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35.レオ、ネゴる(前)

 ビアンカはぱっと顔を上げた。


(今、確かに聞こえたわ。精霊の声が……!)


 先程二人を連れ去った、風や小川の精霊などではない。

 もっと高貴で、優雅な、女性の声だ。


「ビアンカ様。今、声が……」


 少女が不思議そうに、離れて立つビアンカと周囲を見比べている。


「なんで……? あ、まさか、ビアンカ様の服……?」


 己の手に巻き付けられた布地を、少女はまじまじと見つめていたが、久々に精霊の声を聞きつけたビアンカは、もはやそれを気にするどころではなかった。


「レオノーラ! こちらよ! こちらから、声が聞こえる! きっと湖の貴婦人だわ!」


 興奮に顔を赤らめて、森のある一点を指差す。

 足の痛みも忘れて、ビアンカは茂みを掻きわけた。


「…………!」


 そうして、突如として目に飛び込んできた光景に、ビアンカは言葉を失った。

 籠を片手に慌てて追いかけてきた少女も、大きな紫の瞳を見開いて立ち尽くす。


 そこにあるのは、あまりに美しい湖だった。


 鬱蒼としていた森とは打って変わり、影を落とす枝の一本すらない、吹き抜けのような湖面。

 いつの間にか天高く昇っていた太陽の光を受けて、まるで湖全体が発光するかのようにきらきらと輝いている。


 水はどこまでも透明で、まるで触れると壊れてしまう繊細なガラスのようだ。湖を取り囲む岩や、水の下に沈んでいる木の根も、透き通った湖水にその姿を露わにしている。

 

 これぞまさに、精霊の湖。

 汲めども尽きぬ、恵み豊かな命の水であった。


「なんて……」


 美しい、と呟きかけて、ビアンカははっと我に返った。


 興奮のままに駆け寄ってきたが、自分たちがここを目指したのは、生徒の代表として森を荒らしたことを詫び、精霊の怒りを鎮めるためなのだ。美しさに見とれている場合などではなかった。


 見れば、隣の少女もうっとりとした目で、ふらりと湖に手を浸しそうになっている。

 ビアンカは慌てて少女の腕を引っ張り、凛とした声で湖に呼び掛けた。


「わたくしの名は、ビアンカ・フォン・ヴァイツゼッカー。この森に踏み入った学生たちを、束ねる者です。湖の貴婦人よ、どうかその姿を現してくださいませ」


 だが、そこまで言い放ってからビアンカははたと気が付いた。


 そういえば、導師が以前、精霊には基本的に古代エランド語しか通じないと言っていた。

 だとすれば、込み入った話をするのならば――しかもこちらが詫びる立場だ――、相手に合わせてエランド語を話した方がいいのではないかと。


 ちらりと隣の少女を見遣る。

 エランド語ということであれば、自分よりも少女の方が堪能だ。

 以前までのビアンカだったら、恥ずかしがって切り出せなかったところだが、今は違う。彼女は、自分がエランド語が不自由であるという自覚を持って、丁重に少女に願い出た。


「ねえ、レオノーラ。申し訳ないのだけど、湖の貴婦人への言葉を、通訳してくださらない? どうも、あちらからの言葉は理解できるようだけど、やはり、こちらがヴァイツ語を話すというのも失礼な気がするし」

「いいですが……古代エランド語、となると、完璧には、訳せない、かもしれませんよ?」

「いいわ。あなたのニュアンスで訳してもらって構わない。エランド語というだけでヴァイツ語よりはましだと思うし、詫びる気持ち自体は、態度で伝わるはずだもの」


 レオには詫びる気どころか、ネゴる気しかないので、その判断は大いに危険だったのだが、ビアンカはそれに気付かず、湖に向き直って続けた。


「改めて申し上げます。我が名は、ビアンカ・フォン・ヴァイツゼッカー。本日森に踏み入った学生たちの長。ならびに友人の、レオノーラ・フォン・ハーケンベルグです。湖の貴婦人よ、どうか姿を現してくださいませ」


 ちらりと視線で促される。

 レオは時代もののエランド語小説を思い出しながら、なんとかそれっぽく告げた。


『いざ尋常に名乗り(そうろう)。我が名は――あ、金髪の方です――ビアンカ・フォン・ヴァイツゼッカー。下級学年の長なり。ならびたるは友人の――あ、これ、自分です――レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。趣味は銅貨数えなり。いとも気高き麗しき湖の貴婦人よ、どうぞ我らの眼前に尊き御身を現したまえ』


 名乗るだけじゃ印象が薄いかな、と思ったので、さりげなく趣味も盛り込んでみる。


(アイスブレイクは商売の基本だかんな!)


 古代エランド語というか、単にうさん臭くじじ臭いエランド語にしかなっていないのだが、幸か不幸か、ビアンカがそれに気付くことはなかった。


 と、その時、穏やかに水を湛えていた湖面がゆらりと揺れ、中央の辺りが盛り上がってくる。

 水柱のようになったそれは、一度雲まで届くような高さになると、やがて水を振り払いながら落下し、人の形を取った。


 高く結い上げた髪は月光のような白銀、切れ長の瞳は冬の湖面のような冷えた青。

 透き通るような、けれど官能的な肢体に淡い水色のドレスをまとわせた女性は――まごうかたなき、湖の貴婦人。

 メブキウル・シーゲリウス・ウズマキルケ・カーネリエントであった。


 呼び掛けに応えて姿を現してくれたカーネリエントに、ビアンカはそっと息を吐き出す。

 が、その冴え冴えとした美貌の主が、


 ――人の子が、何用だ?


 と問うてきたのを聞き、慌てて気を引き締めた。

 どうもこの、直接脳に響くような声は、ヴァイツ語でもエランド語でもない。

 すっと水のように意味が染み込んでくるのだが、それだけに、その声はダイレクトにビアンカの感情を揺さぶった。

 ただその姿を瞳に映し込むだけで、高貴なオーラに膝が震えそうだ。


「じ、慈悲を。……慈悲を乞いに、参りました」


 言葉を詰まらせそうになるのを、なんとか堪えて言い切る。

 すると隣で、少女が堂々とビアンカの発言を訳してくれた。


『施しを乞いに、あい参り候』


 いけしゃあしゃあとしたタカり宣言である。


 その発言に、カーネリエントは銀色の睫毛を瞬かせ、不機嫌そうに眉を寄せた。


 ――なんだと?


 ビアンカは焦った。

 この畏怖すべき精霊の怒りを買ってはまずい。ひとまず、従順さを示そうと、慌ててその場に跪く。隣の少女も素早くそれに倣った。


「無礼であることは百も承知。ですが、百の命を救うため、この願いを申し上げずにはいられません。どうぞ、ご慈悲を。そうすれば、あなた様の足元には、敬虔な信徒からのキスが無数に捧げられることとなりましょう」

『ハードネゴたるは百も承知。されど、百の金を稼ぐため、この願い、申さでおくべきか。どうぞ、施しを。お恵みを。そうすれば、あなた様の足元には、献金と信徒からの寄付が無数に捧げられることとなりましょう』


 レオだったら、敬虔なキスよりも、献金と寄付の方が百倍嬉しい。

 やはり相手の心をくすぐるメリットを提示するべきだと思ったので、こっそりと交渉材料を修正してみた。

 なに、意訳の範疇である。


 ――ふん。


 貴婦人は、高貴な顔立ちに気まぐれな表情を浮かべ、微かに首を傾げた。


 ――口先ばかりの甘言を、ぺらぺらと。つまるところ、そなたらは何を望んでいるのだ?


 どうやら、多少は聞いてくれる姿勢であるらしい。

 ビアンカは両手を組み、祈るような声で叫んだ。


「どうぞ、学生たちへのお目こぼしを……!」

『どうぞ、水源の提供を! それから、水不足の解消を! 生鮮品価格の安値安定と市場の安寧を!』


 レオのそれは、もはや意訳の域を超えている。単なる欲望がダダ溢れた雄たけびだ。


 しかし、カーネリエントは愉快そうに銀色の眉を引き上げると、ほう、と笑いを含んだ相槌を寄越した。


 ――素直で強い願いは、嫌いではない。

   強烈な感情は、下賤な人の子が持ちうる、唯一の輝きだからの。


 二人の顔に喜色が滲む。

 だがそこで高貴なる聖霊は、しかし、と続けた。


 ――しかし、ただで叶えてやるわけにはいかぬ。

   我が力を貸してほしくば、我が真実の名を讃えてあらねばな。


 メブキウル・シーゲリウス・ウズマキルケ・カーネリエントだ。


 しかし、レオが意気揚々とそれに答えるよりも早く、カーネリエントがすっと右腕を掲げた。

 その麗しい顔に、獰猛な笑みが浮かぶ。


 ――そしてその前に、……湖の洗礼をくぐり抜けられねばなあ!


 彼女が腕を振り下ろすと同時に、湖全体がうねり、その水が、一斉に二人に襲いかかった!


「きゃああああ!」


 ビアンカが悲鳴を上げる。レオは咄嗟に彼女を庇おうと身を乗り出し、


「ぶふぉ」


 襲いかかって来た大量の水に顔面を強打され、くぐもった悲鳴を漏らした。


(いってえ! てか水入った! 水飲んだ! あ、さすがこの水うめえ!)


 混乱のあまり思考が斜め上に滑るが、それどころではない。

 気付けば二人は、水の渦にがんじがらめにされながら、湖の中央まで引きずり込まれていたのである。


 今、レオたちは荒れ狂う湖の真ん中で、辛うじて顔だけを出して立ち泳ぎをしている。

 レオは、今後は紅茶の液面に茶柱を見つけても、絶対はしゃがねえぞと心に誓った。

 茶柱はどんなに苦しい思いをして浮かんでいるか、身にしみてわかったからである。


「……くっ、けほっ、ごほっ!」


 ビアンカは、ばたばたと暴れながら、気管に入った水を吐きだそうと必死になっていた。

 運動神経に恵まれた彼女は、水泳だって得意な方だが、周囲をぐるぐると水流に渦巻かれていては、話は別だ。気を抜くと体がよじれ、そのまま湖の底に引きずり込まれそうになる。


 視界の端では、少女が同じく苦しそうにもがいていた。

 助けてあげたいのに、できない。

 ビアンカは、生理的な涙を滲ませながら、「レオ、ノー……ラ……!」と叫んだ。


 と、その時。



 ――まあ、ビアンカ様。皇女殿下ともあろうお方が、友人ひとりを救うこともできませんの?


 なぜかナターリアの声が脳裏に響いて、ビアンカはぎょっと目を剥いた。


(な……なに!? なぜ、ナターリアお姉様が!? どこ!?)


 不自由な体で視線を彷徨わせるものの、従姉の姿は見えない。

 どういうこと、と思う間もなく、今度は男性の声が響いた。


 ――残念だ、ビアンカ。

   皇族に相応しいほどの魔力がない君から、友人を想う気持ちすら取り上げたら、一体何が残るというんだい。


 その朗々とした声は、アルベルトだ。

 ビアンカは、この場に彼の声が響くということよりも、その内容に青褪めた。


(お兄様……?)


 それからも、ビアンカを責める声は延々と続く。


 精霊の愛し子の地位すら奪うつもりか、と皮肉気に言い放つのはグスタフ。

 友情すら菓子で釣り、金で買うか、と嘲笑うのはオスカー。

 取り巻き。侍女。皆が皆、くすくすと笑いながらビアンカのことを見ている。


 彼らは口々にこう言った。


 ――あなた様から皇女の座を奪ったら、一体何が残るのです?

 ――あなた様に、何が、できるのです?


 それは、ビアンカがここ最近常に思い悩んできたことだった。

 持て囃され、友人の感情を慮ることすら難しい自分。

 こんな自分に、一体何ができるのか。


(やめて……言わないで……)


 水に濡れたビアンカの顔が強張った。


 だって自分は、ちゃんと努力してきた。

 欠点もあるけれど、皇女として、下級学年長として相応しいよう、一生懸命背伸びしてきた。


 ――本当に?


 誰かの声がそう問うてくる。


 ――努力した? 努力した結果がそれですの? 

   皇女なのに、臣下の娘に敵わず、友人ひとり助けられない。


 最も辛辣な言葉を紡ぐのは、――ビアンカ自身の声だった。


(やめて!)


 左右に激しく頭を振る。

 途端に体のバランスが崩れ、ビアンカはがぼりと大量の水を飲んだ。


「…………! …………!」


 苦しい。悲しい。

 辛くてたまらない。


 無意識に伸ばした腕が湖面を叩く。


 その時、ビアンカの視界に、水を吸った白い布が飛び込んできた。

 少女がちぎって手に巻き付けてくれた、シャツの生地だ。

 まるで少女そのもののように、血や泥にまみれながらも、なお白く、人の痛みを和らげてくれる。


 ――私、ビアンカ様から、沢山のもの、もらいました。


 今度は、少女の声が脳裏に響いた。

 こんな凶暴な奔流ではない、まるで干からびた大地にすっと染みいる清水のような、美しく、優しい声。


 ――ビアンカ様の、きれいな髪も、私、とても好きです。あと、笑顔も。


 少女は一度として、ビアンカのことを、皇女だから好きなどとは言わなかった。

 同時に、皇女だから勝てるような存在でもなかった。


(そうよ……)


 無意識に閉じていた瞳を、ビアンカは開いた。

 周囲では相変わらず激しく水が渦巻いているが、それをきっと睨みつける。


 さっき自分は悟ったのではないか。

 少女には、けして敵わない。皇女だからといって、打ち勝てる相手ではないと。

 だからこそ自分は、皇女としてではなく、ただ一人の人間として、少女にふさわしいように、自分を磨くのだ。


(皇女でなければ何が残るかなんて、わかりきったこと。わたくし自身が、残るのよ……!)


 ビアンカは口に飛び込んでくる飛沫にも負けず、凛と叫んだ。


「水よ、控えなさい! わたくしは、そんな簡単に触れていい女では、なくってよ!」


 その声に被せるように。


『――静まりたまえ!』


 低く魅惑的な男性の声が響いた。


(この声……!)


 ビアンカはぱっと顔を上げる。

 視界の先、湖のほとりには、グスタフ・スハイデンが立っていた。


 豊かな髪は汗で額に張り付き、普段から緩く着崩しているローブは更にはだけ、その下のシャツがすっかり覗いている。

 急いで駆けつけてくれたのだろうことが、わかった。


『湖の精霊たちよ、聖騎士グスタフ・スハイデンの名のもとに乞う。湖の貴婦人の(めい)を今ひと時逃れ、咎無き人の子を離したまえ』


 彼の言い回しは古風なだけでなく、耳慣れない響きを帯びている。

 恐らくこれが、正しい古代エランド語なのだろう。

 ビアンカに内容は理解できなかったが、すっと水の渦がほどけ、体が自然と湖岸に寄せられる。


(助かった……)


 ほっとしたのも束の間、慌てて隣を見遣る。

 そこには黒髪の少女が、ビアンカと同じく湖岸に吸い寄せられているはずだった。


 が、いない。


「レオノーラ!?」


 ぎょっとして背後を振り向くと、そこには未だ奔流に囚われた少女の姿があった。


 ただ、彼女はビアンカのように暴れたりなどしていない。

 周囲を巡る水の流れにうっとりとしたような表情を浮かべ、そっとその白い手を伸ばしているのだ。


「――……カー、様……」

「…………!」


 ビアンカは瞬時に悟った。


 先程自分が、最も心の弱い所を突かれたように、少女もまた、心の最も柔らかいところにある悲しみを――彼女の出産と引き換えに命を落としたという、母親への想いを弄ばれているのだと。


「カー様が……呼んで、いる……」

「だめ……! だめよ、レオノーラ! それは幻よ!」

「今……傍に……」


 ビアンカが大声を上げても、少女は陶然とした微笑みを浮かべたままだった。


「しっかりしろ、レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ!」

「レオノーラ!」


 グスタフがローブを投げ捨てて湖に飛び込み、ビアンカもその腕を伸ばす。


 しかし。


「もう、離さ、な……、……」


 恐らく、もう離さないでと呟いて。


 少女はざぶんと、湖の中に掻き消えた。

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