11.レオ、水商売に手を出す(後)
(えええええええ!? そ、それってつまり、先生って、童て……あぶぶばば、えええええ!? この顔、このキャラで!?)
いや、その年齢でそうだという人は勿論いるのだろうが、それにしても、外見や言動とのギャップが酷すぎるだろう。
というかその突き出した右手はしまっておいてほしい。目のやり場に困るから。
下町育ち、しかも官能小説まで訳しておいて意外なことだが、欲望の全てを金に捧げてしまったレオは、実はこの手の話題が得意ではなかった。
ノリよく相槌を打つくらいのことはするが、やはり少々自分には早い話のように思われるし、金儲けの算段を話し合っている方がよほど楽しかったのだ。
愕然とするレオに向かってグスタフは「意外か?」と肩を竦めると、更なる爆弾を投下してきた。
「俺は助精を得ることを拒みながらも、自らの力で最高位導師――賢者に最も近いと言われる地位を勝ち取ってきた」
「…………」
いや、それはだって。
(女性を拒んだから、賢者に近付いてるんじゃねえの?)
他でどうかは知らないが、リヒエルトでは、男が四十歳まで「それ」を守っていると、賢者になれるのだという言い伝えがある。
(ど、どうすりゃいいんだ。四十目指して頑張ってくださいね、って言やいいのか?)
レオは懊悩した。
既に孤児院を卒業してしまった兄貴分の一人がかつて、「『それ』すら守れない奴に一体何が守れるんだ!」と叫んだのを聞いた時、素直に「兄ちゃんかっけー!」と拍手したら盛大に殴られた苦い記憶がレオにはある。
ここら辺の心の機微は、ハゲ問題にも通ずる複雑なものがあるため、慎重な対応が必要に思われた。
それにしても、賢者予備軍の彼に「性騎士」だなんてきわどい二つ名を与えた教会は、一体何を考えているのだろう。
それに対応を倣えば問題ないだろうか。
「え……ええと、そのこと、教会、知っているのですか?」
「ああ? 当然だろ? 賢者の地位は教会から認定されるんだから」
おずおずと尋ねると、グスタフはなぜそんなことを聞くのかといわんばかりの顔で答えを寄越したので、レオは今度こそ沈黙した。
教会とは清廉と慈愛を掲げた潔癖な組織かと思っていたが、どうしてなかなか、風通しの良い環境らしい。
イジりの仕方も大胆だ。
黙りこんでいると、
「どうした。言葉も無いか」
とグスタフが追い詰めてくる。
レオは途方に暮れた。
「……なぜ、そんなこと、言う、のですか」
こちらからしてみれば、商売の説明をしていただけなのに、なぜグスタフが急に女性の、あまつ自らの経験値についての話題を振りはじめたかがさっぱりわからない。
どうすりゃいいんだよ、と眉を下げていると、グスタフは言った。
「おまえみたいな奴が、安易に助精を語るのが、許せねえんだよ」
「…………」
「語る資格を持つのは、真に奉仕と献身の何たるかを知る――俺の姉貴のような人間だ」
「……お姉さん……?」
ここにきて新局面である。
ぼんやりとその単語を繰り返すと、グスタフは皮肉気に笑みを刻んだ。
「ああ。お前とは違って、本物の聖女だ。誰より水を愛し、愛されていた。その道では、右に出るものはいないと言われるほどに」
お水の花道ということだろうか。
(待て待て待て、話があっちこっちしてよくわかんねえ)
レオは無意識に額に手をやり、話を整理してみる。
(ええとつまり――先生は女性が嫌い……というかまあ、経験が無くて、賢者を目指してて、……かつ、先生に女性を語っていいのはお水ナンバーワンのお姉さんだけ。え? 何それ、シスコン?)
だとしたら、なんと業の深い。
あったか熱血教師だと思っただけに、絶望もまた深かった。
絶句するレオに、グスタフは再び顔を寄せ、まるで睦言を紡ぐように囁いた。
「わかったら、さっさと帰んな、偽物聖女。安易に助精なんぞ語らねえことだ。この陣は、取り上げておく」
そう言って、レオが左手でずっと握りしめていた、ずぶ濡れになったメモを奪う。
それではっとしたレオは、慌てて彼に取り縋った。
「そ、そんな! 返す、ください!」
どうやら自分が彼の機嫌を損ねてしまったのはわかった。
だが、だからといって商売道具を取り上げられては敵わない。
椅子から飛び降りて、長身のグスタフからメモを奪還すべくぴょんぴょん飛び跳ねていると、彼はその凛々しく整った眉を寄せて、「懲りねえ奴だな」と呟いた。
そして、レオが伸ばしていた両手をひょいと掴み、壁に押し付けてしまったではないか。
「わ!」
壁に刺された蝶の標本がごとき姿になってしまい、思わず悲鳴が漏れる。
グスタフはそんなレオをせせら笑うと、空いていたもう片方の手で顎を取った。
(ひい!)
ナターリアが顎クイされていた時は、へえ、と呑気に見守っていたレオだが、自分がされるとなると話は別だ。
至近距離で覗きこまれ、レオは青褪めた顔で彼を見返した。
「帝国第一皇子。富豪の息子。民衆。よっぽどちやほやされるのが好きなようだからなあ。おまえには、こういう方法で言い聞かせた方がいいか?」
親指で、つ……と唇を撫でられる。
その蠱惑的な仕草に、レオはぶるっと身を震わせた。
ときめきでも恐怖でもない。ただ盛大な、いたたまれなさに。
(せせせ先生、もうすぐ賢者のくせに、世慣れた肉食演じてんじゃねえよおおおお!)
そう。
もはやグスタフが「そう」だと知ってしまったレオには、彼のどんなに板に付いた肉食的行動も、背筋が凍るものでしかなかった。
それが、自然であればあるほどに。
「や……っ、やめ、くださ……っ」
「ああ? 急に怖くなったか?」
「そうでは、なく……!」
レオは切実にやめてほしかった。
これ以上彼に、自虐的にネタに走ってほしくなかった。
だがグスタフはそんなレオの想いなどまったく気付かないように、笑みを深め、拘束した手の力を強めてくる。
「心配しなくても、優しくしてやるぜ?」
「…………っ」
その台詞の破壊力に、レオはぐっと声を詰まらせた。
もう、焦っていいのか爆笑していいのか恐怖していいのか。
冷や汗が止まらない。
「や、やめて、ください……!」
レオは制止を繰り返した。
自分のためにではない、彼自身のためにだ。
いつか彼が「それ」を捨てる機会に恵まれて、賢者への道を外れることがあった時、きっとこの記憶は彼の黒歴史になる。
「なぜ、こんなこと、しますか? こんなこと、先生自身、傷付けるだけです!」
「なんだと?」
「本当は、不安、焦り、そういうのがある、違いますか? それなら、それを認める、べきです! こんな方法、取るのではなく……!」
「……何、わかったような口を」
グスタフが眉を寄せる。
しかし、腕の拘束は緩んだ。どうやら、何か思うところがあったらしい。
レオはその機を逃さず、渾身の力で彼の太い腕を振り払った。
狭い室内に沈黙が落ちる。
その気まずさに、レオはぐっと唇を噛み締めた。
(ええと……)
なぜこんなことになってしまったか分からないが、気まずさを十段階評価で表すなら、今が十三くらいに気まずいことは分かる。
いくら彼のためとはいえ、グスタフ渾身の肉食系男子劇場をぶった斬ってしまったのだから。
彼は賢者予備軍だし、シスコンだし、すぐに痛いネタに走るエセ肉食系導師だが、それでも、生徒のオイタに目をつぶり、弁償を無かったことにしてくれるあったかい教師だ。
できるなら、彼との間にわだかまりを残したくはなかった。
(経験が無いことを恥ずかしがってんなら、孤児院の裏で配ってる花街の割引券をプレゼントするけど……先生はどちらかといえば、賢者を目指してるんだもんな……?)
いや、本当はそれも自虐なのかもしれないが。
この手の話は、人生経験の浅いレオには真意が掴みにくい。
「おまえ――」
「あの……」
そんなわけで、レオはひとまず、今の自分にできる最大限を考え、伝えることにした。
グスタフが何か言いかけたようだが、構わず続ける。
「たしかに今、私、先生の気持ち、わかりません。でも、……理解したい、思うのです」
四十歳など遥か先の未来だし、女性経験についてなど今まで全然考えたこともなかったが、もしかしたら、いずれは自分も悩む命題なのかもしれない。
考えを巡らせてみるのは、男として必要なことなのかもしれなかった。
グスタフが静かに目を見開く。
レオはその視線を真っ直ぐに受け止め、頷いてみせた。
「時間、ください。私も、考えてみます。先生の苦悩、不安、そういうものについて」
最後にじっと、グスタフが懐に押し込んだメモの切れ端を見据える。
はみ出している部分だけでも記憶しておけば、陣の再現にきっと役立つはずだからだ。
「レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。おまえは――」
「失礼、いたすます」
今が潮時だ。
これ以上説教が不可思議な方向性にねじ曲がっていく前に、と、レオはさっとグスタフの横をすり抜け、懺悔室を飛び出した。
***
「レオノーラ!」
扉を出ると、すぐさま皇子達三人に呼び止められた。
どうやら心配して待っていてくれたらしい。
レオはへらっと笑って、
「お待たせ、しました。お説教、終わりました」
無事だということをアピールするために、両手をひらりと振ってみた。
後半の衝撃の展開には未だ動揺が隠せないが、本題であるところの聖堂の弁償については、すんなりとお目こぼしを頂いている。
まずまずの結果だ。
しかし、レオの両手を見た皇子達は、なぜかその瞬間さっと顔を強張らせた。
「……導師の説教とやらには、君の腕を掴んで拘束することも含まれるのかい?」
アイスブルーの瞳は、赤くなったレオの腕を見つめている。
レオは咄嗟に「あ!」とその腕を庇いつつ、慌てて言葉を探した。
「え、いえ、あの……その、メモを取られた時、つい、暴れてしまって、少し、叱られたのです」
グスタフを庇う義理もないが、渾身の壁ドン顎クイ劇場について話すと、もれなく彼の経験値や業の深い姉弟愛についても触れねばならない。
この、いかにも経験豊富そうな彼らの前で、そういった話を勝手に暴露するというのは、さすがにあんまりだという気がした。
「叱られたって言ったって、そんな……」
「見下げた野郎だ、あいつ……」
ロルフやオスカーが青褪めている。
「おい、何があったんだ。詳しく話してくれ、レオノーラ」
オスカーに至っては、懇願の色すら浮かべて詰め寄ってくる有り様だ。
その兄貴分な性格には感謝しつつも、男に迫り寄られてもまったく嬉しくないレオは――しかも今回については、経緯を話したくないという事情もある――、つい顔を強張らせてじりっと後ろに退いてしまった。
「いえ……それは、ちょっと……」
「なぜだ。何か酷い目に遭わされたのではないのか」
「酷い……いえ、あの、私、大丈夫です。それに、勝手に話す、できません」
やはり、こういった内容というのは、ハゲにも通ずるセンシティブな話題だと思うのだ。
口を引き結んだまま、青褪めつつもふるふると首を振ったレオを見て、オスカーは「レオノーラ!」と苛立たしげな声を上げたが、
「――やめましょう、オスカー先輩」
意外にも皇子がそれを諌めてくれた。
「なんだと? おまえは心配ではないのか」
「心配でないと思いますか? ですが、こうなった彼女はけして口を割りませんし、――怯える彼女に無理矢理聞き出すのが最善とは思いません」
静かな声に、オスカーがはっと顔を上げる。彼は「……くそっ」と吐き出すように漏らすと、小さく、
「すまなかった」
と詫びを寄越し、距離を取った。
「いえ……あの、こちらこそ」
心配してくれているようであるオスカーに黙秘を続けるのは、レオとて心苦しい限りである。
ぼそぼそと謝りつつ、同時にまたレオは皇子に感謝の視線を向けた。
(ナイス皇子!)
さすがにこれ以上の壁ドンはトゥーマッチだったので、彼の制止は大変ありがたい。
それにしても、かつてオスカーハゲ問題があった時、壁ドン顎クイコンボを仕掛けて尋問してきたとは思えない皇子の成長ぶりだ。
やはり、時は人を成長させ、成長すると男は壁ドンなどというイタましい行為から卒業していくのだろう。レオはしみじみと納得した。
(先生も早く「卒業」できるように……俺もなんか、手伝えることはあるかな)
先程から随分と先輩三人衆に庇われたり、心配されたレオは思う。
おせっかいというのは、多分にくすぐったい気持ちを人にもたらすが――やはり、悪くはないものだ。
弁償を見逃してくれたグスタフのために、何かできることがないか、考えてみよう。――金の掛からない範囲で。
そう決意したレオは、なぜか神妙な面持ちのままの三人と共に、聖堂を後にした。