CoffinCourier
或る男の噂がある。
漆黒のインバネス・コートに身を包み、頭はシルクハットで覆われている。だが、紳士という訳ではない。撫で付けられるべき橙色の髪はだらりと肩まで伸びており、その素顔を隠れている。ステッキが握られる事はない。その両手が掴むのは、ただ一本の鎖のみ。彼の血が染み付いた鈍重な鉄の集まりに引きづられるのは、銀の十字架を持つ黒き棺。
曰く、地に落ちた死神と。
その噂がどこから来たのか、知るものはどこにもいない。だが彼と確かめる方法は、ただ一つだけあるという。そんな男と出会った時に、ただ一言頼めばいい。
その黒い棺桶の、蓋を開けてくださいと。
「あー……だめですねこれ」
クリストファー・クライシスは途方に暮れていた。どれ程途方に暮れていたかというと、冒険者がよく集まる酒場の裏のゴミ箱で数匹のネズミと大接戦を繰り広げ何とかパンを勝ち取るものの、カビまみれで殆ど食べれる部分が無かった事にため息を漏らす程度にだ。ようやく見つけた最早パンくずと見分けがつかない程度の可食部を口に放り込み、しかめっ面を浮かべたのだ。四日ぶりの食事だったが、まともな水分を摂取したのは三日前なのだから喉が渇いたのだろう。戦利品を床に置き、いなくなったネズミに捧げる。
生活に困窮した人間が行くべき場所は二つある。教会かギルドだ。教会では申し訳程度の塩が入った薄いスープが貰え、ギルドでは仕事を斡旋してくれる。本来なら彼のような喰うにも困る餓死寸前の人間はまず教会に行くべきなのだが、悲しいことに彼は全ての教会から出禁を食らっていた。
「……仕事しよう」
真人間のような決意を口にし、彼は最寄りのギルドへ向かう。商売道具の棺桶を、重たそうに引き摺りながら。
「はい、次の方どうぞ!」
ギルドが活気を無くす日はない。年中無休朝から晩まで、この全国津々浦々で見られる同じ間取りの建物には常に大勢の人間で賑わっている。皆武器を腰から下げ、大声で今日の戦果を語っている。もっともこの建物内は飲酒が許されていないので、朝まで騒ぐのは冒険者目当てで作られた周辺の酒場になるのだが。
「……仕事、下さい」
受付に促されて、クリストファーが口を開く。最早立っているのがやっとで、唇は干からびてさえいた。声も小さく雑踏に聞き取れない程度だったが、メガネの受付嬢の聴力が奇跡的に優れていたおかげで会話は続行されることになる。
「でしたら、あちらの張り紙からお選び下さい!」
門前払いという最悪の結末で、だ。
「あの、そうじゃなくて……僕にも出来る仕事を欲しいっていうか……あと、水を一杯下さい……」
シルクハットをおろしもせずに、無茶な要求をするクリストファー。仮に受付嬢がまともな感覚を持っているのなら顔面に水でもかけるところだろうが、幸いな事に彼女は聖人だった。自分用の飲水が入ったグラスを、彼に手渡したのだから。
「えっと……登録書はお持ちですか? もしお持ちならそれを見て何とか選んだり……」
「先週失くしました」
浴びるように水を飲み干してから、潤った喉が響かせた台詞は最低のものだった。登録書が無ければ依頼を受けることは出来ない。それはこの冒険者ギルドの鉄則だった。もっともズボラな人間のため、対策はされているのだが。
「でしたら、再発行いたしますのでまず登録番号とお名前を……」
必要な物は三つ。登録番号と名前と暗証番号だ。登録番号は機械的で、登録順に割り振られる。名前も正しい必要はなく、偽名でも構わない。ギルドに登録する方法は簡単で、郵送で金と名前を本部に送りつければいい。年二回名鑑の更新時期に合わせて送れば、金の代わりに登録書が返ってくるという寸法だ。
紛失した際は受付で登録番号と名前を良い、暗証番号を照会するだけでいい。もっとも受付は分厚い資料を棚から持ちださなければならないので、あまり喜ばれる仕事ではないのだが。
「登録番号666、クリストファー・クライシスです」
彼がそう答えると、後ろに並んでいた一人の女が吹き出した。限界まで目を細めて振り返れば、腹を抱えて笑っている。成人まではまだいっていないのだろう。少女らしい面影が残る彼女は、冒険者にしては随分と身軽そうな服装をしていた。最低限の防具に、露出の多い下半身。だが引き締まった両足がその熟練度を示している。左足に残る傷跡は、まさしく玉に瑕という言葉が相応しかった。
「あの……何でしょうか」
「何でしょうって、お前面白い事言うな。三桁って、ひい爺さん方の世代だろ?」
「でも、そうですから」
「そうなのでって、いくつ? 三十代ぐらいに見えるけど?」
「ひゃくさんじゅうにさいです」
誂われてご立腹なのか、クリストファーは口を尖らせて抗議する。わざとらしいその口調に、後ろの彼女は自分の頭を軽く指さした。お前、頭おかしいなというジェスチャーである。
「えっと……もしかして二世の方ですか? ほら、登録書って譲渡出来ますから」
「はい、実はそうなんです。高祖父から譲り受けまして」
水を貰ったことに恩義でも感じているのか、クリストファーは受付嬢には打って変わって丁寧な態度で接した。後ろの女の舌打ちは、聞こえない事にした。
「では、こちらに暗証番号をご記入下さい」
手渡された紙片に、彼は数字を書き込んだ。1234。ふざけた羅列だが、正解だった。
「ではこちらが仮の登録書になります。期限が短いので気をつけてくださいね。正式な再発行をする場合は……」
登録時の三倍の金額が必要です、と言いかけて彼女はやめた。目の前の男がそんな金を持っているようには見えなかったからだ。
「あ、あと仕事……」
「おいお前いい加減にしろ! 後ろがつっかえてるだろうが!」
業を煮やした後ろの彼女が、ぶっきらぼうに怒鳴り散らす。
「いやでも、仕事しないとお金が無いんですよ私……」
「見りゃわかるよ……そうだ、オレの仕事を手伝えよ。報酬は七対三だ」
「僕が七で」
「オレが七だ! どうせろくな事出来ないんだろ? だれでもいいから人手が必要なんだよ」
急に馴れ馴れしくなった彼女が、クリストファーの肩に手を回す。露骨に嫌そうな表情をしてみたが、現在の自分の置かれている状況では首を縦に振るしか無い。
「……交渉成立だな。おい姉ちゃん! こいつやらせてもらうぞ!」
彼女はクリストファーから仮登録書を奪い取ると、受付嬢の目の前に乱暴に依頼書と二枚の登録書を突きつけた。
「あの、僕は何をやらされるんですか?」
「囮だよ囮。お前がドラゴンに食われそうになっている間に、オレがトドメを刺すんだ。簡単だろ?」
「それ、すっごく危ないと思うんですけど……」
「別にいいだろ? 死んでも葬儀屋何だしその棺桶に入ればよ」
「失敬な、僕は葬儀屋じゃないですよ」
クリストファーの言葉に、彼女は耳を疑った。棺桶を引き摺る怪しい男など、葬儀屋以外に心当たりは無いのだろう。
「神父です」
わざとらしく眼前で十字を切る男の姿に、彼女はため息を付くことしか出来なかった。
「何で神父がモンスター皆殺し上等の冒険者なんだよ。常識ないのかお前は」
ギルドから歩いて半刻にある、奥で竜が眠るという洞窟を進みながら彼女は進む。彼女、ナイアという冒険者の言うことは尤もだった。聖職者の教義と真っ向から戦うような事を、この男は行っているのだから。
「ありますよ、あるから僕でも出来そうな仕事を探していたんですよ。それをあなたがこんな山奥まで……」
文句を言いながら前を良くナイアはため息をついた。何が彼女を苛つかせるかというと、クリストファーの歩みの遅さだ。ろくな食事をしていないせいか足は常に震えており、おまけに棺桶など引き摺っているのだから最早年寄りより少し早い程度でしか動かない。
「その棺桶さあ、置いてったら?」
「駄目ですよ修行なんですから。神はいつも僕達を見ているのですから」
「何入ってんだよそれ」
「見たいですか?」
「……まあ、少しは」
冒険者の性というべきか、彼女も人一倍好奇心の強い人種だった。嬉しそうに震えた足で飛び跳ねながら、クリストファーは笑顔で棺桶の蓋を開ける。
「どうですか……この居住性は!」
中に詰まっているものは、薄汚い毛布がおよそ七割を占めていた。泥まみれの枕ともはや何が何だか分からないガラクタの山が残りの三割。ナイアは中身を見たことを心の底から後悔したのか、何も告げずに前を歩く。
「……寝心地良いって評判ですよ?」
「知るか、そのまま埋められて死ね」
彼は不満そうな表情を何一つ隠さずに、棺桶の扉を乱暴に締めた。
「寝たいって言っても、貸しませんから」
「それなら地面に埋まったほうが余程いいね」
ナイアの言葉に頷きながら、クリストファーは後を追った。そういう考えもあるのかと、関心したような顔をして。
ドラゴンが眠る最深部までの道中、クリストファーはほとんど何もしなかった。呼吸と移動と無駄口を除外すると、彼は何もしなかった。襲ってくる小さな魔物を倒したのは、全てナイアの手柄だった。
「……やっぱりお前の取り分二にするわ」
眠っているドラゴンを前にして、ナイアが呟いたのはそんな言葉だった。至極真っ当な結論だが、クリストファーは当然抗議する。
「最初の約束と違うのは神様もどうかと思うと思うのですが」
わざとらしく口を尖らせて、半分支離滅裂な事を言う。
「そうかそうか」
剣を構え、ナイアが頷く。それから素早く彼の背後に周り、その背中に足をつけ。
「だったら……給料分ぐらいは働け!」
力の限り蹴り飛ばし、竜の鼻先に囮を設置した。
「あっ、今ので背骨折れました!」
当然のように文句を言い、立ち上がろうとするクリストファー。だが、手の位置がいけなかった。彼が手すり代わりに掴んだのは、眠る竜の角だったのだから。安眠を邪魔された竜が、ゆっくりと目を開く。彼の拳ほどの大きさを持つその眼球が、しっかりと彼を捉える。
「……まだ起きなくて大丈夫ですよ?」
クリストファーの冗談が気に入らなかったとでも言いたそうな、耳をつんざくような轟音が洞窟に響く。逃げようとして背中を向けたが、当然彼に全力疾走が出来るほどの体力が残っているはずもない。そこらにあった小石に躓くという無様な醜態を見せつけた彼はあっけなくも竜の大きな手に掴まれた。
「あ、あのおっ! 僕そんなに美味しくないですよ!」
大げさに首を振りながら、クリストファーは通じるはずのない言葉で必死に抗議をする。当然無駄以外の何物でもなく、竜はその大きな口を開き今彼を飲み込もうとした。
「上出来だ葬儀屋!」
それを止めたのはナイアの声だった。引き締まった足の筋肉を活用し、竜めがけて距離を詰める。剣を逆手に持ち直し、土を蹴り飛び上がる。
「そこだ!」
重力を味方につけ、竜の脳天めがけて振り下ろされた彼女の刃は。
その硬い鱗に弾かれ、呆気無く砕け散った。
「嘘」
反動で吹き飛ぶ彼女の体を、竜が見逃すはずはない。その長い首を真っ直ぐと伸ばすだけで、ナイアの腹に噛み付くことが出来た。
「あ」
声を漏らすと同時に、骨の砕ける音が響いた。竜が顎を軽く上下させるだけで、肉と骨の混じった音が聞こえた。悲鳴はない。最初の一撃で絶命していたのだから。
腹を食いちぎられ、二つになった体が地面に落ちる。物欲しそうな目で眺める竜。そして掴まれていたクリストファーは。
「良かった、足は残ってる」
安堵の溜息を漏らし。
「いやあ、ほら僕は聖職者ですから? 自分で殺せないのが困りどころなんですよ。でもまあ、このまま放っておくと面倒なので」
嬉しそうに微笑んだ。
「あなた、さっさと死んでください」
その言葉が、合図だった。
二重底の金具を外し、小汚い毛布を押しのけ、ガラクタをかき分ける。重たい蓋を開けると、私は長い金髪を左右に振った。クリストファーが無精者なせいで、少し頭が痒かった。背筋を伸ばし、声を漏らす。外の様子は見えているが、実際に吸う空気は美味い。
「あのー、こうみえてピンチなんで早く助けて欲しいんですけどー」
暑苦しい髪とシルクハットを揺らしながら、緊張感のない事を言うクリストファー。下僕の分際でいい身分だ。
「私は今一週間ぶりの空気を全身で感じているんだ。邪魔しないでもらえるかな」
「サリエルさーん幼女の裸とか見ても楽しくないんですけどー」
クリストファーの戯言に腹を立てる私ではない。ただ、大人としてその発言はどうかと思ったので少し無視する事にした。
「あ、食われる! 助けて下さいよ早く! 僕が死んだら誰があなたを移動させるんですか! たーすーけーてーっ!」
下衆な抗議についため息を漏らしてしまう。仕方がないと腹をくくった私は、外気も堪能したので赤い毛布を体に纏った。
「手のかかる下僕だ」
棺桶から飛び出し、彼に噛み付こうとする竜の脳天に蹴りを入れる。硬いのは知っているが、ただそれだけの話。どうせ神に叶う生物など、この世界にはいないのだ。
それも、死神に叶うものなど。
「……ドラゴン、食べないんですか?」
「私はもう美少女の肉しか食べないのは知っているだろう? 飽きたんだよ、お前が食べればいいだろう」
「……焼いたら食べれますかね」
脳を衝撃で破壊された竜を眺めながら、クリストファーは真剣に悩んでいる。ちなみに人間の感覚で言うと、竜は硬くてまずいだけだ。
「と、言うわけで私は食事に移る」
振り返り、釘付けになるナイアの右足。左足は駄目だ、いつ出来たのか傷跡が残っている。素晴らしいふくらはぎを手でちぎり、口いっぱいに頬張る。
私の目に狂いはなかった。みずみずしい筋肉と少女特有の柔らかな脂肪が織りなす食感は、どんな料理人にも作り出せない極上の一品だ。
「食べるのは足だけですか?」
「もふぃろんた。ほきゃのをたふぇうときおふはうひゅれふからな」
確かに他のも美味そうだが、彼女に関して言えばこのふくらはぎ以上に美味い物はない。空腹という最上級の調味料をかけ、極上の料理をいただく。それが正しい美食の道というものだ。
「なら、他のは棺桶に閉まっておきますよ」
「放っておいても良いんじゃないのか?」
「駄目ですよ、あなたに呪われてこき使われて邪教崇拝と言いがかりをつけられ教会も全部出禁になってますけど、僕はやっぱり聖職者ですし」
動かなくなったナイアを拾い上げ、棺桶の中に入れるクリストファー。まあ汚れるのは仕方がないが、私としては食材に囲まれるのはそこまで悪い事じゃない。
「彼女も、埋められたいと言ってましたから」
百年彼と旅をしたが、未だに考える事が良くわからない。それでも彼の殉教の道は、これからも続くのである。死神という私に魅入られた哀れな男は、これからも棺を運ぶ。呪いを解くためではない。
ただ、神への愛を示すために。
或る男の噂がある。
私的な見解だが、恐らく教会が流した適当な嘘だ。別に恨まれるのは良いのだが、直して欲しいところはある。
或る男などという婉曲ではなく。
美人と下僕の噂だと。