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無欲の聖女は金にときめく  作者: 中村 颯希
第三部(完結編)
146/150

38.レオ、幕を下ろす(中)

 鉄扉の向こうには、聖堂に向かうための馬車が用意されている。

 それが、「こちら側」からレオノーラ・フォン・ハーケンベルグに向けられる最後の(はなむけ)であり、中には橋渡し役として、皇子たちとも面識のある孤児院のメンバー――ブルーノとレーナが待機していることになっていた。


 が、


「レオノーラ!」


 馬車に乗り込む前に、そう呼び止められ、レオはぱっと振り向いた。


 そこに立っていたのは、上品な白髪と、優しい若草色の瞳を持つ老婦人。

 レーナの祖母にして、レオノーラの名付け親、エミーリアであった。


 彼女は、一抱えもあるバスケットを掲げると、レオに向かってにっこりと笑いかけた。


「道中、お腹が空くでしょう? あなたの好物をいっぱい作って、持ってきたの」

「エミーリア様……」


 レオは言葉に悩んで、中途半端に口を閉ざした。


 夫妻とは、すでに二か月の濃密な時間を過ごし、別れを惜しみきったはずだった。

 最後のほうには、エミーリアも平静を取り戻してくれて、これなら大丈夫と安心して学院に戻ったのだが。


(エミーリア様にだけは、……ちょっと、顔を合わせづらいっつーか、なあ……)


 友人関係に対しては割と淡泊に割り切れるレオの、唯一と言っていい弱点が、彼女だ。

 出会いと別れを繰り返し、ときにまた交わりあえるかもしれない友人との情と、彼女がレオに惜しみなく注ぐ愛情とは、どうも種類が異なるように思えた。


 レオにとって、まったく免疫のないその感情は、謎に満ちていて、奥深く――そして、恐ろしいほどに心地がよいのだ。

 うっかり、盗んではいけないという掟を、忘れかけてしまうほどに。


(この人は、レーナのお祖母さんなのに)


 偽物の自分が、付け込むようなことはしたくない。

 同時に、彼女の涙だけは、見たくない。


 レオが侯爵家からではなく、学院からの出発を選んだのは、そのためだった。


「ねえ、見て。あなた、鰊が好きでしょう? だからたっぷり、パイにしたの」


 なのに彼女は、レオにそんな言葉を掛けてくる。

 ほら、とバスケットの覆いを開けると、こんがりと焦げ目のついたパイを指さした。


「エミーリア様――」

「でも、ソースもたっぷり入っているから、ドレスに落ちないように気を付けてね。今日のドレスは白だから、なおさら心配」


 レオがなにかを言いかけるよりも早く、エミーリアが柔らかく遮る。

 彼女は、さかんに瞬きを繰り返しながら、なんとか笑みを維持していた。


「家だったら、替えのドレスなどいくらでもあるけれど、これからはそうもいかないもの。気を付けなくてはね」

「エミーリア様」

「ふふ、あのドレスたち、どうしましょうね。いっぱい、本当に、いっぱい、あるのよ。あなたに、着せてあげたくて……あなたとまだ出会いもしないうちから、生きていると……信じて……たくさん、……作ったの……」


 ブロンドが映えるブルーグレー、ブルネットを引き立てる柔らかなクリーム色、亜麻色の映える若草色。髪や瞳の色もわからぬうちから、祈るようにドレスを仕立てた。


 消えてしまった娘。

 その彼女が命と引き換えに生んだという孫娘を、なんとか温かな衣で包んでやりたいと、そう思って。


「あなたったら、本当にかわいいんだもの。着せても、着せても、すぐにまた着せたいドレスのアイディアが湧くのよ。お出かけもそう。食事もそう。もっと……わたくしには、もっと……あなたを、連れて、食べさせてあげたいものが、たくさん、…………っ!」


 ふいに、バスケットが彼女の手から滑り、どさりと地面に落ちた。

 エミーリアは強く少女を抱きしめ、その肩口に熱い涙をこぼした。


「あなたに、真夏の草原を見せてあげたかった! 秋の夕暮れの美しさを、冬の暖炉の温かさを、教えてあげたかった! 鰊のパイを、鶏肉のシチューを……っ、そういう、温かな料理を、ともに食べ、笑い合い……、作り方を、教えて……っ、一緒に……! もっと、一緒に……いたかった……!」


 エミーリアは、いつも上品な笑みを浮かべている顔をぐしゃぐしゃに歪め、声を震わせて叫ぶ。

 レオが恐る恐る触れた背は、かたかたと小刻みに震えていた。


「あなたの命を救ってくれた、尊き光の精霊を貶めるなど、あってはならないことだわ……! けれど! わたくしは、いっそこの大陸から、かの精霊など消えてしまえばいいと、思わずにはいられない……っ。あなたを……いつもわたくしたちに微笑みかけ、愛らしく歌を歌い、くるくると表情を変えながら、話を聞いてくれた、可愛いあなたを、奪う、など……!」


 その先は、もはや嗚咽にまみれ、言葉にならなかった。


 息苦しさを覚えるほどに、強く強く抱きしめられ、レオの目にもつい涙がにじむ。

 いや、にじむだけでなく、それは珍しく珠の形を取り、ぽろりと頬を伝った。


 すぐに潤む性質の、この紫瞳ではあれど――人前で涙を流すなど、ほとんど初めてのことだった。


(そっか……)


 ぽつんと、滴が落ちるように理解が広がる。


(エミーリア様にとって、俺は、本物の……「家族」なんだ)


 それは、レオの中で固く凝っていた殻のようなものを溶かし、心の一番柔らかい部分に、そっと染み込んでいった。


 彼女は、ただ血が繋がっているから少女を愛したのではなかった。

 孫という肩書を持つ人間だからではなく。

 黒髪と紫瞳が魅力的な、美しい子どもだからではなく。

 役に立つからでも、金を稼いでくるからでもなく。


 エミーリアはただ単純に、対価もなく、エミーリアと同じ時間を過ごした自分のことを、好いてくれている。

 レーナではなく、――レオノーラの中にいた、レオという人間を。

 家族として、愛してくれているのだ。


 ふと、脳裏によみがえる声があった。


 ――おお、精霊よ、感謝いたします。

「……私は、精霊に、感謝しています」


 それは、もう何年も前。

 雪と、――気付かぬうちに心の寒さに凍えていた、幼い自分の声だった。


 レオは、涙に濡れた瞳を上げたエミーリアに、そっと話しかけた。


「感謝しています。寒さに凍えていた、この心を満たし、……温めてくれる存在に巡り合えた、奇跡を」


 柄にもなく、こねくり回した文章。

 ブルーノには内緒だが、本当は、内職中だけでなく、寝る前までも考えていた。


「この奇跡を守るため、私は、この身のすべてを、精霊の、その尊い輝きの前に、捧げます」


 自分に家族の情とやらを注いでくれる、そんな人物は、きっと図抜けたお人よしか、よほど損得勘定の下手な人間だろうから、そのときには、自分が金の精霊に奉仕して、家計を助けてあげようと思った。


「この敬虔なる祈りに免じて、……どうか御加護を」


 結局、いつだったか、そんな奇跡が起こることはないのだと気付いて、以降すっかり忘れ去っていた、言葉。

 そっと、噛み締めるように呟くと、エミーリアは涙に潤んだ瞳で、こちらを見下ろしてきた。


「レオノーラ……」


 若草色と、紫水晶の瞳が、見つめ合う。

 レオは、すうっと息を吸い込み、エミーリアの背に回した腕に、力を込めた。


「祝福の輝きを、どうか、私の――」


 他人を実の親に向けるような呼称で呼ぶのは、ハンナに禁じられていたことだった。

 ハンナはハンナ。母ではない。

 残酷なようだが、その線引きを誤ってはならない。

 孤児としての身を弁えること。

 他人のものを、盗んではならない。


(ごめん、レーナ。……おまえのものを盗む俺を、許して)


 けれどこのとき、レオは生まれて初めて、強く目の前の人をこう呼びたいと思った。


「――お祖母様(・・・・)へ」


 エミーリア様、ではなく、夫人、でもなく。

 それは、初めて、少女がこの女性を「お祖母様」と呼んだ瞬間であった。


「……レオノーラ……っ」


 呼び方の変化に気付いたエミーリアが、大きく目を見開く。

 彼女はぼろぼろと涙をこぼすと、再び強く孫娘を抱きしめた。


「レオノーラ! レオノーラ! ああ、レオノーラ!」

「お祖母様。私たちは……家族です。そうです、よね?」


 おずおず、といった様子で、少女が尋ねるのに、エミーリアは何度も頷いた。


「ええ! そうよ! そうですとも!」

「なら、大丈夫です。家族ならば……どんなに離れていても、互いの姿が見えなくとも、きっと、……繋がって、いられます」


 囁くように告げる少女に、エミーリアははっと身を起こした。

 そうして、穴が開くほどじっとその小さな顔を見つめ――やがて、ゆっくりと、口の端を持ち上げた。


「――……そうね」


 今はまだ、涙に濡れた、小さな微笑み。


「……そのとおりだわ」


 けれどその若草色の瞳には、それまでにはなかった、かすかな希望の光が、そっと灯りはじめていた。


「……あなたを、愛しているわ」


 その言葉を聞いて――そしてそれが、まぎれもなく「自分自身」に向けられたものなのであると理解して、レオは静かに息を呑んだ。


 だってそれは、温かな寝台で眠りに落ちる子どもに、母親がそっとキスを落としながら告げる言葉。

 あるいは、転んで泣いたところを抱き上げてくれた父親に、子どもが無邪気に告げる言葉。

 「親しげに呼びかけていい肉親」を持たない自分には、きっと許されるはずのない、言葉だったから。


(でも……)


 許されるだろうか。

 欲してもいいのだろうか。

 稼いで正式に手に入れられる金以外のものを、自分が、欲しがっても、いいのだろうか――。


 唇が震える。

 内心で、ハンナに謝った。


 かつて間違って母と呼びかけてしまったとき、真剣な顔で訂正した、彼女。

 盗んではいけない、許されるのは拾うことだけと、繰り返し言い聞かせていた彼女。

 自分はこれから、彼女の言いつけに背くことをする。


 目の前の女性と、そして――できればハンナに。

 この二人の女性にだけは、どうしても言ってみたい言葉だったから。


「――私も、……愛しています」


 かすれた声で、初めて紡いだ言葉は、口にしてみれば意外なほどに、するりと空気に溶け込んでいった。

 無償の想いを約束し、約束させる、そのひどく無欲で強欲な言葉は、ただ自然に、鼓膜を揺らしただけだった。


 エミーリアの翠色の瞳から、また一粒涙がこぼれる。

 彼女はもうなにも言わず、ただ、こちらを抱きしめる腕に力を込めた。


 ぎゅっと互いを抱きしめ、涙に濡れた頬を寄せ合い。

 体温を交換するように、しばらく目を閉じた後、――ふたりは笑い合いながら、互いの身体を離した。

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番外編も投稿中

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無欲の聖女4
― 新着の感想 ―
[良い点] ああああ"あ"…、レオよかったね、わかったねうけいれられたね、みんなにもらったね… いやもう、最高です…
[一言] たまらない、涙が止まらないです。 レオが愛を受け入れられてよかった。エミーリア様、ありがとう。ハンナさん、ありがとう。 みんなが愛しくて泣けて泣けてたまりません。
[一言] 何回読んでもここで号泣してしまう
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