後編
3
翌日、教会の朝の鐘よりも早く、城内には絶叫が響いた。
いつものように係りの侍女が、姫の身を清めるべく湯を部屋へ持ち込んだところ、室内は凄惨の有様と化していたのだ。
女には当初、姫が妙な格好でベッドに横たわっていると見えた。
暗いなかで窮屈そうに頭を立て、寝ながらこちらを向いているように思えたが、近づくと、枕に生首の置かれた状態であることがわかった。
腰を抜かした女は泣き叫んで衛兵を呼ぶ。
人が駆けつけてあらためると、部屋にはそこらじゅうに血が飛び散り、まるで獣に噛み千切られたような痕で、腕、脚、体が痛ましく断たれ転がっていた。
血に塗れた髪の貼りつく頭は手紙をくわえており、文面には、
僭越ながら一筆。妃殿下を拙宅へお招きいたしたく存じます。
必要であれば従者お一人を連れ、金貨千枚を持たせお越しください。
お見えにならない場合、次は姫様のお首が置かれることになります。
森の卑しき者より
憐れな首をよく拭いて見ると、髪色や歳は近いが別人、侍女のひとりであるのがわかる。
姫の姿はやはりどこにもなく、魔女にさらわれたという報せを聴くや、
「ああなんてこと!」王妃は叫び顔を覆った。しかし毅然とすると、すぐにソリを用意し金貨を乗せるように言った。その横で王は首を振り、
「そんな危険な真似がさせられようか。事は慎重に進めなくてはならない。姫は必ず救い出してくるから、おまえはここで信じて待っていなさい」
そう言って行かせようとしない。
だが、城中の騒ぎのなか、賢い王妃は侍従室より服をとって身にまとい、頭巾で髪を隠し、炭で顔を汚して姿を変える。
そして自室から、ひと目で金貨千枚分の価値と知れる五つの宝石を袋につめると、密かに城を抜け出してしまった。
4
肥えた体を揺り椅子に預け、ギッギッと軋ませている女がいた。
それは誰もが知りながら、目にはせず口にも出さない、霧けぶる森の家に棲む者。
演奏祭の日、カタリナに鳥を贈った魔女であり、姫の奏じた音色よりその心を占める暗闇を見抜いた者だった。
正面の黒檀の机には魔法の鏡が置かれている。暗い室内でその鏡面だけが光り輝き、王妃の姿が映しだされていた。
格子のように並び立つ木々のなかを、王妃は大分くたびれた様子で足をひきずっている。
一人で出歩く事すら慣れていないように、白樺の枝を杖にフラフラと彷徨うさまに、
「はッ! 森へ入ってまっすぐ真ん中を目指せばたどりつくものを、この女ときたら
裏っかわにいっちまってるよ! あんたの母上さまも、いわれてるほど賢かぁないねえ」
朝から様子を眺めている魔女は、腹をゆさぶり大いに嘲笑った。
やがて沼の生臭さ漂う家へたどり着くと、王妃は戸を開けて宝石を取りだす。
「ごらんください。金貨の代わりに同じ価値だけの宝石をご用意しました。これを差し上げますから、どうかカタリナを返してください!」
「むろん、そいつもいただくが、他にも頼まれてるものがあってねえ……」
奥の暗がりから魔女が姿を見せる。
王妃がハッとすると、魔女の足元には子供の顔があった。
うつぶせに這っているように見えたが、その身体は黒羽の平たい虫の形をしていて、節足をギザギザと蠢かしている。しかも一体ではなく、影のなかから大小無数に
現れては、鋭い歯の笑顔をむきだし、王妃へ一斉に飛びかかった。
「ヒヒッ、あんたの命さ」
瞬く間、王妃の体は黒く覆われて見えなくなってしまう。
使い魔らの噛み音が夥しく鳴りひびくのを、魔女は心地よさげに聴く。
そしてほくそ笑むと、王妃の手よりこぼれ落ちた宝石を拾おうと屈みこんだ。
と、その手がガシリとつかまれる。
紫の光が室内にほとばしった。
眼前の使い魔らが蒼く燃えあがり、断末魔を残し灰と化していく。
「――カタリナはどこかしら?」
人面虫の骸をのけ、太い手首を固く捕えたまま、王妃が平然と佇んでいる。
魔女は「ヒッ」と声をあげ、あわてて自らも炎の魔法をかけようとしたが、
王妃がなにごとかつぶやくと、火はむなしく失せてしまった。
「無駄よ。私の呪文以外を禁じるよう、魔法の円にいま力を注いだから。この中ではあなたは無力」
「な、なにをっ、魔法陣など一体どこに……!」
うろたえる視線が魔法の鏡をとらえた。そこで先程まで映し見ていた、足を地にひきずる王妃の姿を思い浮かべると、魔女は眼を見開き、
「――ま、迷ったふりをして線を描いたね! アタシに気づかれず、この一帯を囲うほど大きな魔法陣の線を!」
「もういいわ……消えなさい」
王妃は空いた方の手を相手の額に当てる。
魔女の体は頭頂から徐々に石へと変わっていき、やがて爪先まで動かなくなると粉々に砕けてしまった。
その残骸から、煙のようなものが立ち昇ったが、見逃されず宝石袋が被せられる。
王妃の髪が縫い込まれた袋の魔力で、魔女の魂は逃れることができない。
再び呪文が唱えられ、袋ごとその魂は燃やし尽くされてしまった。
5
「カタリナ、もう大丈夫よ。どこなの、返事をしてちょうだい」
硫黄の臭いが立ち込めるなか、呼びかけると奥の戸がギィと開き、姫が姿を現した。
青ざめた顔をして、今の出来事を一部始終見ていたようだが、それでも、
「おかあさま、わたしおそろしかった――」
王妃のもとへと駆け寄っていく。
そして腕なかへと跳び込むや、袖に隠していた短剣を王妃の胸へ突き立てた。
「滅びなさい――魔女」
「あら……」
姫は刃をえぐるようにしてから抜き、その体を押しのけた。
ドッと壁に背をぶつけた王妃は、胸を朱に染め、床に散った魔女を見ながら、
「ああ、そう……そちらの方の雇い主はカタリナ……あなただったってわけね……」
「ええそうよ、死になさい! まさかあなたがこんな恐ろしい人だったなんて――でもこれでもうお父さまや民からの愛も、賞賛も、そしてこの国で一番の美貌も、すべてまたわたしだけのものになるんだわ!」
勝ち誇る姫を、王妃は唇から血泡を吹き、見つめながら言う。
「カタリナひとつ教えて……あなたの部屋であの罪のない娘を殺し……あんなふうにしたのは誰の考えなの? そこの魔女? それとも……」
「フン、そこに転がってる女は、単に金貨がほしいだけのくだらないおバカさんだわ。火への供物で使い魔を呼ぶ手立てをわたしに含んで、人知れずあなたを始末したいわたしの願いに乗じて企てを持ち込んだだけ。でもあんまり雑でつまらない内容だったから、わたしがふさわしく色付けてあげたの。あの子を呼んで悪魔にバラバラにさせてね。ねえ、おかげで舞台がずっと真に迫ったものになったでしょう? あなたが慌てふためく様をわたしはずっと見ていたのよ!」
カタリナは満足げに微笑む。
と、王妃が突然、壁からはじかれたようにその笑みに迫った。
そして、ものすごい力で姫を抱きしめると、
「ねえカタリナ……あなたが暖炉へ捨てた上着のことおぼえているかしら……あれに縫われた刺繍は私の血染めの髪によるもの……上着に袖通せば誰もが私を
愛するようになる呪いを込めておいたのに、あなただけがかからなかった……」
姫は逃れようと必死にもがくが、腕は解かれない。
「ゆっくり、確実にこの国を手に入れるつもりだったのに、おそろしいカタリナ……いい機会だからここで死んでもらうつもりだったけど……私の負けね。――でも。あなたのその邪悪な才能、嫉妬にまみれた魂、とっても魅力的だわ」
血ぬれた唇で姫に口づけする。
カタリナは王妃を突き飛ばしたが、身の内を焼かれるような感覚に襲われ、苦悶の叫びでのたうちまわる。まるで全身の血が火に変じたようだった。
王妃も崩れ落ちながら、黒檀の机へすがり、そこにある魔法の鏡をつかんで自らを映した。
そして最後の呪文を唱じると、死にゆく体を捨て、鏡へ魂を移し替えてしまった。
「わたしに……何を……したの……」
姫はわななく肩を押さえながら立ち上がった。
火の痛みはおさまったが、今は黒く大きな激流のような、抗いがいようのない衝動が頭の中で渦巻いている。その怒涛は彼女にとって甘美の滾りとも感じられた。
姫の問いに『鏡』そのものとなった王妃が応じる。
「ほんの少しよ、ほんのちょっぴり魔法をかけて、あなたの欲望を糧に変えただけ。冷たい心の土に嫉妬と倨傲の根がのびて張り、やがてそびえる黒い幹こそが魔力となるの。あなたはきっとおそろしい魔女になれる。私があなたの願いをかなえるすべての魔法を教えてあげる。望めばもっと大きな国だって手に入れられるし、どんな問いにもこの『鏡』が答えてあげるわ。……ねえ、まずは何を知りたい? やはり最初はこれかしら? あなたの心を最も占めるもの、あなたが自身にかけた最大の呪い。――この国で一番美しい人はだれかしらって? そう、それは間違いなくあなた自身よ、カタリナ、未来の女王さま!」
「白雪姫」に続く。