36.レオ、ネゴる(中)
レオは恍惚の中にいた。
こここそが、レオの夢見ていた桃源郷、約束の地。
吹き渡る風は芳しい金の匂いに溢れ、見るもの全てがきらきらと光り輝いている。
今、ぼんやりと腕を伸ばしたその先に、一際眩しい塊があった。
(ああ……! カー様……!)
それは、まっさらなカールハインツライムント金貨だった。
触れればまるで従順な恋人のように掌に落ちてきて、その心地よい重みを堪能させてくれる。
しかもその金貨は、一枚ではなかった。
レオがある一枚を手にするたびに、その三歩ほど先に、また異なる金貨が現れるのである。
それはふわりふわりと、官能的な軌跡を描きながら空間を漂って、レオを誘惑してくるようだった。
(カー様が、呼んでる……!)
なんとけしからん誘惑であろうか。
これは全力で応えるしかあるまい。
レオは鼻息も荒く、むふんむふんと金貨の傍へと近付き、それらを拾ってまわった。
ああ、それにしてもなんと眼福な光景、なんと幸福な感触。
気が付けば、レオの両手には、山のように金貨が積まれていたのである。
それは、レオのための金貨。
某皇子からちょろまかしたり、理由もわからず与えられたものとは異なり、正当に、かつ永遠に、レオの傍にあるべき金貨であった。
(もう離さねえかんな!)
レオが感極まって頬ずりしていると、突然、
――何をしておるのだ。
天から声が降ってきたので、レオはぎょっと目を剥いた。
(な、なに!? てか誰!?)
きょろきょろしていると、呆れたとでもいうような溜息が聞こえた。
――この期に及んで、誰とは。
そうして、レオの見つめていたちょうど先の辺りで、ゆらりと空気が揺れる。
まるで波を立てるように揺らぎを繰り返すうちに、それは美しい女性の形を取った。
(あ、水のカー様でしたか……)
思わず心中で呑気に呟くと、女性は怪訝そうに顔を顰めた。
――水のカー様とはなんだ?
(あ、失礼しました。つい愛着を込めてしまって。あなた様のことです。メブキウル・シーゲリウス・ウズマキルケ・カーネリエント様)
なんといっても、相手は大切な水源所有者だ。
レオは金貨を抱きしめながら極力姿勢を正すと、自分にできる最大に丁寧な言葉遣いでその名を呼んだ。
(……ん? 待て待て、俺、今、何語で話してんだ?)
というか先程から、どうも声帯を震わせている感触が無い。
あれ、と喉に触れたりしていると、カーネリエントが再度呆れたように息を漏らした。
――愚か者め。思念で会話しているのだ。
ここは我が領域にして体内。空気など震わせずとも、意志を疎通できる。
どうやらここは、湖の底にして、精霊の体内であったらしい。
周囲を取り巻くのは、それでは空気ではなく水ということだろうか。息苦しくもないし、不思議なものである。
きょろきょろと辺りを見回すレオの前で、カーネリエントはふわりと体勢を変え、水中で優雅に足を組んだ。
――そなたの聞き苦しいエランド語を耳にしたくないのでな。
特別な計らいだ。感謝せよ。
というか、あれは何なのだ? 意味はわからんでもないが、ひどく奇妙だ。
(おお! それはなんと便利な! さすがですね!)
レオは驚いたし、やはりエランド語を古めかしく話すだけではダメだったかとがっくりしたが、ひとまず相手を持ち上げてみた。
とにかく、カーネリエントには気持ちよくなっていただかねばならない。
そうして、見事水源契約を取りつけなくてはならないのだから。
――……おい。ゲスな下心が前面に出ているぞ。
(あっ、しまった!)
思念が伝わるとは、つまりそういうことだ。レオは決まりの悪さに赤面した。
だが、自分がゲスな人間であることを彼は自覚しているし、特別恥じているわけでもなかったので、すんませんと軽く謝ると、早々に平常心を取り戻す。
その一連の心理変化を追っていたカーネリエントは、いよいよ呆れたように鼻を鳴らした。
(えへへ、すみませんね、性分なもので。でもアレですね、俺、水のカー様の声がちゃんと聞こえるかなって、ちょっと不安に思わなくもなかったんですけど、こうしてばっちり聞かせてもらっちゃって、しかもエランド語も使わなくていいなんて、なんだか恐縮ですね)
アイスブレイクも兼ねて、レオはぺらぺらと話しだす。
(それに、湖の洗礼? なんて、素晴らしいものまで体験させてもらっちゃって。いやもう、こんな素晴らしい思い、したことないですよ! ほんと、ありがとうございます! この金貨、持って帰っていいんですかね? いいんですよね? ありがとうございます! で、俺の思念を読み取っているとのことなので、もうずばっと本題に移っちゃうんですけど、このたび湖の水をですね――)
――待て。
(え?)
言葉、というか思念をずばっと遮られて、レオは目を瞬かせた。
(あ、すみません、早口でした?)
――思念に早口も何もあるか。
そなたがあまりに愚かだから、突っ込まざるをえない事項がいくつも噴出してしまったのではないか。
精霊からのツッコミだなんて、貴重だ。
レオはきょとんと首を傾げた。
(え、すみません。ボケたつもりはなかったんですけど)
純粋に疑問に思い首を捻ると、カーネリエントは苛立たしげに銀の眉を寄せた。
――そなた、湖の洗礼をなんだと思っているのだ?
欲を掻き、心の弱さに付け込まれたそなたは、見極めに外れた。
今頃湖の底で、我が使役精霊どもに食われているべきはずなのに、なぜ無傷でへらへら漂っておる。
だいたい、なぜ我が名を知っているのだ。
レオは呼吸三つ分ほど沈黙し、
「ええええええ……っ、…………っ、ごぼ…………!」
絶叫しかけて失敗した。
魔術で喉を焼かれたのではない。ごぼりと水が喉に侵入してきたからである。
更に悲しいことには、抱きしめていた金貨が、その瞬間泡とはじけて消えた。
(うわあああ、俺の金貨! って、ちょちょちょちょ、死ぬ! 死ぬ死ぬ! これ死んじゃう!)
――……だからそう言っておるであろう。
メカニズムはよくわからないが、どうやら、肉声を出そうとすると溺死してしまう仕様らしい。
口を閉じていれば、不思議と呼吸も不自由しないので、レオは必死にお口をチャックし、噎せる感触をやり過ごした。
(え、ええと、水のカー様。あ、いえいえ、カーネリエント様。これは一体どういうわけで? 俺としては、素敵な湖の洗礼も済ませ、これから商談なのかなー、って認識でいたんですけども)
――なんと図々しい。
もう一人の、ビアンカとかいう娘ならばともかく、洗礼で死に損なったさもしい輩の願いなど、受け入れられるわけもなかろう。
ばっさり斬られた。
さすが精霊だ。ナチュラルに抉ってきやがる。
レオが胸を押さえて蹲っていると、カーネリエントがすっと一歩近付いて、顎を取って来た。
長い睫毛が触れあいそうな距離だ。
――問いに答えておらぬ。なぜ生きている。
なぜ名を知っている。
(え、えええっと、なんで生きてるかはわかりませんけど、御名はアレです、クリスさんに教えてもらいました!)
友達の友達と知ったら、もしかして助けてくれるのではないだろうか。
ピンチだと言うことを今更実感して、のけぞりながら答えると、カーネリエントは人ならざる美貌をきゅっと歪めた。
――クリスだと……!?
鋭い呟きに、ぶわりと周囲が揺れる。
どうやらこの空間は、彼女の機嫌一つで歪んだり揺れたりするらしい。
なんだか機嫌を損ねたらしいことを悟り、レオはひやっと首を竦めたが、カーネリエントは乱暴に顎に掛けていた手を放すと、ぱっとそっぽを向いてしまった。
――あやつめ、我が名を捨てたばかりか、こんなさもしい輩にやすやすと教えるなど……!
(…………んー?)
レオは、しばし貴婦人の姿を見つめた。
激怒している。憎悪に燃えている。
そのようにも見えなくもないが、
(どちらかといえば、……拗ねてる?)
むうっと口を引き結んで俯く様子を表現するには、その方が相応しいように思われた。
カーネリエントは確かに尊い至高精霊だが、全ての信仰心を金の精霊に捧げてしまったレオにとって、その地位は畏怖の心を抱く理由にはならない。
レオが心からこうべを垂れ、祈り伏すのは、雇用者か寄進者かくらいのものであって、今のところそのどちらでもないカーネリエントが怒りに顔を強張らせているからといって、必要以上に怯えるものではないのだ。
精霊教の導師であれば、カーネリエントが眉を顰めただけで縮みあがるだろうところを、そんなわけで、レオは極めてラフに受け流し、冷静に彼女の感情を分析した。
(これはアレだな。「アタシとアンタの間だけ、呼び捨てで呼び合うって約束したのに、なんであの子までアタシのこと呼び捨てで呼んでくるのよ!」みたいな)
親密すぎる女子にままある喧嘩だ。ハンナ孤児院でも何度か見かけたことがある。
特に、引っ込み思案で思い詰めやすいタイプの子と、あまり物事に頓着しない人気者タイプの子の間で起こるやつだ。
前者がカーネリエントで、後者がクリス。なるほど、そのままである。
納得したレオであったが、大変失礼な思念にカーネリエントがきっと睨みつけてきたので、慌てて宥めにかかった。
こういうのにはコツがあるのだ。
(あ、あの、カーネリエント様、クリスさんはあなたのこと、御名を放棄してしまったって、すっごく気にして落ち込んでいましたよ)
まずは、同意姿勢を見せて、けして友情を否定しない。
すごく、というほどでもなかったが、気に掛けていたのは事実なので、その辺の表現はご愛嬌だ。
――……なんだと?
カーネリエントが怪訝に眉を寄せ、しかし続きを聞きたそうに視線を向けてきたので、レオはおもむろに頷いてみせた。
(だってほら、クリスさんって、市民の皆さんから迫害されかけて、もっとパンのレベルを上げるために、しぶしぶ、泣く泣く、カーネリエント様と距離を置いたわけじゃないですか。自分が決めたことだからって気丈に振舞っているけど、本当はかなり堪えてると思うんですよね。うん、俺にはそう見えたな。クリスさんが焼いたパンも、心なしか水分が足りなくて萎れてたっていうか)
本人は至ってへっちゃらそうだったが、あくまでレオの主観ということでごまかす。
パンは絶妙な焼き加減だったが、ふんわりと柔らかく手に吸いついてくる感触を、まあ、萎れていると表現しても問題ないだろう。
――……なんと……。
あやつ、それほどまでに追い込まれておったのか……?
カーネリエントが考え込むように腕を組む。
レオは話していて気付いた。
どうも精霊というのは、やることが極端だし気まぐれだが、自分を偽ることをしないし、何より素直だ。
さすが自然派。
気性は荒いが根は素直。
そういった性格の女の子に対する扱いなら、妹分の世話で慣れている。
態度が軟化してきた気配を感じ取り、レオはここで、カーネリエントにも非があることを指摘してみた。
(カーネリエント様って、クリスさんの……なんですっけ、主精? だったわけじゃないですか。それ、気付いてあげた方がよかったんじゃないかなあ。理由も聞かずに、ただ御名を捨てたと怒って、世の中全体の水不足を導いちゃうっていうのは、ちょっと大人げないような。いや、もちろん、カーネリエント様のお怒りもわかりますけどね。でも、カーネリエント様、今おいくつですっけ?)
レオの今の姿は、まさに「おまえだって悪いだろ、アンネ? おまえももう八歳だ。ごめんなさい、できるだろ?」と諭す孤児院の兄貴分そのものだ。
カーネリエントは仏頂面になると、
――二千年、ほどになる。
ミレニアムな回答を寄越してきた。
(二千年! それはお姉さんだ! クリスさんなんて、赤ちゃんみたいなものじゃないですか! ここはひとつ、その経験豊かさに免じて、勢いで喧嘩してしまったクリスさんを許してあげましょうよ。例え相手が悪くても、自分から謝ってあげるなんていうのは、大人しかできないことなんですから)
――…………そう、だろうか?
落としつつ、持ち上げつつ、レオが巧みに仲直りに誘導すると、カーネリエントはちょっと心ひかれたような顔付きになった。
攻めるなら今だ。
レオは思念に力を込めた。
(このまま水不足になって、世の人が苦しむと、きっとクリスさんは自分を責めます。ただでさえカーネリエント様と離れて落ち込んでいるのに、そんなの可哀想じゃないですか。カーネリエント様が、ちょっと本気を出せば、水不足なんてちょちょいのちょいでしょう? どうです、ここは一つ、大人の寛容さで問題を解決してあげて、クリスさんにいいとこ見せつけてやりましょうよ)
いつの間にか、「クリスとの仲直り=水不足の解消」に論理をすり替えている。
そう、もちろんレオは、隙あらば陣ビジネスをクロージングに持って行くつもりであった。
どうやらすぐには死なないとわかった以上、湖の中だろうが、相手が至高精霊だろうが、なんらレオの商魂を妨げるものではないのだ。
カーネリエントがその勢いに圧されて顎を引いているのをいいことに、レオはぴらりと胸元から魔術布を取り出した。
「とはいえ水不足を解消するなんて面倒ですよね、わかります、でも大丈夫」、などという口上とともに。
――なんだ、それは?
(これはですね、全・水の精霊が首を長くして待っていた、お役立ちグッズ。人の世に水を送りだす陣です!)
じゃじゃーん、という効果音さえ付きそうな勢いで、レオは布を両手に広げた。