42.レオ、青褪める(後)
「陛下……! アレクシア様……! あんまりでございます!」
目を掛けている姪っ子が、普段の冷静さをかなぐり捨てて駆けつけてきた時、アレクシアは今にも謁見室を出ようとしていたところであった。
ヴァイツ帝国、白亜の宮殿。
大陸で最も尊いと言われる女性が腰を下ろす玉座や、それを配した謁見室は、その地位に見合って豪奢だ。
しかし、謁見の時間もとうに終わり、平民ならば寝静まろうとさえするようなこの時刻、その場は彼女の意向で明りが落とされ、兵の数すらまばらだった。
夫帝は既に場所を移し、他国の大使と、宴という名の腹の探り合いに勤しんでいる。
彼女は女性という立場からその長丁場を途中で切り上げ、少し欲張って政務をこなしてから、ようやく離宮に戻ろうとしていたのだった。
「どうしたのです、ナターリア。淑女が供も連れず、政務室に乗り込むなど。姪のあなただから許しますが、公爵令嬢としては褒められた行為ではありませんよ」
今日もびっしり詰まった公務を終えたアレクシアの声は、疲れからどこか物憂げだ。
しかしそれは、輝くような金髪や憂いを帯びた碧い瞳、そして白く豊満な肢体と合わさって、彼女の妖艶な美貌を一層引き立てていた。とても二児の母とは思えぬ若々しさ、そして美しさである。
彼女は長い脚を動かし、傍目からはごくごく優雅に、しかしその実結構なスピードで離宮に向かった。
皇后たるもの、睡眠時間を確実に取ることすら政務の一つだ。
彼女の時間は、この帝国に住まう者の誰に比べても尊い。
それを、突然の侵入者に融通することは、許されなかった。
「お待ちください、アレクシア様。では、陛下としてではなく、叔母として。優しかったアレクシア叔母様として、わたくしの話を聞いてくださいませ」
ナターリアは、きちんと結い上げている亜麻色の髪すら振り乱しそうな勢いで、後を付いてくる。
周囲の侍従や兵が少し身を乗り出したのを視線で制し、アレクシアは小さく溜息を落とした。
「――……かわいいリアのおねだりには逆らえないわね。いいわ、離宮に着くまでの間だけよ」
そうやって、口調も以前のものに――彼女がまだ公爵夫人だった時のものに戻し、歩調を緩める。
ナターリアはそれにほっとしたように並ぶと、しかしすぐに顔を上げて問うてきた。
「単刀直入にお聞きします。アルベルト様を……いかがなさるおつもりなのですか」
「…………」
本当に単刀直入な物言いに、思わずアレクシアは苦笑を漏らした。
ナターリアは他の令嬢に比べれば数段大人びているが、やはりまだまだ幼い。十七歳だ。
その清々しさに、どちらかといえば眩しさのようなものを覚えつつ、彼女は答えた。
「……さあ。あの子に謹慎を命じたのは皇帝陛下だもの。そのお考えは、わたくしには測りかねるわ」
「そんなはずがございません」
あっさりと厄介事を夫に押し付けようとしたところを、ナターリアが素早く遮る。
彼女は知的な鳶色の瞳を、夜目にもわかるほど怒りにきらめかせていた。
「謹慎だけでなく、魔力封じの腕輪まで嵌めさせていらっしゃいますね。あれは、龍徴にも並ぶ、皇族に伝わる秘宝。用いるには、両陛下の許可と署名が必要のはずです」
アレクシアはぐるりと瞳を回す。
姪の聡明なところを彼女は愛していたが、こういう場面には少々厄介だ。
「……仕方ないでしょう。あの子は皇子。今のところは、ね。にもかかわらず、その権限を越え、古参貴族の領分を侵したのだから」
「だからといって、魔力まで封じるとは……! アルベルト様は、たった一度、陣を描いただけ。それも、市民に害どころか益を与え、精霊の棲む湖にも恵みをもたらし、教会も許可した陣をです。なのに、腰の重い貴族を少し追い抜いたからといって、権力の源泉たる魔力まで封じねばならないのですか」
ヴァイツ帝国の皇族は、代々膨大な魔力を持つ。
言い換えれば、その大量の魔力こそが皇族の皇族たる証であり、それを押さえこまれるということは、暗に皇族籍の剥奪を予告されたも同然なのだ。
何を隠そう、アウグスト元皇子も、王宮から追放されるまでの間、一時的な処置としてこの魔力封じを受けていた。
ナターリアには、その一致が不吉に思えて仕方なかった。
アレクシアは振り向きもしない。
ただ優雅に離宮を目指しながら、答えただけだった。
「――陣が普及すれば、きっとこの国の構造の全てが変わっていく。あの子は、そのきっかけを作った。リア。あなたも本当はわかっているでしょう?」
問い掛けられて、ナターリアは黙り込む。
そう、明晰な頭脳で知られる彼女は、もちろん、今回のアルベルトの行為が、後々どんな影響を帝国にもたらすか、理解はしていた。
魔力は皇族の権力の源泉。
では、それを陣という形で、庶民が自由に手にしたらどうなるか。
魔力への畏怖は薄れ、力をもって世を統制していた皇族の権威は、どんどん弱まっていくだろう。
恐らく、即座にということはない。
十年か、数十年か。いや、もしかしたら百年掛かることもあるのかもしれないが、陣が発展すればするほど、魔力持ちとしての皇族の権威失墜は、確実に進行していく。
アルベルトの作った陣が、益をもたらすか害をもたらすかなど関係ない。
帝国の皇子が、自らの首を絞めるようにそれを作ったということ自体が問題なのだ。
「皇族はいずれ、陣の普及とともに、魔力でこの地を安定させることはできなくなる。ならば、権力の源泉たる魔力を失い、ただ人の地位に落とされることなる者の気分を、一足先にあの子にも味わってもらおうかしらと、そう思って」
あんまりな言い草に、ナターリアはきっとアレクシアを見上げた。
が、真っ直ぐ前を見つめる皇后の瞳が、悲しみを湛えているのに気付き、彼女は非難の言葉を失った。
「アレクシア様は……お嘆きなのですか」
ついそんなことを尋ねると、息子――アルベルトと明らかな血縁を感じさせる彼女は、ふと寂しそうにそのアイスブルーの瞳を細めた。
「……母として、息子の失態を嘆かないはずがあって? あの子が珍しく王宮に駆けつけて、陣を作ったと――皇子の権限を越えたと告白してきた時、わたくしは目の前が真っ白になるかと思ったわ」
そう。皇子は自らの血で陣を生成した後、その足で王宮に向かったのだ。
それがもたらす影響を予見し、他の誰から指摘を受けるよりも早く、自らの口で両親に説明をするために。
全て自らの意志で行ったと。
仮に陣を「預けた」少女が、それを湖に配置することに成功しようが、級友やその家族がそれを活用して陣ビジネスを興そうが、それは自分の指示に従っただけなのだと主張する皇子に、皇帝と妃は言葉を失った。
二人は本宮を抜け、離宮へと続く回廊に足を踏み出す。
アレクシアは、回廊から覗く月を見上げながら、静かにナターリアに話しかけた。
「あの子は、常に完璧な皇子だった。突然与えられた身分の重責にも負けず、努力を怠らず、周囲の要望を常に先取りし、誰もが望む完璧な皇子を演じ続けてきた。己の意志なんて、放り捨ててね。……そんなあの子が、唯一、自らの意志で行ったと主張するのが、今回の陣だったわ」
ナターリアは唇を噛み締めた。
それはなんという皮肉だろうか。
アルベルトの想いも、アレクシアの嘆きも、どちらも理解できるだけに、心が痛む。
だが、ナターリアにはまだ聞かなくてはならないことがあった。
「お答えをまだ頂いておりません。アルベルト様を、いかがなさるおつもりですか」
「……明日――精霊祭の日に、陛下が処遇を決めるわ。わたくしには、その真意の全てがわかるわけではない。これは本当よ」
「処遇……まさか、継承権の剥奪を?」
ナターリアが低い声で問うと、アレクシアは歩みを止めて、彼女に向き直った。
「リア。わたくしは、わからないと、言っているわ」
「ですが、アレクシア様!」
いつも皇后を尊敬し、従順であった姪は、この時ばかりは譲らなかった。
ナターリアは、その知的な面差しを興奮に赤らめ、激しく問うた。
「ではなぜ、アルベルト様は、わたくしやレオノーラから、龍徴を取り上げようとするのです!? まるで、自らが皇子でなくなると予見しているかのように!」
「…………」
アレクシアは、しばし何も言わなかった。
宝石のように澄んだ碧眼と、苛烈な怒りを宿した鳶色の瞳が交錯する。
この高貴なる女性に対して、ナターリアがこんなにも激しく感情を露わにしたのは初めてだった。
アルベルトの母にして帝国妃、アレクシアは、いつだって従うべき、尊敬すべき女性だった。
しかしこの日、ナターリアはまるで反抗期を迎えたばかりの少女のように、この帝国の母ともいうべき女性に向かって、歯を剥いていた。
「アルベルト様は以前、わたくしに頼んできました。自分が、もし陣に手を染めることがあったら、その時には授けた龍徴を返してほしいと。自分との関わりの一切を絶ってほしいと」
――頼みがあるんだ、リア。君に授けた龍徴を、返してほしい。
ナターリアは、以前生徒会室で従弟と交わした会話を思い出していた。
弟とも思っている彼は、激情をやり過ごすように、穏やかに微笑んでいた。
――僕の龍徴を持っていれば、それだけで、君は僕の最大の忠臣という扱いになる……いや、なってしまう。仮に僕が処分を受けた時、万が一にもその累が君に及ぶことがあってはいけないからね。
風邪が移ってはいけないからね、くらいの、軽い口調。
だが、そんなはずはない。もし継承権の剥奪が起こるのだとしら、そんなの、到底一人で抱えられるような出来事ではないのに。
しかしアルベルトは、あくまでも泰然としていた。
そして、彼は実際、その後陣に手を出した。
少女は見事湖の水を召喚することに成功し、困窮していた人々に水の恵みが行き渡るようになった。
結果、皇子は魔力封じの腕輪を嵌められ、ただ人として謹慎の日々を過ごすことになった。
「……アルベルト様は、レオノーラにも、龍徴を返すよう言っています。茶会までにと。彼女が龍徴を手にしている――婚約者の資格を有しているということが、公になる前にと。茶会とやらは、精霊祭当日。つまり陛下は、その日に、アルベルト様の継承権を剥奪されるおつもりではないのですか……!?」
それがナターリアの予想した筋書きだった。
きっと皇帝は、皇族の権威失墜を招こうとした皇子を、精霊祭の日に処分しようとしているのだ。
そのきっかけとなった少女を「茶会」に招き、彼女に皇子が追放されるところを、見せつけるようにして。
同時に少女の方も、龍徴を持っていたとすれば、連帯でなんらかの罰を負うことは免れない。
だから皇子は焦っている。
彼女に授けた婚約者候補の証が父帝の目に見つかる前に、それを取り上げようとしているのだ。
ナターリアは、無意識にドレスの胸元を押さえた。
そこには、アルベルトから授けられた金貨が下げられていた――つい昨日までは。
「わたくしは、結局、金貨を返してしまいました。抗ったけれど、話を聞きつけた父に、わたくしを守るためだと言われ、取り上げられた……! アルベルト様は、父から龍徴を受け取った時、微笑んで礼を寄越したと言います。それでいいのだと。巻き込まずに済んでよかったと! わたくしは……わたくしは、そんなことを言わせるために、金貨を授かったのではない!」
無言でこちらを見下ろす皇后に向かって、ナターリアは叫んだ。
いつもアレクシアを真似て心がけている理知的な口調も、抑制の取れた表情も、全てかなぐり捨てて、ただの、従弟を傷付けてしまったことを悔いる少女として、感情のままに叫んだ。
「レオノーラは、まだ金貨を返していません。けれど、だからこそ皇子は毎日のように彼女に龍徴を返すように言い聞かせている。そう言えば言うほど、傷付くのはアルベルト様なのに! レオノーラだって……だいぶ堪えて、ここ数日は、もはや寮の部屋から出てきません。わたくしは、傷付く二人をもうこれ以上、見たくないのです!」
ナターリアの目には、今やうっすらと涙が滲んでいた。
彼女は崩れるようにして跪き、震える手を皇后に伸ばした。
慈悲を、乞うために。
「お願いでございます、アレクシア様。皇后陛下。どうか、アルベルト様から継承権を取り上げてしまわないで。せっかく、真実の愛を掴みかけた彼とレオノーラを、引き裂いてしまわないでくださいませ。堕とされた皇子の汚名を、彼に着せることのなきよう……!」
唇が震えた。
いつも滑らかに紡がれるはずの言葉は、喉に詰まってなかなか出てこなかった。
ナターリアは身を震わせて、ただ皇后の返事を待った。
無力で、無知な、子どものように。
「――……リア」
やがてアレクシアは、姪のもとにそっと片膝をついた。
「顔をお上げ。淑女たるもの、このような場所で跪いてはなりません。涙を見せるのも」
「ですが……アレクシア様……」
涙に濡れた鳶色の瞳が、揺れる。
ナターリアはのろのろと顔を上げ、皇后の表情を認めてはっとした。
彼女は、静かに微笑んでいた。
「……わたくしはね、リア」
静謐で、凛としていて、全てを見通し、受け入れるかのような。
それはまるで、アルベルトが浮かべていたような、穏やかな笑みだった。
彼女はそっと、その白い指先でナターリアの頬に流れた涙を掬った。
「母としては、レオノーラ・フォン・ハーケンベルグとやらに心奪われ、うかうかと自身や皇族の立場を危うくしたあの子のことを、もちろん面白く思ってはいないの。けれど、女としては、その情熱を好ましく思うわ」
「アレクシア様……」
そしてね、と彼女は続けた。
「そして、金剣王バルタザールの妻――この国の妃としては……」
「皇后陛下としては……?」
ごくりと喉を鳴らした姪に、アレクシアはふふっと笑みを深めた。
「――保留。それを、明日、確かめるのよ」
そう言って、すっとその場に立ちあがる。
どういうことかとナターリアが目を丸くした時には、彼女は既に歩きだしていた。
「ア、アレクシア様、お待ちくださいませ! どういう意味なのですか!?」
後ろからナターリアが追いかけるが、皇后は、その年齢に見合わぬ軽やかな足取りで、さっさと回廊を通り抜けてしまう。
離宮の石畳に一歩足を踏み入れた途端、彼女はくるりと振り向いた。
「約束よ、リア。お話はここまで」
「アレクシア様!」
「不躾ですわよ、ナターリア・フォン・クリングベイル」
ここからはもはや叔母としてではなく、皇后としてしか話さないということだ。
そうなってしまえば、ナターリアは引き下がるしかなかった。
「……皇后陛下」
優雅に踵を返し、寝室へと急ぐアレクシアに、ナターリアは臣下の礼を取りながら呟く。
「わたくしは、信じております。陛下のことを。皇子殿下のことを。そして、レオノーラのことを……」
アレクシアは振り返らない。
ただ、ほんの少し足取りが緩んだその瞬間、彼女は笑みを浮かべたのだろうとナターリアは思った。





