29.レオ、陣を得る(前)
時を少し遡り。
レオは片手に、刺繍の施された魔術布を握り締めながら、意気揚々と聖堂に向かっていた。
(待っててくれよな、グスタフ先生!)
目指すは、賢者予備軍でありながら、あったかハートを持つエセ肉食系導師・グスタフである。
レオは彼に会って、とある「相談」をするつもりだった。
(なんつったって、賢者に最も近い導師だもんな。「湖の貴婦人」が棲息する湖がどこかくらい、知ってるよな!)
即ち、クリスに聞きそびれてしまった「湖の貴婦人」のねぐらの在り処を聞き出そうとしていたのである。
棲息だとか、ねぐらだとか、レオの中で、至高の水精霊はすっかりツチノコのような扱いになっていたが、その不敬に本人は気付いていなかった。
レオの下町無双が強制終了の憂き目を見てから、三日。
最初の内は、皇子の底知れなさに恐怖したり、先行きの暗さに絶望したりと忙しかったレオだが、金貨をにぎにぎしまくり、銅貨を数えまくる内に、ちょっとずつその心も平静を取り戻していった。
そうとも、まだ金貨は取り上げられていないし、命も取られていない。自分には銅貨を数える五体満足な肉体もある。
自分は、生きている。
生の実感を噛み締めたレオは、改めてカー様への信仰を深めながら、やりかけになっていた諸々の金儲けに、精力的に取り組みはじめた。
まずは、レーナに手紙を送付。
カイから既に、クリスとレーナが無事面会を果たしたことは聞いていたので、そこらへんの恩に付け込みながら、自分にもクリスの連絡先を教えてほしい旨を頼んだ。
ついでに、水を召喚・貯蓄する陣の構造について質問し、更に、精霊祭までに体を戻すためのスケジュールについても打診しておく。
いずれに対しても、レーナからの返信はわずか一行。「いつでもよいので、ぜひ孤児院に再びお越しください」とのことだった。
ハンナは手紙が検閲されていると言っていたので、曖昧な返事は恐らくその対策であるのだろう。
(まあつまり、精霊祭までのどこかでもっかい孤児院に行けば、体も戻してくれるし、陣もクリスさんの連絡先も教えてくれると)
レオはそう理解したものの、焦っていた。
本当なら、精霊祭までに陣ビジネスに目鼻を付けておき、その上で体を戻したかったのだ。
陣ビジネス最大の難所をレオが解決したならば、少年の姿に戻った時でも、その恩に付け込んできっと再びビジネスに加えてもらえると思うから。
しかしこのままでは、そのスケジュールの通りにことを進めるのは難しそうだ。
なんといっても、下町での二日酔いがよほどトラウマになったのか、下町の「し」の字でも出そうものなら、カイが真っ青な顔で止めに掛かるからである。
ちょこちょこと孤児院に顔を出して打合せを、というレオの目論見は、早くも破綻しはじめていた。
かといって、精霊祭までに体を戻すという目標を、容易に延長したくもない。
悩んだレオは、自力で陣の構造や湖の在り処を調べはじめた。
さすがに陣については、レオの頭では少々理解が追い付かず、正直お手上げというところだ。
ならば、できることからこつこつと。
レオは水源の在り処の探索に目標を絞り、図書室に籠って文献をひっくり返す日々を過ごした。
が、見つからない。
どうも、リヒエルトの北の方にはぽこぽこ湖があるようなのだが、もちろん地図上に「湖の貴婦人がいる湖」などと記載しているわけもなく。
それではと伝記の類を漁ってみたら、今度はやたら水の精霊の素晴らしさを讃える描写が続くばかりで、具体的にそれがどこかの記述が一切無いのだ。
(仕事しろや、ノンフィクション作家!)
フィクションの類はあまり好まないレオにとって――ただし翻訳対象としての小説は除く――、5W1Hがはっきりしない文章を読むのは苦痛でしかなかった。
不得意な仕事は苛立ちを生む。苛立ちは焦りを加速させる。
そんなわけで、せっかくビアンカが高級なタダ茶菓子を振舞ってくれたにもかかわらず、その時のレオはそわそわしどおしだったのだ。
翌日に校外学習があったことも忘れていた。ついでに言えば行きたくもなかった。
普段はタダだからと、一生懸命授業に取り組んでいるレオであったが、この時ばかりは儲けにもならない魔術の野外演習よりも、よほど湖の探索や陣の研究をしていたかったのである。時間が無かった。
しかし、ビアンカが、校外学習には導師が随行する、グスタフの初仕事だがうまくやるだろうか、などと言ってくれたおかげで、レオはようやく賢者予備軍導師の存在を思い出した。
そして閃いたのだ。
彼に、湖の貴婦人の居所を聞けばよいのではないか、と。
(やー、どうしてもっと早く思い付かなかったんだろ。俺の馬鹿! 節穴野郎め!)
レオは聖堂へ続く石畳を小走りで進みながら、内心で自分を罵った。
グスタフとは気まずい別れ方をして以来なので、話しかけに行くのは少々の心理的ハードルがあったが、崇高なる金儲けの前にはそんなこと言っていられない。
なに、前回は、自分が変に水商売などと言いだしてしまったせいでグスタフがこじれてしまったが、もっと丁寧にビジネスの概要を説明すれば、きっと彼も理解して、力を貸してくれるだろう。
なにせ彼は、聖堂を水浸しにしても弁償を求めてこなかった、あったかハートの肉食系(笑)導師なのだから。
説明の資料にと思い、水の精霊の紋章を刺繍した魔術布も再び用意してある。
クリスに教えてもらった御名も、画数を一つ余分に増やして縫い込んである丁寧ぶりだ。糸を一本落とせば、御名が完成する。
(あとは紋の周囲に、この前皇子に教わった召喚の陣を縫って、水のカー様の許可をもらって布を湖に配置すれば、水を召喚する大陣の完成だ。まあ、これじゃ、転送・貯水の辺りはカバーできねえわけだけど、そこはおいおい、得意な人に陣を増改築してもらうとして……とにかく今は、湖の場所だな!)
できることからこつこつと。
グスタフから湖の場所さえ聞き出せれば、道は開ける。
レオは、魔術布を皺が寄らないようにそっと胸に抱き寄せ、足取りを速めた。
***
「湖の貴婦人の居場所を教えてほしい、だ?」
緊張に顔を紅潮させた少女が、自分を見つけるなり頭を下げて頼み込んできたその内容に、グスタフは顔を顰めた。
陽も落ち、夜と言って差し支えない、聖堂である。
グスタフは今日とて学院を抜け出し、さんざんっぱら歩きまわった上で聖堂に戻って来た、その直後の出来事であった。
彼は泥にまみれたローブの裾を払い、そのままどっかりと礼拝用の椅子に腰を下ろす。
すると少女は、なぜか椅子ではなく、その前の床に腰を下ろした。目の前に跪かれるような格好だ。
グスタフが止めるように言っても、少女は頑として立ち上がらなかった。
(なぜこいつも、湖の貴婦人の居場所を探している?)
こいつも、というのは、勿論グスタフもまた彼女の居所を探しまわっていたからだ。
姉のクリスティーネから、湖の貴婦人の御名を聞かされたグスタフは、以降頻繁に学院を抜け出しては、その居場所の探索に努めていた。
姉に代わって一刻も早く精霊に出会い、その御名を告げて助精を乞うためである。
水の精霊は、えてして気まぐれだ。
湖の貴婦人などと一口に言っても、どの湖に身を寄せるかはその時の気分次第、昨日と今日で居場所が異なることもある。
グスタフは聖騎士団に働きかけ、国中の湖や沼を探索させつつ、自らもまた遠くの湖水地方に足を運び、しらみつぶしに彼女を探してまわっているというわけだった。
明日に迫った校外学習の行き先を、コルヴィッツの森に誘導したのものそのためだ。
消去法で、恐らく精霊がその森のどこかの湖にいるというところまでは把握したので、授業中に堂々と探索してやろうと、そういう心づもりである。
どうせ校外学習における自分の役割は、暴走する生徒のお守りと保険。
正直なところ、今のグスタフには講義をしている時間も惜しかった。
早く貴婦人の助精を得られねば、禍の影響は人々を蝕んでいくし、――クリスティーネの死亡届の提出期限もまた、迫っている。
グスタフは精霊に会って、彼女の足取りを聞き出すつもりだった。
自分のそういった事情はさて措くとして、なぜ、この少女は、湖の貴婦人などと言いだしたのか。
「――なぜ、そんなことを聞く?」
警戒に眉を寄せ、低い声で問うと、少女は意を迎えるように頷き、説明を始めた。
「ご質問、ごもっともです。私、今日、丁寧に、説明しようと思います」
そう言って彼女が語り出したのは、困窮する町の人々の様子だ。
連日の陽気、徐々に水かさを減らしている井戸、膨らまない花の蕾。
河川から浄水した水を引いている貴族はともかく、このままでは平民以下、弱き者たちが水不足に苦しむことになる。
かといって、険しい自然の奥地にある湖から水を汲むには、物理的なハードルがある。
だからこそ、精霊学と魔術を結晶させて、自分はその状況を打破したいのだと。
話それ自体は、大層立派なものだ。グスタフ自身がやろうとしていることとも、さして変わらない――いや、まったく同じと言っていい。
だが、たかだか齢十二の少女が、真にそんな崇高な目的を持って行動できるものとも思えず、グスタフは少女のことを、目を眇めて検分していた。
そこに、自己陶酔の影はないか。
褒められたい、認められたいといった、偽善の色は無いか。
精霊は欺瞞や傲慢を嫌う。
そのような悪徳を持った者を下手に近付けては、かえって精霊の機嫌を損ね、更なる禍を引き起こしかねないのだ。
(だが……)
先程から彼女は、一切自惚れや自己顕示欲を感じさせることなく、ただ切々と庶民の窮状を訴えている。
話には、まるでその目で見てきたかのようなリアリティがあったし、何より彼女の瞳には、強い意志と、むしろ、早くそうしなくてはいけないのにというような、焦燥の色すらあった。
ここには、グスタフ以外の観客はいないというのに。
(こいつは本当に、心の底から、人々の救済を願ってるというわけか……?)
人々の為に、精霊の助力――助精を願い出る。
それが、「選ばれた私が助けてやろう」といった、自己陶酔や傲慢さから来るものだったとしたら、グスタフは聖騎士としてそれを退けなければならないが、そうではなく――自分の評価なども気にせず、ひとえに人を救いたいという心から来るものなのだったら。
むしろグスタフは、こんなにも幼くして、献身の何たるかを知る少女のことを、讃えなくてはならない。
その見極めは、非常に難しい。
だが、少なくとも今、少女は誰一人として「取り巻き」を連れてくるわけでも、彼らに自身の「慈悲深さ」を見せつけるわけでもなく、ただ強い使命感に突き動かされて行動しているように見える。
こいつはもしや本当に、いや、そんなまさか。
こんなにも、相手の人となりが掴めないのは初めてだった。
グスタフは、これまで聖女気取りと切り捨てていた少女のことを、気が付けば真剣に見つめていた。
(――いよーし、なんか手応え感じてきた!)
一方レオはといえば、最初は明らかに半眼だったグスタフが、次第に身を乗り出してきた気配を察知し、一層語気を強めた。
前回は、水ビジネスの理念を「笑顔」とか「幸福」で雑にまとめ、胡散臭く語ってしまったから、商売全体の印象が、いかがわしい水商売方向に引っ張られてしまったのだ。
その反省を生かし、レオは今、いかに水ビジネスが人々の生活に恩恵をもたらすものかを、時間を割いてじっくり説明するところから始めていた。
水不足云々は、カイからの情報をちょっと盛ったりもして。
説明する時は相手に圧迫感を与えないようにするのが基本なので、あえて下手に出て跪きすらしている。
(人には、理念に共感するタイプと、具体的な方策に共感するタイプの二種類があるもんな。きっと先生は前者だったんだ。なんか、人々への救済ってところで、ちょっとグッときたような顔したし!)
――「自分の評価なども気にせず、ひとえに人を救いたいと思っているのではないか」。
グスタフが疑いつつも描きはじめた少女の真意は、半分は当たって、半分は外れだ。
レオは確かに、自分の評価など気にしたこともないが、無私無欲の心で人を救いたいなどと、これっぽっちも思ったことなどないからである。
レオを突き動かすのは、いつだって純粋な金銭欲。
時に焦燥感すらもたらす、強力な金儲けへの愛だ。
もちろん、人々がハッピーになるに越したことはないし、それを建前として語ったりもするが、それはあくまでおまけという程度である。
「……言っておくが、下手に水を庶民に解放したら、皇子は、おまえのことを愛さなくなるかもしれない。それでもいいのか?」
やがて一通りの理念と構想を聞き終えたグスタフは、眉を寄せて尋ねた。
治水権限を持つ貴族の頭越しに水を解放することで、皇子が貴族から反感を買い――引いては少女を遠ざける可能性を指摘したものだ。少女が恋にのぼせあがってこれらの行動を取っているのなら、その一言で、頭を冷えさせる内容のものだった。
「え?」
しかし、レオはもちろん、きょとんとした。
別に皇子など好きではないし、愛された覚えもなければ、そんな欲求もない。
むしろなぜそんな気味の悪いことを、と思うだけである。
「そのどこに、問題が?」
ばっさりと切り捨てると、グスタフは呆気にとられた顔をした。
「おまえ……」
ステータスが、反感から困惑に移行している。
陥落まではもう一歩だ。
(ここでもうひと押し!)
レオはおもむろに魔術布を取り出すと、恭しくそれをグスタフの前で広げた。
二日ほどかけて縫い上げた、会心の出来の精霊紋である。
レオはこれを見せながら、今度はビジネスの具体に話を移行させるつもりだった。
「これは……」
その精緻さに驚いてか、グスタフも思わずと言ったように目を見張る。
レオは内心で鼻息を荒げながら、努めて冷静に説明した。
「水の精霊を示す紋章、縫い込みました。まだ、試作品ですが、永年使用に耐えるよう、前回よりも、糸、縫い方、強度を上げています」
前回オスカー達に見せた物は、「糸切り」の手法を説明するためだけのものだったが、今回は、ちゃんと陣に仕立てることを想定しての作りだ。
試作品とはいえ、周囲に九つの象限が敷けるように布面積も確保し、紋章そのものもかなり堅固に縫い取ってある。これなら、長期間水に晒されても、紋章の形が崩れることはないだろう。
「更には、水源を、明確に定義するよう、湖の貴婦人の御名を刺繍して――」
ついでに前回、池の水を召喚してしまった反省を生かし、水源を明記してあって、という説明を続けようとしたが、もはやグスタフは聞いていないようだった。彼は、釘づけになったように魔術布を凝視している。
(あり? そんな気に入った?)
筋骨隆々たる男性が、刺繍を気に入るとは予想外の反応だ。
しかし、ここでグスタフの歓心を買わねば道は開けない! と思ったレオは、それを利用することを思い付いた。
「それ、よければ、差し上げますよ?」
「おまえ、これ……」
「いえいえ、所詮試作品です、どうぞ、ご遠慮なく」
はっと顔を上げたグスタフに、レオは鷹揚に答え、ちょっと強引に押し付けてみせる。
実際、湖の場所が聞き出せたら、湖の名前を縫い込んだ方が手っ取り早いかもしれないので、全然問題ないのである。
(そうそう、こういう場合、精霊の御名と湖の名前じゃ、どっちが効力が強いか、とかも、尋ねてみねえと)
例えばこれが郵便物なら、宛て名だけを書くよりは、住所だけを書いた方が確実に届く。
御名を縫い取るか、それとも湖の名だけで定義として通用しそうか、やはりその手のことはプロに聞くに限るだろう。
が、レオが口を開くよりも早く、グスタフががっと腕を掴んできた。
強い力で引き上げられ、せっかく接客モードで跪いていたのに、中途半端に立ち上がってしまう。
「この御名を……おまえ、どうやって知った!?」
せっかく丁寧に縫った刺繍は、憐れグスタフのいかつい拳の中で皺しわだ。
レオはむっとするかぎょっとするか悩みながら、ひとまず首を傾げた。
「え……? それは、クリスさんに……。あ、クリスさんというのは、導師だった女性、なのですけど」
「導師のクリスだと!?」
なんだかグスタフの食い付き方が尋常でない。
(え、まさかビビッときちゃった?)
どういうことだ、詳しく話せ、とグスタフがせっついてくるので、レオはてっきり、彼がクリスに興味を示したものと考えた。
精霊の御名を知っている女導師、という釣り書きに反応したようだから、もしかして職場恋愛を狙っていたりするのだろうか。
と、レオが目を白黒させていた、その時。
「ここで何をしているのです」
聖堂のドアが勢いよく開いた。