2/そぞろな悩めるきもち
「 N/そぞろな悩めるきもち 」
この世界で、海を選んだのはジロだった。
海はひろい。
途方もないひろさは、あたし達には手に負えなくなる場合がある。
仮想世界は、いわば宿主の記憶を収める箱庭だ。箱庭には適切なおおきさがある。
ちいさすぎると、詰め込みすぎる。窮屈だ。
逆におおきすぎると、世界の均衡を保つのが難しい。時にはヒビがはいる。ヒビから脱走を試みる宿主もいる。それはあたし達にとって、あまり面白い事ではない。
眠っている意識を吸い取るのだから、意識がどこに向かっても、結局は食べられる。
けれどそれだけじゃあつまらないのだ。
どうせなら宿主の視線も。声も。感情も、全てがこちらを向いて欲しい。螺は皆そう願う。宿主に望まれてこそ、あたし達はより甘美な夢を喰らえる。
海はひろい。
海だけなら、ヒビがはいるだろう。
あたしは汽車を走らせた。
あたしとジロと。ふたりきりの汽車は、海のうえを軽快に走って行く。
汽車のイメージはジロが幼い頃に田舎で一度だけ乗った、蒸気機関車をつかった。ジロは気に入っているようだった。汽車の狭さをあたしも気に入っている。我ながら良くできた箱庭だと思う。
ジロはあたしの姿も気に入っている。
なのにジロは逃げようとする。その強靭な精神を愛おしく思いながらも、あたしは面白くなかった。だから寝入っているジロへ近づき、その両の瞳を、瞼のうえからこっそりと刺してやったのだ。
得物には、回転する鋭く尖ったルーターを使った。
ルーターはなずながエッグアートを作製する時使う、たまごの殻を削る道具だ。
たまごより。
尚いっそう柔らかな感触で、ジロの目玉を刺した手応えは素敵だった。
ここは仮想空間。
あちら側で眠りについている本体が、傷つけられたわけではない。ジロだって、痛がる素振りもなく、こんこんと眠り続けていた。だから夜が開けて、瞳を開けた時の騒動といったらなかった。
「うわっ。なんだこれ眩しい」
目を両手で覆い、ジロは涙をにじませ、窓から差し込む夏のひかりに背を向けた。
ジロの狼狽ぶりに、あたしはけたけたと笑い転げた。
「やった! やった! おっかしい」
すると怒ったジロが「バカ!」とあたしをどついたのだ。
あの時のジロの視線も。感情のうねりも。全てはあたしに向かっていた。
傷ついた瞳から、ぽろぽろと涙を流しながら、あたしを睨むジロは全く素敵だった。
あたしの全身が歓喜でわいた。
みっともない。矮小な螺であるあたしの全てはジロのもので、ジロの全てはあたしのものだった。
「 J/エッグスタンドを倒す午後 」
汽車は少しずつ姿を変える。
こちら側で目を覚ますと、三両編成の汽車が、長くながく十両になっていた時がある。
窓辺からブラインドが消えて、ごわごわした手触りのカーテンに変わっていた時もあった。
無人のはずの車両の扉が勝手に開いて、あいた先からワゴンが滑り込んで来た時もある。
ワゴンには菓子やら味付け海苔やら。熱あつの珈琲がはいったポットが乗っていた。
この世界に引きずり込まれてすぐのオレが、いたく気に入ると、定期的にワゴンは現れるようになった。
あの頃のオレは、まだ喰うという作業をしていた。あっち側の習慣が意識に染み込んでいた。
喜ぶオレに、女も喜んだ。
螺の懐柔という作用らしい。
こいつらは、喰らって殺す宿主の、機嫌をとろうとする生物だ。なんともご苦労な事である。
「なんでもできるのか?」
オレの質問に、「そうでもない」女が物憂い気に言った。
「意外と不自由な部分もある」
今オレ達は食堂車にいる。
まっしろのテーブルクロスがひかれた、真四角のテーブルに向かい合わせで座って居る。
テーブルのうえには、一輪挿しの花瓶まで御丁寧にある。名前は分からないけど、子どもの頃によく野っぱらで目にした、しろい小さな花が生けられている。
「はい。どうぞ」
今日もまたやって来た無人のワゴンから、女が大皿を取り上げ、オレの前へと運ぶ。
皿にはおおきなオムライスが乗っている。ほのかに黄色いたまごの皮がつややかだ。
「葡萄ジュースもある」
女が冷えたコップをもちあげる。
硝子の表面を水滴が、つつと流れ落ちる。
美味そうなオムライスも。よく冷えたジュースも、本当にあるわけじゃない。
オレは知っている。全てはオレの頭のなかから、女が引き出したまがい物だ。喰えばオレの舌は記憶をなぞって美味いと感じるのだろう。喉元をすぎる液体を、心地よいと感じるのだろう。
「いらない」
鼻の頭に皺をよせて、首を振る。弱った瞳に、車両を交差する昼の日差しが眩しい。
「あっそ」
女の手があっさりと、空中でコップを手放す。
硝子のコップは食堂車両の床に落ち、濃い紫いろの液体を巻き散らかして、砕け散る。
「もったいないし、汚れるね」
ちっともそう思っていない口ぶりで、女が言う。
「あーーあ。もったいない。もったいない」
銀のスプーンを持ち上げて、女は自分の前にずらりと並べたゆで卵を、右端から叩いていく。
今日のたまごはどれも、スプーンと揃いの、銀のエッグスタンドにのっている。
殻には複雑な線で模様が描かれている。それらを惜しげもなく、女はスプーンの腹で叩き割る。
カン コン コン
「ホオジロも食べる?」
「いらない」
いつの間にか、床の上のジュースの染みは消えている。
割れたはずのコップも硝子破片もない。今オレの目の前では、オムライスがテーブルにずぶずぶと飲まれていくところだ。まるで出来の悪いクレイアニメを見ているようだ。
でたらめな女が創り上げた、でたらめな世界。
オレはここでナニも食べなくとも、いきていける。そして女の食物はオレだ。
それなのに女は定期的に、食堂車を創りだしては、オレをもてなそうとする。
ゆで卵を割り、喰っていく。
カン コン コン
十個のたまごの殻にヒビがはいる。
絵の具で汚れた指先が、殻を剝く。でてきた白身をスプーンでくずし、口へと運ぶ。半熟の黄身が女の口へ入る前に、とろりと流れ落ち、テーブルクロスへ染みをつける。
黄身は女の唇も汚す。垂れた黄身の一筋を、女の舌がべろりと舐める。その舌が、長すぎる様に思うのはオレの勘違いなのだろうか。
「あっちのなずなは、ジロを求めない」
女はオレのご機嫌をとりながら、オレを不快にさせる言葉を吐く。
「けれどあたしはジロを求めている。全身全霊で。滅茶苦茶に求めている」
たまごを掬いながら、女が言う。
オレの目をまっすぐに見つめながら、女は喰うのをヤメない。喰われているのはたまごなのに、オレの頭の芯がずきずき痛む。
「ウソだ」
オレは絞り出すような声でそう言った。
「なんで? ジロにウソなんて言わない」
「ウソだ。お前はオレを喰っちまう気なんだ」
「あたりまえじゃないっ!! うひゃひゃひゃひゃ」
女が頭をのけぞらせ、高らかな笑い声をあげる。
「オレはお前の餌になる気なんてない」
椅子を蹴って立ちあがった。食堂車を出て行こうとするオレの背中に、女が声をかける。
「なんで? なんで、イヤなの? あたしとジロ。あたし達ずううっと一緒にいられるのに! ねえ、ねえ。なんでイヤなのさ!」
「バカ!」
オレはテーブルまで戻ると、エッグスタンドを床へ全部はらい落としてやった。
「やるう」
女がヒュウと、口笛を吹く。十個のたまごが床を転がって行く。
「好きだよ。ジロ」
女は満足そうにオレを見上げると、座った姿勢で伸び上がった。
女の右手がオレの頤へとかけられる。やんわりとした動作が逆に、オレの動きを鈍くした。女の手に促されるように、オレらの唇が一瞬だけ触れあう。
はじめてじゃない。
女は時々。戯れのキスをオレに仕掛ける。
その度に、オレの鼓動は否が応でも跳ね上がる。
「バカ!!」
オレはわざと大声をだして、車両を出た。
大股でずんずん歩く。
連結部の狭間から、どこまでも続く海の光景がながれていく。潮風が髪をなぶっていく。一日中海原に居るというのに、オレの肌はベタベタにならない。
この世界に匂いはある。
音もある。
心臓の脈打つ音を感じる。
女の唇の熱を感じる。けれどここにあるものは、全部ぜんぶでたらめだ。
オレ自身がでたらめだ。
「 N/言うに言われぬ、世界の中で 」
ホオジロに提案をしてみた。
「ていあん?」
怪訝な顔で、ホオジロが聞き返す。
今日のジロは読書に夢中だ。
あたしが創った書庫スペースがお気に召したのは良いが、本に夢中になるとつまらない。
「そう」
あたしはジロの目をまっすぐ見ながら、深く頷いた。
ジロは細めた目を本に戻しながら、「なにそれ」と、肩をすくめた。
本の背表紙には『ひだりの螺と精神医学』と、しかめつらしい文字が書かれている。
ジロの読み方は随分ゆっくりだ。
ジロの目はよわい。傷つけたのは、あたしだ。けれどジロの目が傷ついたままなのは、ジロの都合だ。あたしのせいではない。だからあたしはジロに対して悪いなんて思わない。ジロに取り憑いた事だって、悪いなんて思っていない。
ジロはオムライスが好きだ。
ジロは鶏にも、米にも、人参にも悪いなんて思っていない。当然のような顔で食べる。あたしだって同じだ。ジロを好きなのも当然。あたしが悪くないもの当然。だけど好きなジロには、もう少しだけ好きになってもらいたい。
「ゲームだよ」
あたしは提案から言葉を変えた。
ジロはあまりゲームをしていなかったようだ。
記憶を探ると、ピアノと勉強が忙しい子どもだった。けれどゲームという言葉はジロのなかでは、割りとすぐ近くにあるイメージだ。きっとジロはゲームをしたかったはずだ。
ジロのお母さんは教育熱心なタイプらしい。そしてジロは大層素直なおとこの子だった。
ジロはお母さんに言われるままに、ゲームを我慢していた。
幼稚園の時からの習い事の数々。そのなかでもピアノの記憶は特別多い。
得意なドビュッシー。甘い記憶のバッハ。練習中だったラフマニノフは、ジロを痛めつけた。
音符をなぞると、そこにはいつも母親が居る。けれどそれもチビだった頃までで、いつの間にか女の影は、榎なずなにすり替わっている。
こんこんと眠り続けるばかりになったジロを、お母さんが未だに気に入っているかは知らない。
あたしはジロの他には興味がない。責任だってない。
あたしの持ちかけたゲームは、勿論ジロの望んだゲームじゃない。
けれど興味を持つ言葉は、ヒトと交渉するにあたっては有効だ。あたし達螺は、本能で宿主の「好き」を見つけ出す。
「脱出ゲーム」
あたしの更なるダメだしに、ジロの視線が本からそれて、あたしを捉えた。
目と目が合う。次の瞬間にはそらされたけれど、あたしの躯は歓喜でぞくぞくと震える。
「脱出? 汽車から降りるのか?」
「ちがう」
「なんだよ。じゃあ意味ないじゃないか」
「もっと凄いよ」
「なにがさ」
「ジロの居た場所に戻れるから」
「……ウソ言うな。お前むかつく」
「ホント」
「ウソだ」
「ホント」
「お前いい加減にしろよ」
「じゃあウソにする?」
「……」
あたしの言葉にジロが詰まった。
ジロはどんくさいけれど、頭が良い。感受性が強い。そして諦めない。
今ジロは一生懸命考えている。ぬるま湯のような、この空間で、思考をとめない人間は珍しい。あたしはジロの悪あがきともいえる抵抗に、内心で舌なめずりをする。
ジロが閉じた本を座席に置く。
「ここから出られるのか?」
「うん」
「まじめに?」
「うん」
「どうやって?」
「それは企業秘密かな」
「違う。どうやれば出られる条件なんだ?」
「ああ、それはね」
ほら。ジロはのってきた。
ジロは諦めない。少しの可能性でも、のってくる。予想が当たって嬉しい反面、あたしの気持ちのまんなかは冷えていく。ジロは逃げたい。ここから。あたしから。ずっと逃げ出したいと願っている。
「たまご」
あたしは上着のポケットから、たまごをひとつ摘み出す。
「喰うのか?」
「違う」
バカみたいなジロの言葉に、あたしはちょっとだけ笑った。
「ひとつだけ。トリが飛び出す、たまごがある」
あたしは立ち上がると、片手で車窓を開けた。
途端。短い丈のカーテンが、風を受け、ぶわり舞い上がる。
「それをジロは見つける。そうしたら。この空間を閉じてあげる」
あたしは窓からたまごを放り投げる。
たまごは海面に落ち、しばらく浮かんでいてから、ずぶりと沈んでいった。
「 J/夜が幸いであるために 」
ホオジロという阿呆みたいな名前を、オレにつけたのは女だ。
オレが初めてここで目が醒めた時。オレは砂浜に腹をうえにして、ごろりと寝転がっていた。
頭上には星が瞬く夜空が広がっていた。
「ベガ。アルタイル。デネブ」
オレは腕を伸ばして、夏の大三角を示した。
チビの頃からの癖だ。
遅くなったピアノ教室の帰り。迎えに来る母さんの車を待つ間、オレはよく夜空を見上げては星座を探していた。でもここはピアノ教室のある場所ではない。街中の教室の近くに砂浜はない。
オレは上半身をおこすと、周りをざっと見渡した。そこに彼女の姿を発見した。
彼女は少し離れた位置に立っていた。
茶髪のポニーテール。ジーンズを履いた細い脚。砂を踏みしめるショートブーツ。
それらの格好を見て思いだした。
そうだ。中学生になったオレはバスに乗って、大学を見に行ったんだ。海の近くにある。芸術学部のある大学の学園祭。榎なずなが進学した大学。
賑やかな出店と、大勢のひと。でもあれは秋だった。
記憶がずれている。かるい目眩にも似た鈍痛がある。よく思いだせない。頭を押さえながら、もう一度彼女を見つめた。
なずな。と呼びたい気持ちを抑えて、オレは、「えのきさん……?」と彼女を呼んだ。
名前呼びをする程、オレらは親しくなかった。だからこそ、なんで寝そべっているオレの側に彼女が立っているのか、分からなかった。
「よお!」
オレを見つけて、彼女が快活な声と共に、片手をあげた。
「起きたんだ。ジロ」
その親しみのこもった呼びかけに、びっくりした。彼女が大股で、オレの側までやって来る。
「ナニぼんやりしているんだ」
そう言って、右手をオレに向かって伸ばす。
呆気にとられているオレに、焦れたように、「手」と言う。
「あ、ああ。……うん」
オレは咄嗟に彼女の右手をとった。
その途端だ。彼女と手が触れた瞬間、カチリとなにかがオレのなかでつながった。彼女のなかから伸びる、ながく頑丈な棘のようなものが、オレの全身をつらぬいた感じだった。
「……え? これ。ナニ?」
オレの呟きは無視された。
彼女がオレを片手だけで引き上げる。
脚に全く力がはいらない。膝からしたがまるで蒟蒻だ。たたらを踏んだ。揺らいだオレの躯を、彼女はいとも容易く抱きとめる。
オレの背は未だ彼女より小さくて、彼女の肩に俺の頭があたった。
「え? なに。え?」
夜の海岸で、榎なずなに抱きしめられている。
その事実にオレの頭は混乱をきたした。意味をなさないオレの言葉に、彼女が「ふふっ」と肩を揺らして笑う。
「つかまえた」
オレの耳のすぐ側で、彼女がささやく。オレを抱きしめる腕に力がこもる。
「ホオジロ。つかまえた」
「ホオジロ?」
彼女の言葉の意味が分からなくて、オレは咄嗟に彼女を見上げた。
「ホオジロ。あんたのここでの名前」
そう言って、彼女がそっとオレの耳へ唇をおとした。
「良い名でしょう」
ぬろりと。
耳殻がぬれる感触が伝わってきた。
彼女がささやきながら、オレの耳を舐めている。軟体動物のような舌先が、何度もなんども耳に沿って行き来する。
心臓が早鐘を打つ。なんで。どうして。なんで彼女がオレを抱きしめ、こんな事をするのだ。
混乱する頭の片隅で、冷静なオレがささやいた。
ナニかが変だ。どこかが歪んでいる。
キヲツケロ。
秋の学祭。
夏の大三角。
榎なずなの、ありえない行動。
見覚えのない砂浜。
腕のなかから逃げ出して、事の顛末を確かめたいのに、躯はぐんにゃりと力が抜けたまま。全くの役立たずだ。
「逃げられない。逃がさない」
彼女が言う。
甘い毒を注ぎ込まれた様に、オレの躯は耳から痺れ、逃れる事など叶わなかった。




