《閑話》 レオ、歌う(6)
アデイラの決意表明を聞き、「前祝いにワイン、取ってきます!」と少女が張り切ってワインセラーへと消えたので――今日はエミーリアの誕生日当日だというのに、「前祝い」とはどうしたわけだろう――、アデイラはなんとなく席に戻った。
涙で汚れてしまった顔を使用人にさっと整えてもらい、気まずさを押し殺しながら「取り乱し、失礼いたしました」ともごもご謝る。
エミーリアも、使用人たちも、優しく首を振って「いいえ」と答えるだけだった。
その顔には、彼女がいつも勝手に感じ取っていた蔑みなどなく、ただ、理解と温かな励ましだけが滲んでいた。
彼らの態度が急変したわけでは、きっとない。
自分が受け入れられていると感じられるようになったのは、今この瞬間、自分自身が変わったからなのだということに、アデイラは気付いた。
「ねえ、旦那様。あの子って……すごいのね」
「うん?」
夫は、相変わらず穏やかな表情で、優しい相槌を打ってくる。
手は自然に、アデイラが膝で握っていた拳を包みこんでいた。
その温もりに励まされ、アデイラは、ぽつぽつと想いを口にしはじめた。
「あたくし、あんな風に全力で認められたのも、強く抱きしめられたのも、初めてのことだった。あの子に『あなたが主人公だ』と言ってもらえて、微笑みかけられて……すごく、こう……ああ、あたくしは許されてるんだと、感じたの」
「うん」
「でも、きっと……本当ならそれは、あの子自身が、してほしいことだったはずよね」
ディートリヒの、手の甲を撫でていたその動きが止まる。
それでアデイラは悟った。夫もまた、少女の壮絶な過去を知っているのだと。
視線を向けると、彼はつらそうに微笑んで「そうだね」と頷いた。
二人はそれで、すっかりわかり合った。
「あたくしね、途中まで、なんでこの子はこんなふうに、ひどいことを言われても、怒りも泣きもしないのかって、不審に思っていたのだけど……。きっと、彼女は、それ以外に方法を知らないのね。歯向かえばよりひどい暴力に晒されて、だから、全てを受け入れることしかできなくて……」
アデイラは、少女が抱きついてきたとき、しきりと「もっと素直でよかったんだ」といった内容のことを呟いていたのを思い出していた。
アデイラが感情を爆発させたのを見て、少女もなにかしら思うところがあったのだろう。
もしかしたら、図らずもアデイラの醜態を見たことによって、「こんなに泣いても大丈夫なんだ」ということを悟ったのかもしれなかった。
「本当はあの子だって、押し殺していた想いがいっぱいあったはずよね。だからさっき、つられて感情を露わにして、あたくしなんかにクラウディア様の面影を重ねて……。本当はいつだって、亡き母の面影を追い求めているに違いないのだわ。あたくしは、そんなあの子に対して、なんということを……」
苛烈な罪悪感に、アデイラがぐっと眉根を寄せて俯くと、
「嘆くのは誰にもできますよ、アデイラ」
横から、凛とした声が飛んできた。
エミーリア夫人だ。
アデイラは慌てて涙を拭うと、義母に向かって再び深々と頭を下げた。
「あの、お義母様。このたびのことは、本当に申し訳ございませんでした」
「あなたがそうやって態度を改めたのは素晴らしいことだと思うけれど、アデイラ。あなたが謝るべきは、わたくしではないわ」
ぴしゃりとした声に、体が竦む。
けれどもう、アデイラはそれにかっとなったりも、必要以上に傷付きもしなかった。
彼女の言い分は正しい。
そして――義母は、自分を躾けてくれているのだ。次期侯爵夫人に、ふさわしいように。
アデイラは、自分でも鈍いと思っている頭を一生懸命働かせて、必死に言い募った。
「あの、お義母様。その通りだと思います。それで、あの、だから、あたくし、あの子に償いたいと思って」
「まあ、そうなの?」
「はい。……ただ、あたくしが思うに、あの子、自分自身になにかを差し出されるのでは、受け取ってくれないのではないかと思うのです」
少女の自己否定は根深い。
そしてまた、彼女の人となりを考えるに、どんな金銀財宝を差し出されても、それを苦笑で断ってしまうだろうことは明らかだった。
「抱きしめられることとか、受け入れられることとか。きっと、そういうものの方が、彼女には必要なはずなのです。けれど、それは、お義母様たちが既になさっている。だから、あたくしは、それを、他に向けようと思うのです。彼女の――仲間たちに」
「どういうこと?」
エミーリアが面白そうに目を瞬かせたので、アデイラは顔を真っ赤にして、つかえながら説明した。
「旦那様のお仕事の話を聞いているときに、あたくしは思ったのです。洗脳などと言うけれど、音楽は人の心の慰めになると。だから、たとえば、あの子が過ごしてきたという下町に赴き、そこで歌や音楽を教えたら、きっと、子どもたちは笑顔になります。苦しい日々を過ごしていたとしても、ほんの少しだけ、その苦しみを和らげられるのではないかと思うのです」
それはつまり、夫の仕事に、彼女も一緒に加わりたいということに他ならなかった。
ディートリヒもエミーリアも、驚いたようにこちらを見ている。
その視線の強さにアデイラはたじろいだが、ぐっと拳を握りしめ、続けた。
「あたくし、なんでもやります。下町で歌を教えるのでもいい、いえ、あたくし自身が歌うのでも構わない。とにかくそうやって、あたくしも、誰かを助けたいのです。――あの子が、あたくしにしてくれたように」
「アデイラ……」
横で聞いていたディートリヒは、しみじみと妻の名を呼ぶと、ふと破顔した。
「ならば僕もそうしなくては。僕だって、彼女に背中を押してもらったんだから」
優しく告げられ、アデイラは頷く。
エミーリア夫人はその様子を見守ると、
「そう」
満足気に頷いた。
「まあ、あの子なら、『アデイラ様ならそう考えると思っていました』などと言って、既に具体的な構想を練ってすらいそうであるな」
夫人の隣で、クラウスが髭を撫でながらそんなことを呟く。
いくら少女が真実を見通すとはいえ、そこまではないだろうと、アデイラは思わず笑ってしまったのだが――
数十分後、アデイラが話を切り出した途端、少女は
「え? なにかしたい、というか……アデイラ様、下町歌劇団の歌姫、するのですよね?」
とさも当然のように、具体的な構想を持ち出してきたので、一同は大いに度肝を抜かれることになるのだった。
***
「アデイラとディーテ」は、実在の侯爵夫人、アデイラ・フォン・ハーケンベルグと、その夫ディートリヒを描いた、帝国内で知らぬ者はいないという、歌劇の名作である。
自らの無能を嘆き、怠惰な日々を送っていたアデイラ夫人が、精霊の介在によって真実の愛に目覚め、夫の愛情と成長とを手にする物語は、多くの民の心を虜にした。
中でも劇中で歌われる「あたくしを見て」の主題歌は、人々の涙を誘い、下町に建てられたハーケンベルグ歌劇場で上演されるや、たちまち人々の口に膾炙するようになる。
それまで歌劇と言えば、貴族の優雅な生活を描くものが大半だったが、本作ではその苦悩が等身大に描かれ、後の学者の中には、「この歌劇こそが市民と貴族の心の距離を縮めた」と指摘する者もいる。
実際、アデイラ夫人は夫とともに、下町での音楽教育に精力的に取り組み、そのおかげでリヒエルトの民は上位貴族に好意的だというので、その指摘はあながち間違いでもないのだろう。
ちなみに、学者の中には、この歌劇の原案者は、精霊として描かれるアデイラの姪、レオノーラ・フォン・ハーケンベルグだと唱える者もある。
レオノーラは詩の才能に恵まれていたらしく、彼女のアデイラ宛ての手紙には、歌詞の元となる詩がいくつも散りばめられていたというのだ。
中でも「賛歌」と題された、光の精霊を讃えたとおぼしき詩は、格調高く、淑女の詩作の手本とされるほどであるため、説得力はある。
ひねくれものの学者などは、「下町出身の少女が、金貨の輝きに目がくらんで作った詩ではないか」などと「賛歌」にこじつけのような難癖を付けることもあったが、世間から特に取り合われることもなく、今では、レオノーラこそが今様歌劇の生みの親であるとする説が、専ら有力である。
というわけで、リクエスト頂いた「アデイラのその後」編なのでした。
コメントやリクエストをくださった方、本当にありがとうございました。いつも大変励みにさせてもらっております。
次のお話を投稿するまで、一度完結とさせていただきます。