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無欲の聖女は金にときめく  作者: 中村 颯希
第三部(完結編)
132/150

24.レオ、続きを語られる(後)

『伝染病……?』


 黙って話を聞いていたレーナは、困惑に眉を寄せた。


『待って。それって、七年前のことでしょう? そんなものが流行った記憶はないし、帝国史にも記録されていないはずよ』

『それはそうだろう。聖地エランドに刃を向けたその年に病が流行ったなど、どの学者が記録を残せる? そもそも、その病で人が死んだのは、下町のごく一部だけで、たいていの市民すら、少したちの悪い感冒が流行ったとしか捉えていなかった』


 感染力こそ強いものの、その症状は、単純に過ぎるものだった。

 激しい嘔吐と、発熱。

 たいていは、きちんと水分や栄養を取って、温かな部屋で休めば、三日ほどで治る。

 それで命を危ぶまれたのは、体力のない子どもか、よほど貧しい者くらいなものであった。


 だが、その、貧しく体力のない子どもたちが多くいた場所こそ、孤児院だったのだ。


『厳密にいえば、彼らの死因は病ではない。病ではなく、なにによって子どもたちが死の危機に追いやられたかわかるか?』

『…………いいえ』

『寒さだ。感染を恐れられ、屋内から追い出された多くの孤児院の子どもたちは、ろくな栄養も睡眠も取れない中、凍死していった』


 レーナが絶句する。

 そこから視線を逸らし、温かな色に揺れる炎に向かって目を細めながら、ブルーノは七年前の光景を思い出していた。


 寒い、骨まで凍るような冬の夜。

 祖国では見たこともなかった雪を横目に、ひとりの少年が屋根裏部屋で蹲っていた。

 絨毯もない、むき出しの床に敷かれているのは、寝具ですらなく、粗末な(わら)

 汗と吐しゃ物を吸ったそれは、ひどい匂いがした。


 立て付けの悪い壁から、容赦なく吹き込む隙間風。

 ガラスなどはめ込むこともなく、ただ古布の切れ端で覆ったくりぬき窓からは、吹き込んだ雪がぽたり、ぽたりと垂れていた。


 他の孤児院とは異なり、ハンナは頑として、病気の子どもを外に追い出そうとはしなかった。

 しかしそのぶん、ほかの子どもたちに移さぬよう、慎重な看病が求められ、それは孤児院の乏しい経済状況を、さらに逼迫させていった。


 感染源となる、吐瀉物にまみれたシーツを買い替える余裕も、部屋を暖める薪を買い足す余裕も、栄養のある食べ物や、清潔で温かな寝間着をそろえる余裕もない。


 いや、一時期はあったのだ。

 ハンナと、ついでに金策に長けたレオが中心となって方々を走り回り、ときに周囲に助けを請い、ときに蓄えを放出することで、なんとかこれまでは、死者を出すことなくやってこれた。


 だが――いよいよ蓄えも底をつき、これ以上の借り入れもできないとなったころ。

 なんとかハンナ孤児院での感染も終息に向かうかと思われたそのとき、それまで奔走していたレオが、病に倒れたのである。


 屋根裏部屋で蹲っていたのは、――レオであった。


「レオ、……入るぞ。替えの藁を持ってきた」


 口元を布で覆ったブルーノが部屋に入ると、床に身を横たえていたレオは、ぼんやりと視線を巡らせた。

 ひび割れた唇で、「ああ……」と呟く。


「わり、……な。替えが最小限で済むように、ぜったい隅っこで吐こうと思ったのに……盛大にやっちまった。……てか、おまえ、入ってくんなよ。うつるぞ。そこ、置いといて」


 今よりも、少しだけ幼さの残る口調。それでも普段は、大人顔負けの話しぶりを披露するのが彼だったはずなのに、今、その声はかすれ、弱々しい。

 立ち上がろうとした早々、ふらりと体をぐらつかせるのを見て、ブルーノは布の下で口を引き結んだ。


 制止も聞かず、強引に部屋に踏み入る。

 なんとか暖を取ろうとしていたらしく、縮こまって藁にくるまっていたレオの体は、かたかたと小刻みに震えていた。


「へへ……さみぃ。ちょっと指の感覚ねえんだけど。明日から、ししゅうの内職あんのに、大丈夫かね」


 ひどい顔色で、彼はそんなことを言う。

 ブルーノは険しい表情で藁を変え、部屋に巣食う闇に向かって、唸るように呟いた。


「――……なぜだ」

「へ?」

「なぜ……」


 なぜ、禍は、よりによってこいつのもとに降りかかるのだ。


 顔だけ上げてこちらを見るレオの、その鳶色の瞳には、ただ不思議そうな感情が宿っていた。

 そばかすの残った頬も、労働をいとわぬ手指も、ただただ善良に見えた。


 仲間のために走り回り、乏しい金をやりくりして、なんとか寝床を整えていた彼が。

 よりによって彼が、なぜ、この貧相な(とこ)で、命の火を揺らさねばならない。


 無意識に握りしめていた拳に、力がこもる。

 気付かぬうちに、爪は掌の皮膚を破り、血をにじませていた。


 黙り込むブルーノになにを思ったか、再び藁に横になっていたレオが、ぽつんと声を上げた。


「……あのさあ。こういうの、どうかな」


 視線を向ける。

 普段くるくると表情を変えながら、金儲けの算段ばかりしている友人は、やけにぼんやりと、虚空を眺めていた。


「――おお、精霊よ、感謝いたします。……懐の寒さにこごえしわが身を満たし、温めてくれる存在にめぐりあえた奇跡を。……こういう切り出し方」

「……なんだ、それは」


 詐取するカモか、タカる相手を見つけたときにでも、精霊を称えようというのだろうか。

 怪訝な表情を隠しもせず、そう尋ねたブルーノに、レオはむっとした様子だった。


「ちっげーよ! ……ヨウシ縁組が成立したときって、導師の前で、誓うじゃん。そのセリフだよ」

「…………」


 ブルーノは目を見開く。

 それは、孤児なら一度は夢見て、理想の言葉をこねくり回す類のものだった。

 だが、まさかレオがその場面を夢想するなど。


 驚きが伝わったらしく、レオは、かちかちと唇を震わせたまま、「へへ」ときまり悪そうに笑った。


「前に、おまえ、言ってくれたじゃん。俺にも、そんなときが来るかもしれないって。だから、ちょっと考えてみたんだ。どんなセリフで精霊に誓ったら、カッコイイかなって」


 まさか自分の、取って付けたような励ましがきっかけになったとは思ってもおらず、ブルーノは表情を強張らせた。


 そしてそれ以上に――なぜ、今レオが、それを自分に告げるのかという考えが頭によぎり、胸がざわりと騒ぎはじめた。


 ブルーノに視線を合わせることなく、レオはかすれ声のまま続けた。


「もちろん、俺の言う精霊ってのは、光の精霊なんかじゃなくて、金の精霊のことだけどさ。……で、こうむすぶんだ。……この奇跡を守るため、私は、この身のすべてを、あなたの、そのとうとい輝きの前に、捧げます」

「レオ。……なぜ、それを、今俺に言うんだ」

「このケイケンなる祈りに免じて、どうかご加護を」

「レオ」

「あなたの輝きを、どうか、新たなる、私の父と、母に」

「――レオ!」


 とうとうブルーノは叫んだ。

 レオは、ひゅ、と力ない吐息を漏らして、横たわったまま、ゆっくりとこちらに顔を向けた。


「……だってさあ。俺、せっかく、考えたんだよ。内職も、せずに」


 そのそばかすの残った顔には、相変わらずへらりとした笑みが浮かんでいたが、――肌はすっかり色を失い、はしっこいはずの鳶色の瞳は、焦点が、合わなくなってきていた。


「だれにも、言わずに、終わるなんてさ。……サボった内職の時間、もったいねえ、だろ?」


 だから、と、呟いた次の瞬間、レオは体を折り曲げ、激しくえづきはじめた。


 荒い息と、合間を縫って唸りのような悲鳴が漏れる。

 だが、もう吐けるものなど胃に残っていないのだ。

 彼にできるのは、ただ、苦しんで、凍えて――死を待つことだけだった。


「レオ!」


 ブルーノは咄嗟にレオの体に触れ、ついではっとしてその手を離した。


 発熱しているはずなのに、その体が氷のように冷たかったからだ。


 ふ、と、レオの口からやけに静かな吐息が漏れた。

 そうして、彼はぐったりと動かなくなった。


 ブルーノは青褪めて手首を取る。

 脈は、ある――今のところは。


 ふらりと立ち上がり、覚束ない足取りで屋根裏を出る。

 階下の部屋では、ランプすら灯せない暗闇の中、「寒い」と泣く子どもたちをハンナが抱きしめていた。


 彼らは、舌ったらずな口調で、親を探すようにレオの名を呼んだ。


「ねえ、レオにいちゃんは? にいちゃん、どこなの?」

「さむいよう。いっしょに、ねるって、いったのに」


 ハンナはそれには答えず、子どもたちの顔を強く胸に押し付けると、ぎりぎりと食いしばった歯の隙間から、唸りのような声を上げた。


「ちくしょう……! ちくしょう……っ!」


 数日前まできっちりと結われていた彼女の髪は、今は短く切られていた。

 売ったのだろう。


 彼女が髪だけでなく、歯まで売ろうとしていたのをブルーノは知っている。

 老婆の歯などいらぬと、闇医者にすら断られたことも。


「なんでなんだい……!」


 血を吐くような叫びを聞いていられなくなり、ブルーノは咄嗟に布を床に叩きつけ、孤児院を飛び出した。

 そうして、泥と雪を跳ね飛ばしながら、力の限り、走った。


 おまえのせいだ、レオ。


 息を荒げながら、心の中で、友人を罵る。


 おまえが、柄にもなく、聖句なんて唱えるから。

 だから、雪は降るし、ハンナは泣くのだ。


 ブルーノの知る孤児院は、こんな場所ではなかった。

 レオはいつも阿呆のように、カネを握りしめながらへらへらと笑っていて、ハンナはいつも元気に、怒声と拳を炸裂させていなければならなかった。

 子どもたちは生意気で、時にささやかな焼きもちをぶつけてきて、喧嘩して、仲直りして、笑い合う。

 そういう場所でなくてはならなかった。


 最も貧しい地区を抜けると、簡素ながら堅固なつくりの家々が並びだす。

 ガラスのはまった窓から、のんきで温かな光が漏れているのを睨みつけながら、ブルーノは走った。


 目的の場所は、しんと静まり返っていた。


『精霊よ!』


 錠が下ろされていた木の扉を蹴破り、叫ぶ。

 声は、石造りの聖堂内に響き渡って、やがて消えた。


 ――来たか、ノーリウスの末裔よ。


 窓から差し込む雪明りの中、のそりと影が動く。

 精霊布のかかった祭壇の前に立っていたのは、――闇の精霊であった。


 老人の姿を取ったその精霊は、ひっくり返った三日月のような、禍々しい笑みを浮かべ、こちらに向かって首を傾げた。


 ――心は、決まったかえ?


『捧げる』


 そのしわがれた声を遮る勢いで、ブルーノは告げた。


『捧げる。祈りを、この身を。――闇の精霊に、捧げる』


 雪の浸みこんだ古着の裾を引きずりながら、祭壇に向かって歩みを進める。

 精霊布の前で、彼は初めて、自らの意志で跪いた。


『どうか、助精を。……教えてくれ。俺は、なにをすればいい?』


 ――は、殊勝なことだ。


 老人は、その枯れ枝のような指先を伸ばし、俯くブルーノの顎先を持ち上げた。

 そして、にい、と笑った。


 ――なに。簡単なこと。わしの名を称え、ときどき……そう、ほんのひと匙、血と苦しみを、我が舌先に味わわせてくれればそれでよい。


『…………』


 ブルーノは眉を寄せる。

 父親をはじめとした彼の一族が、その「血と苦しみを捧げる」行為に没頭するあまり、次第に精神の均衡を失い、おぞましい戦や儀式に手を染めてきたのだということは、容易に想像できた。


『……わかった』


 だが、ブルーノは厭わしい指を払いのけると、しばしの後、頷いた。


『捧げる。だから……その禍の力を、早く宥めてくれ』


 ――ほ、せっかちなことよ。


 闇の精霊は、払いのけられた手をぶらぶらと振り、窓の外に広がる夜へと目を細めた。


 ――そうさなあ。あの子ども、そろそろ死の精霊の吐息がかかりそうだもの。


『…………早く』


 ――わかっておるって。だが……なあ? ノーリウスの末裔よ。よく覚えておくがいい。


 彼はすっと背筋を伸ばし、いっそ神聖さすら感じさせる声で、ブルーノに告げた。


 ――自然の流れは揺るぎなく、壮大だ。

  宿命(さだめ)の掌は巨大で、誰ひとりそれから逃れることなどかなわない。

  今おまえが、あの子どもの道をねじ曲げたつもりでも、修正(・・)は必ず起こる。


『……どういう意味だ』


 ――あの子どもは、どのような形かはわからぬが、いずれ、必ず、お前の前から姿を消す。

  肉体と魂を、そう遠くない未来、引き裂かれるだろう。

  それを止めることは、誰にもできぬ。

  流れに逆らって泳ごうとする者は、不要な傷を負い、溺れるのみ。

  それでもおまえは、わしの愛し子となるか?


 ブルーノは闇の精霊を睨みあげた。


『――それでも』


 ぎり、と歯を食いしばる。

 その隙間から、獣が唸るように低く告げた。


『いずれ、俺の前から消えるのだとしても。たとえ、わずかな延命にしかならずとも。今、ここで失うより、何倍もいい』


 ブルーノは、目を強く閉じて、ずっと昔に一度だけ聞いたことのある、闇の精霊の御名を唱えた。


 とたんに、十二色の糸で編まれていたはずの精霊布が、まるで墨をかぶったように真っ黒に染まる。

 窓から注ぎ込んでいたはずの、ほのかな雪明りが消え、辺りの空気がずしりと闇に凝った。


 風が唸る。

 精霊の哄笑が響き渡る。


『だから、どうか――奪わないでくれ』


 次に目を開けたとき、灰色がかっていたはずの彼の瞳は、黒曜石のような闇色を宿していた。


『初めてできた……友なんだ』


 その漆黒の瞳から、たった一筋。

 静かで、透明な涙がこぼれた。





 夜と同じ色の瞳で炎を見つめていたブルーノは、そこでいったん口を閉じた。

 そうして、なにも言えずにいるレーナに向かって、小さく肩をすくめた。


『あとは、特に話すことのほどでもない。伝染病は、雪解けが近づくとともに終息し、レオは回復すると、死にかかっていたことなどけろりと忘れて、せっせと金儲けする日常に戻っていった。俺は、きたるべき修正(・・)に備えながら、平凡な日常を過ごした。ときどき、闇の精霊に餌をやりながら』


 レーナはそのとき、レオの話を思い出していた。

 ときどき、ぐっと目が黒くなるという幼馴染。


 ――そういうときに限って、ふらっといなくなって……なんか、すげえぼろぼろになって帰ってくる。


 おそらくは、ブルーノがごろつきを血祭りにあげてみせるのも、すぐに獣を仕留めたがるのも、そういった事情とかかわりのあるものなのだろう。

 彼は、周期的に血や怨嗟を闇の精霊に捧げることで、その心を宥めてきたのだ。


『……私も、その餌とやらにならずにすんで、幸運だったわ』


 口元を歪めてそう返すと、ブルーノは「ああ」と薄く笑った。


『言っただろう? いくつか理由があって、おまえに手を出そうとはしなかったと。俺はな、おまえがレオの身体を奪ったと知ったとき、怒りを覚えたが――それと同じくらい、感謝したんだ』

『は?』

『レオが肉体と魂とを引き裂かれ、俺の前から姿を消す日を恐れていたが……なんだ、まさかこんな形だったとは、と』


 反応に悩み、レーナはひとまず口をへの字にした。


『……まあ、悲壮感は、だいぶ薄まった、わね……?』

『だろう? 入れ替わってもあいつはあいつのままだったし、……なにより、生きている。まあ、それでもいろいろとトラブルは発生しているようだが、大局的に見れば実に些末な問題だ』

『人がうっかり金髪野郎の皇妃になりかけてることを、頼むから些末な問題扱いしないでくれる?』


 レーナはつい、半眼で突っ込んだ。


『……ま、話はわかったわ。なるほどね、あなたは闇の精霊の一族出身で、今は愛し子。精霊が調子づいちゃうと禍が広まってしまうから、健気にも定期的に祈りと血を捧げていると。で、今回のエランド行きもその一環ってことね?』

『ああ。今エランドの地を統べている者たちは、闇の精霊を祀ることを知らない。祈りが国中で捧げられ、光の精霊の威厳が最も増すこの期間、同じだけ闇の精霊へも祈りを捧げねば、光の依り代が――大陸の守護が穢れ、腐ってしまうことを、おそらく彼らは知らないだろう。このまま闇を払わずにいれば、また七年前と同じく、貧しき土地から禍に蝕まれる』

『ふぅん』


 その明晰な頭脳で、話は瞬時に理解しながらも、レーナは釈然としないという表情を浮かべた。


『筋は通っていると思うけれど――知らないのなら、教えればいいんじゃないの? 愛し子の地位も、穢れを払う役割も、そいつらに教え込んで押し付ければいいじゃない』


 指摘すると、ブルーノは苦笑するように口元を歪めた。


『……それができれば、な』

『できないの?』

『闇の助精は、強力で甘美だ。祈りを捧げ、宥めているつもりが、気付けば闇の力に溺れているということもある。そうなったら最後だ。その者は、光の精霊の力を削ぎ、戦を広め、禍をまき散らすことしか考えられなくなる。かの精霊に向き合うには、それ相応の血筋――闘う者(ノーリウス)の血を引く者が当たるのが、最も適当だ』


 それでも、父のように力に溺れることはあるが。

 ばつが悪そうに付け加えたブルーノに、レーナは再度「ふうん」と頷いた。

 そうして、乾いた音を立てて陽気に燃え盛る炎に、ぽいと枝を放り込んだ。


『……ノーリウスの血に、闇の力。穢れを払い、禍を食い止める、ねえ……』


 なんとも壮大な話だ。

 そんなファンタジー感あふれる単語を、まさかこの無表情男から聞くことになろうとは思わなかった。


『くっだらない童話と思って読みはじめた絵本が、壮大なスペクタクル小説的展開に駆け上がっていった、みたいな衝撃ね。なにこれ』


 考えてみれば、ハンナ孤児院というのも魔窟のようなところだ。

 死に戻りの守銭奴はいるわ、侯爵令嬢の御落胤はいるわ、闇の精霊の愛し子はいるわ。

 あの小汚いあばら家のごとき環境に、そんな大層な肩書を持った人物が溢れているなど、誰が予想できるだろうか。


『で、あなたは、その衝撃的展開を隠して、あくまでハンナ孤児院――レオの周囲を、ほのぼのとした童話の世界に閉じ込めておきたいと、そういうことね?』

『……ああ』


 ブルーノは、珍しく躊躇うようなそぶりを見せた。


『知られたくないんだ、やつには。俺の力のことも、病からの回復の経緯も。……俺が、あいつの定められた道を、一度はねじ曲げたことも』

『…………』


 レーナは片方の眉を上げる。

 ブルーノの感傷の中身は、何通りにも推し量ることはできた。

 しかしそれはもう、レーナの興味の対象ではなかった。

 散らばっていたピースを繋ぐ、厳然たる事実。明確に整理された因果。

 彼女の欲しかったそれらは、すでに手に入ったから。


 だが、一言だけ。

 柄にもなく思い悩んでいるようである表情筋死滅男に、告げておきたいことはあった。


『あなた、何年レオの親友やってるわけ? 仮にレオが真実を知ったとしたら、あいつはあなたを嫌悪したり、「修正」を恐れるどころか、両手をシェイクして感謝しまくるだけだと思うけど』


 ブルーノ、おまえ……!

 それってつまり、一括払い(死亡)しなきゃいけなかったところを、おまえが分割払い(修正)にしてくれたってこと!? 手数料なしで!?

 うおお、超ありがとおおお!


 たぶん、そんなことを言って。


 話を聞きすぎて肩が凝った、と首を回すレーナを、ブルーノはまじまじと見つめた。


『レーナ。おまえ……』

『なによ。妙なこと言ったら、殺すわよ』


 視線を合わさず、ぶすっとしたまま告げると、相手はくすりと笑った。


『……おまえがレオの身体を奪ったと知っても、手を掛けないでいたもう一つの理由はな、レーナ』


 代わりに、彼はそんなことを言う。


『レオの中に入っていたおまえが、――なかなか面白そうなやつだと、そう思ったからだ』

『…………!』


 レーナは絶句する。

 なにを、と口を開閉させている間に、ブルーノはゆったりと立ち上がり、尻についた土を払った。


『いい加減、枝が底を尽きそうだ。俺のほうが夜目が効く。集めてくる』


 そうして、さっさと踵を返そうとする。

 が、そのとき。


『……なんだ?』


 彼はすっと眉を寄せ、遠くの闇に目を凝らした。

 レーナも戸惑いを捨て、慌ててそれに倣う。


 常人の目しか持たぬ彼女には、影よりも音のほうが先に届いた。


『――……馬車?』


 静かな夜の森の中、かすかに鼓膜を揺らしはじめたのは、車輪と、馬の蹄が道を踏みしめる音だった。 そしてその音は、確実にこちらに近づいてくる。


 咄嗟に、ふたりは顔を見合わせた。

 こんな夜の、こんな獣道に、誰が、なぜ?


 火を消し、警戒しながら目を凝らすレーナたちの前に、やがて、一台の馬車が現れた。

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