《閑話》 レオ、歌う(3)
少女が手にしていたのは、遠目にも光沢の美しい布――サバラン。
一枚で馬車十台が買えるというほどのその高級布を、惜しげもなく何種類も使って縫い合わせている。
しかも、裾の方の一番大きな面積を割いた布地には、侯爵家の林檎の花紋まで刺繍されていた。
それは世界でただ一つの、そして溜息がでるほど美しく高価な、手作りのショールだ。
布地の価格だけで、金貨三枚――いや、刺繍の見事さや、色合いの美しさ、そして希少さまで含めるならば、もはや値段すらつけられない。
「まあ……!」
侯爵夫人として贅沢品を見慣れているエミーリアですら、しばらく言葉が継げないでいる。
彼女はうっとりとショールを撫でると、やがて目を潤ませて少女に問うた。
「これ、本当にあなたが……?」
「はい。ごめんなさい、裏地の裾の、端の一ヶ所、ちょっぴり糸、はみ出ました」
「なにを言うの、皇宮付きの針子の作と言われてもおかしくないほどの出来よ。色違いの布が織りなすグラデーションといい、繊細な刺繍といい……本当に、なんて、素晴らしい……」
そのセンスと才能には、溜息が出るばかりだ。
ほう、とショールを撫でつづけるエミーリアを見て、レオもまた胸を撫で下ろしていた。
(はー。とりあえず、エミーリア様が気に入ってくれたんなら、よかった)
自分から言い出したこととはいえ、よだれの出そうな金細工をアデイラが差し出してきたときは、レオも少々「やべっ」と思ったのだ。
いくら自分の方が年下とはいえ、片や超高級宝石、片や余り布を使ったゼロ円ショールというのは、さすがに釣り合いが悪かろうと。
(誕生日プレゼントっつーと、つい習性で原価ゼロにこだわっちまうからなー、俺)
孤児院の院長であるハンナは、誕生日が来るとレオたちにそれを祝うことを求めた。
といっても、彼女が求めたのは、物品でもなければ金品でもない。ついでに言えば気持ちや笑顔でもなくて――そのオーダーは、「去年の誕生日からの一年間で、あんたたちが鍛えた技能を披露しな」というものであった。
つまり、ハンナの誕生会とはそれ即ち、孤児院恒例の成果発表会だったのである。
例えば絵の得意なアンネは毎年似顔絵を描いてみせたし、武術に優れたブルーノはよく演武を披露していた。
そして広く浅くこなすタイプのレオは、ある年は野草でフラワーアレンジメントを作り、またある年はいらない食材を集めてケーキを作り、という具合に、とにかく「原価ゼロでそれっぽいプレゼントをこしらえる」という技能を披露しつづけてきたのである。
そして、ゲープハルトとの一件があった後、なぜか皇子が「お詫びの印に」と大量のドレスを送りつけてきたため――最近孤児院に「もうドレスはいらない」と言われてしまったことも手伝い――、レオはひとまずそれを裂いてショールにしてみたのだ。
カラーバリエーションはやたらあったので、それらを全部縫い合わせて、ちょっとカラフルな一品に仕上げてみたと、そういうわけであった。
(まー、手触りはいいけど、所詮ショールだしなあ。市場価格に置き換えて……銅貨三枚くらいかね。うわあ、アデイラ様と雲泥の差だよ。ごめんな、エミーリア様)
レオはサバランの価値を知らなかった。
まあとにかく、孫補正かエミーリアはやたら喜んでくれているし、ついでに子ども補正か周囲の人間も「すげえ!」という感じになってくれているので、レオはひとまずそれでよしとすることにした。
全然よくなかったのは、アデイラの方である。
(な……なんなのよ……)
彼女は目の前で繰り広げられている光景を、愕然として見守っていた。
(どういうことよ……! なんで一介の学生、それも下町育ちの子どもが、こんな見事な品を用意できるというの!?)
例えば、その布。
アデイラでさえ数着しか持っていないサバランを、惜しげもなく、しかも十種類近くも使ってみせるなど、皇族くらいの財力がなければできぬ技だ。
そしてその刺繍。
デザイン自体も優れていることながら、その繊細さといったら、まるでベテランの針子――毎日、何年も、針仕事をしてきた人間でもなければ、とても縫い上げられない代物だ。
ずっと下町にいたというのに、彼女はそこらの貴族よりもよほど優雅な金の使い方を身に付け、しかも、皇宮付きの針子と張り合うほどの技術をも習得してみせたというのか。
(これが……クラウディア様の血のなせる業ということなの……!?)
嫁いできたときから、しょっちゅう我が身と比較されてきた、悲劇の令嬢にして社交界の薔薇、クラウディア。
しょせん死人を美化しているだけよと、自らに言い聞かせてきたものだったが、まさかこれほどとは。
(あたくしは……この子に……クラウディア様に……敵わないというの……?)
生まれついての貴族と孤児の差を見せつけてやるつもりが、逆に圧倒的な差を見せつけられてしまい、アデイラの全身が震える。
ばつが悪そうに「こんなものしか、用意できなくて、ごめんなさい」と少女が言うのを聞いて、アデイラは卒倒しかけた。
「いやあ、こんなものだなんて、とんでもないよ。アデイラの品も見事だけど、君のプレゼントには驚いた。実に素晴らしい、美しいショールだねえ」
アデイラの気も知らず、横では夫がのんびりとそんな感想を漏らす。
と、そこにエミーリアが、
「まあ、他人事のように品評して。実の母の誕生会の主催からプレゼント選びから、全て妻任せにしておきながら、一人前に品を比べてみせるなんて、失礼ですよ」
優美な眉を寄せながら、そう指摘した。
そもそも彼女は、軟弱な側面が目立つ長男が、よくわからぬ仕事を口実に、ふらふらと屋敷を空けてばかりなのを、あまり快くは思っていないのであった。
「だいたいあなたったら、こういう時でもないと家に居もしなくて。いったいどんなご大層な『仕事』とやらをしているのか――」
「まあまあ、エミーリア。よさぬか。男の仕事に口を挟むものではない」
クラウスが髭を撫で、
「それに、今日はおまえの誕生日。その美しく年輪を重ねた口許を飾るのは、小言ではなく、笑みの方がふさわしいであろう?」
珍しく夫人を褒めながら宥めると、エミーリアは「ま、まあ……」と、ほんのり顔を赤らめて語勢を弱めた。仲のよい夫婦なのである。
「そうそう、僕がクラゲみたいなのは、今に始まったことではないではないですか。それにほら、僕からのプレゼントが無いと仰るなら――」
そこに、調子よく言葉を継いだディートリヒが、横で固まっているアデイラの肩に、ぽんと手を置く。
「代わりに、アデイラが歌を披露するなんていかがです?」
相変わらず人任せの姿勢なのだが、その発言にエミーリアが「まあ」と目を輝かせた。
「それはいいわね。わたくし、アデイラの歌を聴くのは久しぶりだわ」
「アデイラ様、歌、お得意なのですか?」
にわかに場が盛り上がりはじめたことに、少女がことんと首を傾げる。ディートリヒは穏やかに頷くと、
「ああ。アデイラはね、僕の心を掴んで離さなかった、魅惑の歌姫なんだよ」
にこやかに請け負った。
そう、かつて兄の誕生会でアデイラが披露していた余興というのは、唱歌だったのだ。
「唱歌……歌姫……!?」
話を聞いていた少女の目が、きらきらと輝きだす。
なぜか彼女は、それらの単語に異様な食い付きを覚えたようだった。
「アデイラ様、歌姫なのですか!? すごい! 素晴らしい! 私も、ぜひ、聴いてみたいです!」
強い感情を含む視線を向けられ、アデイラははっと我に返る。
潤んだ瞳、紅潮した滑らかな頬、興奮を隠せないというように握り合わされた小さな両手。同性で、かつ少女のことを疎んじているアデイラでさえ、一瞬愛らしいと思ってしまうような、可憐な姿だ。
が、アデイラはぶるぶると首を振って、その自分らしからぬ思考を即座に振り払うと、代わりに、ここ数年ですっかり馴染んだ毒々しい思いを、心の中に張り巡らせた。
(ふん、これも演出よ。こうやって人のことを褒めて、「大したプレゼントも用意できない義理の叔母を認めてやる、優しい少女」と周囲に思わせたいのだわ)
実際エミーリアたちも、夫も、使用人たちだって、なんのわだかまりもなくアデイラに好意を向ける少女のことを、愛おしげに見守っている。
もはやこの場の中心は、エミーリアすら差し置いて、少女だった。
(こんな状況、いつまでも許すものですか……!)
アデイラは、テーブルの下でぎりぎりと拳を握りしめる。
当初の予定では、少女を遅刻させ、ついでにろくなプレゼントもできないのかと辱めるつもりだった。
しかし今のところ、少女はアデイラの企みを全てくぐり抜けてきたばかりか、逆にそれらを活用して評価を高めている有り様だ。こんなのはおかしい。
アデイラはもはやカイを取り戻すという初期の目的すら忘れて、とにかく少女に一矢報いてやりたいという思いでいっぱいだった。
(そうよ、あたくしにはあるじゃない、この、歌という最終兵器が……!)
かつては結婚も絶望視されていた自分に良縁を呼び込んだ、自慢の歌声だ。
この豊満な体格から繰り出される声量は、気合いを込めれば窓ガラスだって割れるほど。
(淑女の嗜みとして、あたくしは声学の授業だって受けてきた。硬軟も古今東西も問わず、いろんな歌を耳にして、才能を磨いてきたわ。さすがにこれなら、この子が敵うはずがない!)
プレゼント対決で恥をかかせるなど迂遠な方法を取るのではなく、むしろ最初から歌で勝負を持ち掛ければよかったのだと、アデイラは歯噛みした。
そう。
自身の優位を確信したアデイラは、自分だけ歌って終わり、などと生温いことはもはや考えていなかった。
少女を圧倒するためには、彼女を同じ土俵に引きずり込む必要がある。
だからこそ、少女にも歌わせて、その後自分が完璧な歌を披露し、その決定的な差を見せつけてやろうと、アデイラはわずかな瞬間にそう決めたのである。
ややあって彼女は、濃い色の紅を引いた唇を、おもむろに開いた。
「――わかりましたわ。そこまで皆さんが、おっしゃるなら。あたくし、歌います」
「わ! やった!」
「けれど」
そこでアデイラは、無邪気に喜んでいる少女を見据え、猫なで声で告げた。
「あたくしだけでは寂しいわ。レオノーラ、あなたも、歌ってくれなきゃいやよ」
「まあ! いい考えね、アデイラ!」
「…………え?」
目を輝かせて手を合わせるエミーリアとは裏腹に、少女は顔を強張らせている。これは、さすがな少女も、歌はあまり得意でないということの証拠だろう。
アデイラは内心でガッツポーズを掲げ、あくまで表面上はにこやかに少女を追いこんだ。
「せっかくのお義母様の誕生日ですもの。娘と孫から、それぞれ歌のプレゼントとまいりましょ? 大丈夫よ、レオノーラ。きっとお義母様はどんな歌でも喜んでくださるから」
どんな歌、と言いつつも、実際のところ少女に選択肢などありはしないのだ。
下町で聞ける歌など、せいぜい男女のあけすけな恋歌くらい。そして学院で習えるのはせいぜい堅苦しい讃美歌くらい。
前者をエミーリアの前で歌おうものなら顰蹙ものだし、後者では歌いふるされすぎていて、余興に値しない。
(ふふふ……さあ、どう出るかしら?)
こうなると、音楽教育も受けたことのない子どもに歌えるのは、せいぜい数え歌か、わらべ歌か――いずれにせよ、アデイラが予定している、気鋭の詩人が詞を書いた叙情歌には到底敵わぬものばかりだ。
「いえ、あの、私は、歌うのは、ちょっと……」
「まあ! そんなこと言わないで。わたくしも、あなたの歌声を聞いてみたいわ。孫娘から誕生日に歌のプレゼントをもらえるなんて、最高の一日になるもの」
「ええ、ええ。あたくしもそう思いますわ」
引き攣った顔で辞退するのを、エミーリアが無邪気に押し止める。アデイラはそれに容赦なく付け込んだ。
「きっと、あのショールをも上回って、最高の贈り物になることでしょうねえ」
ハードルだって思い切り上げておく。
すると少女はなにを思ったのか、
「……ショールよりも、いい、贈り物……」
ぽそっと呟き、しばし考え込む表情になった。
やがて彼女が顔を上げたとき、その紫色の瞳には、なにか覚悟のような表情が浮かんでいた。
「――わかりました。そういうことなら、私、歌います」
思い詰めたような声で、そう告げる。
それは、「エミーリアの誕生日を祝う会」から「レオノーラ対アデイラの歌うま令嬢選手権」に、場の趣旨が変わった瞬間であった。