《閑話》 おしえて、レオ兄ちゃん―図工― (中)
「はあ……」
安息日の、昼下がり。
ミサを終え、身支度を整えたマルセルは、他の孤児仲間とは別れて、とぼとぼとした足取りで教会を後にしはじめた。仲間外れにされていたからではない。
――気まずかったからだ。
(どうしてだれも、ぼくのこと、怒らないんだろう)
人がまばらになった教会内の、ステンドグラスをぼんやりと見上げながら歩く。
古ぼけたり、色が濁ったりもしているが、高級品と言われるガラスを、大量に使用したステンドグラスはやはり見ごたえがあった。
赤や青の光を投げかけるグラスを眺めながら、マルセルはもう一度溜息をついた。
ハンナ孤児院の窓ガラスは、あの後かんかんに怒ったハンナによって即座に入れ替えられ、すぐに新しい窓を嵌め込まれていた。
孤児院の懐事情で、よくもその日のうちに、とマルセルはびっくりしたものだったが、レオがふんぞり返っていたので、もしかして彼が何かをしたのかもしれない。巻き上げるのが得意、とのことだったから、どこかから盗みでもしてきたのだろう。
マルセルは誰からも怒られず、殴られることもなかった。
ただ、皆うすうす、原因がマルセルにあることは気付いているのだと思う。
その日以来、ぐりぐりと撫でられたり、「どんまい」と声を掛けられるたりすることが、増えたから。
(なでる? どうして?)
マルセルにはそれが不思議で仕方なかった。
ハンナ孤児院にだって、娼婦の子どもはいる。
だが、マルセルがやってきた途端こういった事件が起こった以上、マルセルがターゲットであるのに違いないのだ。
他の子どもたちは、そんな嫌がらせが起こらないように済ませられているというのに、マルセルだけが、厄介ごとを引き連れる。
自分の存在は、ハンナ孤児院のお荷物になっているのに違いなかった。
なのに、孤児院のメンバーときたら、お気楽なのだ。
落書きをされた窓を見た時こそ怒っていたが、その後ガラスが入れ替えられてしまうと、「かえって新品になったなあ」などと呑気に言うし、その後も特に警戒なんてせず、「また落書きされたらされたで、いいじゃん」という感じだし。
おかげで、責任を感じたマルセルは一人で寝ずの番をすることになり、――しかし、睡魔に負け、二日前の夜、またもダミアンの落書きを許してしまった。
今度は黄色のペンキだった。
(くやしい……!)
マルセルは自分が情けなかった。
同時に、戸惑い、焦ってもいた。
誰もマルセルを責めない。殴らない。
その理由がわからない。
だからこそ、せめて自分のことは自分で片づけようと思うのに、それもできない。
それが悔しい。
マルセルは、今、彼の中に芽生えようとしている感情がなんという名前のものなのかを、知らなかった。
と、教会の巨大な木の扉をくぐろうとしたとき、
「君、待って。そこの、茶色い髪の男の子! そう、君だよ、君!」
背後から声を掛ける者があった。
振返ってまず目に飛び込んでくるのは、灰色のローブ。
白ひげに埋もれた赤ら顔の、優しそうな顔。
たっぷりとしたお腹をゆさゆさ揺らして歩いてくるのは――教会付き導師だ。
ちょうど先ほどまで、合唱団の指揮をしていたはずである。確か名前は、ホルガーと言っただろうか。
警戒感から、無意識にじりっと後ずさったマルセルに、ホルガーはにこにこと話しかけた。
「まあまあ、そんなに怯えないでおくれ。私は怖いおじさんではないよ。この教会で合唱団の指揮をしている、ホルガ―という。君もさっき、私の指揮する合唱団と一緒に、聖歌を歌ったろう?」
「…………はい」
「うんうん、それで、まさにその聖歌のことで、君に提案したいことがあってね」
優しく目を細め、穏やかな口調で語りかけるホルガーに、マルセルは少しずつ肩の力を抜きはじめた。
彼は別にマルセルのことをいじめようとは思っていなそうだ。
それに、優しそうだし、お調子者のような感じもしない。
やがて、ホルガーの「提案」を聞き終えたマルセルは、真ん丸に目を見開いた。
「少年がっしょう団? ぼくが?」
「ああ。君は、とても澄んだよい声をしている。指揮をしている時に飛び込んできた君の声を聴いて、私は即座に思ったんだ。こんな素晴らしい歌い手を、精霊に披露しない手はないってね」
「そんな……」
誰かから褒められるなど、初めてだ。
肩に手まで置かれ、「ぜひ、わが教会の少年合唱団に入団を」と誘い込まれて、マルセルはどきどきと胸を高鳴らせた。
ホルガーの熱弁は続く。
「もちろんね、タダでというわけではないんだ。教会付きの合唱団ともなれば、お給金が出る。おそらく、君のような歳の子にとっては、十分な額だよ」
「え……?」
まあ、それなりの給金を得るためには、それなりの「覚悟」が必要なわけだけど、と付け足された言葉は、残念ながらマルセルの耳には届いていなかった。
彼の頭は、とある考えでいっぱいになっていたからだ。
(お給金をもらえれば、ぼく、みんなから、みとめられる……?)
マルセルはごくりと喉を鳴らした。
別に、今の孤児院では、誰も自分のことを殴ったりはしない。責めすらしない。
でも、だからこそ、マルセルはハンナ孤児院の中での立ち位置を確かなものにしたかった。
お金があれば、それができる。
窓を落書きされても、自分で買い替えられるかもしれないし、そもそも、立派にお金を稼ぎ出す人物なら、きっと誰にも馬鹿にされたりしない。
「あの……その、おはなし、くわしく……」
マルセルが、俯けていた顔を上げ、そう言いつのろうとしたとき。
「ばっ……! 早まるなマルセルううううう!」
やたら元気な声が、教会に響いた。
なぜか礼拝用の長椅子と長椅子の間から立ち上がった少年――レオである。
レオはつかつかとホルガーのもとに歩み寄ると、胸倉をつかみ上げてがくがくとその体を揺さぶった。
「ちょっと! ホルガーさん! あんた、もうそういう勧誘はしないって言ったじゃねえかよ! なにいたいけな子騙そうとしてんの!? ねえ、あんた闇の精霊のしもべなの!?」
「ははははやだなあ、レオくん。君のことはもうすっかり諦めたじゃないか。多大な慰謝料とともにね。僕はただ、この――ええと、マルセルくんと言ったかな? マルセルくんを歌で精霊のもとに導こうとしているだけだよ。君じゃない、君じゃない」
「その慰謝料を頂戴したとき、俺だけじゃなく、ハンナ孤児院の子どもたち全員に手を出すなって、あんだけ院長が言ったよなあ?」
「え?」
レオの叫んだ内容に、ホルガーはぱちぱちと目を瞬かせた。
たるんだ首を、こてんと傾げる。
「そうだっけ? あんまり記憶にないなあ。歳のせいかなあ」
「ほほう。じゃあ、院長にもっかい思い出させてもらおうか」
レオがドスを利かせると、ホルガーは、目に見えて慌てたようにひげを撫ではじめた。
「ああ、そう、そうだね、なんか思い出してきたよ。うん、そんなこと約束したかもしれない。でもほら、そう、ハンナさんのとこの子とは思わなかったんだよ。勘違いってやつだ。見逃しておくれよ」
「マルセルは俺らと一緒に歌ってたろうが。明らかにハンナ孤児院の子どもだって目をつけてたくせに、なに言ってんだよ」
「ああレオくん! 君に精霊のご加護がありますように!」
分が悪いと判断したらしいホルガーは、脈絡もなくばっとレオの両手を握りしめる。
彼は、かわいくもないオヤジ顔で上目づかいをすると、
「ねえレオくん。このこと、ハンナさんには黙っておいてくれない?」
「知らん。離せ、ショタコンオヤジ」
猫なで声で頼んで、レオにばっさり切られていた。
レオは握られた手を振りほどき、汚いものに触ってしまったとばかりにそれを振ると、ぎっと相手を睨み付けた。
「俺の時といい、こいつの時といい、やり方がいつもこすっからいんだよ。メリットばかり提示して、手術台にくくりつけてから『覚悟』の内容を説明する気だろ?」
「そんなあ。メリットを押し出すのは、商売の基本じゃないか」
「俺は、引き換えに金を奪われるのも、金の玉を奪われるのもごめんだね!」
一刀両断でホルガーを退ける。
しかし、ホルガーはとりなすような笑みを浮かべると、こう続けた。
「でもさ、そう悪い話でもないと思うんだよ? お給金が出たら、ハンナさんのところとしても助かるのは事実じゃないか。こんなこと、私の口からはとても言えないけど、最近ハンナ孤児院からのお布施ってちょっとしょぼいし」
「思いっきりいけしゃあしゃあと言ってんじゃねえかよ! この強欲ジジイ!」
オヤジからジジイにまでホルガーを格下げすると、レオは鼻息も荒くマルセルの腕を取った。
「行くぞ、マルセル! ホルガーさん、この件はハンナ院長に伝えとくから」
「え、待って! 別に無理強いはしてないじゃないか!」
「知らん。俺は腹が立った!」
「そのねこばばしようとしてるお布施、見逃してあげるから!」
「よし考えよう」
レオは即座に矛を取り下げた。
どうやら、長椅子の間にしゃがみ込んで、お布施の小銅貨が落ちていないかを探していたらしい――どうりで彼一人で教会に残っていたはずである。
マルセルは、話についていけずにぽかんとしてしまう。
が、レオに引っ張られて教会の扉をくぐり、数フィート歩いたところで、どうやら自分の決意はまたしても彼に邪魔されたのだということに思い至り、むっと眉を寄せた。
「なんで、かってに、話をことわっちゃうの!?」
ついでに、腕も振り払う。
マルセルは、往来の真ん中で、顔を真っ赤にして叫んだ。
「ぼくは、がっしょう団に入るんだ! 入って、おきゅう金をもらうんだ! なのに、なんでじゃまするの!?」
「そりゃだって、おまえ……」
レオは言いにくそうに視線を落としたが――なぜか、ちょうど股間あたりを見られた気がした――、マルセルはそれを遮って続けた。
「ぼくは、かせぐんだ! それで、みんなにちゃんと認めてもらうんだ!」
「や、その心意気は立派だけど、方法が問題っつーか、玉に瑕っつーか――」
「ぼくは、あんたなんてだいきらいだ!」
自分の金儲けの方法にダメ出しをされたように思ったマルセルは、かっとなってそう言い捨てた。
文脈は自分でもよくわかっていなかったが、とにかく、レオに反撃したかったのである。
(こいつはおくびょうで、面倒くさがりで、人のじゃまばっかする、さいていなやつなんだ!)
そうとも、レオは弱虫だから、ブルーノがせっかくダミアンをやっつけようとしても、それを止めるのだ。
実は二回目に落書きされた時、マルセルは決心して、ブルーノに「ダミアンの仕業だ」と告白していた。
そうするとブルーノは、重々しく頷き、反撃に出ようとしてくれたのだ。
なのに、その時もレオが止めたせいで、結局ブルーノは攻撃計画を放棄してしまっていた。
「なんで、いつも、じゃまするの!? この前だって、あんたが止めなければ、ブルーノ兄ちゃんは、僕のために、ダミアンたちをやっつけてくれてたのに! はんげきも、じゃまする。金もうけも、じゃまする。あんたは、へらへら笑って、なにもしないじゃないか!」
「えー、この前もその前も、ちゃんと役人を呼んできて検証してもらったじゃん」
「そんなの……!」
マルセルは唇を噛みしめた。
レオの言葉は、むしろ彼に悔しさを呼び起こしただけだったからだ。
たしかに、役人は来た。
だが、彼らは、「たかだか孤児」が被害者の事件に、まったく興味を払おうとせず、ろくな検証もせずにその場を去ってしまったのだ。
レオは誇らしげに言うが、彼だって野良犬のごとく追い払われ、せいぜい事故証明書を出してもらうくらいのことしかしていなかったではないか。
役人は言った。
「ふん、娼婦の子か。事実だろうが。面倒かけやがって」と。
その暴言を、レオは怒るでも悲しむでもなく、へらへら笑って聞き流していたのだ。
(なさけない、やつ……!)
マルセルは、そんな彼のことが嫌いだと思った。
無力で、怠惰な姿が、自分の合わせ鏡のようだったから。
「おい、どうした? マルセル?」
呼びかけてくるレオを無視して、マルセルはその場から走り去った。
***
「ブルーノ兄ちゃ――……兄ちゃん?」
マルセルは駆け足で孤児院に飛び込み、たまたま玄関にいたブルーノに勢いのまま縋り付こうとしたが、その一歩手前で踏みとどまった。
どうも、ブルーノから発せられる空気がぴりぴりとしていたせいである。
彼は、他の数人の少年を引き連れて、孤児院を出ていこうとするところであった。
「ブルーノ兄ちゃん? どこ行くの?」
「――ああ、マルセル。ちょっと、『遊び』にな」
無表情で紡がれるには、あまりに似つかわしくない単語だ。
しばらく「遊び……?」と首を傾げていたマルセルだったが、ブルーノ以外の少年がくいくいと親指で指している方向を視線で追って、はっと目を見開いた。
また、窓に落書きがされていたのだ。
ご丁寧に、今度は、青やら緑やら、何色ものペンキが飛び散っていた。
「今度はとうとう、日中にやってくれた。あちらさんも、だいぶ大胆になってきているようだ。これでもう三度目になるし、ちょっと、礼をしてくる」
わざわざ、東地区まで「遊び」に来てくれたらしいしな、と補足したブルーノに、マルセルはきゅっと唇を引き結んだ。
ダミアンは、またもマルセルを追い詰めにやってきた。
けれどとうとう、ブルーノたちは、彼らを叩こうとしているのだ。
「ぼくも……ぼくも、連れてって……!」
マルセルはばっと顔を上げると、ブルーノの腰の辺りにしがみついた。
自分はレオではない。
もう、臆病で、やられっぱなしの、弱虫なんかじゃない。
ブルーノと一緒になって、相手にがつんと拳をふるってやるのだ。ブルーノとなら、悪いやつをやっつけられる――!
ブルーノが「ふむ」というように顎を撫でる。
「おまえも、関節を外せるようになりたいのか?」
「なりたい! ぼくも――」
小首を傾げて問われた内容に、全力で頷こうとしたところを、
「だーめ」
後ろからふがっと口を塞がれた。
少し遅れて追いかけてきた、レオである。
彼は「ふがふがっ……!?」ともがくマルセルをよそに、咎めるようにブルーノを見た。
「ったくブルーノ、ちびっ子を武闘派に引きずり込むのはやめろっつってんだろうが」
「なぜだ。武闘は経験と訓練だ。始めるのは、早ければ早いほどいい」
「人はすべからく武闘を嗜むべしって前提が間違ってるうえに、適性がまるで合ってねえっつの! 見ろよ、マルセルのこんなちっちゃな手で、拳が握れるわけねえだろ? いっぺん殴られただけで、経験積むどころか人生詰むわ!」
左手で捕まれた手のひらを、ぺぺぺぺぺんと右手で打ち鳴らされて、馬鹿にされたと思ったマルセルは顔を真っ赤にした。
「なにを……!」
ところが、ブルーノは「そうか?」と首を傾げただけで、次の瞬間には「そうか」と頷き、どうでもよさそうにマルセルから視線を引き上げてしまう。
彼が改めて聞き返してきたのは、
「で、さすがにもう動いていいんだよな」
という内容だけで、レオがそれに「おう! ばっちりだぜ! お待たせ!」と答えると、他の少年たちとともに、さっさと孤児院の扉をくぐり出てしまうではないか。
「まってよ……! ブルーノ兄ちゃん!」
マルセルは叫んだが、彼らは振り返ってくれなかった。
絶望は、即座に怒りに塗り替わる。
苛烈な怒りが、瞬時に小さな体を満たしていった。
まただ。
また止められた。この臆病者に――!
「あんた……!」
怒りのままに振り返ろうとしたマルセルだったが、しかし、その言葉は中途半端に途切れた。
「――……ふふ。ふはは、ふはははは……っ」
自分を拘束しているレオが、落書きされた窓ガラスの方を見て、恍惚の笑みを浮かべていたからだった。
「え…………?」
「やっべえ、緑と青を使ってくれただけじゃなくて、白まで持ち込んできてくれたかあ……。どんな空気の読み方だよ。精霊かよ」
「なに……?」
話は読めないが、なにやら相手が異様な状態に陥っているのだということはわかる。
先ほどのブルーノとはまた異なる、見ているだけでぞっと背筋が凍るような、奇妙な迫力が今のレオにはあった。
レオはぱっとマルセルの手を離し、ふらりふらりと窓ガラスに近づいていく。
「色のバランスといい、量といい、申し分ねえな。やー、精霊っているんだな、まじ金の精霊様パねえ……」
彼は、ありがたや、ありがたや、とガラスを撫でると、くるりとマルセルに向き直った。
「よーし、マルセル。お待たせ!」
「え……?」
「なんだよ、お待ちかねの時間だぜ。やるぞ!」
上機嫌に切り出された、その言葉の意味が分からないのは、けしてマルセルが馬鹿だからではないはずだ。
「な、なにを……?」とおずおず尋ねると、レオは、はしっこそうな目をきらきらさせ、満面の笑みで答えた。
「そりゃおまえ。反撃だよ、反撃!」