいいものやら。
でも、仮に突っ込んで何したいかと言われると、自分の置かれている立場を把握したいだけ。
わざわざ聞かずとも、誰か知らない人に願いを叶えてやると言われている、くらいの状況理解は可能だ。それ以上の把握をしたところで、信用するか否かは個人の価値観の問題だ。
怪しい、という思いは消えない。だが、好きに信じろと言うのならば六割、いや七割程の確率で欺かれるとしても、一考くらいしても罰は当たるまい。
願い。願いねえ。……お願い、ってなんだろう。
「なんでも構いませんよ」
そうは言われましても、思い浮かばないものは思い浮かばないのです。
自堕落に過ごしたいとか、ごろごろしたいとか、引きこもりたいとか、自分で手にするものであって誰かに願うものではない。
カルロのことを聞いて答えを得たところで、自分の目で確かめないと気が済まない質だから、願う意味はない。
セツとギンカに関しても、願うことは安らかにということだけ。
左腕を押さえた。
夢に出てきた彼らが、落ち着けるかと言われるとそうではないだろう。
しばし考え込み、やがてゆっくりと吐き出した。
あの子らのことだから、心配しておちおち休めないのだろう。それをどうにかしてくれと神様に願うのは違う。
となると、神様にどうしてもと願うことはやはり特になにもないので、丸投げしよう。
「丸投げ、ですか」
穏やかに微笑んでいた成年が眦を下げた。
真っ当な反応だよなあ、と思いながら小さく首を縦に振る。
いつかどこかで、私がなしたことと同程度の対価として貴方がふさわしいと判断した程度に、貴方の力が及ぶ範囲で返してください。
「それはまた……奇異な願いですね」
でしょうね。現実も願いも我が道を行っている自覚はあります。修正する気はさらさらないですが。
願い事を叶えてくれたとしても、そっくりそのままもらっても、私のことだからつまらないと感じてしまう。
手に入るも入らないも、自分の道を行けばなにかしら結果は成る。
神様(仮)に言うことがあるとするなら。
「なんだい?」
神様(仮)は否定しないのか。そういうことならば尚更。
彼に向かって二礼し、二回、手を打ち鳴らした。
紆余曲折ありましたが、現在進行形で波瀾万丈だけど、なんとか一応生きてないこともないです、たぶん。ありがとうございます。
一礼して以上! よし、満足。
彼が呆けた顔をして、そして声を上げて笑った。
「無欲ですね貴方は」
小首を傾げながら、首を横に振る。
人より強欲な自覚はあります。
「貴方の行いと同程度の対価を、私の一存で返してよいと、本当にそう言うのですね」
特に願うことはないので、それで丸く収めてください。
「いいでしょう」
穏やかに微笑む成年の指先が額に触れた。
直後、意識が遠のき、霧散する。
誰もいなくなった空間で、成年は嘆息した。
「怖いお方だ。――導きなく封印を解きここまで運命を改変したその功績に見合う対価など、そう簡単に釣り合うはずもない」
それこそ、彼女の願いに即して世界を改変させる程のことをしなければ。
だから“自分の力を取り戻したことに対する対価として願いをひとつ叶える”と銘を打った。
その意味は無に帰したが。
「さて、我が子に働いてもらうとしましょうか」
清々しい気分で目が覚めた。変な体勢で寝た割には、体がものすごく軽い。
夢を見たような気がするけれどなんだったか。
背中を伸ばして、ゆっくりと息を吐いた。
すっかり乾ききっている服を頭から被り、澄み切った水をのぞき込みながら顔を洗い、喉を潤す。
一息をつき、台座の前に立つと恭しく頭を下げた。
毎度お世話になっております。いつも……いつも? ありがとうございます。
ひとつしか思い浮かばなかった方法で参拝し、入り口を見た。
行きと同じように壁につきながらゆっくりと洞窟を出る。
外に這い出て空を見上げ、ふと目を瞬いた。
木々の向こうに白い煙がのぼっている。
人がいるかもしれない。
足を踏み出そうとして、しかし、上げた足をその場に下ろした。
(こんな森の中に人? いや、人のこと言えないけど。街から外れて過ごしている人に関わるべきか、関わらざるべきか)
腕を組んだ。
悩んでいるがあまり気がのらない。
(……情報収集という意味で偵察くらいはした方がいいという理性が働いているだけで、行きたくないんだよ、人に会いたくないんだよ。やめとこう)
悩み事、というけれど、その実、心の中ではどうしたいか決まっていることが多く、背中を押して欲しいだけというのはよくある話だ。
それを自覚しているか否かは別ではあるが。
(もうしばらく人間はいいから、反対方向に行くか)
悩むのも、苦しむのも、憤りを感じるのも。誰かと関わるから起きる。
だったら、そんなことに無駄に時間を費やすより、ひとりでも、楽しい時間を過ごしていたほうが有意義だ。
(サバイバル、サバイバル、飛~んで火に入る夏の虫~)
ぱちりと目を瞬き、こてんと首を傾けた。
(火あぶりはだめなやつでは?)
なにか良い歌ないかなぁ、ととりとめのないことを考えながら森の中を意気揚々と進む。
ふと足を留めた。その場でしゃがみ込み、摘まんだ実を口に放り込む。
(味がしない?)
春先になる、酸味がありつつも甘い実だ。名前は忘れた。
味がしないとは今までも思っていた。嫌がらせで味覚が迷子にでもなっているのだろうか。
(そうれはそうと、今、春だっけ? ほぼ軟禁で代わり映えのない景色だったからなあ)
日付感覚ならまだしも、季節感覚もなくなるんだねえ。
新しい発見に上機嫌に鼻歌を歌う。服の裾を引っ張って実を摘んでいると、背後で重たい物が落ちる音がした。




