47.レオ、すごいことを思い付く(後)
幾多の戦場を駆け抜けた金剣王バルタザール。
優美な微笑みの下で無数の思惑を巡らせてきたアレクシア。
鬼将軍と謳われたクラウスに、社交界の重鎮エミーリア。
そして、皇子の座を追われるとなっても冷静さを失わなかったアルベルト。
滅多に感情を揺らさないことで知られる彼らは、しかし今、愕然として少女を見つめていた。
皇子の代わりにワインを浴び、挙句、おぞましい未来を突きつける紅茶を、平然と飲み干してみせた少女のことを。
「――ごちそう、さまでした」
やがて少女が、可憐な声で告げる。
はっと我に返ったアレクシアは、それでも衝撃を隠せずに、「レオノーラ……」と少女の名をただ呟いた。
しかし少女は、すっと皇后に視線を向けると、にこりと微笑み、
「シュトルツの紅茶。淡い色でも、豊かな香りですね」
そんな感想を口にするではないか。
その佇まいに、侵しがたい気品と気迫を感じ取ったアレクシアは、珍しく言葉も忘れて、ただこの美貌の少女を見つめ返した。
いくつもの視線を引きつけたまま、少女は優雅な足取りでテーブルを離れる。
そして、やはり呆然と立ち尽くしている皇子の腕を取った。
その、魔力封じの腕輪が嵌められた、呪わしい腕を。
触れれば己の魔力すら奪われる金の腕輪。
しかし少女は、なんら恐れる素振りを見せずに、皇子の手に触れた。
彼女が自分から皇子に触れたのは、それが初めてのことだった。
「皇子。心配、しないでください」
「なん……だって……?」
アルベルトの声が、掠れる。
しかし少女は微笑んだまま、優しさすら感じさせる手つきで、そっとその禍々しい金の腕輪を撫でた。
「魔力、なくなる。皇子で、なくなる。結構な、ことでは、ありませんか」
嘘偽りのない声で、きっぱりと言い切った少女に、誰もが息を飲む。
身動きも取れず、全員が釘付けとなって二人を見守る中、彼女は皇子の両手を包みこみ、にこりと笑みを深めた。
「そうしたら、何が、手に入るか、わかりますか? それは――解放と、自由です」
誰にとっての自由かと言われれば、それは、主にレオにとっての自由なのだが。
(ふはははは! あんたが、魔力も無い皇子でもない、ただのアル坊になっちまえば、俺は処刑の恐怖から解放されたも同然だぜ!)
レオは皇子が何も仕掛けてこないのをいいことに、その腕輪をさすさすと撫でさすって、心の中でゲスな快哉を叫んだ。
この腕輪はよい腕輪だ。
皇子から魔力を奪い、薔薇色の未来を自分に約束してくれる。
しかも金製である。
「しかし……。君は……、君まで巻き込んでしまっては……」
皇子は呆然としながらも、なんとか言葉を掻き集めて反論する。
だが、まるででこぼことした道に滑らかな巨岩を転がすように、レオはきっぱりとそれを否定した。
「いいえ。私、望んでいることです」
「何を……何を言うんだ! 僕は、君を巻き込みたくなどなかった! これでは、君を守ることも、与えることも、何もできない……! 僕は君から奪うなんてまっぴらごめんだ!」
「え?」
突如激したように声を荒げた皇子に、レオはちょっと驚いたが、その後しみじみと納得した。
ほら。
やはり皇子は、キレさえしなければ、いい人なのだ。
てっきり平民暮らしの軍資金として、金貨を取り上げるつもりなのだろうと思っていたのに、もう奪うつもりはないのだという。
しかも、守るだとか、与えるだとか、状況さえ許せば更にレオに施しをしてくれるつもりだったらしい。なんと太っ腹な男だろう。
(なんだよ……ほんと、いいやつじゃねえか。ごめんよ皇子。あんたを庶民にしちまった責任は、俺が取るよ。弟分として、可愛がってやるからさ)
だとすれば、弟分から金品を巻き上げるわけにはいかない。
そもそも皇子からは、既に金貨を二枚と、その他菓子やら花やら沢山もらった。
これ以上はいい加減貰いすぎというものだろう。
「何を、言うのですか、皇子。私、既に、沢山、もらいました。守っても、いただきました。充分です」
なので、レオはありのままの事実を述べてみた。
そういえば湖では、奇しくも皇子の利益に対する執念に命まで助けられていた。
「奪いたくないと、言うのなら。私は、この金貨さえ、奪われなければ、それで、満足です」
「…………!」
「ね」
実際のところ、皇子からせしめた物品の中では、カールハインツライムント金貨が最も高級品だ。
レオが首を傾げて「だから奪うなよ」と念押しすると、皇子は絶句した。
滲み出る守銭奴オーラに当てられたのかもしれない。
「しかし……レオノーラ……。不用意に陣に手を出したのは、僕の責任だ。君が負うべき罪ではない。それは、僕が――僕だけが負わなくてはいけないものだ」
だが相手は、一度口を引き結ぶと、意外な方向から反論してきた。
やはり長男だけあって、この世のあらゆることは自分の責任だと信じているのだろう。
孤児院の中では兄貴分として振舞ってきたレオは、その気持ちもわかる気がしたので、ちょっとフォローの方向性を変えることにした。
といっても、レオのカウンセリングスキルなど大したことないので、最近聞いた中で心に響いたお説教の、まんまパクリを披露する。
「皇子。皇子は、それを、気に病む必要、ないのです。皇子は、まだ十七歳。学生です。よしんば皇子の行動が、先走ったもの、だったとしても、それが善意からのものならば、大人、責めてはいけません。もし難癖付けて来る人、いましたら、言ってください。私、この青二才め! って、叱ってあげます」
それはつまりこの場合、皇帝皇后両陛下を叱り飛ばすということだ。
少女の大胆不敵な発言に、周囲は驚きから――しかし、バルタザールだけは、抑えきれない笑いから、肩を揺らした。
気が付けば、誰もが呼吸すら忘れて、少女を見つめていた。
「ねえ、皇子。大丈夫です。私、一緒に、いますから」
もしその発言をレーナが聞いていたら、「誰かこの馬鹿の口を塞いでえええええ!」と絶叫していただろう。
しかし残念ながら、この場にそういったツッコミができるレフェリーはいなかったので、レオはめくるめく薔薇色の平民ライフを夢想しながら、勢いよく墓穴を掘り進めていた。
彼は、傍から聞いたら自分の発言がどう響くかなど、まったく気付いていなかった。
その頭の中は、今後アル坊とどう金儲けをするかの算段でいっぱいだったのである。
(うん、こいつ、頭いいから、時給の高い家庭教師とかはまずイケるよな。肉体労働は……どうかなー。まあでも、こいつのキンキラした髪があれば、それだけで畑のカラス避けくらいの働きはしてくれそうだな!)
不遜にも帝国の皇子をカカシ扱いし、レオは力強く請け負った。
「大丈夫。平民、なりましたら、私が、小麦の植え方、一から、教えてあげます」
それは、生半可な愛の囁きよりもよほど情熱的で、包容力に溢れた、プロポーズの言葉である。
その言葉を聞いた瞬間、アルベルトのアイスブルーの瞳が大きく見開かれた。
(彼女は、なんて……)
彼はただ呆然として、この奇跡の光景を見つめることしかできないでいた。
止まっていた時間が動き出す。
魔力を吸い取られ、冷え切っていた全身に、血が――歓喜の想いが、音を立てて広がっていく。
世界が、一気に色を取り戻していくのを、彼は感じた。
――皇族でない自分に何ができるか。自分は少女にふさわしいのか。
それを悩んでいたのはビアンカだけではない。アルベルトも同じだ。
皇族は互いが互いのスペア。
求められるのはただ生き延びて、王座を継ぐこと。
絶対的な権力を持つのは皇帝であって、その子どもには個性や意志などいらぬ。
幼い頃から聡かったアルベルトは、早くにそれを悟っていた。
そしてまた、うまくそれをこなしてこれた。
突如降りかかった皇子の重責にも押しつぶされずに、完璧な微笑みを浮かべて、万事恙無くこなしてきたのだ。――何かに執着したり、強く願うことと、引き換えに。
少女を救うこと、そして彼女が慈しむ民を救うことは、そんな皇子が初めて抱いた強い想いだった。
何を措いても叶えたい願望だった。
しかしそれを叶えると同時に、彼は今まで必死に維持してきた地位を失うのだということもまた、知っていた。
少女を救いたい、だがそうしたら地位を失い、もはやこの先少女を守ることは叶わない。
皇子という地位を失うことそのものよりも、その無力さを彼は恐れた。
皇子という肩書を無くした時に、自分が彼女にとって用無しになってしまうことを、アルベルトは心の底から恐怖した。
それを必死に押し殺し、それで彼女が守られるのならばと、自分を納得させていたのだ。
しかし少女は、恐れるなという。
大丈夫だと。
たとえ皇子の座を追われても、一緒にいると――。
それはなんという、力強い、絶対的な肯定であろうか。
アルベルトはふと、指先に力が漲りはじめるのを感じた。
(そうか……)
そうして気付く。
自分は、「受け入れられたかった」のだと。
彼の仕事は、完璧な皇子でありつづけることだった。
完璧でなくなった瞬間、自分の価値は無くなるのだと知っていた。
だから演じた。その心を殺しながら。
けれど本当は、きっと誰かにこう言ってほしかったのだ。
そのままでいいよと。例え完璧でなくとも、あなたにはあなたの、価値があるよと。
完璧さを認められるのでもなく、金貨の祝福を讃えられるのでもなく。
そんなものを取っ払った、ただ一人の、アルベルトという人間を、誰かに受け入れてほしかった――。
(まったく……)
思わず苦笑が漏れる。
十七にもなって、何を甘えているのだか。
それも、こんな幼い、本来自分が守ってしかるべき相手に。
その自責の念は、舌に苦かったが、しかし熱を持っていた。
人を奮い立たせ、その瞳を輝かせる熱である。
力が漲る。
魔力を失い冷え切っていた体が、少女に触れている部分から、炎のような情熱に温められていく。
今ならば、アルベルトは、どんな奇跡でも引き起こせそうな心持ちがした。
「ね、皇子」
ゆっくりと顔を上げたアルベルトの瞳が、いつもの輝きを取り戻しはじめたことにレオは気付いた。
どうやら、自分の渾身のフォローが利いたらしい。
(よしよし、大丈夫だぞ! おまえはもうアル坊だかんな! 俺の弟分だかんな!)
ついでに言うと、これまでさんざんっぱら自分を怯えさせてくれた元権力者を従えるというのは、なかなか気分がいい。
調子に乗ったレオは、ここぞとばかりに相手を気安く呼んでみることにした。
いくら相手が年上で元皇子だからといって、今後はこちらの立場が上であることをわからせるのが重要だ。
残酷のようだが、こういう序列意識は、早い段階で植え付けるべきなのである。
「あ、もう、皇子というのは、おかしいですね。なら――アル、……っ」
おまえはもはや、ただのアル坊だ。
レオはそう告げるつもりだった。
が、彼は、「坊」などという呼び方が、魔術コードに引っ掛かることをすっかり失念しており――結果久々に喉を焼いた。
そしてそれは傍から見れば、勇気を振り絞って「アル」と愛称で呼び掛けたものの、照れて肩を揺らした、いじらしい乙女でしかなかった。
恥じらいながらの、しかも、初めて少女の方から手を取っての、名前呼び。
それはもはや、墓穴掘りを通り越して、自分で自分の首を絞め、その遺体を自ら埋葬するくらいに致命的な所業だ。
しかしそんなことに気付かぬレオは、言葉を噛んだ気まずさに、ちょっと照れたようにはにかみさえした。
そうやって、己の遺体に丁寧に土までかぶせた、その瞬間。
――ぴしっ。
何かがひび割れたような、小さな音がした。
え、と思って、音のした方に視線を向け、
「…………っ!」
レオは悲鳴を上げかけ、続けざまに喉を焼く。
なぜならば。
(どえええええええええええ!?)
皇子の魔力を奪ってくれるはずの、腕輪が、割れたからである。
誰かこの馬鹿の口を塞いでえええええ!
あと2,3話で完結します。