48.レオ、やばいことを思い知る(前)
「ちょ、え、……ええっ、ええええ!?」
思わずばっと手を離す。
するとその瞬間、
――カッ……!
腕輪を中心に凄まじい閃光が放たれ、――次にレオが目を開けた時には、金の腕輪は、ぼろぼろの破片になって床に落ちていた。
「なんと……」
「始祖すら手こずらせた魔力封じの腕輪を解くとは……」
周囲がどよめきそんなことを囁いているが、もはやそれを冷静に聞く余裕などレオにはなかった。
「――ありがとう、レオノーラ」
「…………っ」
腕輪が嵌められていたはずの右腕を軽く振り、こちらに微笑んでくる皇子が――怖い。
だって、彼がこの手の笑顔を浮かべるのは、大抵の場合、キレている時。レオを追い詰めに掛かる時だからだ。
もはや通常通りの、いや、通常より五倍増しくらいにキラキラしているアルベルトを前に、レオは腰を抜かしそうな心持ちであった。
というか、事実尻餅をついた。
(な、なにっ!? なにが起こったんだ!?)
冷や汗を浮かべ、愕然として見上げていると、キラキラアルベルトがすっと優雅に手を差し出してくる。
「大丈夫かい?」
大丈夫ではなかった。もちろん全然大丈夫ではなかった。
だが、レオが身動ぎもできずに、差し出された手を凝視している内に、皇子はふっと小さく笑みを漏らして、レオを抱き起こしてしまったではないか。
(ひぃっ!)
立たせてからも、さりげなく背に回した手は離してくれない。
レオは恐慌をきたしそうになりながら、あることを悟った。
(な……なんか……魔力戻ってるううううううう!?)
それも、レオの勘が外れていなければ、以前よりも潤沢に。
どういうことだ。
一体なにが起こっているのだ。
レオががくがくしていると、バルタザールが笑いを含んだ声を掛けてきた。
「おや、アルベルト。まだ腕輪を外してよいとは言っていないぞ」
「そうでしたか。『処遇が決まるまで付けておけ』と言われたので、もうよいのかと」
それに、このようなやわな腕輪では、到底僕の魔力は収まらないようです。
春のそよ風のような穏やかな微笑を浮かべつつ、そんな恐ろしい台詞を返す皇子に、横にいたレオはただ震えた。
「ほう? もう処遇は決まったと? 俺はまだ何も言っていないが」
強面のバルタザールが、にやりと獰猛な笑みを浮かべる。
自分の国の王にこう言ってはなんだが、人ひとり殺してきたような笑顔だ。
しかし、アルベルトは小揺るぎもしなかった。
彼は、あの朗々と歌うような口調で、こう告げたのだ。
「いえ、もう処遇は決まりました。僕は、皇子でいつづけ、やがてこの帝国の王となる」
と。
その不敬とも取れる大胆な発言に、皇帝は虚を突かれたように目を見開いた。
周囲も、ごくりと息を飲む。
やがてバルタザールは軽く顎をしゃくると、「ほう?」と続けた。
「誰が決めたのだ?」
「僕が決めました。なぜなら、必ずそうなるからです」
「笑止。おまえはこの国の基盤を根底から揺るがすような真似をした。その責を、どう負うというのだ」
軽い口調だが、声は低い。
そこに含まれた紛れもない威嚇の色に、謁見室の空気がぴりりと震えた。
しかし皇子は、それに思いもしない言葉でもって返した。
「もちろん、この国を背負うことによって」
エミーリアが目を瞬く。
侯爵ははっと顔を上げた。
皇后は静かに笑みを浮かべ――バルタザールは、吠えるようにして笑った。
「ははは! 大口を叩きおる。おまえにそれができるのか?」
「お忘れですか、父上。僕に授けられた龍徴は、金貨。僕は金貨の祝福を授けられた身」
アルベルトもまた笑んでみせた。
ただしそれは、いつもの穏やかで美しい微笑ではなく、まるで抜き身の刃のような、猛々しく力強い笑みだった。
皇子は真っ直ぐとその碧い瞳で父帝を見据えた。
「一部の特権階級が魔力を独占し、それによって民を押さえつけるようにして支配する時代は、やがて終焉を迎える。陣と市民の台頭と共に、代わりに訪れるのは――金の時代です」
それはなぜか、「僕の時代だ」と言っているように、周囲には聞こえた。
「金の前には、全ての民は等しく権利と機会を有し、そこには老若男女の差すらない。その分、これまでには考えられなかったような、抜き身で剥き出しの、争いが起こるでしょう」
彼はちらりと、後ろ手に縛られて跪かされているハグマイヤーを見やった。
「古きもの。至らぬもの。不健全なもの。怠惰なもの。それらは全て、凄まじい勢いで押し寄せる淘汰の波に晒され、掻き消える。これまでの帝国ならば、それに手を差し伸べていたことでしょう。だがそれでは――やがてこの国は滅びる」
底冷えするような眼光で見据えられ、ハグマイヤーは「ひえっ」と声を漏らす。
詠唱も無い。攻撃の素振りすらない。
しかし、その視線に捉えられた次の瞬間、伯爵はまるで蛙が潰れたような声を上げ、叩きつけられたようにその場にくず折れた。
(――ひっ!)
呆然と遣り取りを見守っていたレオは、思わずびくりと肩を震わせる。
今、一体なにが起こった。
この皇子は、憐れなハゲ親父に、一体なにを仕掛けたのだ。
(なんかもう眼光で人を殺せるレベルに進化してるううう!?)
それはもはや、関節を外すレベルの話ではない。
びくびく震えだしたレオに何を思ったか、アルベルトは背に回した手にそっと力を込めてきた。
レオはそれを、「次はおまえの番だ」の意味に取った。
皇子は視線を父帝に戻し、力強く続ける。
「――だが、僕がそれをさせない。この名に懸けて。陣と市民の台頭を抑え込むのではなく、先頭に立ち、その主導権を握ることによって、僕が、これからの時代の歯車を回してみせます」
古色蒼然とした基盤など壊れてしまえ。
自らは新たな、しなやかな、時代を創り上げていく。
アルベルト皇子の宣言は、つまりそういうことだった。
謁見室に沈黙が落ちる。
いつの間にかパレードが戻ってきたのか、バルコニーの外からは、祭に沸いた市民の声が、防音魔術の施されたカーテンの隙間から押し寄せてきた。
大胆な宣告を終え、堂々と佇む皇子に、レオはだらだらと冷や汗を流しながら視線を送った。
彼の主張は、奇しくもレオの金に対する想いとほとんど一緒だ。
しかし、途中からはもはやその言葉も耳に入ってこないくらい、レオは自らに迫りくる命の危機に怯えていた。
なんだか皇子はよほど興奮しているのか、隣に立っているだけでぴりぴりと魔力の奔流が伝わってくる。
この風前の灯たる命を救うためには、皇子に冷静になってもらい、その魔力を収めてもらうより他なかった。
そこでレオは、引き攣る喉からなんとか言葉を掻き集めて、皇帝の前でそのような口を聞いていいのかと、皇子に冷や水を浴びせるつもりで囁いた。
「お……皇子、そ、そんなこと、言って……よいのですか」
「なぜ?」
震え声で尋ねる少女に、皇子は穏やかに答える。
彼は、潤んだ瞳で見上げてくる少女の背を、そっと撫でてやった。
「今の僕には、もう怖いものなど何もない」
「…………!」
君さえいれば、という言葉は、さすがの彼も公衆の面前で告げるには照れが勝った。
そう。
たとえ平民となっても、少女さえいればアルベルトはどんなことでもできると思えた。
ただ、そうなってみて初めて思えたのだ。
自分はやはり皇子でありたいと――彼女を守る力は、少しでも大きい方がいいと。
そして、自ら強くその座を望んだ瞬間、降りかかるどんな困難も、もはや困難ではなくなったのだった。
聡明な彼女は意図を汲んでくれたのだろう。
大きく肩を揺らし、ふるふると目を見開いてこちらを見ている。
アルベルトはその視線を受け止め、甘く微笑んだ。
(皇子が無敵無双の狂戦士モードになってるうううう!)
もちろんレオは、皇子の言葉を単純にそのように捉えていた。
絶対的権力者にしれっと国家滅亡宣言をしてしまえるなど、もはや常人の神経では考えられない。
しかも皇子は、ふっと笑みを深め、首を傾げるではないか。
「レオノーラ。婚約者になり、畑仕事を教えてくれるという君の言葉には、震えが走った。アル、などと呼んでくれたこともね」
「…………っ!」
(こ、今回の地雷は、そこか……!)
皇子が嫌がっていたにもかかわらず、自分が彼の「婚約者」に収まってしまったこと。
畑のカカシ扱いしたこと。
あまつ、調子に乗って「アル坊」などと呼ぼうとしたこと。
それらは誇り高い皇子の地雷を踏み抜き、彼に怒りの激震を走らせてしまったらしい。
先程までの、しょんぼりとしたいい人オーラが消え失せ、笑顔で人を追い詰めるモードに切り替わっている様子なのがその証拠だ。
皇子は「だが……いや、だからこそ」と小さく呟き、レオの頬をそっと撫でた。
「僕は思ったんだ。僕はあくまで、君の手を引く側でいたい。皇子の――そして皇帝の立場であれば、それができると。レオノーラ。僕は君を、一生離したくない」
手を引かれ処刑台へと連行される自分を想像して、レオは背筋を凍らせた。
皇子渾身の亭主関白宣言は、残念ながら、「皇子および皇帝権限振りかざして、てめえのこと引っ捕らえるぞ。終身刑だ覚悟しろ」としか響かなかったのである。
思い詰めたレオはばっと背後を振り返り、もはや半泣きで皇帝に縋った。
「皇帝陛下……!」
彼は訴えたかった。
どうかこの恐ろしい皇子を止めてくださいと。こいつから魔力を取り上げてくださいと。
(陛下! 陛下あああ! ここにあなたの治世を脅かす反逆の徒がいますよ! 逆賊ですよ! 処分! 処分してください陛下ああああ!)
今や、この場で誰より皇子の庶民堕ちを願っているのは、レオであった。
しかし。
「ふ……レオノーラよ。そのように懇願せずとも、わかっている」
バルタザールはその厳めしい顔に苦笑を浮かべたと思いきや。
「俺はこの場で宣言しよう。我が息子アルベルトに、このまま皇子たるを認め、いずれ俺の後を継ぐことを、認めると。揺るぎなき後継者の身分に処す――それが今回の、『処分』であるとな」
そんな風に宣言しだしたではないか。
「…………」
もはやレオには悲鳴すらなかった。
ただ、ひくりと喉が強張っただけだった。
(な……なんで……? な、んで……?)
しかも、アレクシアがとどめの一撃を振り降ろしてくる。
「また同時に、高潔にして、深い愛情を持ったレオノーラ・フォン・ハーケンベルグに、アルベルトの婚約者たるを認めましょう。あなたの説教は、わたくしたちの胸にとても響きました」
「…………」
ぷしゅ、と何か抜けた気がした。
レオの魂の音だった。
「父上、母上……? なぜ……」
それまでは堂々としていたアルベルトが、二人の宣言に少し驚いたように眉を上げる。
バルタザールはそれを「なぜおまえが驚くのだ」と言って笑うと、すっとテーブルから立ち上がった。
そうして、ゆったりと、バルコニーに向かって歩いていく。
彼は、開け放たれた扉の前に下ろされたカーテンに、そっと手を掛けた。
「なあ、アルベルト。これまでの時代、皇族の権力の源泉は魔力だった。皇族の友は貴族だった。だがこれからは違うというのだろう? おまえの権力の源泉は、金。そしておまえの友は――」
彼が勢いよく布を引き寄せた瞬間、その先に現れた光景に、アルベルトは大きく目を見開いた。
バルコニーの先にいたのは、人、人、人。
パレードを終えて戻ってくる騎兵隊など見えもしない、溢れんばかりの群衆だ。
彼らは一様に両手を掲げ、何かを叫んでいるようだった。
それはあまりに大きくて、また揃いも悪くて、聞き取りづらい。
しかし、耳を澄まして、ある単語を聞き取ったとき、アルベルトは今度こそぽかんと口を開けた。
――金貨王、万歳!
――アルベルト皇子殿下、万歳!
ふと口の端を持ち上げたバルタザールが、続けた。
「――民だ。魔力も持たず、学も無く、弱者として時に虐げられ搾取されてきた圧倒的多数。彼らが、これから、おまえの友となる」
アルベルトは珍しいことに、何も言えなかった。
ただ自分の名前を叫ばれている光景を、呆然と見つめていた。
叫ぶのは、上等な服に身を包んだ彼の学友などではない。
魔力をひけらかす貴族連中でももちろんない。
そこにいたのは、チュニックの代わりに古着をまとい、魔力の代わりに零れんばかりの感情を露わにした、貧民と呼んで差し支えない者たちだった。
「一部の下町では、既に水不足が始まっていた。だがそれがある日、忽然と解消され、その翌日から陣の試験配布が始まり――俺のもとには、感謝状が続々と届いている。感謝状と言っても、字も書けないような者たちからだ。井戸汲みにも行けぬ老婆、腐った水で子を失いかけていた母親、秘密裏に井戸を掘ろうとしてハグマイヤー卿に捕まった者の友人。そういった弱者たち。だから俺は伝えさせたのだ。手紙など書かずともよい。感謝の念があるならば、精霊祭の日に王宮に向かって叫べと」
「父上……」
アイスブルーの瞳には、うっすらと涙の膜が張っていた。
アルベルトはその激情を恥じるように瞬きをし、次の瞬間には晴れやかな笑みを浮かべた。
「感謝いたします」
「何を言う。おまえが引き起こした結果だ。おまえが生まれて初めて何かを願い、もがいた、その先の、な。胸に刻めよ」
「はい」
朗らかな声が、力強い返事を紡ぐ。
アルベルトは自らの右手をじっと見つめてから、やがて顔を上げた。
「父上。彼らに、手を振っても?」
バルコニーからの挨拶は、本来成人皇族の仕事だ。
しかしバルタザールは軽く眉を引き上げ、こう答えた。
「友に手を振るのに、おまえはいちいち親の許可を取るのか?」
アルベルトは破顔すると、その長い足で真っ直ぐにバルコニーを目指す。
だが彼はふと振り返り、佇む少女に手を差し出した。
「君もおいで、レオノーラ」
「え……っ!?」
ぎょっとしたのはレオである。
しばし空中に漂わせていた魂を慌てて引き戻し、その言葉の意味を考えたが、皇族でもない自分が民に手を振る筋合いなどないはずだった。
「な、なぜ……!?」
「なぜ? 民が叫んでいる内容のほとんどは、君の功績だ」
皇子は首を傾げてそう言うが――レオはそこではっとした。
(こいつの狙いがわかったぞ……! 終身刑に備えて、脱走を防ぐために、俺の顔を市民に覚えさせるつもりだな!?)
功績を讃える、だなんてうわべの言葉に騙されてはいけない。
彼はいつもこうやって笑顔で人を追い詰めてくる、そういう男なのだ。
「いえいえいえいえいえ! 私は、結構、です!」
なのでレオは叫んだ。
結局皇子が皇子のまま留任となったのも大ショックなのに、この上群衆に顔を覚えられ、脱走のハードルを一層上げるなんてノーサンキューである。
レオには拒否一択しかなかった。
だが皇子は譲らない構えである。
「責こそ全て僕が負おうとしたが、この件の功績は、本来君の方が大きい。民に水の恵みをもたらした君が挨拶をしたら、きっと皆喜ぶだろう」
「いえいえいえ! 水不足の解消は、ビアンカ様! ビアンカ様の功績です! それと皇子! あと、オスカー先輩! フランツさん!」
ありのままの事実で反論したのに、皇子は「困った子だ」と苦笑を浮かべあそばした。
「なぜ、そんなに嫌がるんだい?」
「逆に、なぜ、そんなに、勧めるのですか!? 本当は、目的、違うのでしょう!?」
レオが逆ギレしながら踏み込むと、相手はちょっと驚いたように目を見開き、
「ばれたか」
と悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「本当は――そう。民に、君を見せてやりたいだけだ。君が僕の腕の中にいるところを、ね」
「…………!」
悪びれもせずに本音をゲロった皇子に、レオは顔色を失った。
ほら見ろ。
彼は指名手配犯の顔を民衆に刷り込むつもりだったのではないか。
あまつ、自分が見事捕らえおおせているところを見せつけたいのだという。
つまりアレだ。公開処刑だ。
彼がそのまま手を伸ばしてきたので、レオは慌てて侯爵夫妻に助けを求める。
「侯爵様! エミーリア様!」
藁にもすがる思いで振り向いたが、
「うむ。やはり、功績は讃えられねばな」
「うふふ、レオノーラったら、謙虚なのだから」
その藁はにこにこと笑って彼を絶望の底に突き落とした。
(駄目だ! 夫妻の顔には、「うちの孫、すごいっしょ?」としか書かれてねえ!)
彼らは先程の、「功績を讃えたい」という皇子の発言にころりと騙されてしまっていたらしい。
とんだ落とし穴である。
それではと、レオはばっと皇帝夫妻を振り仰いでみたものの、
「華があってよいな」
「アルベルト、何をしているの。早くエスコートなさい」
藁を掴ませてもらえるどころか、伸ばした腕に鉈を振り降ろされるような暴挙に遭った。
(うわあああああ!)
まさに四面楚歌。
パニックのあまり、皇子が近付いてくるのがスローに見える。まるでホラーだ。
「さあ、おいで」
「い、いえ! あの! 無理です! 私、見られたく、ありません!」
「なぜ? 君に見られたくないところなどあるものか。さあ、おいで」
「いえ、ですから……!」
この世のどこに、顔を見られたい脱走者がいるのだ。
無意識にぎゅうぎゅうとドレスの布地ごとカー様を握りしめていると、それを視線で追った皇子が「ああ」というように頷いた。
「もしや、その汚れのことを気にしているのかい?」
「へ?」
レオは、数分前に自分がワインを浴びせられたことすら忘れていた。
が、皇子は「僕のために、すまなかったね」と優しく目を細めると、
「染みよ、去れ」
軽く唱える。
――ふわっ
「わ!」
その瞬間、軽く風が舞い、レオはびっくりして悲鳴を上げた。
そして、咄嗟に瞑った目を開いた時、そこに立ち現れた光景を見て、彼は更に顔を強張らせた。