16.レオ、レーナに衝撃を与える(後)
「……レ、レオ、……ノーラ、様が、むよくのせいじょ……?」
「はい。ご本人は謙遜して、その二つ名を拒んでいらっしゃる節があるのですが、今や学院中で、レオノーラ様をそう呼ばぬ者はおりません」
カイは、照れた様子で胸を張った。
あまり言いふらすような話ではないとは思いつつも、大好きな主人を自慢せずにはいられないという感情が、ありありと伝わってくる仕草だった。
が、すぐに痛ましそうなものに表情を改め、沈鬱な声で漏らす。
「しかし、そう……だからこそ、その美しいお姿とお心に欲望を募らせた下賤の輩に、レオノーラ様は執拗に付け狙われているのです」
「…………へ、へえ……?」
「…………ほう?」
レーナもブルーノも、ひとまずは静観の構えだ。
というより、事態が予想外すぎて、どこから突っ込んでいっていいのかがわからない。
カイはそんな二人の様子に気付くこともなく、切々と、悲劇の令嬢レオノーラについてを語りだした。
「どこからお話しすべきか……。例えばお二人は、レオノーラ様があまりヴァイツ語が流暢ではないことを、ご存じでいらっしゃいますね。時折、言葉を詰まらせて怯えたように肩を揺らすことも。……それは、フローラの禍の後、下町で不遇の環境にあったレオノーラ様が、卑劣な男に鎖で繋がれ、…………っ、充分な食事も教育も与えられずに、虐待されていたからなのです」
「ち、…………っ!」
違うわよ何それ! というレーナの叫びは勿論魔術にかき消され、彼女は久々に喉を焼いた。
ブルーノも無表情で――いや、呆然とした表情で固まっている。
「にもかかわらず、レオノーラ様は大変清い心をお持ちのまま成長されました。ハーケンベルグ侯爵閣下に庇護されてからは、祝福とともに名を寿がれ、しかしそれに威を借ることもなく、常にお母君を偲んで薄墨のドレスを身にまとい。入学後は、嫌がらせでドレスを香水まみれにされても、それでサシェを作って相手を改心させたり、市民の学生に同情して、魔力の籠った髪を譲ったり、そしてまた、魔術発表会では身を挺して皇子殿下の命を守ったり。他にも、教会に惜しみなく絵を寄贈したり、市民のために陣の開発に乗り出したりと、例を挙げればきりがありません」
「…………」
「…………」
カイの発言全てがボケとしか思えない。
だがそれに対するツッコミは一つで済みそうだった。
――誰だよ、それ。
レーナは、ひくひくと唇の端を引き攣らせた。
「……ごめん、ちょっと聞き逃しちまったんだけど、魔術発表会のくだりで、なんつった……?」
「え? ああ、皇子殿下をお守りしたと。魔力持ちを標的とした攻撃を、膨大な魔力を帯びた皇子殿下の金貨を咄嗟に奪い取ることで、身代わりとなって受け止めたのです。……そのせいで、レオノーラ様は一時行方不明になってしまわれて。この辺りも探索がされたかもしれません。お聞きになったことはありますか?」
「……探索の目的までは、聞いてナカタですネー……」
ブルーノが、ぼそっと答える。
金貨強奪による指名手配などとんでもない。
レオは、――いや、レオノーラ・フォン・ハーケンベルグは、皇子殿下の命を救った大恩人と、そういうわけだ。
では、一体、今までの自分たちの奔走と焦燥は何だったのか。
レーナは次第に、自身の表情筋が強張っていくのを感じながら、尋ねた。
「……じゃあ、レオ、……ノーラ様の部屋だけ厳重に警備がされているのは……」
「あれ、そんなことまでご存じなんですか?」
「いや、まあ、――他に宛てるよりも、レオノーラ様に手紙が届くのには随分と時間が掛かると、院長が嘆いていたから」
レーナがそれっぽい言い訳を拵えると、カイは「ああ」と納得したように頷き、申し訳なさそうに眉を下げた。
「はい。レオノーラ様宛てに届く物は厳重にチェックされていますから。手紙はまだ、私が検める程度ですが、部屋にはいかなる不審者も撥ね退けられるよう、侯爵閣下御自らが警護の陣形とスケジュールを組み、また構造自体も学院比で五倍程度に強度を上げております」
うん、そこまでは知ってた。
レーナの目がどんどん、死んだ魚のそれに近いものになっていく。
「それも全て、下町でレオノーラ様を虐待したという輩が、不埒にも学院に押し掛けてくるのを避けるため。魔術発表会で空間を飛ばされてしまった我が主人を再度鎖に繋ぎ、ぼろ布をまとわせて折檻しようとしていた悪虐の輩を、二度とレオノーラ様に近付けないためなのです……!」
「…………」
レーナはふっと虚空に向かって笑みを浮かべた。
「…………へえ」
三呼吸分ほどの後、ようやく喉を這い出てきた言葉は、それだけだった。
二人がすっかり物言わぬ貝と化していることに気付かず、カイはばつが悪そうに続けた。
「そういうわけで、私も少々レオノーラ様の周囲には過敏になっておりまして。町の水事情も知らぬまま、不審がったりなどして申し訳ありませんでした」
「……いえいえ」
「まあでも、実は今回の慰問で何事も起こらぬようにと、父に頼んで屋敷の警備の者を密偵代わりに配置しているので、そんなに心配することはないのですけどね」
「…………」
その発言に顔を上げたのはブルーノだ。
「……それは、院の周囲に十人ほど、いた……?」
「わ、それもお気付きだったんですか!? 孤児院の皆さんに不安がられないよう、隠れて警護するように頼んでおいたのですが……」
あ、それさっきブルーノが無力化したやつだ、とレーナは悟った。
なんでも、もし侯爵閣下がこの慰問のことを知っていたら、きっと自ら警護にあたる、いや、なんなら騎兵隊を動かすと言い出してくれたはずだが、事後承諾という形でまだ耳には入れていないため、この程度の規模になったのだという。
「やはり十人程度では兵力として不十分だったでしょうか……。一応もう一つセーフティーネットは用意しているのですが……」
カイは心配そうに眉を下げているが、いやいや、世の中一般の常識に照らして、令嬢のお出かけに付ける守りとしては、既に過剰なくらいだ。
しかも護衛だけでは飽き足らず、もう一つ手を打っているらしい。
この従者、冷静に見えて静かに狂ってやがる、とレーナは顎を引いた。
「……ははは。それなら、レオノーラ様、安心デスね」
と、ブルーノが、笑っていない目で口の端を持ち上げると、そそくさとその場を立ち上がった。
「ブルーノ、用事思い出しました。しばし、失敬します。先に寝るとよいですネ」
レーナは背中から、「おいブルーノ、台所の右から二番目の作り棚に『栄養剤』入ってっから、それ持ってけよ」と呼び掛ける。
毒を作る際には解毒薬をセットで、というのがレーナのモットーだ。
気絶させた用心棒の意識を取り戻すには、それを使うのが手っ取り早いはずだった。
「ついでに、その更に隣の棚には、『夢見がよくなる』ハーブが入ってる。『ワインと一緒に飲んで』、おまえもさっさと寝ろよ」
「……助かる」
ブルーノはぼそっと、「デスね」と語尾を付け加え、今度こそ足早に部屋を去っていった。
「ブルーノさんは、こんな夜遅くから何の用なのでしょう?」
「さあ。後片付けかね」
きょとんと寄越された質問に、レーナがしれっと答えると、カイは「そうですか……」と深く頷いた。
「皆さんは、本当に勤勉でいらっしゃるのですね。エランド語に堪能な方も多くて……私は、数年とはいえ専門学校に通ったことがあるというのに、読み書きがせいぜいです。お恥ずかしい限りだ」
彼はそう言って俯くが、彼の年齢で、しかも貴族の出ですらないのに、エランド語を読み書きできるということは本来称賛されてしかるべきことなのだ。
レーナは「いえいえ」とか「まあまあ」とか言ってみたが、もちろんそんな相槌に毛の生えたような適当な慰めで、カイの気が晴れるわけもなかった。
部屋の隅で胞子を飛ばされてもかなわないので、ひとまず隠し持っていたワインを勧めてみる。
ついでに、もう少しばかりレオについての情報を聞きだしたいという意図もあった。
「ほら、一口飲んでみろよ。あんたも慣れない下町で一日過ごして、気が張ったろ?」
「いえ、私は、レオノーラ様をお守りしなくてはいけませんので……」
「ワインなんて、俺たちヴァイツ人には水のようなもんだろ。体が干からびてちゃ、護衛だってままならねえよ」
レーナの言葉に、カイは感じ入ったようだった。
彼女が優しげな言葉を吐く時は、大抵は相手を騙しに掛かっている時ということも知らずに、
「では、一口だけ……」
恐縮した素振りで、並々と液体の注がれたカップを受け取る。
レーナは、普段存在すら疑われていた優しさ(偽装)を掻き集め、愛想良くカイの悩みに耳を傾けた。
が、しかし。
話が進むにつれ、カイは感情を昂ぶらせるのとは逆に、レーナは青褪めていった。
「――……と、このように、レオノーラ様は、皇子殿下からも想いを寄せられているというのに、僕ときたら、遠慮ばかりするレオノーラ様に自信を持たせることもできず……!」
「……皇子から、想い……?」
「正妃に最も近いとまで言われているお方にも関わらず、いつまでも薄墨のサバランをまとわせてしまっている、本当に、至らない従者です……!」
「…………正妃?」
もはやレーナの顔色は、紙のそれだ。
凄まじい勢いで明らかになる驚愕の事実に、レーナは珍しく、状況を揶揄することすら忘れた。
(――……なに、を)
ご相伴としてワインを注ぎ分けていたカップを、力を込めて握り締める。粗末な木製のマグカップは、みしりと音を立てた、ように思われた。
(なにをしてくれちゃってんのよあの大馬鹿守銭奴はああああああ!)
無欲の聖女。
皇子殿下の想い人。
筆頭正妃候補。
あの中身で、しかもたった三カ月で、一体なにをどうしたらそんな絶望的なフラグを量産できるのか、その胸倉を掴み上げて問い質したかった。
(あんた、金貨盗んじゃった、処刑されるかもしれないって、そう言ってたじゃないのよ!)
それくらいならまだ理解できた。
元に戻っても、自分が尻拭いするくらいの覚悟もできていた。
約束は約束だし、なにしろ害意を向けられるのには慣れている。状況を切り抜けられる自信もあった。
が、待っているのは害意ではなく、国の頂点に立つ男からの好意だったとは。
(アルベルト皇子って……確か、金髪碧眼の、美形と噂の皇子、よね……。文武両道、ものすごく強い魔力を持つとかいう)
きらきらしい金の髪に、無駄に白い歯を見せて笑う、いけすかない男の姿を想像して、レーナはぞっと肌を粟立たせた。
(無理無理無理無理! 絶対ナルだし! 脳みそまで性欲とマッチョイズムで沸き立ってるに違いないし!)
幼少時、金髪でそこそこ顔立ちの整った勘違い下位貴族に襲われかけ、以降次々と厄介事に巻き込まれて男嫌いとなったレーナにとって、金髪・貴族・イケメンのトリプルコンボは憎悪の対象でしかなかった。
それにしても、貴族野郎どもと同じ空気を吸うのが嫌だからと学院行きを逃れたはずなのに、むしろ最上級に強化された形で、まさにその状況に陥ろうとしているとは、これいかに。
「な……泣ける……っ」
真っ白になったレーナが、唇を震わせて呟いた瞬間、カイは「そうですよね!」と顔を覆って泣きだした。
泣き上戸であったらしい。
「凛としたお姿でいながらも、紫水晶の瞳の奥ではいつもお母上の面影を追い求め、心を塗りつぶそうとする怯えに一人立ち向かっていかれる姿の、なんと痛ましいことか……! 僕は、僕は……叶うなら、母親になりたかった……!」
この従者は一体、普段どんな思考回路を働かせているのだろう。
いやに歌劇めいた口調だと、レーナは現実逃避を始めた頭の片隅でぼんやりと考えた。
ストックが薄くなってまいりました…!
明日からは一日一話更新とさせていただきます。ご容赦くださいませ。





