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46.レオ、すごいことを思い付く(前)

「え……」


 皇后手ずから注いだ紅茶のカップを差し出され、レオは困惑に瞳を揺らした。

 エミーリアの説明が蘇る。


 つまりこれは、――婚約の打診だ。


「な、ぜ……?」


 なぜ自分が、皇子の婚約者などとして見初められなければならないのだ。しかもこの状況で。

 固まっているレオに向かって、アレクシアは艶然と微笑んだ。


「わたくしは、あなたが気に入ったわ、レオノーラ。その聡明さ、高潔さ。あなたは、わたくしの息子の、妻たるにふさわしい」


 だから、と、彼女は紅を引いた唇を美しい弧の形に持ち上げる。


「だから、この子がたとえ皇子の座を追われ、平民に堕ちようが。――婚約者として、ついていってくれるかしら?」

「母上!」

「陛下!」


 アルベルトと侯爵夫妻が素早く抗議の声を上げた。

 中でもエミーリアは、その上品な面差しを真っ赤に染めて、怒りを隠さなかった。


「お戯れを! この子を、平民の身に堕とそうと仰るのですか!」


 かつて娘を同様にして失ったエミーリアにとって、それは逆鱗とも言うべき仕打ちだ。

 彼女はぶるりと身を震わせ、怒れる獅子のごとき気配を滲ませた。


「母上、どうぞそのカップをお取り下げください。そんなもの、彼女は飲まない」


 アルベルトもさすがに黙ってはいない。

 彼にとって、これこそが避けたかった事態だ。

 自らの処分に巻き込まれ、少女が再び貴族社会を追われるなど、けしてあってはならないことだった。


 彼は、魔力を奪われつづけ、力を失いかけていた瞳に、紛れもない怒気を込めて、実の母をぎらりと睨みつけた。


 少女は、ただ呆然と金貨を握り締めたまま立ち尽くしている。

 それはそうだろう。

 紅茶を飲み、婚約を受け入れれば、彼女はようやく得た祝福の人生を投げ捨てることになる。

 かといって拒んでは、この状況にあっても龍徴を手放さない程に愛している皇子を、裏切ることになるのだから。


 穏やかだった謁見室の空気が、今や渦巻くほどの怒気と緊張を孕む。

 バルコニーの向こうから聞こえる祭りの喧騒が、不自然に明るく響き渡りはじめた頃。


「――おおやおやあ! 皆様、お揃いでえ!」


 場違いに陽気な声が、一同の耳を打った。


 突然の闖入者に、アルベルトが素早く視線を巡らす。

 が、扉の向こうから千鳥足でやってきた人物の正体を認めると、彼は困惑したような表情を浮かべた。


「……ハグマイヤー卿」


 仕立ての良いチュニックに、光沢のあるパンツ。

 でっぷりと太った体を高級な服で覆い隠し、ワイングラスを片手にふらりふらりとやってきたのは、誰あろう――リヒエルトの治水を担う、ヨーゼフ・ハグマイヤー伯爵だったのである。


 彼は、禿げ散らかした白髪頭までをも赤く染めつつ、緩んだ頬で笑みを作った。

 精霊祭で振舞われるワインに、だいぶ酔っ払っているようである。


「これはこれは、おーうじ殿下! ご機嫌うるわしく!」


 扉の前に立っていた侍従や衛兵に止められるが、ハグマイヤーは気にせず、無遠慮に謁見室に踏み込む。


「……無礼な。今は、陛下とハーケンベルグ卿が茶を楽しんでいます。ワインなら他でも飲めるはず。お帰りください」

「ほほーう? 殿下は、厳しくていらっしゃる! ご存じありませんかなあ? 今日この日は、王宮の多くは自由に出入りできるのですよ。我々のような、高位貴族であれば!」


 もちろん建前上はそうであるが、それでも皇帝夫妻の前に姿を現すとなれば相応の手続きは必要だし、まして今は、非公式とはいえ人払いもされている。

 にもかかわらず、ハグマイヤーはそれを酔いの蛮勇のもとに無視していた。

 一応は伯爵であるので、衛兵たちも、警戒はすれども手を出せずにいる。


「……ハグマイヤー卿」


 いくら祭の日の無礼講とはいえ、あまりに不躾な伯爵に、クラウスの目が剣呑に細められた。

 しかしそれを、


「よい」


 なんとバルタザール帝その人が止めた。


「伯の言うとおりだ。今日はめでたい祭の日。新たに季節が始まる祝福の日だ。ヨーゼフ、おまえも腹に溜めていることがあるのだろう? ならばわだかまりを新しい季節に持ち越さぬよう、吐きだしてみてはどうだ。俺が許可しよう」


 あまつ、そんなことを言うではないか。

 皇后を除く周囲は気色ばんだが、アルコールに脳を溶かしたハグマイヤーは、濁った目に喜色を浮かべた。


「おお……陛下! 寛容なお言葉、感謝、いたしますぞ!」


 彼はぶんぶんと手を振りまわし、グラスから盛大にワインをこぼしつつ、柄悪く皇子に近付いていく。

 そうして、その酒臭い息が掛かる程に顔を近付けると、にやあ、と汚らしい笑みを浮かべた。


「ふん、相変わらず、おきれいな顔でいらっしゃる! 我々下賤なる臣下があくせく働くのを、高みから見下ろすような、汚れを知らぬお美しい姿だ!」

「何を……」


 アルベルトは臭い息に顔を顰めたが、相手はお構いなしだった。


「おお、その腕輪が、噂のものですなあ! いかがです、ご気分は? 搾取され、挙句に用無しと見なされる弱者の気持ちが、殿下にもよくわかるのではありませんかな?」


 通常であれば、即座に不敬罪で捕らえられてもおかしくないような暴言だった。

 しかし、皇帝の許可を取り付けた伯爵は、今や無敵な心持ちだった。


 しかも相手は、魔力を封じられ、皇子の座も追われることが目に見えている力無き青年。

 制止が無いのをいいことに、ハグマイヤーは日頃の鬱屈や、美しい皇子への分不相応な嫉妬心をそのまま剥き出しにし、ねちねちとアルベルトを責め立て続けた。


(な、なんで言い返さないんだよ、皇子……)


 突然現れたハグマイヤーにぎょっとしたレオは、その驚きをやり過ごした後は、彼の徹底した無礼っぷりに、更に目を丸くした。

 いくら酒が入っているようであるからといって、これはひどい。

 なぜ周囲は、そして本人は、伯爵を止めないのだろうか。


 だが、そこで気付く。


(もしかして、止めないんじゃなくて、止められないのか……?)


 これまでの周囲の発言や、本人の態度を繋ぎ合わせ、恐らくこの人物が、リヒエルトの治水を担ってきたあげく、今回皇子たちに出し抜かれたハグマイヤー伯爵なる男だということは、レオにもわかった。


 言ってみれば彼はこの騒動の被害者で、だからこそ、加害者の皇子を好き勝手詰る権利があるということであろうか。

 しかも、皇子の地位が、今や風前の灯であると知っているから、こんなにも強気に出ている。


(なんだよ、それ……)


 理屈はわからないでもないが、レオはむしゃくしゃした。


 こちとら、ただ金儲けがしたかっただけだ。

 速く、安く、よい商品やサービスだけが生き残り、そうでないものは淘汰されるのは市場のルールだ。

 それを被害者面して、しかも、相手が逆らえない立場だからといってねちねち責め立てるなんて、男の風上にもおけない所業である。

 わずかに頭皮にしがみついている白髪ごと、ごっそり抜けおちてしまえばいいのに。


 珍しくレオは真っ当な怒りを覚えて、下卑た笑みを浮かべて皇子を(なぶ)る禿げマイヤーを、きっと睨みつけた。


 しかし頭髪を退廃させた伯爵の、ワイン片手の演説はいまだ止まらない。


「ははは! しかし心配召されまするな! 仮にその座を追われたとて、この私が職を用意してさしあげましょう! 皇子殿下がかねてから仰っていた、下町の井戸工事。かれこれ十年ほどそのままにしてましたがね、あれを掘るなんていかがです? 道は馬糞まみれ、周囲は腹を空かせた孤児か浮浪者しかいませんが、なに、彼らに紛れて過ごす生活というのも、きっと楽しいことでしょう!」


 だが、彼の愉悦に満ちた妄言を聞いた瞬間。


(…………ん?)


 レオは、ふと目を見開いた。

 彼の言葉にも、一理あるように思われたからである。


(……待てよ?)


 レオは、緊迫した状況であることも忘れ、素早く思考を巡らせた。


(皇子が皇子じゃなくなるなんて、大変なことだと思ったけど……確かに下町暮らしの方が、楽しくね?)


 そりゃあ生涯収入は皇子でいた方が多いに違いないが、下町出身だったとしても、レオはこうして陣ビジネスに加わっているし、レーナのようにコンサルティング業務とやらで金貨を稼ぎ出す猛者もいる。

 知恵と技を使えば、制約の多い皇族よりも、よほど平民の方が楽しく金儲けできるに違いなかった。

 だからこそレオだって、こうして常に下町に逃げよう、逃げようと思うわけなのだから。


(それに、だ)


 僅かに冷静な思考を取り戻した時、レオは大変不謹慎ながら、こう思わずにいられなかった。


 自分としては、皇子が皇子でなくなってくれた方が、実に幸福であると。


(皇子って、頭もいいし金払いもいいし、金儲けへの執着心もすげえみてえだし、きっと平民同士だったら仲良くなれると思うんだけど、なにぶんあの、突然キレる性格と、機嫌次第で俺を処刑できちゃう権力がネックだったんだよな)


 そう。

 レオは、気に染まないことがあると、その体格を生かしてすぐ壁に追い詰めてくる彼の物理的強さと、小指一本でレオの首をはねられてしまう彼の権力のことを、大層恐れていたのだ。


 しかし、そんな彼から仮に、魔力という強さと、皇子の身分という権力を奪ったら――


(おおおおお! それって、頭も金払いも良い、ただのいい人じゃん!)


 レオの目が不意に喜色を浮かべる。


 ――見えた。

 なんだか、輝かしい未来が見えてきた。


(待てよ待てよ、ってことは、このまま「婚約」を結んじゃうのも、アリじゃん!?)


 にわかに興奮を滲ませたレオの脳は、素晴らしい閃きを生みだす。


 もしこのまま、皇子と「婚約」とやらをしてしまえば、もれなく自分も庶民に堕とされることになるだろう。

 それは取りも直さず、大手を振って侯爵家を出ていけるということではないか。

 なんといっても王命だ。それならば、レオが夫妻を裏切ることにはならない。

 突然失踪するよりも、数倍説得力豊かに、レオノーラ・フォン・ハーケンベルグを貴族社会から抹消することができるのだ。


(いい! 素晴らしい!!)


 なに、下町に戻ったら、婚約など破棄してしまえばよい。

 だって、その時点でレオたちは貴族でもないし、そもそも体を戻したら男同士だ。

 皇子は激怒するかもしれないが、魔力も権力もない彼など恐るに足りない。


 もちろん彼のことは、レオが陣ビジネスに引きずり込んでしまった手前、責任を感じるので、ハンナ孤児院で年上の弟分として可愛がってやろう。

 アウグスト元皇子は追放後苦労したようだが、寝食や職に困らない分、状況はずっとましのはずだ。


(素晴らしい! 一点の曇りもない、完璧な筋書き!)


 ――だいたい彼がこのように思う時は、恐ろしい穴が待ち受けていたりするのだが。

 レオはそんなことに気付かず、うかれぽんちのまま視線を戻した。


「はは、どうしました! 言葉も無いですかな、皇子殿下。おおっと、もう殿下と呼ぶこともなくなるんですかなあ!」


 見つめる先では、まだハグマイヤーが、一方的な言説を披露している。

 彼は、話せば話すほど興奮し、しかもそれを誰からも止められないことで、自分の立ち位置にすっかり酔ってしまっているようであった。


「よろしい。人生の先輩である私から、殿下に最後の贈り物とまいりましょう」


 滑舌の悪いだみ声で、気障ったらしく告げる。

 ハグマイヤーが、ワインの残ったグラスを高々と振り上げるのを見て、レオは彼の意図を察した。


(いい加減にしろよ、このおっさん!)


 アルベルト――いや、孤児院風に言えばアル坊――のことを自分の弟分と思い定めた今や、そんな暴挙を許すレオではなかった。

 自らの着想がもたらす興奮と、少年らしい正義感を半々に、さっと体を間に割り込ませる。


 結果、


 ――ぱしゃっ!


 軽やかな音と共に、レオは盛大にワインをドレスに吸わせることになった。


 周囲が一斉に息を飲み、ワイングラスを投げつけた本人も、突然現れたレオの姿に目を剥く。

 彼はこれまで皇子のことしか見ていなかったので、突如として目の前に飛び込んできた小さな顔にびっくりしたのだろう。


「な……い、いったい……」


 しかし、ハグマイヤーが最後まで言葉を紡ぐよりも早く、


「衛兵!」


 クラウスの鋭い叫び声とともに、扉を守っていた兵が駆け付け、彼を取り押さえた。


「な……! 何を……! 離せ! 陛下の御前であるぞ! 私を誰だと思っているのだ! ――陛下! 陛下!」


 乱暴に床に押し付けられたハグマイヤーが、もがきながら皇帝に取りすがる。

 しかし皇帝はちらりと視線を動かしただけで、


「縛り上げよ」


 と短く命じた。


 ハグマイヤーの聞き苦しい悲鳴がこだまする。

 同時に、我に返った皇子やエミーリア、そして皇后までもが、一斉に声を掛けてくる。


 しかしレオはそのどれにも答えずに、つかつかとテーブルに戻ると、勢いよくあるものを取り上げた。

 繊細な意匠が施された、紅茶のカップを。


「レオノーラ……!?」


 叫んだ声は、誰のものであったか。


 レオは不敵な笑みを浮かべると、


「――ありがたく、いただきます」


 ごくごくと喉を鳴らして、一気に。


 皇后の淹れた高級紅茶を飲み干した。

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[一言] いかん! > 素晴らしい! 一点の曇りもない、完璧な筋書き! に同意してしまう。 これから何が起こるのか?!
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