第26話
唐突に、白い梟が飛び立った。山の中へと姿を隠した梟を視線で追う。
軽くなった頭の上に違和感を覚えながら、アンジュは辺りを見渡した。
「リクハが隠れたってことは、村でもあるのかな」
「村であることを祈るばかりだな」
神獣は気配に敏感で、人の気配を感じたら姿を隠す。
今までもそうだったから、恐らく付近に人がいることは間違っていない。
ただ、その付近にいる人、というのが、近くの村の狩人なのか、はたまた依頼をしている冒険者なのか、あるいは山中に隠れ住む盗賊なのかまではわからない。
アンジュは歩きながらカルロの方を見上げて手のひらを叩いた。
「神様仏様カルロ様。どうか村でありますように」
「何度も言ってるが、俺に祈るな。神様にだけ祈れ」
「何かあってもどうにかしてくれるのはカルロだから。神様は、見てるだけ」
「いつか罰が当たるぞ」
「神様はそこまで狭量じゃないから大丈夫」
「どこから出てくるんだその自信」
軽口をたたき合いながら、緩やかな勾配の坂をのぼる。
道の先に、少し開けた場所が見えた。
そこにぽつりぽつりと建つ建物。
集落だ。
「よかったな。村だぞ」
「……。登山ってさ、体力使うよね……」
「だから背負うって言っただろ」
「普段が引きこもりですからね。少しくらい、ちゃんと歩かないと……、体力が、つかないでしょ」
村の入り口まで辿りつき、アンジュは深々と息を吐いた。
両膝を手で押さえて、金臭い唾液を飲み込む。
「それでも、この、体力のつかなさ加減は、どうかと思うけど」
「気にするな」
村の入り口の前でまだ動けないでいるアンジュは、差し出された手にしがみついた。
抱え上げられて、ほっと安堵の息を吐く。
ぴりぴりと他所の人間を歓迎しない空気。
肌を刺す警戒の視線は村への印象を悪くする。
気力をごりごりと削られていく気がして、先ほどよりも体が重たくなる。
まずいかな、と思っていたけれど、これはまずいというかやばい。
「カルロー」
「なんだ」
「素通りしない?」
「今から野宿できるところ探すとなると、厳しいぞ」
夜の山は冷える。
野宿をするならば、風雨を凌げるところで、火を焚く必要があった。
太陽はすでに傾いて、西の空がうっすらと赤みがかっている。
土地勘がないところで、それらの条件を満たすのは少し無理があった。
「ですよねー……。ならせめて、朝一で出よう。じゃなきゃ、数日滞在コース」
この短時間に悪くなった顔色にカルロは目を瞠った。
「久しぶりだな。しばらく落ち着いてたのに」
「そうだねえ」
「相変わらず読めないな」
「……そうですねえ……」
語尾が力なく消える。
中に入れば入るほど、体にのしかかる重石。
眉間にしわを寄せてアンジュはカルロに体を預けた。
カルロは久しぶりだと言うけれど、まずいな、と言う感じは度々あった。言っていないだけで。
読めないのもそう。まずいなと感じる時には、だいたい、警戒されていたり、疑心の目を向けられていたり、そうでなければ自分がひどく落ち込んでいる。
だから、気にしないようにと研究に没頭したり、神獣たちを愛でたりして、精神の安定を図っていた。
疲れているからと言って、ここまで酷くなるかと言うとそう言うわけではなかった。
似たような状況にも関わらず体調を崩したのは、崩すほどの何かが、ここにはあるのだろう。
そう考えると嫌な予感しかしない。
「具合悪かろうがなんだろうが、朝一に出よう。ね」
「お前が動けそうならな。流石に動けないお前を抱えながら山越えは無理だ」
「頑張るから一刻も早くここを離れたいのでお願いします。越えなくても、野宿ならセツとギンカとリクハを気兼ねなく愛でられる」
セツ。ギンカ。リクハ。それらは全て神獣たちに名付けた名だ。
カルロは最後まで反対していたが、それ以上のわがままはいわないという約束のもとでその名を呼んでいる。
すべて、アンジュの好みでつけた名で、彼女個人はいたく気に入っている。
「愛でる前に休め」
「休むから愛でるんだよ」
唯一の宿屋につくなり、アンジュは布団に潜り込んで鞄を抱えた。
疲れたように息を吐いて、瞼を閉じる。
顔を覗かせた白蛇がちろちろと頬を舐めた。
くすぐったさに目を押し開いた。
「セツがかわいい」
すり寄ってくるセツにアンジュも頬をすり寄せる。
抱えた鞄がごそごそと動く。
ねじ込むようにしてひょっこりと白い亀が顔を出した。
くわりとあくびを零した白い亀は手を伸ばして転がった。
自分も、というように見つめる丸くてかわいらしい瞳に、アンジュは頬を緩めた。
重い身体を押して白い亀の頭に手を置いた。
「ギンカもギンカでめんこいよー……」
褒めたてる言葉は力なくすぼまり、消える。
ここにいるだけで、ざっくざっくと気力と体力が削がれていく気がする。
ギンカの頭に置いた指が、ぽとりと布団に落ちた。
頭が重い。意識がどろどろと溶けていくような感覚に襲われ、再び瞑目した。
「本当に大丈夫か?」
声が遠い。まるで水の中にいるかのように、言葉がぼやけて届かない。
なんて言ったのか、聞き返す気力もまいまま、意識を手放そうとしたその時。
かぷり。
「…………いたい……」
眉間にしわを寄せながら、うっすらと目を開く。
かぷかぷと、痛いけれども血は出ない程度に指や頬を何度も噛まれる。
痛いけれども、どこか必死な様子で噛んでいる姿に、小さく笑いを零した。
「ペットの甘噛みって、こんな感じなんだろうなあ……」
「…………………………大丈夫じゃなさそうだが、大丈夫だな」
カルロは呆れ果てたように肩をすくめた。
「飯を貰ってくるから、それまで寝てろ」
「まいどー、おしぇわになりましゅ……」
億劫そうに挙げた手が、ベッドに落ちた。
白い亀が指を追いかけてぱくりと噛みつく。
指を甘噛みされながらうとうとしていると、かたん、と物音がした。
帰ってきたのかな、と思いつつも微睡んでいると、風が身体を這った。
空気を叩く音が何度か響く。
もふ。
顔の横に重石が乗った。
柔らかな手触りの毛が、するすると顔を滑る。
「………………………………っ、ぶえっくしょいっ」
鼻をくすぐる羽に盛大なくしゃみがこみ上げた。
ずるずると鼻をすすり、再びまどろみの中に落ちる。
もふりと顔に押しつけられる柔らかいもの。
「ふへっ」
夢うつつで、気の抜けた笑いをこぼし、毛並みに顔を埋めた。
穏やかな寝息を立て始めたアンジュの横に、人影がある。
アンジュと歳の頃は変わらない。赤い瞳は思慮深い色を宿し、アンジュを見下ろしていた。瞳孔を縦に長く細めて、それは窓の外へと視線を移す。
窓際へと音もなく移動し、窓を閉じる。
室内に吹き込んでいた風に白い髪が揺れて、やがて止まった。
それは、己の姿を見下ろして、手を開いたり閉じたりを繰り返す。
身に纏う衣装は、カルロたちと見て回った国でも見ないものだ。
それ自身も不思議そうに見下ろしながら、その場で一回転した。
アンジュが見たならば、水干だと目を輝かせる所だが、生憎と当の本人は夢の世界へと旅行中である。
不思議そうに衣装を見ていたそれは、はっと顔を上げた。
アンジュが眠るベッドに駆け寄り、布団をかける。
自分の体も隠すように潜り込ませた直後、扉が開いた。
扉を閉じた後でその場に立ち尽くしていたカルロは眉間に深いしわを刻んだ。
「ったく、目を離すとすぐこれだ。体調が良くないなら大人しく寝てろってのに、ばかアンジュ」
白い梟のお腹に顔を埋めて眠る姿に、悪態をつく。
食事を置いて声をかけるけれども返答はない。
一人腹ごしらえをするカルロを、布団の合間からセツが顔を覗かせた。
気づかれるより早く頭を引っ込め、アンジュの横に伸びて横たわる。
ぱしっと、短い前足で身体を叩いたギンカにセツは静かに牙を剥く。
羽を打つ音に二匹はにらみ合いをやめ、セツは身体を押し込んでアンジュの首に身体をめぐらせた。
ばん、と勢いよく開かれた扉にアンジュはのそりと身体を起こした。
五つくらいの、知らない子どもだ。この宿の子なのだろうか。
なんにしても、人が寝ているときになんて失礼な。
目をごしごしとこすっていると、外から怒声と、なにかを破壊する音が聞こえた。
「ひっ」
目に涙を浮かべながら、怯えた様子で蹲る幼子。
よくわからないけれども、良い事態ではないことは理解した。
立とうとして、けれども覚えた目眩に顔を歪めた。
ふらふらと、その子どもに近づいて腕を引っ張る。
声が近づいている。
どこに行ったガキが、と怒鳴り上げる声。
そのほかにも上がる数多の悲鳴と歓声。
「隠れて」
ベッドと床の隙間に、怯えた顔の幼子を押し込んで、ベッドの上に置いたままにしていた鞄を押しつけた。
「なにがあっても、出てきちゃダメだからね」
その子が頷くよりも早くアンジュは立ち上がった。
けれども、先ほどよりも更に激しい目眩に立っていられなくてベッドに寄りかかるようにして倒れ込んだ。
「こっちだ!」
倒れる音を聞きつけて、扉が勢いよく開け放たれる。
ぐるんぐるんと回る顔を押さえながら、アンジュはわずかに目を開く。
男が二人。どちらも粗野な格好だ。手にしているのは短剣。
「あのガキがいねえ!」
「窓から逃げたんだろう。ほっとけ。どうせ何もできやしない」
それより、と近づいてくる男から逃げるよう、ベッドを支えに床を這う。
足が震えて立たない。その上、更に気分が悪い。
がくん、と頭を強い力で引っ張られて喉の奥で呻いた。
「い゛っ」
「それより見ろ。この娘。小汚いが、顔は結構な上玉だぞ」
上を向かせて、のぞき込んでくる男。
恐怖で引き攣った喉からは、引き攣った喘ぎ声しか出てこない。
髪の毛を引っ張る腕を引き剥がそうにも大人と子どもの力の差は歴然。
「ひゅう。こいつぁ、高く売れるぜ」
「お偉いさんには、こういうのが趣味な奴もいるからなあ」
引きずるように連れ出されて、弱々しい抗議の声を上げるけれども聞き入れられるはずもなく。
恐怖と気分不良に空っぽの胃の内容物を吐き戻し、アンジュは意識を手放した。




