3/夜が幸いであるために
「 J/夜が幸いであるために 」
目を覚ますと、ピーカンの青空が広がっていた。
日差しが眩しい。眩しすぎるほどで、涙が自然と滲んでくる。
目覚めてすぐ。背中に違和感を感じた。
汽車の座席ではない。全身で潮風を感じる。投げ出された四肢が熱い。
オレは砂浜に転がっている。うたた寝をしていたようだ。だからだろうか。あんな夢を見た。
オレが女に捕らえられた時の夢だ。
オレは大学のある不慣れな街で、ひだりの螺に寄生された。深夜になっても帰宅しない息子に両親は青くなり、警察に通報したらしい。途切れとぎれの、ぼんやりとした記憶がある。
事件か。家出か、と騒がれていたオレが発見された時には、すでに目覚める見込みのない、螺の夢路へはいってしまった後だった。
意識はなくとも夢うつつで、当時の出来事をオレは感じていた。
動かせない唇で、誰かの名を必死で呼ぼうとしていた記憶がある。
母さんがオレの名を、悲鳴に近い声で叫んでいた記憶がある。けれどそのどれもが、うす闇の向こう側に、ぼんやりとあるばかりだ。
父さんと母さんの、その後の嘆きをオレは知らない。
オレの躯が今どうなっているのかも、オレは知らない。ホオジロと名付けられた日から、オレはここに閉じ込められたままだ。
立ち上がりながら、オレは頭をつよく左右に振った。夢の残滓を振りほどきたかった。疑似現実と仮想が混ざり合ったような、悪酔いしそうな夢だった。
ここはあの夢の続きじゃない。気をしっかりと持て。
オレは改めて辺りを見渡した。
海を走る汽車の世界だ。女の創る幻影に惑わされるな。
女はオレがゲームに負ける事を、望んでいる。いや知っている。そもそも女の創りだす仮想空間で、女の提案するゲームにチャレンジするなんて、無茶もいいところだ。だが敢えてオレは、のっかった。
オレが女のゲームにのると、名もない小島に汽車は止まった。
駅さえない。砂浜ばかりがひろがる島だった。
今迄も島に上陸した事はある。あるがしかし数時間後には汽車は発車して、オレらを再び海上へと運んでいった。だというのに、もう丸二日。汽車は浜辺で動きを止めたまま、オレは島の大地を踏みしめている。
「やっほーー。ジロ」
底抜けにあかるい。能天気な声がオレを呼んだ。
サングラスをかけた女が、籐籠を持って歩いてくる。
籠のなかには、たまごがこんもりと入っている。色彩がほどこされた物がある。しろいままの物がある。女は運んで来たたまごを、無造作に地面へと広げる。
オレの足元は、たまごだらけだ。
島の砂浜のうえに無数に転がるたまご。
波打ち際に漂うたまご。
背の高い蘇鉄の樹の根元にたまご。オレはうんざりとした面持ちで、たまごを見渡す。
「そろそろ降参しようか?」
女がにこやかに聞いてくる。
喜色がにじんだ声に、いらつく。
日差しの強さにも、いらつく。
たまごの多さに、いらつく。オレは手当たり次第に、たまごを持つと割っていく。
カツン。ベシャ。
コツン。ドシャ。カッツン。グチャリ。
でてきた中身は地面に落ちると、すううっと消える。
生のたまごがある。固ゆでたまごがある。半熟たまごがある。
嫌がらせのように、たまごの数は増えていく。だというのに、そのどれからもトリが飛び立つ気配はない。
「ギブアップしようよーー」
女の言葉を背に受けながら、オレはだるくなった腕でたまごを割り続ける。
ゲームがフェアであると、女を信じる理由なんてどこにもない。最初からこいつが、オレをからかっているだけかもしれない。けれど何もせずに、頭の中身をチューチュー吸われるよりもずっとマシだ。
抗ってやる。
オレはずっと抗ってやる。
「 U/永続性の原理にのっとり 」
『 ホオジロ 』
スズメ目ホオジロ科ホオジロ属。
北海道から屋久島・種子島まで分布している。
スズメとほぼ同じ大きさであるが、スズメより長めの尾をしている。
頭部は黒と白の縞模様。白い部分は、喉・頬・眉斑で、「頬白」の和名の由来となっている。
春。オスは独特の節回しで鳴く。
「チチッ チョッピー チチッ チーツク」などの鳴き声を、「一筆啓上仕候」などと聞きなしされている。
卵は白色の地に、斑点や曲線模様がついている。
カッコウに托卵される事があり、その場合ホオジロは自分の卵が壊され一羽だけ残ったカッコウの雛を育てる。しかしホオジロもまた学習をし、自分の巣に産み落とされたカッコウの卵を見わけ、落としてしまう行動をとる。
生物の永続性の原理にのっとり、托卵行為があって尚、カッコウ・ホオジロともに、種は衰退せずに進化を繰り返していく。
「 J/無名の墓のために 」
「ジロ! もう! 飽きたよおおっ」
女が波打ち際で叫んでいる。
オレはひとり黙もくと、たまごを割る。
割ってもわってもたまごからは、卵のなかみしかでてこない。
どろりとした液体が、オレの手先を汚して消えていく。
このゲームにタイムリミットを設けなかったのは女だ。女の策略ミスだ。
割るべきたまごは、いくらでもある。オレはしばらくの間、島に居座り続けてやる気だった。
オレがとことん女を無視していると、女が「あああああっ」雄叫びをあげた。
女は堪え性がない。まったくもって騒がしい。
そう思った時であった。
すっと。
オレの周囲に静けさが満ちた。
それは突然現れた見えない壁のように、オレを取り込んだ。
寄せては打ちかえす波がある。
風が蘇鉄の葉を揺らしている。オレがたまごを割っている。だというのに、そのどこにも音がない。試しに、握っているたまごをもう一度割る。殻が割れる感触はある。それなのに音はない。音だけがない。
女を振り返った。
女が笑っている。してやったりと、目元をたわめ、無言で笑っている。
オレは怒りを抑え、口を大きく開けた。
ーーおまえかっ。
唇は動くのに、言葉にはならない。
女が嗤う。忌々しい。
持っていた、たまごをすべて地面へと投げ捨てて、オレは女の元へと駆け出した。片腕を掴み、女へつめ寄る。
ーーもどせ。すぐ。
背伸びをして、女の目線で口を動かした。
すると小憎たらしい表情で、女は小首を傾げる。オレの言っている事は、分かっているはずだ。
音のない世界は気持ち悪い。まるで鋭利なナイフで、自分ひとりだけが切り離されてしまったような心細さを感じる。無音の壁は刻一刻と狭まっていき、息苦しさを感じる程だ。
ーーすぐだ。
無音でオレは怒鳴った。
ーーすぐに、波の、
海を指差す。
ーー風の、
空中を指差す。
ーーオレの、
自分の胸を指差す。
ーー全ての音を戻すんだ!
怒りを噛みしめ、天を指差した刹那。
数多の音がオレの鼓膜を震わせた。
女が耳を塞いで、しゃがみ込む。
出てきた時同様に、無音の壁はあっという間に消え去った。オレはおおきく息を吐いた。
波の音。
海の音。
風の音。それらの音とともに、今迄なかった音が響き渡った。
鼓膜がびりびり振動する。痛みを感じる。
随分久しぶりの痛みに、オレは顔をしかめた。目を傷つけられた時だって、さほどの痛みを感じなかった。
まがい物の痛みは、オレの感覚を鈍くしていた。だとすれば、今この世界に降りそそぐ痛みは、本物に極近いはずだ。
オレは耳を塞いで辺りを探った。痛みの出どころを知りたかった。
ピアノの音が聞こえる。
あるはずのないピアノの音が、天上から響き渡る。
しゃがんだ女が苦しげに、躯を震わせる。
痛みはここからだ。この音だ。
オレは天空を仰いだ。
この音階を知っている。
ドラマチックな音階が、でたらめな世界を揺るがす。現実の記憶が、痛覚を伝いながら、ゆっくりとオレの躯へもどってくる。
ラ。ソ♯。ド♯の三つの和音。
そして強烈なフォルティッシモ。
ラフマニノフの「幻想的小品集作品三・鐘」の冒頭が、世界を壊さんばかりに鳴りわたる。
オレの足元で。砂浜で。あらゆるところに転がり、打ち捨てられていたたまごが、ピアノの音とともに砕け散る。しかしたまごから飛び出す鳥など、どこにもいやしない。
割れたたまごは、空っぽだ。
「どうなっているんだ!」
オレは怒鳴った。
ピアノの音は続いている。
旋律が、繰り返し世界を叩く。はやく目覚めろと言わんばかりに、響き渡る。
女はたまごの殻のうえに倒れてしまった。海老のように丸めた躯が、痙攣をしている。ひくひくと蠢く、壊れたおもちゃみたいになった女を、オレは黙って見下ろした。
「 N/お告げの鐘 」
壊れた。
壊れた。
こわれてしまった。ついにこわれた。
粉々にこわれた。
もうばらばらだ。しくじった。
あたしは砕けたたまごの殻のうえに倒れ込み、ぼうぼうと泪を流すしかできなかった。
頭上から降り注ぐ音楽に、耳を塞いでも無駄だった。
これはあたしが創ったものじゃあない。外の世界から流れこんでいる。
仮想空間を打ち破る爆弾のように。
あたしを殺す毒のように。ゲームオーバーを告げる鐘がなる。
世界の主導権は今、この瞬間にあたしからジロへと移った。
こうなってしまえば、あたしはちっぽけな舞舞螺でしかなくなる。
ジロが仮想空間のしかけに気づいたら、あたしは終わりだ。
どうしよう。どうしよう。泪が流れる。泣く行為は人間のものだ。なずなの行動だ。本来のあたしは泣かない。笑わない。喰らうだけだ。だというのに、最後のさいごまで、あたしは榎なずなの幻影にしがみついている。
滑稽だ。すこぶる滑稽だ。
痙攣を繰り返すあたしの躯を、ジロがかるく蹴る。見上げると、ジロがすぐ側に立っている。
「どうなっているんだ」
眦をつりあげて、ジロが問う。ジロの躯が怒りで満ちている。
ジロはまだ仕掛けに気がついていないらしい。けれどそれも時間の問題だろう。あたしはなんとかジロと話そうとしたけれど、無駄だった。開けた口から震える舌を伸ばすしかできない。
「ざまあない」
ジロが言う。
なんて事を言うんだろう。残酷で、大好きなジロ。
「……ジ、ロ」
空気がもれるような声を、なんとか絞り出す。
けれどジロには聞こえていないみたいだ。
ジロへ向かって手を伸ばして、縋り付きたい。もうダメだ。躯は思い通りに動かない。
まがい物のあたしの恋は、ジロに引き裂かれるんだろうか。
楽しかったよ。美味しかったよ、ジロ。
ジロの背後の空が変わる。澄み渡った青空が、厚いしろい雲で覆われる。
雲の合間にひかって見えるものは稲妻じゃあない。あれは亀裂だ。この世界にはいったヒビだ。
ヒビから尚一層ピアノの音が降り注ぐ。ひかりがもれる。さんさんと、もれる。
弱った目だって、ジロがその気になれば元に戻るはずだ。
仮想空間は常に変わる。変わった世界で、ジロはかえり道を見つけてしまうだろう。
ジロがナニか言っている。
「……ジロ」
呼びかけたけど、言葉になったのか分からない。
ピアノの音が五月蝿い。ジロの声が聞こえない。あたしにはもう、瞼を開ける力さえ残っていない。
「 J/やるせなく夢見る思い 」
女が消えた。
オレの目の前で。
ゆっくりと床に消えていった葡萄ジュースみたいに。
砂浜に消えたたまごみたいに。女のかけらさえ、ここにはない。
勝手に消えた女にいらつく。荘厳なラフマニノフにさえいらつく。
ラフマニノフは大嫌いだ。気が狂わんばかりの反復練習を思いだす。
オレは意識のスイッチを切り替えた。
ピアノはいらない。たまごもいらない。
雨を呼びそうな、しろい雲が消える。青空の変わりに、空には星を瞬かせる。
赤くひかるアンタレスでヒビを覆う。
やっとこれで落ち着ける。
アンタレスのひかりを道標に、オレはかえり道を探した。
女はもうどこにもいない。オレの邪魔をする者は、どこにもいない。
せいせいしたはずなのに、オレの胸の内が、かすかに痛みだす。
オレは知っていた。わざと忘れていた。
このやさしい世界では、都合の良い夢ばかりが繰り返される。
やがて宿主は、繰りかえす夢を希望と錯覚してしまう。そして現実へ帰ろうとする気力を失う。
だが元は宿主の記憶から創られた箱庭だ。極めて僅かだが、きっかけさえあれば主導権は取り戻せる。
得に女は甘かった。
オレに主導権を渡してしまうくらい、バカで甘かった。
現実の榎なずなは違った。
チビで年下のオレなど相手にしなかった。
勇気を振り絞って行った大学の学園祭で、彼女はオレに視線のひとつも寄越さなかった。
油画科にすすんだ彼女に彼氏ができたらしいと、教室に遊びに来ていたさよっちが話していた。
多分なずなはオレの名前さえ覚えていない。
ピアノだって弾いていない。元々がお遊びのピアノだったんだ。
オレの空想のように、年下のガキに教えをこう事だってなかった。
オレは彼女たちが販売していたエッグアートをひとつ買った。
創ったのが誰かなんて分からない。それでも良かった。
浮き彫りがされたたまごは、力をこめたらすぐにも割れてしまいそうなくらい繊細で脆いものだった。会計してくれた男子学生の、斜め後ろに彼女が居た。
オレにはちっとも気がつかないようだった。
ピアノ教室に来ていた時とは違って、もうポニーテールではなかった。
化粧をして、華やかになった彼女の横顔に、オレはあんまり惹かれなかった。
大学の裏手にひろがる海岸で、オレは買ったばかりの卵を海へと放り投げた。
中学生の小遣いからしたら結構高かったけど、そんな事どうでも良かった。
軽いたまごは水面に浮かび、波に押されて浜へとかえってくる。オレはしばらくの間、その繰り返しをぼんやり眺めていた。
カモメがやたら五月蝿い海辺だった。
何組かのカップルと、ジョギング中の中年男が通り過ぎて行った。
やがてたまごは、波にさらわれ、ぽかりと沈んだ。
オレは来た道を戻った。
もう一度祭で賑わうキャンパスを横切るのかと思うと、うんざりしたが仕方がない。
帰らなければならない。バスの時間に遅れたら、次は一時間後だ。
うなだれて歩いていると、海岸のハマナスの株に目がとまった。葉が風もないのに揺れていた。
あいつはそこに居た。
オレだけのナズナ。ひだりの螺。
※ ※ ※
そして。世界はまたやりなおしをする。
オレが望む限り。
オレがゲームオーバーで、箱庭からいなくなるまで。
※ ※ ※
「よお。ホオジロ」
オレの背後から、オレを呼ぶ声がする。
今日の海は波が高い。風が強いせいだからだろう。
オレは声の主を振り返る。
女が居た。
オレへ笑いかけている。その溶けるような笑みに、オレの頭はぐらりと揺れる。
実際。まずい事をしている自覚はある。
オレは逃げなければいけない。かえり道をみつけ、女を永久に葬り去らなければいけない。
なのにオレにはできない。できなくなった。
もう一度。
これで最後にすると。
何度も言い訳を連ねては、オレはここへと戻ってしまう。
風がオレの頬をなぶっていく。
どおおん。どおおおんと、風が吹く。
波頭がしろくたつ。
オレの隣に女が立つ。ひとつに結わえた長い髪が潮風になびき、螺旋のように空へとまいあがる。
「よお、ホオジロ」
女がもう一度オレを呼ぶ。
「なんだよ」
随分素っ気ない声で、オレは応えた。
「寂しかったか?」
「さみしい? オレが? どうしてさ」
「あたしに置いていかれて、途方にくれていたろう」
そう言って女がオレの頬に手をかざす。
困ったような。慈しむような笑みを浮かべて、オレをそっと抱き寄せる。
十四のオレは、女の肩におでこをのせる。
「……逃げちまえば良かったのに」
女の掌がオレの頭を撫でる。
オレは知っている。知りたくなかったのに、知ってしまった。
女はオレに歪んだ恋情をつのらせている。喰らうべきオレを愛している。
「オレが逃げて。それでお前はよかったのか?」
オレの質問に、女がちいさく笑った。
「いいもなにも。喰らわれてもいいのか?」
ぞんざいな口調で女が聞きかえす。
けれどその瞳は弱々しく揺れている。
女はオレを喰いたい。すっかり喰って自分のものにしたい。
けれど目の前から、オレが居なくなるのを恐れている。
オレは女の肩へ、甘えるようにおでこを擦り付けた。
あたたかい。そう感じたいのに、ひえびえとした女の肩が寂しいと思った。
寂しいと感じるオレのこころが、僅かに震える。
「海岸で会った」
オレはあちら側の最後の記憶を、女に語る。
「ああ」
「お前に会った」
「ああ」
「オレがお前を受け入れた」
「ああ」
「それからバス停を目指して歩いた。家に帰ってからにしてくれと言ったのに、堪え性のないお前は、すぐにもオレの耳殻から入ってきた」
「そうだった」
「大学の林を横切る時には、もう眠くなってしまった。オレはそこで意識を手放した」
「そうだ。おかげで林は一時立ち入り禁止の騒ぎになった。螺がでると警告された」
「いないのに」
「ああ。いないのにな」
「……バカみたいだ」
「ああ。バカみたいだ」
もう諦めるべきなのか。
迷いがオレの胸を満たしていく。
オレは女を疎んじている。喰われたくない。
けれど離れられない。
オレに必要なのは榎なずなではない。この世界を創りだす女だ。
どちらが捕らえ。
どちらが捕らえられたのか。オレ達には分からなくなっている。
「もうすぐ汽車がでるぞ、ジロ」
女が言う。
「今度乗ったら、もっと遠くへ行く事になる。戻って来られないくらい遠くへ」
それでいいのか、と俯きながら女が聞く。
無人の駅に汽車がはいって来る。
星空に向かって蒸気がもくもくとあがる。
ピアノの音は聞こえてこない。あるのは潮風と波の音ばかりだ。
「……ナズナ」
オレは女に向かって、初めて名を呼んだ。女が弾かれたように顔をあげた。
「名だ。あたしの名だ」
「……ああ」
幸せな。
そこそこ幸せだった稲森慈浪の記憶が、オレの頭からどっとながれだす。からっぽになったオレは、からっぽの幸せをナズナの隣で噛みしめた。
「ジロはホント、バカだなあ」
汽車のステップへ足をのせて、ナズナがかんらと笑う。
「逃げられたのに、戻ってくる。しかもあたしへ名をつけた。もう逃げだすのは難しくなったぞ」
そう言うナズナは詰めが甘い。
ナズナだって散々オレを逃がそうとした。
その度にオレは性懲りもなく戻ってきている。何度でも。なんどでも。
しかしそれも、多分最後かもしれない。
からっぽになったオレの力では、世界は壊れないだろう。終了を告げる鐘は鳴らないだろう。
ナズナが上着のポケットから、たまごをひとつ取り出した。
受け取る為に差し出したオレの掌に、ナズナの手がそえられる。
ふたりでたまごをそっと持つ。オレ達の掌のなかで、空っぽのたまごがふたつに割れる。
鳥がいた。
ちいさな。ちいさな鳥だ。黒と白の縞模様の頭をしている。
鳥は不思議そうに辺りを見渡してから、長い尾を二度三度と振り、夜空に向かってついと飛び立った。
「鳥目のくせに飛んでいったぞ」
オレの言葉に、「そうだな」ナズナが頷いた。
オレは空になったたまごを見下ろした。
オレが望めば、たまごからは何でも飛び出すだろう。
虹でも。
音楽でも。
希望でも。
何でも。
オレの望むものは何だって。
オレはナズナの立つステップへ、片足を乗せた。そして、オレの望みを声にだす。
「ナズナ」
恋人の名を甘くささやいた。
手の中のたまごが、砕けて散った。
完
短篇「夢路のつぶり」のサイドストーリーです。
「夢路のつぶり」は暗い話しにも関わらず、(そこそこ)好評でした。続きを望む声もありましたが、なかなか書く事がかないませんでした。一度短篇であげた作品は、そこで物語りが終わっています。終わりからの先を探っても、なかなか次なる展開を指し示してくれませんでした。
そんなある日。一件の感想に衝撃を受けました。当時白星黒星さんと名乗っていました、ホオジロさんからの感想でした。螺のつくる仮想世界への好意を綴る内容に、目から鱗でした。思いもつかない感想は、思いもつかなかった物語りを運んできてくれました。作者同士で言葉を交わし合える「なろう」ならではの出来事です。今では次なる螺の物語りを書きたくて、たまらなくなっています。
本作を大いなる感謝をこめて、なろう作家ホオジロさんへ贈らせていただきます。ありがとうございました。
原稿用紙換算枚数約66枚