38.レオ、幕を下ろす(中)
鉄扉の向こうには、聖堂に向かうための馬車が用意されている。
それが、「こちら側」からレオノーラ・フォン・ハーケンベルグに向けられる最後の餞であり、中には橋渡し役として、皇子たちとも面識のある孤児院のメンバー――ブルーノとレーナが待機していることになっていた。
が、
「レオノーラ!」
馬車に乗り込む前に、そう呼び止められ、レオはぱっと振り向いた。
そこに立っていたのは、上品な白髪と、優しい若草色の瞳を持つ老婦人。
レーナの祖母にして、レオノーラの名付け親、エミーリアであった。
彼女は、一抱えもあるバスケットを掲げると、レオに向かってにっこりと笑いかけた。
「道中、お腹が空くでしょう? あなたの好物をいっぱい作って、持ってきたの」
「エミーリア様……」
レオは言葉に悩んで、中途半端に口を閉ざした。
夫妻とは、すでに二か月の濃密な時間を過ごし、別れを惜しみきったはずだった。
最後のほうには、エミーリアも平静を取り戻してくれて、これなら大丈夫と安心して学院に戻ったのだが。
(エミーリア様にだけは、……ちょっと、顔を合わせづらいっつーか、なあ……)
友人関係に対しては割と淡泊に割り切れるレオの、唯一と言っていい弱点が、彼女だ。
出会いと別れを繰り返し、ときにまた交わりあえるかもしれない友人との情と、彼女がレオに惜しみなく注ぐ愛情とは、どうも種類が異なるように思えた。
レオにとって、まったく免疫のないその感情は、謎に満ちていて、奥深く――そして、恐ろしいほどに心地がよいのだ。
うっかり、盗んではいけないという掟を、忘れかけてしまうほどに。
(この人は、レーナのお祖母さんなのに)
偽物の自分が、付け込むようなことはしたくない。
同時に、彼女の涙だけは、見たくない。
レオが侯爵家からではなく、学院からの出発を選んだのは、そのためだった。
「ねえ、見て。あなた、鰊が好きでしょう? だからたっぷり、パイにしたの」
なのに彼女は、レオにそんな言葉を掛けてくる。
ほら、とバスケットの覆いを開けると、こんがりと焦げ目のついたパイを指さした。
「エミーリア様――」
「でも、ソースもたっぷり入っているから、ドレスに落ちないように気を付けてね。今日のドレスは白だから、なおさら心配」
レオがなにかを言いかけるよりも早く、エミーリアが柔らかく遮る。
彼女は、さかんに瞬きを繰り返しながら、なんとか笑みを維持していた。
「家だったら、替えのドレスなどいくらでもあるけれど、これからはそうもいかないもの。気を付けなくてはね」
「エミーリア様」
「ふふ、あのドレスたち、どうしましょうね。いっぱい、本当に、いっぱい、あるのよ。あなたに、着せてあげたくて……あなたとまだ出会いもしないうちから、生きていると……信じて……たくさん、……作ったの……」
ブロンドが映えるブルーグレー、ブルネットを引き立てる柔らかなクリーム色、亜麻色の映える若草色。髪や瞳の色もわからぬうちから、祈るようにドレスを仕立てた。
消えてしまった娘。
その彼女が命と引き換えに生んだという孫娘を、なんとか温かな衣で包んでやりたいと、そう思って。
「あなたったら、本当にかわいいんだもの。着せても、着せても、すぐにまた着せたいドレスのアイディアが湧くのよ。お出かけもそう。食事もそう。もっと……わたくしには、もっと……あなたを、連れて、食べさせてあげたいものが、たくさん、…………っ!」
ふいに、バスケットが彼女の手から滑り、どさりと地面に落ちた。
エミーリアは強く少女を抱きしめ、その肩口に熱い涙をこぼした。
「あなたに、真夏の草原を見せてあげたかった! 秋の夕暮れの美しさを、冬の暖炉の温かさを、教えてあげたかった! 鰊のパイを、鶏肉のシチューを……っ、そういう、温かな料理を、ともに食べ、笑い合い……、作り方を、教えて……っ、一緒に……! もっと、一緒に……いたかった……!」
エミーリアは、いつも上品な笑みを浮かべている顔をぐしゃぐしゃに歪め、声を震わせて叫ぶ。
レオが恐る恐る触れた背は、かたかたと小刻みに震えていた。
「あなたの命を救ってくれた、尊き光の精霊を貶めるなど、あってはならないことだわ……! けれど! わたくしは、いっそこの大陸から、かの精霊など消えてしまえばいいと、思わずにはいられない……っ。あなたを……いつもわたくしたちに微笑みかけ、愛らしく歌を歌い、くるくると表情を変えながら、話を聞いてくれた、可愛いあなたを、奪う、など……!」
その先は、もはや嗚咽にまみれ、言葉にならなかった。
息苦しさを覚えるほどに、強く強く抱きしめられ、レオの目にもつい涙がにじむ。
いや、にじむだけでなく、それは珍しく珠の形を取り、ぽろりと頬を伝った。
すぐに潤む性質の、この紫瞳ではあれど――人前で涙を流すなど、ほとんど初めてのことだった。
(そっか……)
ぽつんと、滴が落ちるように理解が広がる。
(エミーリア様にとって、俺は、本物の……「家族」なんだ)
それは、レオの中で固く凝っていた殻のようなものを溶かし、心の一番柔らかい部分に、そっと染み込んでいった。
彼女は、ただ血が繋がっているから少女を愛したのではなかった。
孫という肩書を持つ人間だからではなく。
黒髪と紫瞳が魅力的な、美しい子どもだからではなく。
役に立つからでも、金を稼いでくるからでもなく。
エミーリアはただ単純に、対価もなく、エミーリアと同じ時間を過ごした自分のことを、好いてくれている。
レーナではなく、――レオノーラの中にいた、レオという人間を。
家族として、愛してくれているのだ。
ふと、脳裏によみがえる声があった。
――おお、精霊よ、感謝いたします。
「……私は、精霊に、感謝しています」
それは、もう何年も前。
雪と、――気付かぬうちに心の寒さに凍えていた、幼い自分の声だった。
レオは、涙に濡れた瞳を上げたエミーリアに、そっと話しかけた。
「感謝しています。寒さに凍えていた、この心を満たし、……温めてくれる存在に巡り合えた、奇跡を」
柄にもなく、こねくり回した文章。
ブルーノには内緒だが、本当は、内職中だけでなく、寝る前までも考えていた。
「この奇跡を守るため、私は、この身のすべてを、精霊の、その尊い輝きの前に、捧げます」
自分に家族の情とやらを注いでくれる、そんな人物は、きっと図抜けたお人よしか、よほど損得勘定の下手な人間だろうから、そのときには、自分が金の精霊に奉仕して、家計を助けてあげようと思った。
「この敬虔なる祈りに免じて、……どうか御加護を」
結局、いつだったか、そんな奇跡が起こることはないのだと気付いて、以降すっかり忘れ去っていた、言葉。
そっと、噛み締めるように呟くと、エミーリアは涙に潤んだ瞳で、こちらを見下ろしてきた。
「レオノーラ……」
若草色と、紫水晶の瞳が、見つめ合う。
レオは、すうっと息を吸い込み、エミーリアの背に回した腕に、力を込めた。
「祝福の輝きを、どうか、私の――」
他人を実の親に向けるような呼称で呼ぶのは、ハンナに禁じられていたことだった。
ハンナはハンナ。母ではない。
残酷なようだが、その線引きを誤ってはならない。
孤児としての身を弁えること。
他人のものを、盗んではならない。
(ごめん、レーナ。……おまえのものを盗む俺を、許して)
けれどこのとき、レオは生まれて初めて、強く目の前の人をこう呼びたいと思った。
「――お祖母様へ」
エミーリア様、ではなく、夫人、でもなく。
それは、初めて、少女がこの女性を「お祖母様」と呼んだ瞬間であった。
「……レオノーラ……っ」
呼び方の変化に気付いたエミーリアが、大きく目を見開く。
彼女はぼろぼろと涙をこぼすと、再び強く孫娘を抱きしめた。
「レオノーラ! レオノーラ! ああ、レオノーラ!」
「お祖母様。私たちは……家族です。そうです、よね?」
おずおず、といった様子で、少女が尋ねるのに、エミーリアは何度も頷いた。
「ええ! そうよ! そうですとも!」
「なら、大丈夫です。家族ならば……どんなに離れていても、互いの姿が見えなくとも、きっと、……繋がって、いられます」
囁くように告げる少女に、エミーリアははっと身を起こした。
そうして、穴が開くほどじっとその小さな顔を見つめ――やがて、ゆっくりと、口の端を持ち上げた。
「――……そうね」
今はまだ、涙に濡れた、小さな微笑み。
「……そのとおりだわ」
けれどその若草色の瞳には、それまでにはなかった、かすかな希望の光が、そっと灯りはじめていた。
「……あなたを、愛しているわ」
その言葉を聞いて――そしてそれが、まぎれもなく「自分自身」に向けられたものなのであると理解して、レオは静かに息を呑んだ。
だってそれは、温かな寝台で眠りに落ちる子どもに、母親がそっとキスを落としながら告げる言葉。
あるいは、転んで泣いたところを抱き上げてくれた父親に、子どもが無邪気に告げる言葉。
「親しげに呼びかけていい肉親」を持たない自分には、きっと許されるはずのない、言葉だったから。
(でも……)
許されるだろうか。
欲してもいいのだろうか。
稼いで正式に手に入れられる金以外のものを、自分が、欲しがっても、いいのだろうか――。
唇が震える。
内心で、ハンナに謝った。
かつて間違って母と呼びかけてしまったとき、真剣な顔で訂正した、彼女。
盗んではいけない、許されるのは拾うことだけと、繰り返し言い聞かせていた彼女。
自分はこれから、彼女の言いつけに背くことをする。
目の前の女性と、そして――できればハンナに。
この二人の女性にだけは、どうしても言ってみたい言葉だったから。
「――私も、……愛しています」
かすれた声で、初めて紡いだ言葉は、口にしてみれば意外なほどに、するりと空気に溶け込んでいった。
無償の想いを約束し、約束させる、そのひどく無欲で強欲な言葉は、ただ自然に、鼓膜を揺らしただけだった。
エミーリアの翠色の瞳から、また一粒涙がこぼれる。
彼女はもうなにも言わず、ただ、こちらを抱きしめる腕に力を込めた。
ぎゅっと互いを抱きしめ、涙に濡れた頬を寄せ合い。
体温を交換するように、しばらく目を閉じた後、――ふたりは笑い合いながら、互いの身体を離した。