《閑話》 おしえて、レオ兄ちゃん―家庭科―(後)
「ええええええええ!?」
そうして現れた、青みがかった灰色の瞳を見つめ、レオとアンネは絶叫した。
「な、なんでそんなナチュラルに起きちゃうのおおお!?」
「なんだい、起きちゃ悪いってのかい。おお、いやだいやだ、若いやつらはすぐか弱い老人を殺しにかかるってんだから」
あげく、ヒルデは顔をしかめながら、身を起こそうとするではないか。
さすがに頭が痛いのか、上半身を起こした時点でふらつきそうになる。
レオが反射的に手を差し伸べると、彼女はしっかりとした力でそれを握り、時間を掛けて寝台の上に座りなおした。
「ふう。よく寝たねえ」
「寝すぎだ。狸寝入りとは、人が悪い」
「ふん。あんたらがいつまでも馬鹿ばっかやってるから、切り出すタイミングを逃しただけじゃないか」
ヒルデとブルーノはそんな風に会話を交わしているが、アンネたちはただ口をぱくぱくさせるだけである。
レオのシャツを掴んだままのアンネが、
「え? え? えええ?」
と目を白黒させていると、ブルーノは首を傾げた。
「なにをそんなに、驚くことがある? 寝ていた老人が、目を覚ましただけだろう」
「え、だ、だって……お、起こしても、起きなくて……それって意識不明ってことで……ハイノ先生だって、『おしまい』だからって香油を……」
「おしまい? ……ああ、それは――」
ブルーノが口を開いた瞬間、時を同じくして、玄関扉の開く音とともに陽気な声が降ってきた。
「たっだいまー! 君たち、ありがとう!」
ハイノである。
彼は、先ほどまでのくたびれた表情が嘘であるかのように、にこにこと満面の笑みを浮かべていた。
なにがそんなに嬉しいのか、浮足立った様子で寝室にやってくる。
そして、身を起こしているヒルデを発見すると、さして驚くでもなく、
「ああ、ヒルデさん! 顔色もいいし、大丈夫そうですね」
よかったよかった、とあっさりまとめて、さっさと散らばっていた問診道具を片づけはじめたではないか。
展開に取り残されたのはアンネたちの方だ。
先に我に返ったレオが、
「あ、あの、先生……? ヒルデ婆さん、『意識を取り戻した』んですけど……?」
おずおずと、そんな軽いリアクションで大丈夫なのかよと尋ねると、
「ははは、意識を取り戻したというか、目が覚めただけだよねえ」
さらっと爽やかにそんなことを言い出した。
「は……!?」
「いや、まったく。早く目を覚ましてくれればいいものを、頑として起きてくれないんだから、本当に困ったお人だよ。おかげでこちらは、どれだけやきもきしたことか。もう、おしまいかと絶望したよ」
「え……? いや、だから、しまいの香油を取りに行ったん、じゃ……?」
どうにも会話が噛み合わない。
レオが言葉を重ねると、ハイノはぱちぱちと瞬きをした。
「え? なに言ってるの? 僕は教会に、結婚式の打合せをしに行ってきたんだけど」
「はあああああ!?」
目を剥くレオに、ハイノが語った内容はこうだった。
お人よしで知られる彼だが、そんな自分でもいいと言ってくれる彼女と、このたびめでたく結婚式を挙げることになった。
挙式までには、式典を取り仕切る導師と打合せを行わねばならず、今日がその約束の日であったのだが、運悪くヒルデの看病を押し付けられてしまったと。
「実は、打合せのドタキャンも、もう既に二回してるんだよねえ。次ドタキャンしたら、もう結婚なんてしない、あんたとの仲ももうおしまいよ! って彼女に言われちゃっててさ……」
震え声で語るハイノは、彼女に心底惚れ込んでいるうえに、彼女に頭が上がらないらしい。「パウラに捨てられたら、僕は……っ」と、想像するだけで涙目になっている。
ところがこのハイノ、優柔不断ではあるが、職業意識だけは高い。
ヒルデが昏睡ではなく、単に寝ているだけとはわかっていても、脳震盪を起こした人間は、意識を取り戻した途端に嘔吐する場合がある。
万が一にも、その吐瀉物で喉を詰まらせたりしないよう、彼女が目覚めるまでは傍にいなくては、と、身動きが取れずにいたのである。
「誰かに代わりを頼もうにも、誰も来てくれないし、ヒルデ婆さんったらどんなに耳元で叫んでも起きやしないし、そうこうしてる内に、打合せの時間は近付いてくるしで……もうほんと、焦ったよお……」
でも君たちのおかげで、破局を免れたよ。
涙ぐみながら笑みを浮かべたハイノの胸倉を、レオは思わず掴み上げそうになった。
「おしまいって……おしまいって、そういうことかよ! 紛らわしい言い方、してんじゃねえよおおお!」
「ええ? だって、見ればヒルデさん寝てるだけって、わかるでしょ?」
「わっかんねえよ! 意識不明状態と睡眠の見分けが一般人に付くかよ!」
なあ!? と鼻息荒くブルーノに同意を求めると、彼は再び首を傾げただけだった。
「付かないのか?」
「え」
「付くだろう?」
「…………」
レオはふと思い出した。
先程ヒルデのことを「意識がない」と断じてみせたとき、ブルーノがなぜか「いや、レオ」と話しかけてきたことを。
「……まさかとは、思うが……。ブルーノ、おまえ、ヒルデ婆さんが寝てるだけって、……気づいてたのか……?」
「…………」
わなわなと全身を震わせながら尋ねると、ブルーノは「なんかまずいことをしたらしい」と気付きでもしたような表情を浮かべた。
「……『黙ってろ』と言ったのは、おまえだぞ」
「おまえ……おまえってやつは……この……!」
怒りで言葉が滑らかに出てこない。
レオは青筋を浮かべた。
と、その時。
「ヒルデ婆さん……」
横で話を聞いていたアンネが、ぽつんと呟いた。
「ヒルデ婆さん、……つまり、起きたのよね? もう、大丈夫なのよね……?」
そうして、じっとヒルデを見つめると、ゆっくりと彼女の元に近づき、その肩に両腕を回した。
「もう、いなくなったり、しないってことだよね……?」
「……ふん。あたしがいつ、いなくなるってんだい。縁起でもない」
ヒルデは憤慨したように、そっぽを向いている。
しかし、その顔はほんのり赤らめられ、色素が薄くなった灰色の瞳は、少しだけ青みがかって、きらきらと輝いていた。
「だいたいなんなんだい、寝てる人間を食レポで起こすって、どんな発想なんだ。馬鹿かい」
「――ねえ、婆さん。もう痛くない? 苦しくない?」
「それになんだい、あのわざとらしい食レポは。あんたに演技力ってもんはないのかい」
「――ねえ、もう、寝たままになったりしない?」
「まあ、私の好物を知ってたところは褒めてやってもいいが――」
「――もう、アンネのこと、置いてったりしない?」
ぎゅっと力を込められ、ヒルデは一瞬黙り込んだ。
「…………こんな馬鹿なあんたを、置いてけるわけがないだろ」
そうして、ふんと鼻を鳴らしながら、そんな可愛げのない言葉を返した。
「ヒルデ婆さん……!」
「ちょっと! お放しよ! 服が鼻水で汚れるだろう!」
ぎゅううっとしがみ付かれたヒルデが、ぎょっとしたように喚く。
しかし、その腕は言葉と裏腹に、しっかりアンネのことを抱き締めていた。
「……なんなんだ、この顛末……」
妹分とヒルデが抱き合う光景を見つめながら、レオはがくりと脱力する。
先程までの悲壮な空気はなんだったのか。
そして、自分たちの懸命な食レポは、ほぼ余興くらいの意味しかなかったのか。
婆さんよ、いくらアンネが頑張る様子がかわいいからって、狸寝入りはねえだろ。というかブルーノざけんなくそったれ。
色々な思考が渦を巻く。
「あー……」
しかし。
ヒルデも、なにやらアンネのトラウマを刺激してしまったことに気付いたらしく、ちらっと「悪かったね」といった視線を寄越してくるし。
目の前の妹分が、あんまりに嬉しそうに笑っているものだから。
「――……ま、いっか」
レオは小さく息を吐き、その一言で片づけた。
「ねえ、レオ兄ちゃん!」
とそこに、すっかりいつもの調子を取り戻したアンネが、朗らかに話しかけてくる。
「スープ、食べちゃお! ヒルデ婆さんと、みんなで一緒に!」
「……いいけど、モモ肉の部分は俺に寄越せよ」
むすっとしたまま言い返すと、妹分はその大きな目を見開いた。
「えええ? お見舞いのスープなのに?」
「知らん! 寝ぼすけの婆さんに食わせるモモ肉はねえ!」
「ならば俺が――」
「おまえにはスープの一滴だってやるもんか!」
一喝し、スープを取り分けはじめたアンネを手伝ってやる。
みんなで食べた、アンネの初めてのスープは、ほんの少しだけしょっぱかったが、温かく、素朴な味がした。