幻想テラリウム
幻想の揺りかごで眠っていた子どもは、揺りかごを失って地に墜ちた。そのまま際限なく堕ちていくさまは、誰かを魅するには十分なほどに美しかった。
拙い子どもたちの証言だけでよくここまで再現ができたものだと、シンジュは感心していた。高く背を伸ばして葉を広げる木々も、余すことなく地面を覆う苔も、半透明に内側からほんのりと光っていてあの日の自分たちが見ていた世界によく似ている。テラリウムと呼ばれるそこは確かに、過去の時間を一部切り取って永遠の小さな世界を構築しているようであった。頑ななあの子どものご機嫌取りにはもってこいだろう。
シンジュは全面をガラスに覆われたテラリウムの扉を開く。中からは澄んだ植物の香りがしたが、それらはこのテラリウムの空調管理によって作られている紛い物に過ぎなかった。本物はこれほど澄み切ってはおらず、どこか甘ったるい、生と死を感じさせるにおいを放っている。この中に延々と閉じ籠っている少年はそんな現実さえも忘れてしまっただろうかと、シンジュは薄い笑みを浮かべてテラリウムの中を進んだ。
目的の相手は狭い空間で、自由きままに生きていた。この矛盾が何とも滑稽で、シンジュは相手の名を呼ぶ際に嘲笑を含めずにはいられない。
「サンゴ」
風とは違う力によって髪がたゆたう以外に、シンジュが呼びかけた相手に動きはない。咲き誇る花々の上で身を丸めて眠っているようだった。まるでおとぎ話のお姫様のようじゃないかと、シンジュは笑う。
「足繁く通っているというのに、君はいつも出迎えてはくれないね。昼寝ばかりじゃなく、少しは僕にも関心を持ってくれないかな」
語りかけながら、生き物のようになびくサンゴの髪を踏みつけようとしてシンジュは足を持ち上げる。しかし足を下ろすよりも早く、瞬間的に集まってきた半透明の植物たちにそれを弾かれてしまった。葉緑体を透かして見たような、淡い緑の斑点がある植物だ。これはこのテラリウムの中に作られた偽物ではない、能力によって作られた本物である。
横になっていたはずのサンゴは、太い木の枝の上に立ち、鋭い目つきでシンジュを睨みつけていた。
「なんの用だ」
放たれた声は低く凄んでいて刺々しさがあったが、それでもやはり子どものものだった。舌足らずで、愛らしささえ感じる。本来の用途と違う使い方をするからそうなるのだとシンジュは笑った。愛されるための存在に威嚇されたところで、何の脅威にもならない。
「用がなければ会いに来ちゃいけないのかい」
そうシンジュが軽口を叩くと、サンゴは心の底からの嫌悪と不快を表情に表した。全身で帰れと告げてくるサンゴに、冗談だよ、と目尻を細くさせる。
「要件ならちゃんとあるさ。どうしても君に伝えなければならないことがね」
だから降りてきてくれないかい、とシンジュは手を広げて見せたが、サンゴは冷めた目をしたままで降りてくる様子はなかった。仕方ないか、と肩を竦めて「じゃあ、そのままで」と呼びかける。サンゴはぴくりとも動かなかった。
「君と僕だけになると、この施設も寂しいものだね」
シンジュは指先で花を弄りながら、昔はあんなに子どもがいたのに、と小さく呟く。サンゴは声に苛立ちを滲ませながら「はやく要件を言え」とシンジュを急かした。自分の存在そのものが彼を苛つかせるのだろう。シンジュは笑みを深める。
「……皆、旅立って行った。過去や彼らに囚われることなく」
今や、囚われの身であるのはサンゴだけだった。過去に縛られていながら、その過去に縋ることでしか生きる術を知らない哀れな子どもに成り下がってしまった。彼も、諦めるべき時が来たのだ。その為にシンジュは少しずつ力をつけてきた。
「サンゴ」
抑えきれない嘲笑が、抑制を超えて満面の笑みへと変わる。
「この施設はね、明日閉鎖されるんだよ」
大人の言葉を理解した子どもの表情が硬直し、やがてじわりと絶望の兆しを見せ始める姿が、哀れにも美しいと、シンジュは見つめていた。
かつて、シンジュとサンゴのような子どもたちには『ネイヴァー』と名づけられた友人がいた。大人や、選ばれざる者には決して見ることも触れることもできない、不可思議な生命体。あるがままに、太古からそこにあり、生命の脈動のように超自然的な存在だった。本来ならば、人間には干渉できない大きな流れだ。だが、世界に数十人ほど、突然ネイヴァーが見えるようになった『選ばれた子どもたち』がいた。その中でもシンジュとサンゴは特別で、二人には生まれついてネイヴァーの存在が見えていたのである。
ネイヴァーの力を使って、シンジュとサンゴは戦争をしていた。
サンゴのネイヴァーは「コラルス」という名で、鮮血のように赤い珊瑚と、薔薇のように深い深紅の鉱物で構成された巨人であった。シンジュのネイヴァーは「ペレナ」という名で、幾重にも重なった層が甘く光を返す真珠と、深海のように果ての無い青藍の鉱物で構成された巨人であった。両者は似たような性質を持ちながら、まったく異なる存在だった。
シンジュはネイヴァーの力を使って、世界を破壊し創り変えようと考えた。サンゴはネイヴァーの力を使って、世界を守護し保とうと考えた。破壊と創造の闘争は、巨大な力を持つ者には避けられぬものであったのかもしれない。ネイヴァーの力というものは、人間をはるかに超越したものだ。自然そのものであるそれは、一種の災害であるとも言えた。
シンジュは、くだらない人類は淘汰され、ネイヴァーとともに生きる新たな人類こそが新世界を構築するに相応しいと、同じ境遇の子どもたちに説いていった。一方でサンゴはシンジュの思想を真っ向から否定し、ネイヴァーの力を破壊で穢すな、ネイヴァーを人間の欲望に利用するなと、シンジュに立ち向かった。サンゴには身寄りがなく、ネイヴァーのコラルスだけが彼の家族であった。シンジュは選ばれた子どもたちのために、サンゴはネイヴァーのために奮闘していたのだ。
二人の攻防は、二つの災害が同時に押し寄せるような、莫大な被害を引き起こすものになるだろうと予想された。世間には二人が何のために争っているかなどわかるはずもなく、強大な力を持った子どもが人類の脅威になるような出来事を引き起こそうとしているのではないかと恐怖した。シンジュとサンゴの戦争には、政府さえもが介入し、厳戒態勢が敷かれたのだった。
だが、結果として世界は変わらなかった。戦争は立ち消え、残されたのは選ばれた子どもたちだけであった。争いは解決することなくネイヴァーの消失という形で終息してしまったのだ。唐突に、忽然と、人間の前からネイヴァーたちは姿を消してしまった。見えないはずのものが見え、そしてそれがまた見えなくなった。それだけの話であったが、シンジュやサンゴにとっては、それだけの話ではなかったのだ。
「あの時の大人は必死だったよね。ただの子どもになってしまった僕たちに、こんな大袈裟な施設まで用意してさ」
シンジュはネイヴァーが消えてしまった当時のことを思い出して、くすくすと笑った。
ネイヴァーの消失後、シンジュやサンゴを含めた子どもたちは、矯正施設と名のついた緊急施設に収容されることになった。得体の知れない能力を持つ相手を隔離するためだった。だが、ほとんどの者がネイヴァー消失とともに、特殊な能力を失っていた。ネイヴァーを構成する物質と同じものを自在に操ることが可能であったのは、残りわずかな子どもだけで、やがてはそんな子どももいなくなっていった。まるで毒素が体から抜け出すようだなと、施設の研究員が言っていたのをシンジュは覚えていた。その表現は強ち間違いではなく、ネイヴァー構成物質はネイヴァーと触れ合うことで人間の体に蓄積され、それを用いて子どもたちは普通の人間には到底不可能な芸当をやってのけたのだ。物質にうまく働きかければ、何でもできるのではないかと、当時のシンジュは自身の体を巡る力にそう感じていた。
収容者の全員が未成年であり、その被害は予想されたものをはるかに下回った小規模なもので済んだために、その後間もなくして矯正施設は保護施設へと改められた。
消失から急速にネイヴァーの影響は薄れ始め、子どもたちは未知の存在によって洗脳された被害者に過ぎないという、オカルトチックな方針が打ち出されると、子どもたちは次々に施設から離れ、親元へと戻っていった。ネイヴァーは、わずか半年ほどで伝説上の存在へと変わっていった。
だが、それに唯一抵抗した子どもがいた。それこそがサンゴなのである。サンゴは、家族を唐突に失った悲しみを忘れることができずにいた。無理にネイヴァーなどいなかったのだと説き伏せようとすれば、ネイヴァーの力を利用して暴れた。何度となくコラルスを求めて施設を脱走し、行き倒れては施設に回収されている。延々とそのループから抜け出せなくなったかのように、サンゴはそれを繰り返していた。やがて施設に保護される子どもはサンゴだけになり、そこへ訪れるのはシンジュだけになった。
ネイヴァーの消失から五年ほど月日が経ったにも関わらず、サンゴはまだあの時と同じ姿のままで、コラルスを待っているのだ。
「必要ないものは壊して、新しいものを創った方がいい」
サンゴはシンジュがさきほどの告白から、何でもないように語らい続けているのを、信じられないものを見るような顔で見下ろしていた。
「みんなネイヴァーのことを忘れて、ここからすぐに出て行ってしまったじゃないか。意味のない場所なんだよ」
君以外にとってはね、とシンジュは付け足してサンゴを指差した。丸い頬の輪郭が、幼さを際立させる。同い年であったはずが、シンジュは成人を前にし、面立ちも体つきもすっかり子どもを脱ぎ捨てていた。十二、三歳にしか見えないサンゴとは、明白な時の差が生じている。
「君も大したものだね。見えなくなったのに、まだ力は使えるんだから」
サンゴはネイヴァーの力を利用して、自らの時を止めているのだ。五年もの間、コラルスが再び迎えに来てくれるのを必死に待つために、コラルスが消えた後の時を体が刻んでいかないようにするために、身体の変化を抑制し続けている。大人になれば、ネイヴァーは見えなくなると言われているのだ。それを恐れての行為なのだろう。だが、それにも限界はあるようだった。総合した身体変化のような微々たる変化を抑制することはできても、変化の著しい髪や爪などの抑制はできないらしかった。伸び放題になった長い髪が、ふわふわと漂う。このテラリウムの中で使用した力は外へ逃げ出すことなく、放出されてもまた巡ってサンゴの中に還っていくのである。あの髪は、そうした力を拾い上げているため、風のないテラリウムの中で広がっているのだ。つまり、サンゴはこのテラリウム以外では、ネイヴァーの力を利用して生きていくことはできないということである。
そもそもこのテラリウム自体が、彼の暴走を抑えるための一時的処置でしかないのだ。暴走と脱走を繰り返す子どもをなだめるための揺りかごであり、サンゴに都合良く作られている。未知の力を持つ子どもの癇癪が恐ろしいのか、とシンジュは笑った。同じ能力を持つシンジュには、サンゴの能力がもう限界まできていることがよくわかるのだ。
「ねぇ、ずっとそこで見下ろしていてもつまらないだろう。こちらへおいでよ。最後くらい、一緒に語らおう」
シンジュは目を細めて笑顔を作った。その顔で、サンゴを呼ぶ。同じ境遇にありながら、真っ向から対立した、まったく立場の違う子ども。今はもう、同じ子どもでもなくなってしまった。
「……だれが、お前なんかと。ボクはここでコラルスを」
待ち続けるのだとでも言いたかったのだろうかと、シンジュは薄っすらと目を開けた。口を噤んでしまった子どもに、どうやら明日からこの施設は自分が自由に過ごせる場所ではなくなるのだと理解しているようだなと、シンジュは分析する。眉間に皺を深く刻んで、拳を握り絞めながら震える姿は、どうにも支配的立場になった人間にとっては加虐心を煽るものでしかなくて、シンジュはにっと笑って「ここで、どうするの」と尋ねた。
「一人ぼっちのサンゴは、こんな寂しい場所でどうするの」
サンゴは唇を噛み締めて悔しそうに表情を歪めながらも、はっきりとした口調で、待つ、と答えた。
「コラルスをずっと待つ。ボクの家族はコラルスだけだ」
シンジュは薄く開いた目と、薄く開いた口で、自分でも酷いなと思う笑顔を浮かべた。
「……馬鹿だね。ネイヴァーなんて、もうどこにもいないのに」
放たれた言葉に、サンゴの髪がぶわりと広がった。猫が毛を逆立てるみたいだと、シンジュは思った。きらりと一瞬、瞳が赤い輝きを放ち、言葉にならない甲高い怒声とともにサンゴはシンジュに向かって、勢いづけて飛びかかってきた。いくら子どもであるとは言えど、重力を味方につけて突進してくるのはさすがに痛かった。肩を押されて、後ろに倒れる。視界の四方からぱっと花が散るのをシンジュは捉えていた。その中央に、掴みかかってくるサンゴがいる。子どもだ、と思った。コラルスとともに立ち向かって来た時よりも何倍も幼く見えたのだ。それは時を止めた挙句にサンゴが後退してしまったのか、それとも自分が大人になってしまったからなのか、とシンジュは一度静かに目を閉じる。
「確かにコラルスはボクの隣にいたんだ。ずっと、一緒にいるって約束したんだ、ボクは、ボクは、コラルスを待たなきゃ、コラルスしかいないから」
サンゴはシンジュに馬乗りになって、服の胸ぐらを両手で掴みながら喚き散らしていた。子どもの泣き声がわんわんと降り注ぐと、急激に煩わしくなってシンジュはサンゴの手を片手で払い退けた。強い力で払われたことに怯んだ様子を見せたサンゴが、一瞬体を硬くして身を引く。その隙に、シンジュは起き上がりながら、先ほどサンゴを払った手でサンゴの首を掴んだ。細くて頼りない首だった。片手一本で事足りる。
「君がそうやって泣き縋っている間に、僕は大人になったんだ」
ネイヴァーの力を使わなくとも、シンジュはサンゴに勝てる。大人は子どもに勝てる。首を掴んだまま、ぐっと後ろに押し倒して、先ほどとは体勢を逆転させた。花畑に沈めてしまおうとするかのように、シンジュはサンゴの首を掴んで地に押しつけ続ける。サンゴの抵抗は、ばたばたと暴れるだけの幼いものだった。こんな相手に五年前は勝負をうやむやにされたのか、とシンジュはサンゴを嘲笑う。自分に対する嘲笑でもあった。施設に入った時、こうはなりたくないと思ったのだ。子どもの特権に縋るような惨めな真似をするくらいならば、早く子どもを捨ててしまおうと。
苦しさと恐怖で、サンゴは泣いていた。堕ちていると思うと、胸の奥から代え難い優越感が溢れて咲き誇っていく。悪人めいた笑い声が微かに耳に届いて、余計に可笑しかった。
首の力を緩めてやる。子どもなど、簡単に殺せてしまえそうで、思わずその頭を撫でてしまった。脆い存在が、愛らしい。かつて自分もそうであったように、庇護すべきだと本能がせせら笑う。
「君の最後の砦はね、僕が買ったんだ。僕の会社がこの施設を買い取ることにしたんだよ」
サンゴはむせて、体を丸めながら咳をし、同時に酸素を求めた。不器用だなとシンジュは笑ってやる。
荒い呼吸に掻き消されないよう、はっきりと理解できるようにシンジュは耳元に近づいて言葉を続けた。
「子どもの喧嘩では、負けたも同然だったからね。だって世界は何も変わらなかった。ただ君を置いていっただけだ。だから僕は、大人になって君に勝ちたかったんだ」
サンゴがようやく望むだけの酸素を取り込めたようで、涙で濡れてぐしゃぐしゃになった瞳をうっすらと開いた。子どもの瞳を美しく飾り立てるように、輝く水滴が散らばっている。その一つひとつに、もう一人の子どもの姿が映っていた。
「明日からここは僕のものだ。君は、僕の所有物の一つになったんだよ」
幻想の揺りかごで眠る子どもの揺りかごを奪うと、地に墜ちていった。そのまま際限なく堕ちていくさまは、少年を魅するには十分なほどに美しかった。
随分前に書いたもので、自サイトにも掲載していない初出し作品です。
設定も甘いし、文章も何だか変……と思いつつ、恥ずかしながら当時の雰囲気を残しておこう……とこのまま掲載することにしました(;^_^A
「選ばれし子どもたち」が、志半ばでその相棒を失ってしまったら、というテーマで「大人になるもの」と「子どものままで居続けるもの」を対にして書きたかった、のだと思います(笑)
好きなテーマなので、また練り直してみたいです。
次回は、11/29日「HAPPY WORLD PLANNING」(上)を21時頃掲載予定です。
アンドロイド系、ロボットSFです(´▽`*)
では、最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!