37.レオ、幕を下ろす(前)
その日、ヴァイツゼッカー帝国学院は早朝からざわついていた。
大陸一の覇権を握るヴァイツ帝国。
その王国貴族の子息、子女が集められ、また国内外の優秀な市民をも招集した学院は、豪奢な白亜の建物で、帝国の威信を体現するかのような装飾で溢れている。
併設された教会が朝の鐘を鳴らす時刻、学院の使用人によって掃き清められた回廊には、抑えきれない興奮で目を潤ませた学生たちが、続々と詰め掛けていた。
その中でもひときわ目を引く金髪の少女が、最も見晴らしの良いと思われる回廊の角に歩みを進めていく。
その姿を認めると、周囲の生徒が一斉に首を垂れた。
彼女の名は、ビアンカ・フォン・ヴァイツゼッカー。
咲き初めの薔薇にもたとえられる麗しい姿を、この日ばかりは珍しく紫色のドレスに包んだ彼女は、夏の爽やかな空気をすっと吸い込み、声を張った。
「皆様、準備はよろしくて?」
とたんに、周囲から一斉に力強い応えが返る。
彼女の従姉、ナターリア・フォン・クリングベイルも、紅薔薇会のメンバー、エルゼ・タウバートも、その場に居合わせた者は、みな一様に菫の色を思わせるドレスをまとっていた。
女性陣だけではない。
本来この下級学年の校舎にはいないはずのオスカー・ベルンシュタインやロルフ・クヴァンツといった上級生の男子生徒、果ては、教師であるグスタフ・スハイデンまでもが、なにかしら紫色の装飾品を身に着け、その場に立っていた。
「来たわ」
ビアンカの鋭い呟きに、周囲が一斉にざわめく。
何十という視線が、回廊を貫く石畳の道、その先の寮室の廊下に向けられた。
視線の種類は様々だ。
涙をこらえるもの、強い憧憬を含んだもの、これから現れる人物を目に焼き付けんと、必死なもの――
コツ……――
はたして、廊下の暗がりから、小さな足が一歩を踏み出した瞬間。
誰もがはっと息を呑んだ。
そこに現れたのは、――まさに、光の精霊であった。
真っ先に目を引くのは、光を受けて輝く水晶のように、明度の高い紫の瞳。
不思議なことに、陽光を浴びるとそれは金色にも見える。
瞬きのたびに音が鳴りそうな長い睫毛や、ほんのりと色づいた唇は、まさに可憐の一言だ。
艶やかな黒髪は春先からまた一段と長さを増し、一部だけを肩に下ろしながら、複雑に編み込まれている。ところどころに真珠やレースをあしらい、純白のベールを後ろに流す様には、生まれついての王女のような気品があった。
そう、純白。
この日、精霊と見まごう美貌の少女――レオノーラ・フォン・ハーケンベルグは、そのほっそりとした肢体に、いつもの薄墨のドレスではなく、溜息が出るほど繊細な、白のドレスをまとっていた。
いつもと異なる点が、もうひとつ。
彼女に影のように付き添う従者は、この日、珍しく少女と距離を開けている。
代わりに彼女の横に佇み、その小さな手を引いているのは、――帝国第一皇子、アルベルト・フォン・ヴァイツゼッカーであった。
それはまるで、一幅の絵画。
純白の衣装に身を包んだ美貌のふたりは、さながら、約束された精霊のつがいのようであった。
と、ふたりがもう一歩を進めると、我に返った学生により、荘厳な讃美歌の合唱が始まる。
ある者は自慢の楽器を持ち出し、その調べに花を添え、またある者は、白のトルペの花弁を高らかに撒きはじめた。
「無欲の聖女にして、光の愛し子、レオノーラ!」
「レオノーラ、どうかお幸せに!」
方々から祝福の言葉が叫ばれる。
少女の背中を見守りながら、それを聞いていたカイは、うるっと涙ぐみ、
「おきれいです、レオノーラ様……」
と呟いた。
「――……いえ、あの、皆さん……」
従者の万感の籠った言葉を聞き取った少女――の姿をしたレオは、ついぼそっと漏らす。
「結婚式じゃ、ないですから……」
どこを見つめているともつかない紫の瞳は、言い換えれば遠い目と呼んで差し支えなく、憂いを帯びた表情は、単にげんなりしているとも言えた。
しかし、隣を歩いているアルベルトは、少女のその困惑交じりの呟きを拾い、優雅に苦笑を浮かべた。
「まあ、まあ。これは彼らなりの昇華――苦悩の末に、選び抜いた振舞いなのだから」
僕も含めて、ね。
付け加えながら優しい一瞥まで向けられ、レオは曖昧に笑みを返した。
「はあ……」
そうしてぼんやりと、もう三か月も経った、あの日の出来事を思い出しはじめた。
***
あの日――契約祭最終日の、夜明け。
大勢の人々に見上げられながら、レオがアルベルトに対峙していたあのとき、空に突然光が溢れだした。
目を開けていられないほどのまぶしさに、多くの者が顔をかばい、しかしやがて恐る恐る空を見上げると、彼らははっと息を呑んだ。
朝焼けに黄金の雲を浮かべた空には、黒髪に金色の瞳の女性が浮かんでいたからである。
この世の者とは思えぬ美貌に、背後から広がる光。
その正体が、光の精霊であることは、誰の目にも明らかであった。
『ひ……光の精霊だ!』
『そんな、精霊珠のある場所以外で顕現されるなど……!』
民が、導師が、その登場にざわめく。
しかし黒髪の麗しい精霊は、彼らに慈愛の籠った眼差しをひとつだけくれると、あとは興味を失ったように、くるりと体の向きを変えた。
そうして、遥か高みからバルコニーを見下ろし、驚愕に目を見開いているアルベルトたちに向かって、凛とした表情で言い放った。
――その娘から、手をお引きなさい。
それは、エランド語ともヴァイツ語ともつかぬ、脳を直接揺さぶるような声。
けして張り上げているわけではないのに、その場にいた者全員の胸の内に、するりと入り込むような声だった。
「光の精霊……!? なぜ……」
『光の精霊よ、なにゆえに尊きお姿をそちらに現したのか……!』
アルベルトが怪訝な表情を浮かべれば、サフィータがすかさず古代エランド語で問いただす。
唯一、小柄な少女――レオだけは、
「な……っ、……!」
(なんでまた光の精霊のふりしちゃってんですか、アル様あああ!?)
その正体を悟り、ほかの者とは異なる種類の驚愕を露わにしていた。
高貴なる美貌の至高精霊――の姿をしたアルタは、しかし下々の者の動揺など歯牙にもかけぬ様子である。
代わりに彼女はすっと美しい指を持ち上げると、ぴたりとレオのことを指し示した。
――もう一度言います。
その娘から、手をお引きなさい。
この巫女は……もはやわたくしのもの。
「なんだって……!?」
「…………!」
アルベルトがぎょっとしたように聞き返す。
レオもまた、麗しの金の精霊様に自分のもの宣言されて、一瞬心臓をきゅんと高鳴らせつつ、その意図を察してはっと顔を上げた。
アルタは、自分の脱走に、手を貸そうとしてくれているのだ。
「アル様……!」
驚きと感謝でつい叫んでしまったレオをかばうように、アルベルトがすっと歩み出た。
『尊き御身が、なにゆえかようなことを仰るのです。彼女は、たしかにあなたを寿ぐために遣わされた巫女ではありますが、その身は、まぎれもなく彼女自身のもの。いかに高貴な御身とはいえ、それを自由にすることはかなわぬはずです』
いったいどれだけ万能なのか、流暢な古代エランド語で言い返す。
しかし、黒髪の精霊は、その慈愛深いとされる金の瞳をすっと細め、ゆっくりと告げた。
――あなたは、まだわかっていないようですね。
『……なにがです?』
――その娘が、五体満足にその場に立っているのは、誰のおかげだと思っているのですか?
瞠目するアルベルトたちに、彼女は優雅に小首を傾げ、言い放った。
――死の淵に迫った彼女を救ったのは、わたくしです。
『死の淵……!?』
その不穏な単語に、アルベルトとサフィータがそろって息を呑む。
同時に、レオはといえば、引きの強いワードを投げ出して、見事に観客の心を掌握してみせたアルタの手腕に痺れていた。
食い入るようにこちらを見上げる彼らに、麗しの精霊は諭すように優しく話しかけた。
――覚えているでしょう。
この娘の装束から滴ってなお余っていた、大量の血。
かように小さな体から、あれだけの血が失われたならば、到底助かるはずもない……それほどの血を。
失われたならば、とは言うが、失われたとは言わない。
まるで詐欺師のようなやり口で、アルタは滑らかに「少女に迫った危機」を演出した。
――闇の精霊に捧げられんと、鎖に繋がれていたこの娘を、見過ごすこともできました。
けれど、彼女の魂は、わたくしにはあまりに輝かしく、魅力的に思えた。
なので、助けました。
もしわたくしが手を出さなければどうなっていたか……わかりますね?
文尾をぼかして、相手の想像力に委ねるあこぎ仕様だ。
しかし、見事それに引っかかったアルベルトたちは、最悪の事態を一瞬で詳細に想像し、青ざめていた。
『なんということだ……!』
一方で、レオはつい、敏腕な同業者を見たかの思いで唸り声を上げる。
レオが鎖に繋がれていたのも、ぎらぎらした金銭欲がアルタのお眼鏡に適ったらしいことも、金貨の中にかくまわれたことも、すべて事実だ。
嘘はつかないが、事実を曲げて受け入れさせる。
さすが金の精霊とでもいうべきか、その論法は、怪しげなセールストークを炸裂させる実演販売士そのものだった。
『あなたが、彼女の傷を癒したというのか……!?』
アルベルトが強張った表情で尋ねたが、アルタはそれにダイレクトには答えず、ただこう言って微笑んだ。
――わたくしは、この娘を気に入りました。
ほしいと、そう思ったのです。
(すげえ、これも実話……!)
アルタに「あなたがほしい」と言われたことを思い出し、なるほど高度な駆け引きとはこういうものかとレオはしみじみする。
しかしそんな彼をよそに、アルベルトはますます顔を強張らせた。
『ほしい、とは……』
――知れたこと。
この娘を、わたくしの巫女とし、……生涯わたくしのために仕えさせるのです。
『――……!』
「――……!」
生涯仕えさせるとの発言に、アルベルトもレオも息を呑んだ。
ただし、片方は絶望に、片方はときめきに。
一生金の精霊の僕でいられるなんて、なんという至福だろう。
感激のあまり、素で目を潤ませるレオに、アルタはゆったりと微笑みかけた。
――さあ、巫女よ。わたくしとともに参りなさい。
わたくしの輝きを称える聖堂を建て、あなたは一切の俗世とのかかわりを絶ち、そこで祈りを捧げるのです。
それが、わたくしの施せる最大の慈愛。
救いと引き換えに、わたくしがあなたに命じるもの。
(アル様、ちゃっかり聖堂のことまで話着けてるし!)
かねてからほしかったという聖堂も、さりげなく要望に織り交ぜてくるアルタに、レオはのけぞりそうになった。
これがほかの誰かだったら「ちゃっかりしすぎだろおい」と突っ込みたくなる言動も、信仰する金の精霊がするとなれば、話は別。
むしろ、「まじパねえっす!」「さすがっす!」くらいな感動を抱き、レオは両手を組んで彼女を見上げた。
言葉を詰まらせ、目を潤ませて精霊を見上げるその姿は、傍目には、命と引き換えに愛する人と引き裂かれる、悲劇の美少女にしか見えない。
アルベルトは、先ほどのプロポーズの際、なぜ少女がつらそうに拒絶の言葉を口にしたかを理解し、白皙の美貌を歪めた。
「レオノーラ……かの精霊の言うことは、本当か……?」
「ええと……そ、そうですね。すべて、事実です」
はっとしたレオが、少しばかり目を泳がせて頷けば、皇子は絶句する。
彼はそのアイスブルーの瞳を絶望に潤ませると、震える手で少女の目尻をなぞった。
精霊が手を差し伸べたその一瞬、紫から金へと色を変じた、少女の瞳のすぐそばを――。
「……本当、なのだね……」
そうして、きつく、その小柄な体を抱きしめた。
「なんという……なんということだ、レオノーラ――!」
まっさらな朝陽は燃えそうなほどの赤みを帯びてふたりを照らし、伸びた影は重なることなく床を這う。
青年の金髪に弾かれたひとかけらの光は、まるで涙のように、少女の白い頬を伝うのであった――。
(――完)
回想を終え、ついそんな言葉を思い浮かべてしまう。
アルタの演出した「美しい嘘」は、それほどに小説的というか、物語的であった。
そしてまた、そのロマンチシズム溢れる筋書きが、貴族連中の思考回路にぴったり一致したらしく、レオノーラの出家、もといレオの貴族社会脱走は、なんの疑いもなく受け入れられてしまったのである。
貧しい地域に光の祝福を投げかけられるよう、輝きの聖堂は下町の、たとえば孤児院の裏手に建てること。
巫女はひとりでそこに住まい、困ることがあれば、豊かで愚かな者の富ではなく、貧しく賢明な者の知恵を借りること。
万が一この掟を破り、龍の血を持つ貴族たちが少女の生活を覗き見たりすることがあれば、「すべての救いは無に帰す」こと。
アルタは、レオが孤児院の近くに帰れるよう、そして、入れ替わり解消後のレーナが自由に暮らせるよう、こう付け加えてくれたわけであったが、それすらもすんなりと受け入れられてしまい、当のレオたちも驚くほどであった。
(……いや、すんなり、ってわけでもなかったか)
心の内で訂正し、レオは再び遠い目をする。
そう。
人々は、精霊の言を受け入れたが、受け入れられなかった。
光の精霊の話を、嘘や偽物ではないかと疑う声こそなかったが、それに従うのには難色を示し、結果、大騒動があちこちで勃発したのである。
まず、レオノーラ付きであったにもかかわらず、少女がそのような目に遭うのを許してしまったカイやグスタフが、自責の念のあまり辞職未遂。
カイに至ってはほとんど命を絶ちそうな状況であったので、レオは三日三晩付きっ切りで彼を慰め――「見て! 私は、生きています!」のセリフは、のちにハーケンベルグ歌劇団の代表的演目「主よ、生の歓びを」へとアレンジされることを、レオは知らない――、なんとか前を向かせることに成功。
グスタフに対しては、「私のためを思うなら、むしろ、快適な聖堂を整えてください」の言葉がきいたらしく、聖騎士団が精霊力を爆発させて作り上げた聖堂は、わずか三か月という驚異的なスピードで竣工を迎えることとなる。
また時を同じくして、ヴァイツで全軍蜂起の準備を進めていた侯爵夫妻が卒倒、および錯乱未遂。
愛する孫を死の淵に追いやった輩を血祭りにあげてやると、なんだか黒ミサを始めそうな気配だったため、レオが二か月付きっ切りでそれを宥め、「どうか今回のことのために、そんな感情に囚われないで」と諭しつづけた。
儀式に加担した男たちを捕らえようという向きもあったようだが、それもレオが慌てて反論。
彼らは騙されていただけ、彼らには下町を担う役割を託したいのだからという孫の言葉に、夫妻は涙を浮かべ――そのぶん、アリル・アドへの尋問は苛烈を極めたという。
アリル・アドには申し訳ないが、夫妻の恨みがエランドでもカイたちでもなく、彼一人に集中したのはありがたいことだと、レオはかの導師に、内心感謝すらしはじめていた。
さて、それに加えて、今度はなにか悲壮な顔をしたアルベルトが、皇子の座を捨て、自らも町に下りる、などと言いだした。
おや、それならアル坊として今度こそ弟分に、とうっかり思いかけたレオだったが、考えるまでもなく、それではせっかくアルタの整えてくれた入れ替わり解消のシナリオが総崩れになってしまう。
そこで、口の達者なレーナにも加わってもらい、慌てて制止に入った。
ところが、レーナが「下町での彼女の暮らしは、俺が面倒を見るから任せろ」と請け負ったことで、事態は混迷。
もはや皇子の身分に未練などない、今度こそ、ほかの誰でもない自分が少女を守るのだと、アルベルトが意地になってしまったのである。
これにはレーナも「しまった」という顔で言葉を尽くしていたが、結局、レオが苦し紛れに放った、
「あなたが、貧しく賢明な者に、なるのではなく、私の周りの全員を、豊かで賢明な者に、してください。そうすれば、かの精霊のお言葉の縛りを外れ、そのお考えも変わるかもしれません」
という言葉が、どういったわけか彼の琴線に触れたらしい。
アルベルトははっとした顔になると、それまで以上に表情を引き締め、強く拳を握りしめた。
その際に彼が口にした、「金貨王の名に懸けて」という言葉が、これまたのちに、吟遊詩人の奏でる曲のタイトルとなり、ヒットチャートを駆け上がるのだが、もちろんレオがそれを知る由もない。
そしてとどめに、一連の出来事を知ったビアンカやナターリア、学院の面々も、次々と恐慌をきたし、ある者は倒れ、ある者は泣き伏した。
ビアンカが目を真っ赤にして、「レオノーラ、行かないで……!」と縋りつき、ナターリアが泣きじゃくりながら「わたくしが行っていれば……!」と顔を覆ったときには、さすがのレオも、「彼女たちを騙すようなことをしてよいのだろうか」と葛藤したのだが――
(この人たち、なんかすげえ生き生きと嘆くんだもん……)
女性陣の嘆き方というのは、本当にすさまじい。
連日紅薔薇会や白百合会を開き、その悲しみを詩に綴ったり、涙の数を数えたり、連れ立って光の精霊への恨みを叫んだりする彼女たちの姿を見て、レオはだんだん、お腹いっぱいになってきてしまったのである。
だって、考えてもみてほしい。
設定上死にかけたことにはなっているが――そして実際、死の危機には接したわけだが――、なにも死に別れたわけではない。
会えこそしないが、失踪とは異なり、住む場所もわかっている。
普通に卒業して連絡が取れなくなる友人たちと、実質なにが違うというのだろうか。
孤児院でこの手の別れを何度も経験していたレオは、わりとドライにその辺を割り切っていた。
せっかく得た貴族令嬢の座を捨て、下町の聖堂にひとり籠ることを同情する声も多くあったが、精霊は下町の者となら交わってよいと言っているし、なにより、本人がそれを望んでいるのだ。
それを何度も繰り返し宥めたのだが、一向に理解してもらえず、とにかく「かわいそうかわいそう」と言われるので、レオはやがて説得を諦めることとなる。
そうして、ほかの火消しに没頭していたのだが――
その間に、悲嘆にくれつくした彼女たちは徐々に顔を上げ、思いもよらぬ方向に発想を駆け上がらせていったのである。
「レオノーラは、……これはつまり、嫁に行くということなのではないかしら」
最初にそう呟いたのは、誰だったか。
出家ではなく、結婚。
その学生の隣で涙をぬぐっていた友人は、すとんと腑に落ちるなにかを感じながら、こう返した。
「……そうですわね。嫉妬深い夫に家に囲われ、連絡も取れなくなってしまうことは、わたくしたちの世界には、ままあること。……言い換えられなくも、ないですわね」
まじまじと見つめ合うふたりに、周囲の学生も、次々と言葉を継いだ。
まあ、本当だわ。
美貌も教養もある女性に限って、そのようなことが起こるというあたりも、そっくり。
レオノーラは、間違いなくこの世で最も正妃に近い女性ですもの。
精霊が目を付けるというのも、頷けますわ。
清らかな乙女が、精霊に召し上げられ、より尊い存在になる……。
女性としてどころか、人の子として最高の栄誉を手にし、輝ける存在の一柱に。
――精霊の、花嫁に!
貴族令嬢たちにとって、「花嫁」のワードは、すべてを正当化する力を持っている。
そしてまた思春期の彼女たちにとって、悲劇の艶を帯びたその発想は、なにやらとても甘美なものに思われた。
光の精霊って女性じゃありませんでしたっけ、といった無粋なツッコミは置き去られ、彼女たちは「精霊の花嫁」という肩書の麗しさに夢中になった。
そうして、文芸に優れた彼女たちは、「精霊の花嫁、あるいは無欲の聖女・レオノーラ」の書を共著、出版。
そのころには、学院内の空気は「レオノーラが学院を去るのって哀しいことですっけ? いいえ、切なくも喜ばしいことですわ、彼女の嫁入りを最高の笑顔で祝福しましょう!」的なものに塗り替えられていたのである。
そんなわけで、彼女たちから日々、ベールだの刺繍道具だの白のブーケだのといった「嫁入り道具」を貢がれつづけたレオは、今、若干顔を引き攣らせながらウェディングマーチもどきを進めていた。
(タダでもらえるものに対して、微妙って思うなんて、初めてだぜ……)
そんな感想を、抱きながら。
まあなんにせよ、偽りの姿とはいえ友情を結んだ彼らが、自分との別れを悲しむことなく受け入れてくれたのであれば、それは重畳である。
貴族特有の、劇的でどこか空回っていて、起伏の激しい物思いを乗り越えてくれたのであろう彼らは、今、満面の笑みを浮かべている。
レオは珍しく、小銭の落ちているかもしれない床ではなく、そんな彼らの顔を見て、歩いた。
(……だってもう、俺が拾っていいもんは、この場には、ねえしなあ)
レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ――一年足らずの間だけ在学を許された少女は、もうすぐ、この世から永遠にいなくなる。
学院にいる間に、そこに落ちているものを拾うのは「ねこばば」だが、自分のかかわりのない場所から物を奪うのは、泥棒であり犯罪であった。
ねこばばと、盗みの間の深い溝。
それだけは、レオが越えてはならないと心に決めているものだ。
(……それに、もう、充分、もらったしな)
花を。針を。お菓子を。金貨を。
そして、笑顔を。楽しい時間を。
――友情を。
知識技術というのは、けして盗まれることのない至高の財産。
そしてきっと、思い出というのも、盗まれない、そして盗んだことにもならない、数少ない宝物なのだろう。
やがて石畳を進み終え、かつてくぐった荘厳な鉄扉の前に着くと、アルベルトが歩みを止める。
彼は、レオの体の向きを変え、周囲から顔がよく見えるようにすると、自らは一歩離れた。
そうして、その場の全員を代表するように、いつもの、歌うような口調で告げた。
「レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。君の、その無欲さを、そして精霊からの永遠の祝福を、僕たちは祈る」
朗々たる声に、一同が呼吸すら止めて聞き入る。
アルベルトは、出会ったころのような、作り物めいた微笑ではなく、葛藤と決意をくぐり抜けた後の爽やかさを宿して、言葉を続けた。
「君を、女性として繋ぎ止めることはできなかったが、言い換えればそれは、君とのこの関係は、永遠だということだ」
これが本当の結婚式であれば、永遠の愛を誓うべき場面。
アルベルトは代わりに、不変の友情を誓った。
「僕たちの中で、君は誰のものでもない。ただ純粋に、君だけのもの。愛され囲われる女性としてではなく、自立した一個の人間として。愛を疑い感情を揺らす恋人としてではなく、清らかであり凛とした聖女として。僕たちは、永遠に君を胸に刻み、変わらぬ敬意と友情を捧げる」
女は男に守られるべき、美しく無力な生き物。
そういった風潮の強いヴァイツにあって、少女を一人の人間として認め、その凛とした強さを称えるアルベルトの宣言は、異色とも言えた。
しかし、
「――……」
かつて、女だからという理由で、食料すらも分けてもらえなかったハンナを見ていたレオは、ふと、柔らかく口元を綻ばせた。
「……ありがとうございます」
狂気の処刑家フィルターを取り払ったことで、レオは、最近になって初めて、このアルベルトという人物ときちんと向き合うようになった。
彼は、やはり貴族特有の、ロマンチシズム溢れる思考回路の持ち主のようにも思われるが、その根底は、真摯で誠実だ。
最近は老若男女、貴賤を問わず側近に取り立てつつあるようだし、金貨王として即位した後には、あらゆる町から、飢えと貧しさを取り払うのが夢なのだとも聞く。
彼の治世が待ち遠しいなと、レオは、ちょっぴりそんなことを思った。
恋人には無論なれないが、もし、出会いさえ違えば。
今の彼とならば、親友になれたかもしれない。
レオが頷くと、アルベルトは穏やかに微笑み、その手を取って高らかに空に掲げた。
「諸君!」
自らも周囲に向き直り、張りのある声で宣言する。
「僕たちは今、ここに誓おう。たとえ姿を見ることはなくとも、彼女は常に僕たちの傍らにあり、僕たちもまた、彼女の傍らにありつづけると!」
聞き届けた学生たちが、一斉に拳を突き上げ、わあっと歓声を上げた。
事実、この日を境に、アルベルトや学院出身の人物が絵画や小説に描かれる際には、きまって少女が、まるで精霊のように描き込まれるようになる。
――ヴァイツ人が、「脳内補完」の概念と出会った、それは記念すべき瞬間であった。
やがて歓声が収まると、アルベルトは再び少女に向かい合い、そっと手を離す。
そうして、アイスブルーの瞳を優しく細め、告げた。
「――行っておいで。レオノーラ」
「はい。……アルベルト様」
初めて、「皇子」ではなく、きちんと彼の名を呼び。
レオはアルベルトと握手して、別れた。