1/憂うつに。そしてやさしく
なろう作家ホオジロさんへ贈る
「 J/憂うつに。そしてやさしく 」
ごとごと、と。
躯が揺れる。小刻みに揺れる。
古い座席に寝転がった、オレの頭を撫でる掌がある。
眠っているはずなのに。目覚めたくないのに。オレの意識は掌の合図を受け止める。
掌は無言で突き付けられる合図だ。こっちへ戻って来いと、半ば無理にオレを誘う。
否応なしに、浮上しかかっている意識の向こう側では、オレを引き止めようとする声がする。
ーーいっちゃダメ。
耳に心地よいささやき声に、オレは惹かれる。振り返りたくなる。
けれどその声は、あまりにも小さい。掌の合図に抗う力を持たない。
オレは抵抗をあきらめ、意識のドアを切り替える。
ああ、まただ。
決して認めたくない幾分かの安堵と、やりきれない思いが交差する。
還ってきたのだ。
それだというのに乱暴に躯を揺すられる。
掌の持ち主は、せっかちだ。いつもより、切りかえに時間がかかるオレに、焦れているのだろう。
肩だの。腕だの、お構いなしに揺さぶられる。
こんな起こしかたをする奴は、ここには一人しかいない。オレは不機嫌そうに眉間に皺を刻み、慎重にうす目を開ける。
「まだ覚えているんだねえ。しぶとい。しぶとい」
からかう様な女の声が、俺の頭上から聞こえてくる。
掌の持ち主だ。
オレはゆっくりと瞼を開ける。
途端。四方八方から飛び込んできたものは、眩いばかりの夏のひかりだ。
汽笛を鳴らし、海原を走る汽車の窓いっぱいから差し込む光りは、容赦なくオレのよわった目を焼く。咄嗟に右手をかざし、目のうえに庇をつくる。
「おかえり、ジロ」
女の掌が今度はゆっくりと、オレの頭を撫でる。
オレはすぼめた瞳で、辺りの情景を確認した。
茶髪のポニーテールを揺らして、女がいる。
女の背後にある、車窓から見渡せる風景は青一色だ。空の蒼。海の紺碧。汽車のあげる水しぶき。潮風が開けた窓のひとつから入り込む。
この世界へまた戻って来てしまった。
落胆とも、郷愁ともつかぬ思いがオレの胸を満たしていく。
ここはオレの一部が属する空間だ。だが望んで来ているわけではない。だからたとえ一抹の親しみを感じたとしても、オレは抵抗をやめない。
ここへすっかり馴染まない為に。逃げ出すために、抵抗をするんだ。
「ジロはホントしぶといねえ」
座席に寝転ぶオレを覗き込む一対の瞳は、記憶よりも、けぶるような淡いひかりで満ちている。いや、もしかしたら記憶の瞳だって同じなのかもしれない。ただオレは彼女の瞳を、こんなにも至近距離で拝めた試しがない。だから知らないだけなのかもしれない。
「ジロはヘタレだからねえ」
彼女そっくりの。でも彼女じゃない女が笑う。
「酷いなあ。あたしもナズナなのに」
酷い。ヒドイ。
そう言いながら、女は向かい側の座席に腰をかける。
オレ達のいる車両はガラ空きだ。どこもかしこも座り放題。なのに女はオレの向かいを毎回選ぶ。
座席から通路にはみ出しているオレの向こう脛を、女はげしげしと蹴りあげる。女に蹴られ、オレの黒学ランのズボンが灰色に汚れる。
「やめろ。バカ」
俺は起き上がると、軽く女を蹴り返す。
「ホオジロが蹴った。バーカ。バーカ。ジロの馬鹿」
女がさらに蹴り返す。
女のジーンズを履いた脚は細っこいが、ショートブーツで蹴られると地味に痛い。
「よせってば!」
オレは攻撃をかわして、咄嗟に立ち上がった。
「ジロが逃げた。ウェーーイ! あたしの勝ち」
女が両手をあげて、ダブルピースをする。
屈託のない。顔全体がくちゃくちゃになる笑顔。
ピースマークをした指先の乾いた汚れ。余りにもそれらは彼女にそっくりで、オレは頭の芯がぐらりと揺らぐ思いに、打ち負かされそうになる。
女が笑う。
仮想世界を走る汽車のなかで。
幼かったオレが恋をした、榎なずなの顔で笑う。
※ ※ ※
女とオレは微妙な関係だ。友情とか愛情とか、そんなものを育てる仲ではない。
ここは女が創りあげた仮想世界だ。この世界に居るのはオレと女のふたりっきり。
十四のオレと、捕食者の女。
女は二十代の成りをしているが、それはあくまでオレを油断させ、懐かせ、喰らう為の擬態である。女はオレから離れず、常に側にいる。オレはそんな女から少しでも離れようと必死になる。なるがしかし、大抵が徒労に終わる。
オレはこの仮想世界で、常に汽車のなかにいる。
寝ている時もある。ぼんやりと起きている時もある。
どんな時も、決まって擦り切れた青いシートの上にいる。
キズだらけの木製の手すりと床。
向かい合わせの席にいる女。女はオレを、ゆるやかに拘束しようとする。オレは車中からどこにも行けない。
「だって、ジロとあたしは一心同体だからね」
女は初めて会った時からそう言う。
馬鹿言うな。オレはそう言って、常に女の言葉を否定する。否定しながらも、オレは自分の敗北を知っている。女に囚われた時点で、この勝負の勝敗は、とっくについているからだ。
『ひだりの螺 乖離症』
あまり一般には知られていない難病だ。
田螺に似た貝を背に持つ、ひだり巻の舞舞螺。それが女の正体だ。
ひょいと摘んで地面に落とし、靴裏でぐちゃぐちゃに踏みつければ死んじまう。そんな脆弱な生き物だ。
だが耳から頭のなかに入り込まれたら最後、ひだりの螺は宿主の脳を支配する。
ここを抑えられ、生還できた者はいない。皆、二十歳前に命をおとす。
オレの頭のなかは、とっくに女に支配されている。
喰らう女と、喰われるオレ。
友好関係など、築きあげられるわけがない。
さっさと息の根を止めれば良い。生殺与奪の権利を握るのは螺だ。なのにひだりの螺は、喰らうべき宿主を一気に殺しはしない。
安寧の夢路へと誘う。宿主が願う、永久の仮想楽園を創り上げる。つまりここは女の創り出した、オレ専用の凝った墓場だというわけだ。
オレの脳を支配した女には、オレの考えはお見通しだ。けれどオレは抗う事をヤメない。はいどうぞと、オレの人生を女にやってしまう気にはなれない。
「ホオジロは頑張りやさんだねえ」
茶化すように女が言う。
馬鹿にしたように。幼い子どもを諭す大人のように、女が言う。
ジロことホオジロとは、女がオレに勝手につけた名だ。
「ホオジロじゃねえ」
オレの言葉にかぶせるように、汽笛が高らかに鳴る。
「慈浪だ」
稲森慈浪。
それが十四で、ひだりの螺に寄生されたオレの名だ。
「 N/喜びの関係 」
ジロの抵抗ときたら、たいしたものだ。
とっくにあたしのものなのに、未だに白旗をあげずに、無駄な抵抗をしてみせる。
そこがまた可愛らしくて、あたしはジロに夢中になる。
どうにも仲間内から言わせれば、あたしはかなり変わり種の螺であるらしい。
そんな事知ったこっちゃない。
螺の一生は長い。けれど宿主と共にいられる期間は短い。皆がみな。二十歳を待たずに死んでしまう。
人は弱い。つまらない。
けれど人は美味しい。
人の見る夢は美しい。たのしい。心踊る。もしくは切なく、胸が締めつけられる。
それらの記憶を元に構築された夢は、あたし達の食事になる。だからあたし達は、よくよく宿主を選ぶ。人間であれば、誰でも良いわけではない。
厳選し、探り。時には好みに合わなければ手放す時だってある。
あたし達が宿主の海馬を占領する期間以内に手放せば、人は軽い記憶障害の後に解放される。
でも気に入ったものはダメ。
ゼッタイ手放さない。
ジロはもうあたしのものだ。
あたしはジロの記憶をチュウチュウ吸い取る。吸っても吸っても、飽きはしない。
あたし達は宿主が落ち着いた状態にいる様に、メンテナンスも怠りない。宿主の精神を分析し、好みをみつけ、彼らが望む仮想空間を創り出す。そこで彼らの大切な友人になって側にいる。
幸せな夢。
苦痛のない世界。
ヒトは己の欲望を満たす夢の世界に、揺蕩う事となる。
けれどジロは違う。ジロは抵抗をする。逃げようとする。あたしを認めまいと必死になる。その必死さが、憎たらしくて愛おしい。ジロが暴れれば暴れる程、あたしの渇きは酷くなる。
もっと。
もっと渇きが欲しい。
乾いた後に飲む、ジロの記憶はあたしにとっては得難い甘露だ。
あたしは飲む。
ジロの恋した女の記憶を。いつか、あたしがあの女になる為に。ジロを丸ごと飲み込む為に。
「 J/子どもの領分 」
オレが榎なずなに初めて出会ったのは十一歳の夏だった。
オレがチビの頃から通っていた高梨ピアノ教室にやって来たなずなは、高校生だった。
十一のオレと、十七のなずな。
オレがドビュッシーのグラドゥス・アド・パルナッスム博士をレッスンしている最中、なずなは左指を動かすのに、四苦八苦していた。
高校生でピアノにチャレンジするなずなは、毛色の変わった生徒だった。
そりゃあ趣味で通って来るおばさんも、たまにはいる。けれど学生でレッスンを受けるのは、大抵がオレの様に幼稚園児か小学校低学年から、ピアノをしている者ばかりだ。
「サティを弾きたくて」
理由を聞いたさよっちに、なずなは臆する事なくそう言った。
さよっちは教育学部の音楽課程を目指している女子校生で、なずなと同じ学年だった。
親分肌のさよっちは、チビのオレともよく話していた。あけっぴろげで、快活なさよっちの弾くショパンのワルツが、オレは結構好きだった。
オレは女子二人のおしゃべりを、教室の待合室でこっそりと聞いていた。
さよっちのおかっぱ頭と、なずなのポニーテールは今にもくっつきそうな距離にあった。二人はクスクス笑いを漏らしながら、熱心になにやら話し込んでいる。
オレはふたりのおしゃべりから、なずなが美術科の高校生だという事を知った。
「ピアノを弾けるようになれば、別の角度から絵に深みがでると思うんだよね」
なずなの望みを知った。
横に長い待合室は、窓から差し込む夏のひかりをレースのカーテンで遮っていた。若草色のカーテンのせいで、ちいさな部屋は、うっすらとした翠いろに染まっていた。そのなかで女子ふたりのかもし出す、場違いの明るさが眩しかった。
なずなとさよっちは、円卓に肘を乗せおしゃべりに興じて、オレは少し離れたソファーで学校の宿題を広げていた。
「慈浪ちゃん、飴」
そう言ってさよっちが片手を大きくあげてから、こちらへ向かってひょいと投げてよこす。
予想だにしていなかったオレは、慌てて両手を前にだし、飴をなんとかキャッチした。年上の女子二人を前に、これしきのものを落とすわけにはいかなかった。
それは普段、ちょっとだけどんくさいオレの、精一杯の見栄だった。
「ナイス」
さよっちが両手で控えめに拍手をする。掴んだ飴はミルキーだ。
「あの子。誰?」
なずながさよっちへ尋ねる。掠れたような声だった。
あの子。
ああ、そうだ。この時オレはまだ彼女にとって、ただのななしのチビで、オレは彼女の苗字さえ知らないんだった。
「稲森慈浪くん。十歳。得意曲はドビュッシー」
さよっちの答えに、オレは控えめに「十一」と小声で訂正をしたが、女子二人には呆気なく無視された。
なずなは「ふーーん」と相づちを打つ。
ただそれだけだった。
その声には興味のかけらさえなかった。
オレは、なずなとさよっちの制服の背中をじっと眺めているだけだった。年上の女子高生の興味をひく話題なんて、思いもつかなかった。口に含んだミルキーがやたら甘くて、咽せそうになるのを、なんとかこらえた。
「 J/未熟なたまごを持つ器用な指先 」
カンカンと、スプーンの腹が軽快にたまごの殻を割って行く。
女は毎回どこからともなく、籐籠いっぱいの卵を持って来る。
籠のなかに、たまごは決まって十個入っている。
女はたまごを用意すると、次に画材道具一式を床に並べる。
車両の床一面に、絵皿と絵の具。面相筆。水入れ。タオル。様々な濃さの鉛筆が並べられる。それらひとつひとつを女は実に丁寧に扱う。
絵の具で汚れた指先が、最初のたまごを籠から取り出す。
オレはその様子を、座席から横目で確認する。女にばれない様に、こっそりと眺める。
本当ならば、オレは女に関心を示したくない。それは女を図にのせるだけの行為だからだ。けれどどうしても視線は女へ向けられる。
意識しても。しなくても。
この空間にいるのは、オレと女の二人きりだ。
走る汽車を運転する車掌も、他の乗客もオレは見た事がない。
オレらだけを乗せた汽車は、滑るように海原を走る。
窓から顔をだすと、水面に沈む線路が見渡せる。
線路は縦横無尽に海原を横切っている。
赤と緑の二灯式信号機がある。
切りかえポイントがある。
小島があり、そこにはちいさな駅がある。そのどこにも誰もいない。
どこまで行ってもふたりきりの夏の海。蒼の世界だ。
通路に座り込んだ女は、手にした面相筆で、たまごの殻に蒼の世界を描いていく。
女が使うのは面相筆かルーターだ。オレはルーターの回る尖端を見るとぞっとする。目をそらす。だからなのか、女はオレの前では筆をよく使う。
点描で描かれる蒼い絵画は、気が遠くなりそうな作業である。一見雑に見える女は嬉々として作業に没頭する。
集中すると、女は鼻歌を決まって唄う。
タン タタタタ タンタンタン
タン タタタタ タンタンタン
バッハのメヌエットだ。馬鹿のひとつ覚えみたいに、女は同じフレーズを繰り返す。
タン タタタタ タンタンタン
筆先が繊細な波模様を殻のうえへ描き出していく。驚く程器用に筆を持つ指先は、けれど鍵盤のうえでは全くの役立たずだった。
榎なずなには絵の才能ほどに、ピアノを弾く才能は備わっていないようだった。
ーーへたくそ。
六歳下のオレに言われ、彼女は頬を膨らませて怒ったものだ。
ーーなによ。生意気。
記憶のなかの、なずなが唇を尖らせる。
ーーへたくそ。
ーーだったら、君が教えてよ。
まち焦がれていた、なずなの言葉にオレは頬がにやけそうになるのを、精一杯抑えるのに苦労した。
ーーいいよ。じゃあさあ……
ピアノを弾く彼女の隣にそっと立つ。鍵盤に載せられている指先は、しろくほっそりとしている。楽器を弾き慣れていない、奇麗な指だ。オレは「こう」そう言って、鍵盤へ自分の幼い指を走らせる。
「ウソ」
現実の声が、俺の耳のすぐ側から聞こえてきた。
「ホオジロのウソつき。ジロはいつだって、なずなに声をかけられなかった。だってとんだヘタレだもん」
いつの間に側に居たのか。オレの隣に女が足を組んで座っている。
「そんな会話は実際じゃあない。それはジロの想像の産物だって、知っているくせに」
蒼く汚れた指先で、女が俺の頬を突く。
「よせ、馬鹿」
「馬鹿はジロだよ」
女がたまごをオレに差し出す。
白いたまごに、点描で描かれたレースのような波模様が美しい。
「いらない」
オレは首を横に振る。
「美味しいのになあ」
残念むねん。そう言って、女がたまごを座席の手すりに打ち付ける。
カンコンカン。
小気味良い音と共に、たまごの殻が砕ける。
座席へぱらぱらと殻が散る。せっかく描いた絵が壊れていく。
変わりに現れたしろい、すべらかなたまごに、女が齧り付く。
「うん、美味いよ、ゆで卵」
女は描いては、砕き、食べていく。
どうしてそんな事をしているのか。理由があるのか。
ひだりの螺が鶏の卵を常食しているのか。
分からぬが、女は食べる。さして美味そうに見えぬ顔つきで、「美味い。うまい」と喰らうのだ。
「 N/そぞろな悩めるきもち 」
ヘタレのホオジロはいつだって、なずなを遠くから眺めているだけだった。
淡い色の毛先とか。
おんな友達と話している後ろ姿とか。
視線の先とか。そんなバラバラのピースを寄せ集め、勝手に恋をしていた。
幼い。無害な。生産性のない恋だった。
生物としてのヒトの恋には、手さえ触れない恋がある。
プラトニック・ラブだ。
子孫を残すことの叶わぬ、無駄な恋情をジロは後生大事に胸に秘めていた。
小学生のジロの記憶は甘ったるい。たくさん食べると胸やけをおこす。
あたしは中学生の記憶の方が好きだ。
少しずつ成長していったジロの、精神と躯の危ういバランスのうえに成り立った恋情は、以前よりだいぶ捻くれていて美味しい。
奇麗なだけではつまらない。少しくらいの澱は、絶妙なアクセントになって、あたしの味覚を刺激する。
ジロが必死で包み隠そうとした感情のヒダを、一枚いちまい剥いでいく行為はいつだってぞくぞくする。
あたしはこんなにもジロが好きなのに。
どうしてジロは還りたがるんだろう。