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無欲の聖女は金にときめく  作者: 中村 颯希
第三部(完結編)
142/150

34.レオ、輝く(前)

 契約祭、最後の日。


 まだ空も白みはじめぬうちから、聖堂の周辺には、信仰心深いエランドの民が集まりだしていた。

 普段は、厳しい禊ぎを済ませねば近づけぬ聖堂も、この日ばかりは外郭に限り、自由に出入りできることになっているのだ。


 多くの人々は、儀式とは別に、夜通し開催されている祭の酒に酔い、上機嫌である。

 彼らはこの三日ほどというもの、しばし労働の手を休めて酒に酔い、最終日の朝、光の精霊が授ける祝福――ご来光を聖堂から見届けて、この祭を終えようというのであった。


 歌いながら聖堂に詣で、のんきに日昇を待つ民たちを、アリル・アドは聖堂の張り出し窓から覗き、そっと優しい笑みをこぼした。


 無邪気で、陽気で、善良。

 夜明けとともに自分たちにもたらされるのが、光の精霊による陽光であると、疑いもしない。

 ――だが、それでよい。


 彼らが今幸福であるほど、その後降りかかる禍は耐えがたいものになるであろうし、絶望はより深くなるだろう。

 そして、その増大された負の感情は、もれなく闇の精霊の糧となり、自分の力となる。

 その甘美を思うと、自然と、アリル・アドの頬は緩んだ。


 東に面した聖堂のバルコニー、そしてそこに繋がった禊ぎの間には、すでに各国の巫女と導師たちが控えている。

 ある者は眠気に瞼をこすり、またある者は、迫りつつある任務からの解放に胸を躍らせ、一様に、日の出の時刻を待っていた。

 あとは、大導師の代表であるサフィータが、精霊珠を掲げて祈りとともに登場すれば、寿ぎの儀の始まりである。


(さあて、大いなる禍の始まりだ)


 アリル・アドは笑みを消し、代わりに心底焦ったような表情を浮かべると、サフィータが控えている至宝の間の扉を叩いた。


 禊ぎの間と同じバルコニーに繋がっているその部屋は、本来ならば外からの陽光がふんだんに降り注ぎ、明るく輝いているはずだったが、夜も明けぬ今、蝋燭すら灯さずにいるせいで、重苦しい闇に閉ざされている。


 巨大な台座に精霊珠の据え置かれた、暗く厳粛な空間で、彼の主人はぼんやりと掌を見つめて座っていた。


『サフィータ様。お耳に入れたいことがございます――ああ、またこのように暗いままにされて。お心が陰ってしまいますぞ』


 少し早口で告げながらも、いつものように、心配性な世話役そのものの口調で、手近な燭台から火を移して、部屋を明るくしてやる。

 そうして、蠟燭の火をじっと見つめている彼に、神妙な面持ちで切り出した。


『目前に迫った寿ぎの儀に向けて、巫女たちが控えの間に集っておりますが、……どうも、ヴァイツの巫女の姿が、見当たりませぬ』

『…………』


 静かに顔を上げたサフィータに、アリル・アドは眉を寄せて頷きかけた。


『さては寝過ごしているのかとも思いましたが、女官たちに尋ねてみたところ、もう数刻部屋に戻っていないのだとか。もしかしたら、聖堂内を探索しようとして、迷ってしまったのかもしれませぬ。この建物は、とかく複雑な構造ですゆえ』


 複雑な構造、という部分で、アリル・アドは内心笑みを浮かべた。


 そう、この一見麗しい大聖堂は、エランドの優雅で腐敗した歴史そのままに、実に矛盾に満ちた造りになっている。

 傲慢を罪と言いながらも、人々を見下ろすような高台に建てられていたり、慈愛を教義に掲げながらも、囚人を閉じ込めるための部屋があったり。

 極めつけには、――光の精霊の依り代たる珠を祀る、この部屋の真下に、闇の精霊を召喚するための部屋があったり。


(もっとも、最後の改造を加えたのは私だが)


 かつての王族がこっそり囚人を拷問できるよう、この部屋と秘密通路で結ばれていた地下牢。

 そこに祭壇をしつらえたのは、アリル・アドであった。


 ちょうど今、そこではヴァイツの巫女が幼い体を卑しい男どもに穢され、命を落としている頃合いだろうか。

 清らかなる者の苦しみと怨嗟、悲痛の叫びは、間違いなくほかにない闇をまとって、精霊を呼び出すことだろう。


 その瞬間に立ち会えないのは残念だが、こと闇の精霊の場合、召喚されるや、差し出された供物と術者を、見境なく「平らげて」しまうこともあると聞く。

 アリル・アドは、自らの血を供物である金貨に塗って、この儀式の主が自分であることを示しておいた。

 そうすることで、召喚された闇の精霊がひととおり腹を満たした後、悠々と出ていき、契約を結ぶつもりである。


(それに、今この瞬間、私が儀式の場にいてはならぬし、な)


 のちにヴァイツの巫女が惨殺されたと判明したとき、アリル・アドは無実潔白を貫けるようでなくてはならない。

 そのためには、闇の精霊が呼び出されるその瞬間、彼は多くの人物に目撃されている必要があった。


 精霊珠の腐蝕は魔力のせいだと誘導することで、サフィータにはヴァイツへの不信と敵意を抱かせ、エランドの管理下で巫女を殺すことで、ヴァイツにはサフィータへの憎しみを抱かせる。

 自分はその間に立って、素知らぬ顔をしながら、両者の対立を煽り立て、戦と禍をまき散らさねばならないのだ。

 今ここで、罪が知られるわけにはいかなかった。


 難しい表情で、じっと己の拳を見つめているサフィータに、アリル・アドはさも心配そうに申し出た。


『寿ぎの儀を欠席したとなれば、昨日の精霊への侮辱ともあいまって、いよいよヴァイツを責める理由にはなりえます。ですが、光の精霊はどうも、あの巫女を気に入った様子。彼女を口実に戦を仕掛けるというのは、――やはり、私の良心が咎めるのです。いかに野心家の娘とはいえ、我々もせめて探索ぐらいはしたほうがよいのではないかと』


 こう言えば、逆にサフィータは後に引けなくなり、探索さえするなと命じる、というのがアリル・アドの読みであった。

 そうすれば見事、「良心に従い諫めようとした老臣と、それを無視して開戦を許した愚王子」の構図のできあがりである。


 しかし、なぜかこの日、サフィータは差し出された燭台をふいに押し返すと、


『――なあ、アリル・アドよ』


 と、静かに話しかけてきた。


 どうも、様子がおかしい。


 とそのとき、扉の外から、焦ったようなノックと、サフィータを呼ぶ使用人の声が響く。

 儀式の刻限が迫っているのだろう。


 代わりに応えようとしたアリル・アドを、サフィータが背後から呼び止めた。


『おまえは、いつも、私を甘やかすような言葉ばかりをくれるのだな』


 やけに淡々とした声に不信を抱き、振り返る。


 怜悧な美貌のわりに感情的なはずの青年は、思いのほか近い距離から、冷え冷えとした表情でこちらを見下ろしていた。


『……サフィータ様?』

『私は至らぬ。とかく感情を優先しがちな不束者だ。だからこそお前の助言に従い、極力心を平静に保ち、自らを甘やかさぬよう、――情に流されぬよう、そればかりを思って、己を厳しく律してきた』


 かつて従弟であった護衛の少年を逃がしたとき、サフィータは随分と批判に晒された。

 情で理をねじ曲げた愚か者よと、さんざんに蔑まれ、弱い精霊力しか持たなかったことも手伝い、統治者たる資格なしと目されてきたのだ。


 それを、アリル・アドが導き、今の地位まで押し上げた。

 だからこそサフィータは、その期待に応えるべく、本来の自分とは異なる振舞いを、ずっと自らに強いてきた。


『おまえが、統率できぬのは自分の手落ちだと言ってみせるたびに、私は逆に、甘やかされてはならぬ、すべての責は私が負わねばと思った。珠の汚濁はヴァイツのせいではないかもしれないと、慎重な態度を取られると、いいや私はなんとしても、ヴァイツに罪を突きつけて、跪かせねばと思った』


 汚濁した状態で据えられている精霊珠を見やり、サフィータは目を細める。

 その脳裏には、自責の念に冷静さを失っていた自分に、「周囲を見渡せ」と助言してくれた少女の姿が浮かんでいた。


『おまえが、もうやめよう、あの少女がかわいそうだと言うと、私は逆に、なんとしても彼女をいたぶりぬかねばと思った。心のどこかで、そんなのは間違っていると気づいていたのに』


 家臣が優しいからこそ、それに甘えることなく、厳しく物事に対処せねばと、サフィータはそう思ったのだ。


 扉の外から再び、使用人の声が響く。

 ノックの音が、少々強くなった。

 しかしサフィータはそれを無視して、アリル・アドに一歩詰め寄った。


『あの娘を、妃の座を狙う野心家だと断じたのは私だ。だが、そう印象付けたのは誰だったか? 下町に産み落とされ、からくも侯爵家に保護されたというあの少女……本当は、誰より庇護されてしかるべきだったあの娘を、計算高い詐欺師のように像を結ばせたのは、誰だったか?』

『……私を疑われるのですか。この、私を』

『――なあ、アリル・アド』


 低く問うた声を遮り、サフィータは、先ほど押し返した燭台を取り上げ、素手で火を掴んだ。


 握った拳の隙間から、細く煙がたなびくのが見える。

 しかし彼は、その熱や痛みなど感じすらしていないというように、ぎらりとこちらを睨みつけてきた。


 その青灰色の瞳の奥には、女官たちから聞かされた、哀れで、高潔な少女の姿が写り込んでいた。

 サフィータは、強く拳を握りしめたまま、告げた。


『おまえはいつも、反発したくなるほど優しい言葉を掛け、私のために火を灯してくれたな』


 少女は、エランド人には想像もつかぬほど寒く凍えた部屋に閉じ込められ、言葉も、火も、ろくな食事も与えられずに過ごしてきたのだという。

 ごみに埋もれて暖を取り、打ちすえられた傷を虫の毒でごまかす、そんな、常人なら気が狂ってしまいそうな過酷な幼少時代を過ごしたに違いないと、彼女たちは言っていた。

 にもかかわらず少女は、人を恨まず、周囲に光を投げかけるようにして、日々を愛おしんでいるのだと。


 それを聞いたとき、サフィータは自らの胸を掻きむしりたくなるほどの、苛烈な罪悪感を覚えたのだ。


 自分は卑劣だった。

 こんな無力でいたいけな少女を、利用しようとすべきではなかった。

 それも、自らも、彼女の言葉に救われておきながら。


 彼女にこれ以上卑劣な真似を働いてはならない。

 その心を、これ以上傷つけてはならないと、青褪めながら心に決めた。


 そして思った。

 こんな当たり前のことに、なぜ今まで自分は思い至らなかったのだろうと。


『おまえの灯す蝋燭からは、その言葉と同じように、いつも甘い匂いがした。嗅げば心が落ち着き――それ以上の思考をやめてしまう、甘い匂いが……!』


 サフィータは、アリル・アドの顔を掴み、ぐいと拳を押し付けた。


『なにを……!』


 アリル・アドは一瞬抗い、しかしはっと目を見開くと、とっさに呼吸を止めた。


 細くたなびく煙。

 強く握られた拳の中で燻されていたのは、――懺悔の香。


 これまで極力感情を抑えていた青灰色の瞳に、むき出しの怒りを浮かべて、サフィータは叫んだ。


『答えよ、アリル・アド。ヴァイツの巫女を足止めでもしたのか? 野心家の娘、忌まわしきヴァイツの女と思わせておけば、私が探索をせぬと思ったか? 不信の芽を植え付け、私になにをさせるつもりだ。おまえは、なにを企んでいる……!』


 老齢の摂政は、その皺の寄った顔を精いっぱいそむけたが、やがて呼吸が苦しくなると諦めたように香を吸い、ふっと、薄く笑みを浮かべた。


『――……若うございますなあ、サフィータ様』

『……なんだと』

『若く、情熱的で、短絡的。幼いと言ってもいいでしょう。あなたは、持ち前の正義感をようやく振りかざせてご満足かもしれませんが……もう、手遅れです』


 大きく瞠目したサフィータの隙を突き、アリル・アドは勢いよくその腕を振り払った。

 そうして、愉快でたまらぬというように血走った目を細め、窓の外を振り仰いだ。

 バルコニーの向こう――日が昇るのを待つばかりとなった、夜明けの近い空を。


『私が、まさか「足止め」程度でとどめるとお思いか? 生温い、幼稚な嫌がらせしか考えつかなかったあなたと、私は違う。……今頃ヴァイツの巫女は、闇の精霊の一部となっているでしょう』

『なんだと……!?』

『ははは、これは愉快だ、たしかに口が止まりませぬ。思っていた筋書きとは変わりますが、まあいいでしょう。あの娘が惨殺されたとなれば、すでにヴァイツとの戦争は不可避だ……!』


 狂ったように笑うアリル・アドに、サフィータが掴みかかる。

 しかし、彼がその腕に力を籠めるよりも早く、再度、扉の外から声が響いた。


『サフィータ様! どうぞお目通しを!』


 同時に、ばん! と勢いよく扉が開かれる。

 サフィータは苛立ちを隠さずに視線だけを向け、ついでその瞳を見開いた。


『――……そなたは』

「初めまして、サフィータ・マナシリウス・アル・エランド殿」


 エランド語とは異なる、しかし優雅なヴァイツ語の響き。

 いまだ夜の闇を残した暗い室内に、精霊を思わせる威厳をまとい、踏み込んできたのは――


「ヴァイツ帝国が皇子、アルベルトと申します。――至急、聖堂の地下の、開放を」


 背後に聖騎士を伴った、美貌の皇子。

 アルベルト・フォン・ヴァイツゼッカーであった。




***




「――……ひっ!」


 先頭に立ち、精霊布と思しきものの隙間から、そっと向こうの光景を覗き込んでいたレオは、思わず小さく悲鳴を漏らした。


『どうしたの!?』


 とたんに、背中を合わせて後ろを警戒していたレーナが、鋭く聞いてくる。

 レオは震える手であわわと口を覆いながら、


『や……厄介ごとが、もう、やってきちまってた……』


 小声で、ぼそぼそと答えた。


 まさかと顔を強張らせたレーナをちょいちょいと呼び寄せ、場所を代わって布を透かし見させる。

 そうして、たしかにこの先の空間に、数刻前に別れたばかりのはずの皇子が到着していることを認めると、彼女は絶望の呻き声を上げた。

 レオもまったく同感だった。


『なんでもう着いてんだよ……。早すぎんだろ?』


 先ほどレーナから、皇子は自分のことを処刑したがっているのではない、好いているのだという衝撃の指摘を受けたレオだったが、いまいち腑に落ちていないし、この身に刷り込まれた恐怖心が突然なくなるわけもない。

 黒髪の平民スタイルで現れた皇子を見たところで、「まさか身をやつしてまで駆けつけてくれたのか!?」と感動するより、脊髄反射で「ひっ、なんか黒いの出た!」と台所でびくつく主婦のような反応をしてしまうのが関の山である。


 険しい表情のアルベルトに身震いしていると、その奥にグスタフの姿を認めたレーナが、なるほどと呟いた。


『聖騎士……精霊力を使ったのね。おそらくあの騎士……グスタフといったっけ。彼が、あなたの「危機」を察して動き回っていたところに、うまく落ち合ったのよ。それで、風で体を浮かせるとかなんとかして、ものすごい速さで到着したのだわ』


 細めた視線の先には、なるほどたしかに、掌の上で風の渦を巻いているグスタフが見える。

 レーナの推理能力の高さには感嘆しきりだが、しかし、経緯がわかったところで現況が変わるわけでもない。

 レオは、前門に狼が大集合しているのを見て、ぐおおお……と両手を頭に突っ込んだ。


 祭壇のあった地下牢を飛び出してから、しばし。

 レオたちが逃走に選んだのは、整えられた廊下ではなく、柱と柱の間に隠れるように配置されていた秘密通路であった。


 レーナによれば、かつて宮殿として使用され、王族の住んでいた聖堂に、脱出経路や秘密通路があるのは当然のことであるらしい。

 レオが血まみれの恰好をしていることもあり、建物に血痕を残しながら逃げるのはうまくないと踏んだふたりは、これを脱出用の通路であろうと判断し、リスクを取って飛び込んだのだが――


(なんっで、こういうときに限って外すかねえ、俺の勘は……!?)


 結果、聖堂の外どころか、その最奥部、しかも王子と摂政がそろい踏みしている空間に繋がっていることを悟り、めまいを起こしかけた。


 どうやら、自分たちは今、バルコニーにほど近い部屋の、壁にかけられた精霊布の裏にいるようなのだが、しばらく様子を見ようとしていたら、これだ。


 彼らは言い争いを始め、あげく、そこにアルベルトまで踏み込んできてしまった。


(ちくしょー! 俺は、金の匂いは察知できても、ピンチの匂いは嗅ぎ分けられねえんだよ!)


 生物として大問題を抱えた本能に絶叫しつつ、レオはひとまず、道を引き返そうとレーナに囁く。

 時間は惜しいが、こんな状況の部屋に飛び込んでいけるはずもなかった。


 が。


「ヴァイツの皇子が、なぜここに――?」

「詳細な事情を話している時間はありません。僕は、帝国第一皇子の権限において、公式に、自治領の統治者であるあなたに、聖堂の地下の開放を要求します。事情は――そちらの老人に聞かれては? 僕もぜひ、話を聞かせてもらいたい」


 布の向こうでは、なにやらひどく剣呑なやり取りが展開されている。


(あ、サフィータ様、意外にヴァイツ語できるんじゃん)


 とのんきに感心しそうになったレオだったが、アルベルトがちらりとグスタフに視線をやった瞬間、しゅっと空気のはじけるような音が響き、同時にアリル・アドが床に叩きつけられたのを目撃し、またも肩をびくりと震わせた。


「うおっ……、…………!」


 今、なにが起こった。

 この皇子は、グスタフを使って、イカレてしまっているとはいえ老人になにをしたのだ。


(なんかもう眼光で「人を殺させる」レベルに進化してるうううっ!)


 茶会でハグマイヤーを捕縛したときはアルベルト自らが魔力を揮っていたが、今や視線ひとつでグスタフを動かし、己の手すら染めない姿勢だ。

 彼の魔王ぶりというか、その進化の上限のなさが恐ろしかった。


(ほ、ほんとにこの人、俺のこと好きなの? 嘘じゃね? これ、人を好きとかいう甘い感情を持ち合わせてる人間の顔じゃなくね?)


 しかもアルベルトは先ほどから、見ているだけでこちらの背筋が凍るような、冷え冷えとした表情を浮かべているのだ。

 そのアイスブルーの瞳は、氷というより絶対零度の炎。

 先ほど見た爬虫類的アリル・アド・スマイルと比べてどちらが怖いかと問われれば、断然こちらであると言えた。


 ついでに言えば、グスタフの形相も恐ろしい。

 その猛禽類を思わせる顔は、これまで見たことのないほど険しく、精霊力どころか視線だけで人を射殺してしまいそうなほどの怒りを湛えていた。


(な……なんで先生まで、そんなキレてんすか……!? 教会のトップ相手に、導師がキレちゃだめじゃね!? あんたは皇子を止めてくれよおおおお!)


 グスタフが激怒しているのは、もちろん「賢者候補だからと少女が真相の共有をためらうほど」教会が腐敗しきっていることを理解したためで、かつ、教会に属する自分の身分が、一瞬でも少女を悩ませたことが許せなかったため――つまり、レオの発言のせいである。

 しかし、幸か不幸か、レオもレーナも、それを知る由もなかった。


 その場のすべてを圧倒しそうな、苛烈な怒りをにじませた男が二人。

 サフィータも気迫に呑まれたのか、床にうずくまる悪逆の家臣と皇子たちを見比べつつ、


「なにを……」


 と呟いたきり、黙り込んでしまう。

 皇子たちの暴挙には驚きつつも、アリル・アドがヴァイツの巫女を傷つけようとしたことは把握しているため、なにも言えない、といったところだろうか。


 強張った顔で押し黙るサフィータに、アルベルトが一歩進み出る。


「そこにうずくまる導師――アリル・アドと言いましたね。今すぐ答えてください。レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ――我が国の巫女を、どこに攫い、なにをしたのか」


 その問いで、アルベルトがここにいる理由を悟ったサフィータは、はっと顔を上げた。

 だが、この怒れる皇子の前で、とうてい容易に語れる内容ではない。

 逡巡と、それ以上の苛烈な自責の念をにじませて、彼は声を掠れさせた。


「アルベルト皇子……。私は、あなたに、謝罪せねばならない」

「……なにをです?」

「彼女は――」


 サフィータは口にするのも耐えがたいというように顔を歪ませたが、それ以上に盛大に顔を引き攣らせていたのは、会話を盗み聞いていたレーナのほうだった。


(ス……ストップ――!)


 レオよりもよほど観察眼に優れ、そして正確に事態を把握していた彼女は、あることに気付いて青ざめていた。


 ――アルベルト皇子の周りの空気が、わずかに光を帯び、震えているように見える。

 いや、それどころか、黒く染めているはずの髪が、毛の先から元の金色を取り戻しているように、見える。


(まさか……まさかまさか、これって……)


 それはオーラだとか、粗悪な染め粉がはがれたとか、そういった穏やかな現象ではなく、


(国中で高まっている精霊力を跳ねのけるほどに、全身が魔力で膨れ上がっている……?)


 一時的に、魔力よりも強力に作用しているはずの精霊力を、侵食しているように見えた。


 そんなはずは、いやでも、そんなことって。

 思考が脳裏をすさまじい勢いで駆けていく。


 契約祭のエランドでは魔力が使えなくなる――厳密にいえば、高まる精霊力によって魔力が「食われる」というのは、周知の事実だし、アルベルトにも間違いなく作用していたはずの現象だ。

 しかも彼は、このエランド行きに備え、事前に魔力を削いでいたようですらある。


 だがアルベルトは、歴代皇族の中でもトップクラスの魔力保持者。

 なにより、


(こいつ、一度、魔封じの腕輪を弾いて魔力を復活させた、わけよね……)


 瞬間的に魔力を爆発させることのできる、経験者だった。


 魔力の鍛錬は筋力トレーニングと同じ。

 一度分断した筋肉を再生した者は、二度目以降、より速く再生を行うことができる。

 つまり――今の彼なら、難なく精霊力を跳ねのけ、魔力を揮うことができるということだ。


(も、問題はその規模よ……っ)


 淡く全身を光らせているようである皇子を凝視し、レーナは冷や汗を浮かべた。


 以前彼は、愛しい少女が「ずっとそばにいる」というのを聞いて、歓喜の感情とともに魔力を爆発させたはずだ。

 ならば、それ以上に強く、愛しい少女を傷つけられた怒りと憎しみを解放したら、いったいどれだけの魔力が放たれるものか。


(ちょ、サフィータ!? サフィータといったわね!? お願いだから下手に皇子を刺激するようなことを言わないで――!)


 想定被害区域にばっちり入っているレーナは、血の気を引かせたままそんなことを祈ったが、サフィータは苦々しく続けるだけだった。


「彼女は、……こちらの男が、闇の精霊に捧げたと……そう言っています」

「…………」


(うわああああああ!)


 瞬間、アルベルトの髪がぶわりと逆立ちながら金色を取り戻し、アイスブルーの瞳が、まぎれもない殺気を帯びたのを見て取り、レーナは内心で絶叫した。

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[良い点] 声に出して読みたい日本語…いや、ヴァイツ語?エランド語?「ひっ、なんか黒いの出た!」 あれ、金色?光って?青白く?バチバチ?吹き飛ば…やっぱりスーパーヴァイツじ、ンンッじゃないですかやだー…
[一言] クリリンのことかぁーっ!!!
2020/01/19 10:36 退会済み
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